いざない

 フィクションだと思っていた世界に突然放り込まれ、あれよあれよと流されるまま主人公に海へ連れ出されてどれくらい経っただろう。
 破天荒な船長のすさまじい行動力で、自分の知っている範囲はあっさり追い抜かれてしまった。平和な世界で、のほほんと生きてきた自分に戦闘力と呼べるほどのものはなく、唯一の拠り所だった『これから先に起こること』もわからなくなってしまってからもう随分と経つ。
 不安になることもあるけれど、何があっても彼らなら大丈夫だろう、と無条件に信頼できるくらいには長い付き合いになったように思う。トラブルも荒事も多く、賑やかなこの船を居心地が良いと感じるられるくらいにはこの世界に馴染んできたのかもしれない。
 それでも、ふとした時に元いた場所を懐かしく思う時がある。
 潮騒や波の揺れなど縁遠い、コンクリートとエンジン音ばかりの街だ。毎日同じ電車に乗って、同じ方向に流れていく人波に乗って足を動かしていた歯車のような日々は、今ほどの充実はなかったがさほど悪くもなかった。インターネットは便利だったし、娯楽については向こうのほうが多様に溢れていた。

 かつてほどではないが帰りたいと思うことはある。
 特に、現在停泊している夏島やいつぞやに通った冬島のような、気候の厳しい場所にいると空調の効いた部屋が恋しくなった。
 それに、敵との戦いはどんどん苛烈になっていって、俺がこの船にいるのは不釣り合いなんじゃないかと考えてしまうこともある。そもそも本来いない人間なのだから場違いも甚だしいんだが。2年ぶりに再会してもたいして成長していない俺を、それでも優しいクルーたちは笑って迎えてくれた。それが嬉しくもあり、少し情けなくもある。
 もしも今帰ることができるなら、俺はどちらを選ぶのだろう。

 ***

 いまや世界に名を轟かせる麦わら海賊団だが、この島の住人はトラブルを起こさず金を落とすなら見ないふりをしてくれるようだった。
 お祭りシーズンなのか、もうすぐ日が暮れるというのにこれからが本番とばかりに大通りには所狭しと露店が並びたくさんの人で賑わっている。

「あっつ……」

 目を輝かせて飛び出していった船長や狙撃手、医者に続いて船を降り、喧騒の中に足を踏み出すと気候だけではない熱気に包まれるようで思わず声が漏れた。
 先行した彼らの姿は既に雑踏に紛れて見えない。ルフィ達といるのは楽しいが、その分面倒事に巻き込まれる確率も非常に高いので今回はひとりで見て回ろうと決めていた。航海士やコックもそのクチだろう。考古学者と船大工、音楽家は留守番らしい。剣士はどこかで道に迷っているに違いない。いつものことなので心配するだけ無駄だろう。

 パタパタと手で顔を仰ぎながら目ぼしいものはないか眺めていると、ふわりと香ばしいソースの匂いが漂ってきた。匂いの元を探すと、のれんに大きく書かれた商品名にさらに食欲がそそられる。
 思わず買ってしまったたこ焼きを落とさないように抱えたオレは、人通りの少ない路地にいた。紙の船に乗せられたそれに楊枝を刺して口に含むと、カリカリの皮からとろりと生地が溢れる。はふはふと口の中を冷ますようにしながら飲み込んで一息ついた。
 喧騒は少し遠く、日影になっているので少しひんやりとしていて心地よい。

 そういえば、地元の夏祭りでも今日みたいな露店が出てたっけ。ここまでの賑わいはなかったけど、神社に続く道に軒を連ねた屋台に並んで焼きそばとか串焼きとか友達と買って食べたなあ。

 空になった容器をゴミ箱に放り込んで、さあ行こうかと大通りに足を向けたところで背後から澄んだ鈴の音を聞いた。

「……?」

 どこかで聞いた覚えがある、ような。
 記憶を掘り返している間にも、リン、リン、とだんだん大きくなるその音に思わず振り返る。

「……え、」

 路地を挟んだ向こう側につい先程まで思い浮かべていた景色があった。灯籠と屋台。年季が入っているものの、大切に手入れされているお社。あの音は境内で行われている神楽に使われていた鈴のものだ。どうして忘れていたんだろう。毎年見ていたはずなのに。
 そういえば、来年もまた夏祭りに行こうって友達と約束してたっけ。

 ***

「ナマエ?」

 立ち並ぶ屋台料理や道ゆく女性に目を奪われながら通りを歩いていたサンジは、視界の端に見慣れた姿を見つけて足を止めた。
 てっきりウソップ達と回っていると思っていたのにどうやら1人らしい。のんびりしているところがあるので置いていかれたのか、ひとりで見て回るつもりだったのかはわからないが、楽しんでいるならいいかと視線を外そうとして、結局サンジはあとを追うことにした。
 
 細い路地に入っていく背中がどうにも危うく見えたせいだ。野郎のためにわざわざ時間を割くなんて主義に反する。反するが、このまま放っておいて何かあると目覚めが悪い。何もなければすぐ戻ればいいか。
  
 心の中で言い訳をしているうちに、ふらふらと歩く後ろ姿に追いついた。

「ナマエ、なにしてんだ?」

 呼びかけても、心ここにあらずとばかりに反応なく歩いていく仲間にサンジは首を傾げた。

「そっちは行き止まりだぞ」

 先程より声を張ってみても振り返りもしない。まるで壁など見えていないかのように、誘われるように路地の奥へ足を進める姿は尋常ではなかった。

「おい、ナマエ。返事しろ」

 あと数歩で民家の壁に頭がぶつかるというところで、サンジはナマエの肩を掴んで無理やり自分の方に向かせた。
 わずかに目を伏せたナマエの瞳は、ぼんやりとしていて焦点が合っていない。
 暑さにやられたかとも思ったが、何かおかしい。まるで中身が抜け落ちたような。
 そこまで考えて、サンジは足元から這い上がるような悪寒を覚えた。どこからか鈴のような音がする。リン、と高らかな音がするたびに掴んだ仲間の体がうっすらと透けて、向こう側の壁が見えた。
 このままだとまずい。
 正気を失った仲間の肩を掴んだままサンジは声を張り上げた。

「ナマエ!」
「……は、」

 ぱちりと瞬きをして、サンジを見上げた仲間の顔色は見慣れたものになっていた。体は透けておらず、もう鈴の音はしない。サンジの声は雑踏と祭りのお囃子に紛れて本人以外には聞こえなかったらしい。

「サンジ……?どうかした?」
「……なにも覚えてないのか」
「え、なにが?」

 わけがわからないと疑問を浮かべる顔に詰めていた息を吐いて体を離す。あれがなんだったのかなどわからない。だが、あのままナマエを止めなければ、なにか取り返しのつかないことになる予感があった。
 もしもあのまま体が透けていって消えてしまったら、こいつは世界からいなくなっていたのかもしれない。
 普段ならふざけたお伽噺だと思うような想像も、妙に現実味があって笑えなかった。

「サンジ?」
「あー、……お前、ちょっと付き合え。そんでなんか奢れ」
「えぇ?!え?どした熱でもあるのか?今お前の目の前にいるのはナミやロビンじゃなくてオレだが?」
「わかっとるわ!おれだって本当は麗しのレディ達の方がいいんだよ!仕方ねえから一緒に回ってやるっつってんだ!」
「仕方ないってなんだよ。別にいいけどさぁ」

 表情も仕草も見慣れたいつものナマエだった。だが先程の、ここではないどこかを見ているような姿が頭から離れない。「かえりたい」なんて、声もなくこぼれ落ちたあの言葉が気に食わない。

「お前の居場所はここだろうが」

――――

 今日も街は賑やかだ。
 昼夜問わずどんちゃん騒ぎのこの島は、どうやら土地の神様を祀るお祭りの時期らしい。ログが貯まるまでまだ数日あるという航海士の言葉に「それまで毎日祭りだー!」とすっかり街の空気に馴染んだテンションで笑った船長は、今日もさっそく出かけて行ったらしい。
 かき氷がうまかったと幸せそうな顔をしていた船医を思い出して、今日の目的を決めたオレも少し遅れて船を降りた。

「あんまりフラフラするんじゃねえぞ」

 出かけることを伝えた時に、留守番のサンジが珍しくそんな言葉を投げてきたのがひっかかる。子供じゃあるまいし、と思いつつ頷いてみたが、思えば昨日一緒に屋台を回ろうと誘われたのも妙だ。
 オレってそんなに危なっかしく見えるのかな?ルフィのほうがよっぽどだと思うんだけど。でもアイツは強いしな。問題を自力で解決できる力があるかとなると、サンジが声をかけたくなるほど頼りないのだろう。まあでもこの街はゴロツキも少ないし、静かに普通に楽しんでたら大丈夫だろうと気持ちを切り替えてタラップを降りた。

「うま……!」

 舌の上で溶ける氷を飲み込むと火照った体が冷めていくようだ。細かく削られた氷とシロップ漬けにした果物の果肉の食感の違いも面白い。爽やかな甘さのそれは果物単体でも十分おいしそうだ。特産らしいので帰りにいくつか買って行ってもいいかもしれない。

 かき氷屋の店主に勧められてやってきたのは大きな池。湧水が流れ込むそこは広く、池の真ん中を跨ぐように緩やかなアーチを描く木造の橋がかかっていた。橋の上から覗き込めば、夏の日差しを受けて水面が魚の鱗のようにキラキラと輝いている。ちゃぷりと水が橋を支える柱を叩く音さえ涼やかで見入っていると、鮮やかな錦が視界の端に映る。
 最近見る魚といえば、どれも人間より大きな物ばかりで、水面の合間をひらり、ひらりと靡く姿に安心してしまう。故郷では紅白はめでたい色として扱われていたが、こちらでもそうなのだろうか。
 2匹、3匹と集まってくる鯉は食べ物を貰えると思っているのかもしれない。向こうの世界ではこういう場所の近くに餌を売っている商人がいたりしたが、そういう店は見かけなかったような。

 ああ、それにしても、綺麗だなあ。

***

 美味い地酒を見つけたから船で酒盛りするはずが、いつまで経っても港につかない。地形が変わったのか、それとも袋小路にでも迷い込んだのか。思うように進めない事に苛立ち混じりであたりを見回したゾロは見知った姿を目に留めた。
 ちょうどいい、もうすぐ日も暮れるのだからアイツも船に戻るだろう。ついでに連れて帰ってやるか。
 目的が見える範囲にあると流石に迷わなかったのか、はたまた奇跡的な確率で当たりの道を選んだのか、見失う事なく目的の人物の元へ辿り着いたゾロはその背中に声をかけた。

「よう、ナマエ」

 すぐ後ろから投げられた仲間の声。しかし、それに反応が返ることはなかった。俯いて橋の下を熱心に見つめているらしい相手に、そんなに面白いものでもあるのかと、隣に並んで視線を下に向ける。

「なんだ、何もねぇじゃねえか」

 そこにはただ夕陽を受けて赤く光る水面があるだけで。幻想的といえばそうかもしれないが、ゾロからすれば血のようにも見えるそれはあまり美しいと思えるものではなかった。
 もしや立ったまま寝ているのかと、未だに反応のない相手の顔を覗き込んで、ゾロは息を呑んだ。普段のゆるゆると微笑む姿は見る影もなく、生気が抜けたように虚な瞳で魅入られたように一点を見つめている。背筋に薄ら寒いものが走ったゾロは仲間の肩に手を伸ばした。
 その瞬間、かくんと、まるで糸が切れたかのようにナマエの四肢から力が抜ける。手すりにもたれるように立っていた体が前のめりに傾いて、ずるりと頭から投げ出されそうになった。

「ッ、ナマエ!」

 肩に置いた手を咄嗟に襟首に移動させたゾロは、掴んだ手を後ろに引いた。慣性の力で橋桁に倒れ込みそうになったナマエの背中に腕を差し入れて支えてやると、ぐったりと体を預けてくる。ばしゃりと池の方で水が跳ねる音がして振り向くと、何か大きなものでも落ちたのか水柱が立っていた。ついで、びちびちと魚のヒレが水面を叩くような音と纏わりつく視線を感じる。
 この池には生き物の気配などなかったというのに。気味が悪い。早くこの場所から離れた方がよさそうだ。

「起きろ! ナマエ!」
「…、……ゾロ?」

 ぱち、と瞬きをしてようやくこちらに視線を向けた相手にひとまず安堵して、立ち上がるよう促すと手首を掴んで橋を渡る。人の多いところまで来る頃には、不快な水音も視線も感じなくなっていた。

「またなんかトラブルでも引っ掛けてきたのか?」
「あぁ?お前が妙なもんに引っ掛かりそうになってたんだろうが」

 引き摺るように繋いでいた手を離せば、掴まれていたところをさすりながらふざけたことを口にするナマエにゾロは顔を顰める。何を言っているんだとばかりに反論すれば、当人はきょとんと首を傾げた。

「オレは池で鯉を見てただけだし、ナンパも客引きもされてないよ」
「は?あそこにゃなんもいなかっただろ」
「え、綺麗な錦鯉がいたけど」
「……いや、おれは何も見なかった」

 鯉と言われ、思い出すのは橋の下で聞いた水を叩く音だ。ナマエには見えてゾロには見えない何かがあそこにひしめいていたのかと思うと、やはり離れて正解だったと己の直感を自賛した。
 あれはきっと善くないモノだ。どんな思惑があったのかは知らないが、アレは仲間を連れていこうとしていた。できるなら斬ってやりたかったが、無数の視線の数から1人を守りながら戦うには多勢に無勢だったろう。なんにせよ、もうあの場所には近寄らせないほうがいい。
 日が沈みかけた空は鈍い赤から暗い青に色を変えつつある。あの状況でもしっかり死守した酒瓶を持ち直して、今度こそ船に戻るかとゾロは足を踏み出した。

「帰るぞ」
「ゾロ、港は逆だ」
「ぐ……!」

 迷いなく歩き出した体をぐるりと反転させたところで、ナマエが手を差し出した。
 呆れ顔に笑みを浮かべてしょうがない奴だな、と呟く姿を見るのはもう何度目になるのか。お互い数えるほど神経質ではないが、少なくとも両手で足りないくらいは同じやりとりをしている。
 渋い顔で手を取ったゾロにナマエは笑って、いつもの言葉を口にした。

「一緒に帰ろう」
「……おう」

***

 麦わらの一味は個人主義な人間が多い。
 普段からクルー達の仲は良いし、一緒に買い出しに出かけることもある。それでも、医療、料理、服に本など、各々の興味を向ける分野が違うために単独行動を取ることもあった。そんな一味の中で協調性を発揮するのがナマエという人間だった。
 自分の意見を持たないわけではないが、どちらかというと周りの事を尊重するタイプ。そんな性格なので特に船長の言動に振り回され、連れ回されている。
 女性陣の荷物持ちとして買い物に同伴していることもあれば、発明の補助や船の修繕、薬草の仕分け、皿洗いなど、頼まれたり自分から申し出て手伝っていることもある。ゾロの迷子防止もそのうちのひとつだった。
 差し出される手に、はじめのうちはバカにしているのかと苛立ったゾロだが、周りの人間に散々「奇跡か」「ファンタジスタか」と言われてしまうと受け入れる気にもなる。
 どうやら自分は道に迷いやすいらしい。別に1人でも目的地まで辿り着くことはできる。だが、こいつに案内してもらえば時間短縮になるのも確かで。だからまあ、仕方なく、今日もその手を繋ぐのだ。
 好き勝手に動き回る船長や、案内料でいくらむしり取られるかわからない航海士や、論外なコックより、こいつの方がよっぽどマシだろう。
 だから、どこぞの誰かに攫われるわけにはいかない。

「お前、勝手にどっかいくんじゃねえぞ」
「えぇ……ゾロに言われたくない……」

 心の底から心外だという顔をするナマエが小憎らしくて頭をはたく。
 船はもう目の前だ。

――――

 夜の甲板に輪になって座るクルー達は神妙な面持ちで顔を突き合わせている。

 図書館で古い本を手に動かなくなっていた。
 迷子の子どもと母親を探していたと言うくせに、廃屋の扉を1人で開こうとしていた。
 鏡に向かって何か話していた。

 怪談のようなこれらの話は、ここ数日でクルーが目撃し、あるいは巻き込まれた奇妙な体験談である。その中心にいたのが、唯一この場にいないナマエと呼ばれる船員だった。
 人畜無害を絵に描いたような人物だが、麦わら海賊団の古参メンバーの1人である。本人曰く「成り行きで船に乗った」らしいが今では立派な海賊船のクルーだ。
 そんな人間の周りで今、不可思議な現象が起きている。1度や2度ならば事故や偶然で片付けられそうなものだが、こう立て続けでは何者かの意図が働いていると考えざるをえない。本人が無自覚というのがタチの悪さを窺わせる。「気をつけろ」と口酸っぱく言っても当人には心当たりがなく、渦中にいる時は半ば意識を失っているのだから注意のしようもない。
 何かがアイツをどこかへ連れて行こうとしている、というのが一味の総意だ。
 ここではないどこかへ、一度行ったら帰れない場所へ攫っていこうとしている。こういった現象は胡散臭いといつもは信じないゾロも、実際に巻き込まれたからか真剣な面持ちだ。

「呪いなのか、それとも祟りか……!?きっとアイツは悪霊に狙われてんだ……!」
「こえーよ……!」
「ええ、本当に。恐ろしくて鳥肌がたちそうです。私、肌ないんですけど」

 身を寄せ合って震えるウソップとチョッパー。場を和ませようとしているのか、いつものようにジョークを飛ばすブルック。混沌とし始めた空気を変えるようにナミが両手を打った。

「とにかく、今はアイツから目を離さないこと。明日でログが貯まるから、明後日の朝にはここを発つわ」

 この島に来てから奇妙な出来事が起きているのだから、ここから離れれば問題は解決する可能性が高い。そう推測したロビンの言葉を受けて、一刻も早く出港しようと予定を繰り上げた航海士に反論する者はいなかった。

「明日はナマエが船番だから街には降りないし、多分大丈夫だと思うけど。ルフィ、ちゃんと見張っといてよ」
「おう、任せろ」

 口を引き結んだ船長が帽子を深く被り直して頷く。大事な仲間に害を及ぼそうとする者を許すほど、この船の人間は優しくない。
 
 話がまとまった頃合いに船内に続く扉が開いた。言葉もなく震え上がったウソップをよそに、話題の人物が姿を見せる。

「風呂空いたぞ〜……って、何してんの?」
「怪談百物語。アンタも混ざる?」
「怖い話はちょっと……なあサンジ、アイス食べてもいい?」
「おう、明日の仕込みするからおれもそっち行く」
「おれもアイス食いてぇ」

 湿った髪をタオルで拭いながら、輪になって座る仲間たちに不思議そうな顔をしたナマエは、自分の苦手な話をしているとわかるや否やそそくさと退場していった。サニー号の中ではそういった現象に見舞われていないので安全地帯ではないかとフランキーが仮説を立てたが、念のため今夜はサンジとチョッパーが付き添うことになっている。おそらくなにかと理由をつけてしばらくはキッチンに留めるつもりなのだろう。

***

 穏やかな海原が水平線の彼方まで広がっている。
 点々と浮かぶ雲が時折太陽を隠すので、連日の暑さに比べると今日は少しだけマシだった。

「……暇だ」

 時間潰しと食料調達を兼ねて釣り糸を垂らしてみたものの、一向に釣れる気配がない。この様子じゃ退屈嫌いの船長はとっくに飽きているのではないかと隣を見てみると、珍しいことにまだ釣竿を握っていた。今日は祭りの最終日で特に盛り上がると聞いていたから、てっきり当番なんて忘れて飛び出すだろうと思っていたのに。
 甲板に視線を向けると、隅で昼寝をする剣士や、パラソルの下で読書を楽しむ考古学者がいた。船内にも仲間の気配がするので今日はほぼ全員が船に残っているらしい。

「祭りはもういいのかね」
「いいんだ。今日はナマエと釣りするって決めてんだ」
「へぇ」

 独り言のつもりだった言葉に隣から声が返ってくる。
 毎日通ってると流石に飽きたんだろうか。長い付き合いだが未だにこいつの考えは読めない。本人がいいと言ってるならまあいいか。
 じわじわと肌を焼く日差しに体力が削られていく。顎を伝う汗を首にかけたタオルで拭った時、頭上を影が過ぎった。大きな鳥のような形の影を視線で追いながら顔を上げるとカラスが飛んでいる。海面近くを飛ぶカモメより一回り大きなカラスは、食べ物でも狙っているのか、サニー号の周りを旋回するようにゆったりと羽を動かしている。
 カア、と濁った鳴き声をあげた時、どこからか音楽が聞こえてきた。拡声器から発せられるような擦れたメロディーがどこか懐かしい。たしか、この曲は夕方の住宅街で毎日決まった時間になると流れていたものだ。子どもたちに家に帰る時間を知らせるためのもので、そういえばこの曲の歌詞にもカラスが出てきたっけ。

 ーーそうだ、家に帰らないと。

***

 ふらりと倒れるように船から落ちていく体をルフィの伸ばした腕が掴んだ。そのまま引き上げ、甲板に下ろしたナマエの右手には、まるで手を繋ぐかのように海藻が絡みついている。それがどうにも気に入らなくて、ぶちぶちと引きちぎって踏みつけた。
 食べることが大好きなルフィはおいしく調理された海藻も好きだが、こいつはどうしても食べる気にならない。あとで燃やしてやろうと心に決めて、まずはこっちだと、危うく転落しかけた仲間に目を向ける。
 突然、どこからともなく鐘の音がした。同時に音の外れたメロディーが聴こえてくる。耳にするだけで不安になるようなその音に「うるせェ!」と声を荒げても、調子外れの音は鳴り止まない。
 真昼だったはずの空は燃えるように赤くなっていた。異常事態に悲鳴をあげる者、状況を確認しようとする者を追い越してルフィは倒れたままのナマエに駆け寄った。
 すでにチョッパーが安否確認をしていて、外傷もなく呼吸もあるが反応がないと騒いでいる。うっすらと開かれた瞳は、普段の海の色をはめ込んだような青から深海のような暗い色をしていて、その体はゆっくりと輪郭を曖昧にしていた。
 ぺちぺちと頬を叩く船医を下がらせる。ぼんやりとした顔のクルーの両肩をがっしりと掴んだルフィは、肺いっぱいに息を吸い込んだ。

「ナマエ、お前勝手にどっか行くなよ!勝手に連れてかれるのもダメだ!」

 がくんがくんと力任せに揺さぶって怒鳴りつける船長に、もっと優しく!と誰ともなく声がかかるがお構いなしだ。
 だが、それでもナマエは反応を返さない。
 これまでは大声で名前を呼べば意識が戻っていたのに、今回はなかなか手強いらしい。未だ焦点の合わない視線を覗き込むように両手でナマエの顔を包んだルフィは、そのまま押し倒すように体に馬乗りになった。

「お前はこの船のクルーで、仲間だろうが!」

 空気を震わす叫びを真正面から受けて、ぴくりと、芝生の上に落ちていた指先が揺れた。瞬きの間に不気味に響くメロディーも、赤く染まった空も消えていた。太陽が燦々と輝く青い空の下、穏やかな海の上で、消えかけていたクルーはゆっくりと身じろぎする。

「……なにしてんだルフィ?」

 重いからどいてくれ。
 腹の上に乗られて苦しそうに顔を歪めたナマエがルフィを見上げている。その見慣れた姿に集まっていたクルーたちは安堵の息を吐いた。

「いよいよダメかと思った」
「なんだったんでしょうね、今の」
「こ、こわかった……」

 奇妙な現象の感想を口にして、それぞれの持ち場に戻っていく船員達をわけがわからんといった顔で見送って、未だ自分の上に乗ったままの船長に視線を戻した。降りてくれと腕を伸ばすと、逆にその手を取られて芝生に押しつけられる。

「お前なァ、クルーが船長の許可なく船を降りるんじゃねぇよ」
「は?」
「あと変なもんに捕まるな」
「変なもん?」
「ナマエはしょうがねぇ奴だからなぁ、まったくしょうがねぇ奴だ。そういうとこだぞ」
「意味がわからん。何の話だよ」
「ちゃんと言ってやるからよ〜く聞け」

 釣りをしていたはずが気付けば甲板にひっくり返っていて、腹に船長が座っている状況に目を白黒させるナマエをよそに、フンスと息巻いて不機嫌をあらわにしたルフィはぐっと上体を倒して顔を近づけた。ナマエは思わず顎を引いたが、地面に倒れた状態ではほぼ意味もなく、額が触れそうなくらい互いの距離が近くなる。顔に当たる前髪の感触がくすぐったくて眉を寄せた。

「ずっとオレの隣にいろよ。船長命令だ」
「……了解、キャプテン」

 低い声で、いつもの快活さが成りを潜めたような顔で真っ直ぐ見据えられると妙な迫力があった。
 元より、仲間たちがそれぞれの夢を叶えるところを見るのが望みになったナマエは船を降りるつもりもなかったのだが、面と向かって「そばにいろ」と言われるのは悪い気がしない。身の内に巣食っていた劣等感が消えていくようだった。
 自分はここにいていいのだと認められたようで嬉しい。
 その気持ちのまま笑って頷けば、ようやく気が済んだ船長はクルーを解放した。立ち上がって伸びをすればぎゅるると腹の虫が鳴く。

「あ〜〜腹減った!メシにしよう!」
「さんせ〜い」

 コックの名前を叫びながら船内に駆けていく船長の背中を見送って、ふと振り返ればカラカラに乾いた海藻のような物体が粉々に砕けていた。海風に攫われて飛んでいくそれを見送ると、自分を呼ぶ仲間の声がする。

「行かないと」

 天気がいいから多分長テーブルを出して甲板で食べるだろう。いい匂いがしているからもうすぐ食事もできるはずだ。先程鈍い音がしたから、つまみ食いを咎められただろう船長を引っ張って準備しないとな。
 経験から予測したキッチンの状況に笑みを浮かべて、ナマエは船内に続く扉を開いた。