よびごえ

 走っている。
 銃声と剣戟の雨の中。炎が煙る戦場を。
 走っている。
 自身を奮い立たせるために叫ぶ者、苦痛に呻く者を押し退けて。
 走っている。
 銃弾や剣先が服を、肌を掠めては血が滲んでいく。立ち塞がる海兵と戦っている時間はない。脇をすり抜け、ただ前へ。

 背筋を走る怖気に押され、ひたすらに駆けていく。
 凍てついた海の上。冷気が足元から体温を奪っていくが、走り続ける体は熱く、汗が首筋を伝う。耳の裏に響く心臓の鼓動がうるさい。つんざくような轟音と、爆風に乗って飛んでくる氷や鉄の破片が肌を刺していく。
 嫌な予感がした。
 根拠はない。ただの直感だった。
 だが、喉元にナイフを押し当てられるような、ひやりとした感覚はあまりに生々しく、恐ろしかった。遠くから一目でも無事が確認できればそれで良い。思い過ごしだったと安心したい。その一心で足を動かした。
 前へ。ただ前へ。
 いつだって目立つ奴だから、目指すべき所はわかっていた。最も戦闘が激しい場所。いつもなら一番足を向けない戦火の最中へと走っていく。
 そうして目にしたのは、赤々と燃え、どろどろと煮え立つ腕が大切な人を焼かんとする光景。疲労で震えていた体に力が込もる。思考が恐怖に侵食されるより前に、止まりかけた足に力を込め、踏み出し、地面を蹴った。
 目の前に立つ、赤い制服を着た大男が瞑目する姿がぼやけた視界に映る。
 ざまぁみろだ。お前の手は届かせない。
 自分の腹を突き破った海軍大将の腕から、じゅう、と煙が立ち上る。
 熱くて、痛い。死にそうだ。
 いや、もう間もなく死ぬのだろう。
 このまま意識ごと蒸発してしまえばまだ苦しみも少なかったろうに、繋ぎ止めたのは意地だった。ここで倒れたら、すぐ後ろの2人に矛先が向けられるだろう。どうせ死ぬなら後少しだけ時間を稼ぎたかった。引き抜こうとする赤犬の腕を両手で抑えようとすれば、触れる前に皮膚が燃える。

 ルフィが泣いている。「どうして」とエースが叫んでいる。どうしても何も、生きててほしいからに決まってんだろ。
 体ごと赤犬にしがみつきながら、彼らに言葉を届けるために痛みに食いしばっていた唇を開くも、喉が焼かれたせいで、か細い息が漏れるだけだった。
 脳裏に過ぎるのは、彼らとの旅の思い出ばかり。
 悪ふざけにじゃれ合う声。怒る声。笑い声。そして、オレの名前を呼ぶ仲間たちの声が、打ち寄せる波のように聞こえては遠ざかる。 この世界に来る前のことなんてこれっぽっちも浮かんでこなかった。怖いこともたくさんあったけど、楽しかった。
 楽しかったから、余計に怖くなった。
 後悔が押し寄せる。
 死にたくない。やめとけばよかった。別にオレが何かしなくても他の誰かが2人を助けたかもしれないのに。
 ーーなんでオレがこんな目に。
 八つ当たりじみた怒りが湧き上がる。誰だって目前に死が迫れば嫌に決まってる。オレは聖人でも英雄でもない。命を投げ捨てられる勇敢さはなく、強靭な意思で死を受け入れられる精神性なんて持ち合わせちゃいない。だってオレはどこにでもいる、ありふれた人間だ。特別なことなど何もできない。窮地で奇跡が起きたり、力が覚醒するなんて、都合のいいことは起こらない。
 怖くてたまらない。体が冷えていく恐ろしさに体の芯から震えが走る。
 死にたくない。死にたくない。
 けれど、それでも。
 恐怖に侵された頭の隅に、それらとは異なる気持ちが確かにあった。
 もしも、自分の行動で2人の運命を変えることができたのなら、オレの命くらい安いものか。
 歯を食いしばる。泣き叫びそうになるのをなけなしの意地で堪えた。

「――、」

 どうにか絞り出した言葉は囁くように小さくて、ルフィにはきっと聞こえていないだろう。
 後ろを振り向く体力も、声を張る気力も残っていなかった。彼らがどんな顔をしているかはわからない。けれど、足音が遠ざかっていくから、大丈夫だろうと思うことにした。
 ルフィがなにか叫んでいるが、もう聞こえない。随分消耗していたようだが、あれだけ声を出せるのなら問題ないだろう。
 炎が肌を舐めていく。内臓が焼けていくのに、熱さも、痛みも、既にわからなくなっていた。
 ここまでだ。
 やれるだけの事はやった。
 やっぱり怖いし後悔は尽きないけれど。今の自分にできることは果たせたはずだ。
 取るに足らない自分でも、ほんの少しでも彼らの役に立てたのなら、誇らしい。

 ――ああ、満足だ。
 そういうことにしておこう。


「……ッ……、うぁ」

 見上げた視界に入る見慣れたボングの底板。丸窓の外は暗く、夜明けはまだ遠いらしい。
 じっとりとかいた汗でシャツが張り付く不快感と、耳の後ろでバクバクとうるさい心臓の音。全力疾走した時のように浅い呼吸を繰り返す震える体を落ち着かせた。
 シャツをめくっても腹に穴はなく、焼け爛れてもいない。それでも鳩尾あたりから発した熱が血管を伝って、体の隅々まで行き渡るような不快な暑さがあった。
 喉が渇いた。アラバスタで経験した砂漠越えを思い出す。とにかく水が飲みたくてたまらない。
こらえきれず、ボングから床に足を降ろし音を立てないように男部屋を出た。

 こんなことが6日続いている。
 キッチンで水分補給したあとは二度寝する気にもならないので、男部屋ではなくアクアリウムで時間を潰すのが最近の日課になっていた。魚の数を数えたり、こぽりこぽりと浮かび上がる空気の粒を眺めているだけでも案外気は紛れるものだった。

 夢見が悪い。
 これまでは夢を見ても起きれば忘れているものだと思っていたが、あの夢の内容は鮮明に思い出せた。
 見覚えのある場所だ。頂上戦争が勃発し、エースが死んだ場所、マリンフォード。彼の地には行ったことがある。バーソロミュー・くまによって赤髪海賊団の船に飛ばされたオレは、頂上戦争を終わらせたシャンクスに連れられてエースの亡骸を見た。

 だからオレは戦争中の様子を知らない。
 どんな経緯でエースが死に、ルフィが生き延びたのか、人伝に聞きはしたものの、目の当たりにはしていない。
 なのに、なぜ。
 なぜ、知りえないはずの光景を夢に見るのだろう。

 そんなことを考える余裕があったのは最初の2日ほどだった。
 命が燃え尽きていく感覚を毎日味わうというのは、現実ではないとはいえ堪えるものがある。なんせ夢のくせに熱さも痛みも実感があるのだ。臨場感ありすぎてちょっとどうかと思う。
 自分が内側から燃えて、爛れて、溶けて、落ちていく。
 シャンクスの下で修行する前の自分の体は今より薄くて細かった。覇気を纏うなんてもってのほか。そんなひょろひょろの雑魚が、鍛え上げられた最高戦力の剛腕にぶち抜かれてマグマで溶かされれば、そりゃあひとたまりもない。
 腹から炎が燃え広がり、しまいには体が胴から二つに裂ける。支えきれない内臓が落ちては焼けていく。ビチャビチャと自分が零れていく音に震えが止まらない。涙が浮かんでも伝い落ちる前に蒸発していく。
 それでも、どんなに怖くて竦みそうになっても、足は勝手に動くのだ。
 ルフィの元へ。エースの元へ。
 死ぬはずはないと信じながら、”もしも”の可能性に突き動かされて何度も駆けていく。
 本当にこれはオレの体なのか?他人の体に憑依しているのではないか。
 4日目の夢でそんな疑問がわいた。
 自分以外であれば、まだ他人事と割り切れる気がする。これはオレの痛みではないとシャットアウトできれば、幾分かマシになると思った。少しでも楽になりたかった。
 そんな弱気から出た想像も今日の夢で砕かれた。
 これまで膜の向こうにいるような、篭っていてよく聞こえなかったルフィの声がはじめて鮮明に聞こえたからだ。

「あぁあああ!!!いやだ!!いやだ!!!逃げろっ!!死ぬな!!ナマエ!!!」

 ルフィはオレの名前を呼んで泣き叫んでいた。
血を吐くように、喉を裂くように、悲痛な声が戦場一帯に響いていた。明日も同じ夢を見るのなら、またあの慟哭も聞くことになるのだろう。
 正直、気が滅入る。
 そんなことなら死を繰り返すだけの方がずっとずっとマシだ。大事な人が泣くところなんてみたくないし、できることならいつだって笑っていてほしいに決まっている。
 どうしてこんな夢ばかり見るのだろう。
 オレの心境なんて知る由もない魚たちは、生け簀の中で悠々とヒレをたなびかせている。間接照明に照らされた室内は程よく暗く、柔らかなオレンジ色の光と水槽の水が循環する音が沈んでいた気持ちを癒してくれた。
 海藻がゆらめく様子を眺めていれば、ふと、アクアリウムのガラスに見慣れた麦わら帽子が見える。

「ルフィ?」

 まだ夜中だというのに、起こしてしまっただろうか。
 そう思い、振り向いても部屋には誰もいない。ガラスに視線を戻しても、疲れた顔の自分がこちらを見つめ返しているばかり。
 まずいな、ついに幻覚まで見るようになったか。


「……ぅう、……ぃ……ぅぁ」

 小さく、苦しげに喘ぐ声がする。少しして、布が擦れる音と浅い呼吸が落ち着いていく気配を感じて、声の主が起きたことがわかった。

「いってェ……」

 注意深く耳をすまさなければ聞こえないほど小さな声で、ぼそぼそと呟くナマエは前後不覚に陥っているようだった。ボングから降りてふらふらと男部屋から遠ざかっていく気配を見聞色で追いながら、ルフィはむくりと上半身を起こす。ほぼ同じタイミングで他の仲間たちが起き出してくるのはわかっていた。

「また魘されてたな……」
「大丈夫、じゃあねぇよな。あの様子じゃ」

 心配の色を滲ませたウソップとフランキーが呟いた。

「先日、良い夢がみれるように音楽を奏でてみたんです。寝つきは良かったんですが、結局はああやって起きてしまっていました」
「自律神経を整える食材とレシピを使ってみたんだが、こっちも成果なしだ。それどころかだんだん食う量が減ってってる」

 ブルックとサンジは静かな口調で報告する。

「……寝つきを良くする薬はあるんだけど、原因をどうにかしないと根本的な解決にはならないと思う」

 チョッパーが医師としての所感を口にした。悔しそうな様子に、「だが」とゾロが声を上げる。

「とりあえずその薬を飲ませてやればいいんじゃねえか?アイツもだが、おれたちだってこう毎晩起きてちゃ昼間の行動に影響が出るだろ」
「そうじゃな。いつ他の海賊船や海軍と戦う事になるかわからん。味方を守るためにも、いざという時に全体の動きが鈍るようなことがあってはいかんじゃろう」

 ゾロに賛同するようにジンベエが続く。他のクルー達が仲間の心配をする分、あえて一味全体のための発言をしていることは皆わかっていた。

「昨日検査した時は体には異常なかったんだけど、念のため今日も診てみるよ。薬も処方してみる」

 両の蹄を握ってやる気を見せるチョッパーに「頼む」と返したのはルフィだ。こくりと頷いた医師やクルー達が明日も問題なく動けるようにと再び床につく中、ルフィはナマエが眠っていたボングに目をやった。
 起きた時のまま跳ねのけられた掛け布団がシーツの端に寄せられた、なんの変哲のないその場所から黒い煙がうっすらと細い筋を立ち上らせている。何かが焼けるような臭いが鼻を突いてルフィは顔を顰めた。

「焦げくせぇ」


「ナマエ、ちょっと医務室まで来てくれ」

 穏やかな海域を進む昼下がり。
 チョッパーに言われるまま医務室に向かえば、白衣を着て聴診器を首から下げたトナカイのお医者さんに座るよう言われてしまった。
てっきり薬草の仕分けとかそういう手伝いだと思っていたので少し面食らってしまう。

「昨日も診てくれたろ?」
「うん。でも、もう一回検査させてほしいんだ」

 じっとこちらを見る目をまっすぐ見つめ返すには後ろめたいものがあったので、おとなしく丸椅子に腰を下ろした。

「最近よく魘されてるみたいだけど、眠れてないのか?」
「んー、そうだな。ちょっと嫌な夢をみるっていうか……もしかして起こしてた?」
「いや、おれは耳が良いからたまに声が聞こえることがあって、それで気になっただけだぞ」

 さっそく痛いところを突かれてしまった。しかも、どうやらクルーの睡眠を妨げてしまっているらしい。そりゃ毎晩夜中に部屋を抜け出してたら、気配に敏感な奴は気付くよなあ。これは他の奴らも起きてるな。反省しなくては。

「どんな夢だったか覚えてないか?」
「えっと……怖い顔のおっさんに追いかけまわされて死にそうになる感じかな」
「なんだそれ。そのおっさん、知り合いなのか?」
「いやぁ、会ったことはないな」

 嘘はついていない。
 実際は戦場を走り回って赤犬にやられそうになるルフィとエースの前に飛び出した挙句、土手っ腹を貫かれて死にかけてるわけだが、流石にそのまま伝えるのは憚られた。
 だって内容を要約してみると、なんというか、妄想乙って感じだ。オレはあの戦争に参加していないし、都合のいい想像が高じて夢に反映されている可能性も捨てきれない。そう考えると恥ずかしくて言い出せなかった。それにしては痛みや匂いの感覚がありすぎて嫌なんだけど。
 本当ではないが間違ってもいない情報を伝えると、夢の内容についてはひとまず保留として、眠りを助ける薬を出してくれるらしい。
 きっと今夜はぐっすり眠れるだろう。

 診察するぞ、と聴診器を手に表情を引き締めるチョッパーを前に、オレは言われた通りシャツの裾を持ち上げた。


 白いシャツの下から現れた異様な有様に、チョッパーは目を見開いた。
 ナマエの腹に穴が空いている。
 鳩尾からぽっかりと空いた風穴の淵は小さく炎を揺らめかせ、まだじりじりと赤く燃えながら傷口を広げていた。

「なッ……!え!?」

 思わず声を上げたチョッパーは転がり落ちるように床に足を着くと同時に人間形態に変化し、患部の状態を診ようと目を向ける。

「どうかしたか?」
「動いちゃダメだっ……血が……!」

 服の裾を持ち上げたまま小首を傾げたナマエが自身の体に視線を下ろすも、見慣れた平たい腹が見えるだけで、特に傷は見当たらない。

「あ、あっ、どうしよう……!ベッドに横になったほうが、いやでも……ッとにかく止血しないと……!」

 青い顔をしたチョッパーがガーゼや包帯を取り出していく。数々の怪我や病気に向き合ってきた経験が、知識が、傷の状態から最悪な結論を出そうとするのを振り払うように手を動かした。
 ああ、でも、ナマエの血液型と同じ人はこの船にいない。それどころか、この世界中を探しても見つかるかどうか。

「チョッパー!なあチョッパー!ちょっと落ち着けよ!」

 腹部にガーゼを押し付ける腕をナマエが掴んだ。困惑を含んだ声を上げる仲間にチョッパーの方が困ってしまう。そんなに声を張ったら傷に響いてしまうだろうに。そもそもこんな致命傷を負っていて、どうして平然としているんだ。まるで本当に怪我なんてしてないみたいに。
 そこまで考えたところでチョッパーは改めて患部に目を向けた。

「……あ、れ?」
「よく見ろ。血なんて出てないだろ?」
「で、でも匂いもしたんだ……血と、肉が焼けるような……」

 ナマエの体に押し付けていたガーゼを離すと、出血どころか傷一つ見られなかった。修行中に負ったという傷の痕と、薄く割れた腹筋の凹凸が浮かぶだけの健康な身体に見える。
確かめるようにぺたぺたと腹を触っていたら、くすぐったそうにするナマエにようやくチョッパーは詰めていた息を吐きだした。
 さっきまで自分が見ていたものは何だったのか。幻覚と言うにはあまりにも生々しくて、鼻の奥でまだ炎と肉の焼ける匂いが残っているほどだ。でも、大事な仲間が怪我をしていないのならよかった、とチョッパーは鼻をすすった。

 改めて診察して、寝不足気味という点以外は健康であることを確認し、安心したチョッパーの瞳が潤む。一度溢れ出すと止まらなくなった涙をナマエが指先で拭った。人間形態からいつもの姿に戻り、えぐえぐとしゃくりあげながら目の前の仲間に抱き着いたチョッパーが胸元に耳を押し付ける。
 トクトクと、生きている音がする。
 それが無性に嬉しくてチョッパーはまた涙をこぼした。

「オレの腹に穴が開いてた?」
「う、うん。何かでっかい物に貫かれたみたいだった。焼け爛れてて、すぐに処置しても助かるかどうかってくらいで……でも、見間違いで良かったよ」

 焼け爛れて貫かれたような傷。その言葉にナマエは毎夜見る夢を思い浮かべたが、蒼白な顔で取り乱していたのがようやく落ち着いたチョッパーを前に言葉を飲み込んだ。

「そっか。でもオレはこの通り元気だからさ。大丈夫だよ。むしろチョッパーのほうが疲れてんじゃないか?そんな見間違いをするくらいだし」
「うーん。そうなのかな……」
「オレが起こしちまってるせいかもだけどさ。でも薬出してくれたからもう大丈夫だ。ありがとうな」
「うん、でも何かあったらちゃんと言ってくれよ」

 不安げな顔でこちらを見る心優しい仲間を安心させたくて、笑って頷いた。


「サンジ、今日の昼飯ってなに?」

 料理もいよいよ完成というところで音もなく隣に立っていたナマエに、サンジは思わず玉杓子を取り落としそうになった。
 気配を全く感じさせる事なく現れた事に驚きながらも「ビーフシチューだ」と顔を鍋の方に戻して答える。ぐつぐつと煮える寸胴鍋からは芳醇な香りしていて、ブイヨンから丹精込めて作ったデミグラスソースの出来も上々。思わずサンジの口元が緩むも、隣の男がどうにも気掛かりだった。
 鍋に視線を向けるナマエはぼんやりとしていて覇気がない。心ここに在らず、というより存在が希薄というか、弱々しい。連日悪夢にうなされているようだし、少し参ってきているのだろうか。

「ほれ、味見だ。うまいぞ」

 もうすぐ昼食だが、少しでも腹に物が入れば元気が出るだろう。バイタルレシピも参考にしているから活力が湧いてくるはずだ。それに、味見をさせてやるとこの男はいつも嬉しそうにしていた。「あいつらより先に食えるなんてラッキー」なんて笑っていたから。だからサンジは、小皿によそったシチューを差し出した。

「ありがとう」

 鍋に向けられていた顔がゆっくりと小皿に向き、サンジに移る。感情が抜け落ちたような表情に小さな笑みが浮かんだ。そして、小皿に手が伸ばされる。
 しかし、指先があと少しで触れそうなところで黒く変色していった。ぷすぷすと煙をあげて、焦げた匂いが鼻をついた。変色は手から腕へと広がっていき、焼け爛れ、炭になり、ついに指先が崩れ落ちていく。

「ごめ、ん、な」

 あまりのことに声すらあげられず、目を見開いていたサンジの耳に小さな声が届いた。ごろごろと溺れるような苦しげな声だ。

「こ、なに美味そう、なの、に、オレ……もう、匂いも、あじ、も、わ、からな、て」
「……ッ!?」

 ナマエは血を吐きながら、しかしどうしてか表情は穏やかで。べちゃ、と湿った音に視線を下げれば、焼け爛れていく腹には穴が空いていた。ぽっかりと大きく空いた空洞からまろびでた内臓が落ちて、床を赤く染めていく。

「……でも、よかった……みんな、いきて、て……よか、……」

 ついに膝から崩れ落ちていくナマエの体を支えようと、固まっていた体を動かす。サンジの手から離れた小皿が床にぶつかって、パリンと陶器の割れる音がした。
 瞬間、むせ返るような血の匂いも、床に広がっていた赤い血溜まりも、目の前の仲間の姿も消えていた。瞬きひとつの間に凄惨な有様が嘘のようになくなって、ぐつぐつと鍋が煮える音とデミグラスソースの香りが満ちたキッチンに戻っている。

「は……?」

 倒れる仲間を受け止めようと、広げた両手をそのままに立ち尽くしていると、扉の開く音がする。次いで「サンジ〜」と間延びした声が聞こえてサンジは弾かれたように顔を向けた。

「お、どうした。変なポーズで固まって?」

 しっかりとした足取りで近づいてくるナマエの姿からは先ほどの儚さは感じられない。血の匂いも、炎の匂いもしない。それでも目の前まで来た仲間の手を取り、指先に触れ、腹に手を当てて怪我の有無を確認せずにはいられなかった。


 昼食の献立を聞くつもりでやってきたナマエは、キッチンに入った途端べたべたと触られる事に困惑したが、サンジの顔色があまりに悪いので文句を言おうと開きかけた口を閉じてコンロの火を消した。

「悪い夢でも見たのか?」

 気の済むようにさせた後、サンジを椅子に座らせて割れた陶器を片付けながらナマエが控えめに問いかけた。

「……よく、わからねえ。白昼夢だったのかもしれねェが、気分のいいもんじゃなかった」

 火のついていないタバコを噛んで、肘をついた手で前髪をかき混ぜるサンジの脳裏には先程の光景がまだ焼きついていた。こうして話している次の瞬間にも、せっせと床を拭く手が焼け焦げていくのではないか、そんな想像に背筋が冷たくなる。

「お前、怪我とかしてねえよな」
「傷ひとつ無いな。さっきチョッパー先生にお墨付きもらったし、オレは今日も元気でーす」

 床に視線を向けたまま破片を拾い集めるナマエは普段通りに見えた。

「……本当だな?」
「お、まだ足りない?あんだけベタベタ触っておいて?いきなりシャツめくられたからついに見境がなくなったのかと思ったんだけど、まさか」
「蹴るぞテメェ」
「あっはは!そんじゃ、昼飯楽しみにしてる」

 冗談じゃない、と睨むサンジを受け流すように笑ったナマエは破片をまとめた袋をゴミ箱に捨ててそそくさと退散した。


 サンジも腹部を気にかけていたからチョッパーと同じ幻覚を見たのかもしれない。ただの見間違いにしては共通点があるのが奇妙なところだ。それに、自分が毎夜悩まされている夢とも繋がりがあることも。無い頭を捻ってみても心当たりはさっぱり思い浮かばない。
 ただ、仲間が自分を見る目に居た堪れない気持ちになる。2人とも酷く傷ついた顔をしていた。オレだって彼らが目の前で大怪我していたら、それも致命傷で、今にも息絶えてしまいそうだったら。それが現実じゃなかったとしてもきっと打ちのめされてしまうだろう。
 2度あることは3度あるなんてことわざもある。自分と会うことがトリガーとなっているのなら、今はできるだけ人と関わらないようにした方が良いかもしれない。航海中の船で誰にも会わないというわけにはいかないけど。
 そこまで考えて、船尾に向けていた足をくるりと返した。甲板に続く階段を降りて芝生に足を下ろす。ゾロは昼寝中で、釣りに精を出しているルフィやウソップは手すりに腰掛けてこちらに背を向けているので、気配を消しつつ縄ばしごに足をかけた。向かう先は展望室だ。あそこはあまり人がいなかったはず。起きたゾロがトレーニングしにくるかもしれないけど、その時はまたどこか別の場所にいけばいいだろう。


 縄ばしごを登っていくナマエの体に纏わりつく黒いモヤを認めて薄目を開けていたゾロは眉根を寄せた。
 いつぞやのように意識を失う事態にはなっていないが、むしろよくあんな物を引っ付けて普通に動けているものだと思う。煙のように揺らめきながら縋り付くように離れない何かは、きっと良くないものだろう。
 斬ってしまおうか。
 隣に立てかけた愛刀に目を向ける。攻撃が通るかは不明だが、ならば試してみればいい。斬り払えたら何も問題はないだろう。だが、はたして無闇に刺激してよいものか。本人は夢見が悪い程度で済んでいるらしいし、それ以外で特に不調がないのなら様子を見るべきだろうか。人外は専門外だ。どう扱うべきかわからない。
ひとまず、モヤについては他の連中にも伝えてから対策を考えよう、と一旦保留にしてゾロはあくびをこぼした。
 ――だが放っておいて何かあったら寝覚めが悪い。まったく手間がかかる。
 もうひと眠りと頭の後ろで腕を組もうとして、結局重い腰を上げた。
 展望室はジムも兼ねているのでダンベルなどのトレーニング器具も備えられている。主に利用するのはゾロだが、シャボンディで再会してからというもの、修行期間で鍛えた体が鈍らないようにナマエもちょくちょく使うようになった。ゾロのように何トンもある重りを持ち上げるなんてことはできないので、ごく一般的なトレーニングをしている。
 ゾロが展望室に入ると、ナマエは両手に持ったダンベルを上げ下げしながら窓の外を眺めていた。

「ゾロも筋トレ?」
「いや二度寝だ」
「……ここで?」
「どこで寝ようが別にいいだろ。気にせず続けろよ」
「あー、うん」

 自分の鍛錬は午前中に終えていた。壁に沿うように備え付けられたソファに腰を降ろして寝る態勢をとれば、ダンベルを降ろしたナマエが移動しようとしたので、気にしなくていいと呼び止めた。どこかに行かれたら意味がない。昼寝の邪魔にならないように、少し離れた場所で続きを始めたナマエの気配を捉えて目を閉じる。
 部屋の左側には決して意識を向けてはいけない。
 扉を開いてすぐに目に飛び込んできた、血塗れで横たわる男。ピクリともしないそれの服装が、見覚えのあるものであったとしても。本物はすぐ近くにいる。だからこれは偽物なのだ。


 船旅において水は貴重である。しかし腕利きの船大工によって造られたサニー号には、海水を汲み上げ濾過することである程度の飲み水や生活用水が確保できるようになっていた。なので、綺麗好きな者も風呂が好きな者もそう我慢することなく体を洗うことができる。大浴場の使用頻度はそれなりに多い。
 海に出てすぐの小舟の時など、雨が降った時に服を脱ぎ薄汚れたハンカチで体を擦るような日々だったから、随分と良い暮らしになったものだ。造船にあたって大きな悶着はあったけれど、フランキーとアイスバーグさんには感謝してもしきれない。つまりお風呂最高。
 汗を流して湯船に浸かり、さっぱりとした体をタオルで拭って着替えていると耳慣れた船長の声がした。

「なあナマエ、そっち行ってもいいか?」
「おお。いいぞ〜」

 手は止めないまま、扉を隔てたようなすこし遠くから聞こえてくる呼びかけに答えたところで違和感を覚える。
 ルフィは部屋に入るとき、中にいる相手にいちいち確認しない。
 らしくない言動に胸騒ぎがしてゆっくりと扉に顔を向けるも、開く気配はない。それどころか、扉の外に人の気配がない。

「……?」

 あれは空耳じゃなかった。もしかすると今日起きた一連の奇妙な出来事に関係しているかもしれない。
 手早く着替えを済ませ、扉に視線を向けたまま洗面台の横に立てかけていた愛刀に手を伸ばす。しかし、指先に馴染んだ感触が触れる前に体に何かが巻き付いて手首を掴まれた。思いもよらぬ出来事に一瞬思考が止まる。何かの出所に目を向ければ洗面台の壁に掛けられた鏡から伸びる男の手があった。長く伸びた腕がオレの胴に巻き付き、手首を掴んでいる。

「う、おっ……!?」

 鏡から手が生えてる!キモい!
 冷や汗が噴き出して心臓が早鐘を打っている。振りほどこうとすれば、逃げるなと言わんばかりに力が込められ引き寄せられていく。抵抗しながら混乱する頭で、そういえば鏡の中の世界と現実を行き来できる能力者がいたことを思い出した。
 幽霊じゃないならヨシ!でも敵襲なら一人では分が悪い。仲間を呼ぼうと口を開けば伸びてきたもう一つの手に塞がれる。噛みついてやろうと歯を立てた時、耳元で声がした。

「やぁっと触れた」

 喜びを噛みしめるような声はルフィと同じで。鏡へと目をやればこちらに腕を伸ばす幼馴染の顔が見えた。
 この状況は明らかにおかしい。目の前にいるのがルフィではない事も頭では理解している。けれど、明るい声とは裏腹に今にも泣きだしそうな表情で笑う姿に、少しだけ抵抗を緩めてしまった。
 あーあ、夢の中でも大号泣だったのに、こんなもん見せるなよ。
 身体が鏡に触れる。
 ブツン、と、何かが千切れるような音を最後に視界が真っ暗になった。


 ナマエが大浴場の方へ歩いて行くのを見聞色で見届け、1時間ほど惰眠を貪ったゾロが甲板に降りると、昼食のためにテーブルを運んできたらしいフランキーとウソップが揃っていた。それだけならよくある光景だが、いつもは陽気なムードメーカーである2人が顔色を悪くして俯いていることに違和感を覚える。

「おい」

 思い当たる節はあるが、ひとまず状況を確認しようとゾロが声をかけると弾かれるようにウソップが顔を上げた。

「ああ、ゾロか。なあナマエの奴みなかったか?」
「アイツなら風呂場に行ったぞ」
「そ、そっか。別に怪我とかしてなかったよな?」
「傷ひとつなかったが……お前らも何か見たのか?」
「"も"ってことはゾロもアレを見たのか……?」

 サングラスの下の表情は伺えないが、声音から困惑と動揺が見て取れるフランキーにゾロが答えようとしたところで厨房の扉が開いた。

「おう、その話おれたちも混ぜてくれ」

 大きな鍋を持ったサンジと目元を赤くしたチョッパーが甲板へ降りてくる。その後ろに続いてルフィと、ポットとカップを乗せたトレーを持ったブルック、配膳用の取り皿を手にしたジンベエが芝生に足を下ろした。つまみ食いをしようとしたのか、ルフィの頭にはたんこぶができている。

「おれもチョッパーも大怪我したナマエの幻覚を見たんだ」

 詳細については濁しながら、要点が伝わるようにサンジとチョッパーは自分の見た出来事を説明すると、だけどよ、とフランキーが片眉を上げた。

「今は海の上なんだし、いつかみたいな変な事は起こらねェはずだろ。アイツは単に悪い夢を見てるだけだと思ってたんだが」
「……その前提が間違っている可能性があるやもしれんな」

 ナマエと一味が経験した奇妙な出来事について、最近仲間に加わったために口伝で聞かされていたジンベエの指摘に場の空気が重くなった。


「お仕事中失礼、ナミさん。お食事の準備が整いました」

 伝声管から聞こえてきた優しげなコックの声に「ありがとう」と返事をして、ナミは測量のため向き合っていた机から立ち上がって軽く伸びをした。同じく図書室で読書を楽しんでいたロビンも読みかけのページに栞を挟んでいる。

「いきましょうか」
「ええ」

 微笑むロビンに頷いて扉に手をかけようとした時、どさり、と何か重いものが倒れたような音がした。この部屋の中に備え付けられたハシゴを登った先、大浴場の方から聞こえてきた物音に顔を見合わせる。

「ナマエ〜?」

 転んだのだろうか。しっかりしてるようでうっかり屋で抜けたところのある青年を思い浮かべて、ナミがハシゴの下から声をかけてみるが返事がない。

「ナマエ、大丈夫?」

 ロビンも呼びかけるが、声どころか物音ひとつしない。浴室にいるなら聞こえていないこともあるかもしれないが、シャワーの水音すらしないことに2人は顔を見合わせた。

「大丈夫かしら?」
「石鹸を踏んで転んだ拍子に、頭を強打してなければいいけど……」
「ちょっと、怖い想像やめてよ……」

 ロビンの言葉を頭に思い浮かべたナミが顔色を悪くながらハシゴに足をかけたところで、視界に桃色の花弁が舞った。

「少し見てみるわ」

 ロビンが両手を交差して能力を発動する。
 入浴中を覗き見るようで気が咎めたが、のぼせたり溺れていないとも限らない。最悪の事態を想定するのは過酷な世界を生き抜くうえで身に付いた癖だが、そうなってほしいわけではないのだ。何事もなければいいと思いながら、壁に目を生やして様子を伺う。湯気で白く煙る浴場に姿はない。脱衣所にも目を増やして周囲を見渡し、視線を下げると、倒れて動かない仲間の姿があった。


 てっきり停泊した島に由来する何かが悪さをしてくるものだと思っていた。だが、もし土地など関係なく、ナマエや自分たちを狙って何かが仕掛けてきているとしたら。まさに今、仲間の身が危険に晒されているとしたら。

「ーーだったら、今のあいつを一人にしておくのはマズイんじゃ、」

 ウソップが冷や汗を滲ませたところで、船の後方から甲高い悲鳴が響いた。

「っ、ナミさん!?」

 声の主にいち早く反応したサンジが船内に続く階段に足をかける。

「ねぇ、だれか……っ!ナマエが起きないの!早くきて!!」

 階段の上にある手すりを掴んだルフィは伸ばした腕を縮ませる勢いに任せて芝生を蹴り、測量室に続く扉の前に飛んだ。
 力任せに扉を開けてハシゴを登ると、座り込むナミとロビンの間に横たわるナマエの姿があった。2人の声かけにも、体を揺さぶられても何の反応も見せず、ぐったりと力の抜けた様子に後から駆けつけた男性陣も顔色を悪くする。

「とにかく、医務室に運ぼう」

 ぐ、と涙を飲み込んだチョッパーの指示に従って、ルフィはナマエの体を抱き上げた。


 目を開くと、見慣れたボングの木目が見えた。今日もまた変な夢を見ていたらしい。
 今回はグロ系の夢を見ずにすんだみたいで良かった。痛みの余韻もなく、無理やり意識を引き上げられる不快感もない。久々の質の良い眠りのおかげで体が軽いくらいだ。
 ボングから降りて見上げた丸窓の外は暗く、小さな星がいくつも瞬いていた。男部屋には自分しかいなかったので皆は起きているらしい。いつから寝ていたのか、どうにも記憶がはっきりしないけど、随分と寝こけてしまったみたいだ。

 水を飲みたくて厨房の扉を開けば見慣れた金髪が目に入ってきた。こちらに背を向けるサンジは寸胴鍋で何か作っているらしく、くつくつと鍋が煮える音と食欲をそそるいい匂いがしている。

「……起きたのか」
「ん。だいぶ寝てたっぽい。喉乾いた」

 水切りかごに置かれていたガラスのコップを手に蛇口を捻ろうとすると「待て」と制止をかけられた。

「浄水器のメンテナンス中なんだ。水は飲めねえ」
「あ、そうなん。それじゃ冷蔵庫の物なんか適当にもらっていい?」
「いや、そっちもダメだ」

 聞きながら、まあ断られないだろと取っ手に手をかけようとすればまたしても止められてしまう。
 いつもなら飲みたいとか食べたいと言えば何かしら出してくれるのに。今日はやたら強情だ。というか、なんか変だ。らしくない、というか。

「じゃあなんだったらいいんだよ…。そこの果物は?これならいいだろ?」

 カウンターに置かれたリンゴを手に取れば隣から伸びてきた手にするりと回収されてしまった。

「これもダメなんだ。悪いな」
「なんで」
「なんでも、だ。あとで食いたいもん作ってやるから今は我慢してくれ」

 ダメと言われると余計に欲しくなってしまう。水すら飲めないのは何故なのか。果物のひとつくらいいいじゃないか。
 どうにも納得がいかなくて、それが顔に出ていたんだろう。前髪に隠れていない右目を細めて、サンジはもう一度「悪い」と肩を落とした。
 責めたいわけじゃないし、この男がここまで言うのだから理由があるのだろう。事情を説明してくれないことは多少不満ではあるが。話せないことを追及しても仕方ない。もやもやした気持ちを飲み込んでしぶしぶ頷いた。

「わかった」
「リクエストはあるか?」
「そうだなあ。うーん……ピラフとか、あとステーキやローストビーフみたいな肉系も食べたい。デザートはフルーツのパフェがいいな。あ、こないだ作ってくれたレモンパイがめちゃくちゃ美味かったから、あれもまた食べたい」

 あれもこれもと言い出したらキリがない。想像したら余計に空腹感が増した気がして、ちらりと寸胴鍋を見る。コンロの火が消された鍋からはスープの香ばしい香りがしていた。でもどうせあれも食べちゃいけないのだろう。そっと視線を外すオレはなんて物分かりのいい奴なんだ。ルフィならこうはいかないだろう。なんて、自画自賛してなきゃやってられない。ぐぅ、と腹が切なげに鳴いた。

「いろいろ言ったけど、今の備蓄でできるもん作ってくれたらなんでもいいよ。サンジの作る飯は全部うまいしさ」
「……そうかよ。じゃあとびきりうめぇ飯作ってやるから、日が昇る前に散歩でもしてきたらどうだ」
「んー……そうだな」

 それじゃあ、と後ろ手に手を振ってキッチンを後にした。長居してたら絶対つまみ食いする。胸を張っていえる。なんでかわからんが、それくらい腹が減って仕方ない。口の中に溜まる唾液を飲み込んで、空きっ腹を刺激する匂いの届かない場所を探して歩き出した。
 ここ最近では珍しくすっきりと目が冴えている。昼間は賑やかなこの船も、夜になると船体を優しく打つ波の音が聞こえるほど静かな時間が流れていた。


 本当は、望むものを食わせてやりたかった。
 肉でもスープでも、果物でも、なんだって好きなだけ。けれど今のナマエにこっちのものを口にさせるわけにはいかない。ルフィは食わせた方がいいと思っているのだろう。そうすればずっと一緒にいられるのだから。アイツの思惑が良くない事だとわかっていたし、だからこそ水の一滴も与えなかった。
 だが、いざ対面して、声を聴いてしまうと引き止めてしまいたくなる。もっと話をしたい。俺の作った飯を食べてほしい。そんな強烈な誘惑があった。
 空いた穴を他の誰かで埋め合わせることを悪いとは思わない。けれど、あのナマエを認めてしまったら、アイツがこの船にいたことすら上書きされてしまいそうで。それだけは受け入れられなかった。
 奥歯を噛みしめたせいで咥えていたタバコが歪に曲がった。

「レモンパイ、か。そんなに好きだったんなら、もっと作ってやりゃあよかったな」

 死の淵に立った時、あいつは腹を空かせていなかっただろうか。いくら思いを馳せたところで、それを知る手立てはないというのに。


 展望室なら食べ物の香りもしないだろうと登ってみると先客がいた。いるだろうなと思っていたのでそのこと自体に驚きはなかったけれど、オレの顔をみるなり木刀を投げて寄越すのだから面食らってしまった。

「手合わせしろ」
「いま?!」

 取り落としそうになるのをどうにかキャッチして相手をみれば、肌に伝わる闘志に本気なのだと理解させられる。既に構えているゾロ相手にこっちは寝起きなのに、なんて言っても聞いてもらえなさそうだから、大人しく柄を握るしかない。
 結果は、もちろんオレの負けだった。

「はぁっ、はっ……も、もう無理……!降参!参りました!」
「ーーまだまだ鍛え方が足りねぇ」

 膝を付いて肩で息をするオレに対し、ゾロは汗一つかいていない。そりゃ子どもの時から大剣豪目指して特訓してた人と修行経験2年ぽっちの奴を比べたらね。足元にも及びませんとも。

「だが、まあ昔よりはだいぶマシになった」
「はは。……そりゃ、どうも」

 座り込んで息を整えるオレを、ゾロは立ったまま静かに見下ろしていた。
 一太刀当てられるなど思っちゃいなかったが、服に掠ったかも怪しい。清々しいほどの完敗だ。簡単に追いつけるとは思わないが、武器を手にするようになって、やはり遠い存在なのだとつくづく思うようになった。

「ゾロは凄いなあ」

 果てしない夢を見て、それを実現するためにずっと走っている。隣の男だけじゃない。この船の連中は継続は力を体現する人ばかりで、現代からずっと目的もなく流されて生きてきた自分にはとても眩しい。まったくカッコいいな、どいつもこいつも。

「お前も、まあ、それほど筋は悪くねえだろ」
「……そ、そうかな?」
「そうだろ」

 ちょっと褒められるだけで気分が良くなる自分を我ながらチョロいと思う。ついでにもう一声なにかアドバイスがほしいとせがんでみれば、ゾロはすぅ、と目を細めて口を結んだ後、何か考えるように目を伏せた。右耳のピアスがきらりと照明を反射して鈍く光るのを見つめながら、言葉を待っていると部屋の空気がわずかに張りつめる気配がした。

「……油断するな。敵を見誤るな。自分を過信するな。無謀も無茶もやらなきゃならねェ時はあるだろうが、命を捨てる覚悟なんて早々に決めるんじゃねえ。どんなに生き汚くても足掻け。自分を投げうつな」
「おぉ、いつも重傷の人が言うと含蓄がある……」
「わかったな?」
「あ、はい。気をつけます」

 念を押すような鋭い眼光が飛んできたので大きく首を縦に振った。
 そんなこと言われるまでもない。海賊稼業をやってはいるが喧嘩を華とは思わないし、痛いのも怖いのも嫌だ。死にたがりじゃあるまいし、進んで命を捨てるなんてことをするはずもない。というか、そもそも船長や両翼や他の仲間たちがめっぽう強いのだ。余程じゃない限りオレの出る幕なんてないだろう。
 つまり今まで通りで問題ないってことだと納得して、火照った体を涼ませようと外に出た。


 同じ顔だった。
 姿形も、声も、言葉遣いも仕草も。
 髪型と体格は記憶にあるものと違っていたが、おそらく2年分の差なのだろう。筋肉がついた分、少し体の厚みが増して、逞しくなっていた。ちゃんとした武器を使うところは初めて見たが、太刀筋は悪くない。良い師に出会えたのか。余程の力量差でない限り最低限自分の身を守るくらいはできるだろう。
 ただ身を挺して燃え尽きてしまうのではなく、もっと他のやり方で、仲間も自分も助かる道を選べるくらい強くなれ。
 そんな思いで振り下ろした木刀をナマエはちゃんと見切って防いでみせた。もちろん加減はしたが、戦い方を知らない奴なら対処できない程度の力は込めた。だからきっと、コイツは大丈夫だろう。囲って閉じ込めて、守らなくても自分の足で立って戦える。そんな確信が得られたから、もう十分だ。

「なあキャプテン。お前の気持ちもわかるが、やっぱりおれは元いた場所に帰すべきだと思うぞ」

 おれたちの仲間だったナマエはもうどこにもいない。
 進水式の時にアイツは「自分の夢を見つけるために」と言って樽に足を置いた。そして、シャボンディ諸島を2人で散歩していた時に「お前らの夢が叶うところを見たい」とそっぽを向いて耳を赤くしていたのを覚えている。
 ならば、やはり天に轟くくらい名を揚げることが、ひいてはアイツへの弔いにも繋がるのだろう。
 かつて幼馴染と交わした決意と約束を新たにゾロは窓の外を見る。
 群青色の空には星が瞬いていた。
 夜明けはまだ遠い。


 展望室を降りて植物エリアに差し掛かると、海風が運ぶ潮の匂いに混じる、柑橘系のほんのりとした酸味と爽やかな香りが鼻をくすぐった。誘われるようにみかんの木が植っている場所に向かうと、剪定ハサミを持ったナミの姿があった。どうやら伸びすぎた枝や実を間引いているらしい。

「なにもこんな夜更けにやらなくてもいいんじゃないか?」
「いいの。目が冴えちゃったし。植物の成長は早いんだから日頃の手入れが大事なのよ。暇なら手伝ってくれる?」

 そういって軍手と剪定ハサミを渡すと、ナミはこちらに背を向けて枝葉を吟味し始めた。オレはといえば、特にやることもなかったので受け取ったハサミをカチャカチャさせながら丸く実った果実を見定めていく。「これくらいの大きさのやつを収穫して」と見本に渡されたみかんはまだ青く、見慣れたオレンジ色になるまで置いて熟させるらしい。
 これまでもナミのみかんを食べたことはあるけれど、どれも甘さの中に程よい酸味があって、そのまま食べても料理に使われても美味いのだ。そこまで考えて、なんでもいいから胃袋に入れろと、思い出したかのように腹の虫がぐるぐる鳴いた。口の中にあふれた唾液を飲み込む。
 あー、腹減ったなぁ。けど、ナミの許しなくつまみ食いなんてした日には脳天に雷を落とされるか、法外な金額を請求されるに違いない。いつぞやにナミの怒りを買ったルフィが顔中にたんこぶをこさえて泣きながら謝る光景を思い出し、ふるりと頭を振った。ああはなるまい。
 ぶり返してきた強烈な空腹感に耐えながら、ある程度収穫したところでナミの元へ持って行くと、向こうもちょうど作業が終わったらしい。軍手を外して渡したみかんを軽く検分すると満足げに頷いて籠に入れた実をひとつ差し出してきた。

「はいこれ。手伝ってくれたお礼」
「いいのか?ありがーー」
「5000ベリーね」
「いや金取るのかよ」

 伸ばしかけた手でツッコミを入れると「当然でしょ」と、あっけらかんとした表情で言い放つ様子はいっそ清々しい。
 お礼とは。いや、ナミらしいけどさ。

「私が丹精込めて育てた大切なみかんだもの。タダってわけにはいかないわ」
「へーへー。今手持ちが無いから遠慮させてもらいまーす」
「あら、残念」

 籠に戻されたみかんを目で追えば、名残惜しそうに腹も鳴る。それでも目の前の守銭奴はまけてくれる気はないらしい。世知辛い世の中だ。

「それじゃ、オレ行くわ」
「ええ。じゃあね」

 厨房から出た時に食べ物のある方には近づくまいと思っていたのに、結局ふらふらと立ち寄ってしまったので、今度こそはと心に決めて船内に続く扉を開いた。


 あの日。
 空島で見た新聞の一面は頂上戦争の話題が大部分を占めていた。
 海軍本部で勃発した戦争から逃げおおせた大海賊たち。処刑寸前で助け出されたエースと、ルフィの無事を知り、早鐘を打っていた胸を落ち着かせたところで、紙面の隅に小さく映っていた青年の写真を見た時のことは今でもよく覚えている。
 エースに迫る大将の攻撃を受けて死亡した、身元不明の男。
 その行動から、おそらくは白ひげ海賊団の者だろうと推測する記事の文面にカッと頭に血が上るのを感じた。
 違う。違う!何も知らないで適当なこと言わないで!
 いいえ。嘘よ。絶対嘘。他人の空似だわ。だってアイツがあんなことするはずない。できるわけがない。戦闘になると私やウソップやチョッパーと一緒になって、ビビって逃げ回るような奴なんだから。
 現実を受け入れたくなくて、粗い印刷でインクの滲んだ小さな写真に目を凝らす。けれど、何度見ても、この間まで同じ船に乗っていた、見慣れた仲間の顔だった。
 飛び出してしまうのもわかるのだ。自分や他の仲間たちがあの場所にいて、手の届く場所で、ルフィが命の危険に晒されていたら、きっと同じようにする。力の差とか、相手が誰かなんてわかってても止まれなかったのだろう。
 力を込めたせいで新聞がぐしゃりと音を立て、紙面に皺が走る。わなわなと震える体にただ事ではないと察したのか、ハレダスが気遣わし気に声をかけても、ナミに答えられるだけの余裕は失われていた。
 目元が熱い。溢れた先からぼろぼろと涙が頬を伝って止まらない。そのうち立っていられなくなって膝から崩れ落ちた。
 だって、また会えると思っていたのだ。自分が無事なのだから、きっと他の仲間も生きていて、どうにかしてシャボンディ諸島で落ち合えるに違いない。今までだってなんとかなったんだから今度も大丈夫だろう。
 心のどこかで、楽観していたのだ。
 扉の向こうに消えた、かつての仲間に瓜二つの背中を見送って、ナミは空を仰いだ。
 空には丸い月が浮かび、星が瞬いている。そのうち、小さく輝く光がひとつ、夜空を滑るように流れて燃え尽きていった。
 それがまるで、かつての仲間の死に際のようで、ナミは唇をぐっと噛んだ。

「あーあ。我慢なんかしないで、食べちゃえばよかったのに」

 そんな、小石を蹴飛ばしたくなる気持ちと同じくらい、食べなくてよかったと安堵する思いもあった。
 あの青年がこちらに留まるという事は、つまり彼がいた世界のナマエがいなくなるという事だ。あちらにも航海士でみかんが好きなナミはいるらしいし、自分と同じ思いをさせるのは忍びない。

「……早く帰ってやんなさいよね」


 ウソップ工場本部はいつも木材と鉄とオイルの匂いがする。
 木箱には、何に使うのかわからないガラクタからちょっとすごい発明品まで様々な物が詰め込まれていた。ウソップは多分、良い感じの木の枝を見つけたら思わず手に取って持って帰ってくるタイプだと思う。そしてそのうち使うかもしれないからといって、いつまでも捨てられないんだろうなあ。
木箱から覗く、歪に曲がった鉄パイプを見て思わず苦笑すれば、夜中だというのに妙にテンションの高い部屋の主が謎の装置を持ってこちらにやってきた。

「なにこれ」
「ふふん、よくぞ聞いてくれた。これはな、ウソップ式映像記録装置だ!」
「へえ……?」
「あ、わかってねえな?こいつはダイヤルを元に改良を加えて、より画質と音質の性能をアップさせた優れ物なんだぞ〜!」
「ほぉーん」

 熱く語るウソップの手にする機械をしげしげと見れば、ホームビデオを撮る時に使うビデオカメラに似た形をしている。そういえばこの世界、カメラはあるが映像の撮影は電伝虫が主流なんだっけ。壊れても自分で修理できる機械の方が生物より便利な面も多いかもしれない。オレがこの世界の生まれならもっと新鮮に驚いたんだろうが、どうも懐かしさが勝ってしまって微妙な反応になってしまったのはちょっと申し訳ない。かといって、大袈裟な反応はなんか通販番組みたいでわざとらしいしな。難しいな。
 そんなオレの態度がウソップの発明心に火をつけたのか、装置を構えてレンズをこちらに向けながらフフン、と鼻で笑った。

「フッ、お前にはまだこいつの凄さが理解できねぇようだな。試しに撮ってやろうか?」
「いやぁ、やめとくよ。そういう記録に残るようなのってあんまり得意じゃないし」

 運動会や修学旅行でカメラマンにレンズを向けられた時の記憶がよみがえる。最近はどうなってるかわからないが、イベント事の後で校内に写真が貼りだされて欲しい番号を書くアレ。撮られるのが苦手だったからカメラの気配を感じるとその場から離れていたのを思い出して渋い顔をすると、ウソップは「ちぇ」と勿体なさそうに腕を降ろした。

「あとで見返せるのはいいと思うんだけどな。どれだけ大切な事もそのうち忘れちまうかもしれねぇだろ」
「その考えもわかる。けどまあ、オレのことなら別にいいよ」

 しん、と静まり返った部屋。ウソップお手製の時計が時を刻む音がやけに大きく聞こえる。薄ら寒い静寂が落ちた。どうしてか、張り詰めた弦が引き絞られて千切れる寸前のような緊張が走って、目を地面に向ける。なにか怒らせてしまっただろうか。

「だって、さ。これからも沢山冒険するんだし。何でもかんでも全部覚えてられるわけないんだから」

 オレなんか一昨日食べた飯の内容も思い出すまで時間かかりそうだ。つまりオレのことはそのくらいの認識でいいよってことなんだけど。

「たまに立ち止まったり、後ろを向くことがあっても、その後でまた前向いて進んでいくのがこの一味だろ。それなら昔の思い出にばっか浸ってられないよな」
「…………そっか。そう、だよな」

 船体の木目を目でなぞりながら考えていることを伝えれば、嫌な緊迫感がふ、と和らいだ。視線を持ち上げると眉をハの字に下げて笑うウソップがいた。

「あいつらは喜ぶんじゃないか?ロビンは珍しい遺跡見つけた時に映像で残せたら研究も捗って嬉しいだろうし」
「あ、なるほど。そういう使い道もあるのか」
「サンジなんて『ナミさんロビンちゃんの美しさを永遠に記録する』とか言いだしそう」
「あーあーわかる。目に浮かぶ」

 顔を見合わせて笑った。目をハートにして全身で愛情表現をするコックに対して航海士が適当に流して考古学者は微笑むという一連の流れは、もはや定番になっている。またやってんな、くらいの日常風景なのに思い出すとなんか面白い。そこから遡ってこれまでの旅の思い出を語り合った。
東の海からグランドラインでの航海の日々。強大な敵との戦いの合間にも沢山の島に立ち寄って、沢山の人と出会い、ちょっとしたトラブルもあったりして、最後は宴をして。
 ランタンの油が切れかけているのか、炎のゆらめきに合わせて2人分の影もゆらゆら揺れる。話し上手なウソップの語りに気付けば思いのほか時間が経ってしまっていた。

「手ぇ止めちまって悪いな。そろそろ行くわ」
「おう。それじゃあな」
「……話し込んでてなんだけど、ちゃんと寝ろよ?」
「ああ。今日はぐっすり寝るさ。お前も、体には気をつけろよ」

 手を振るウソップにこちらも手を振り返して扉を閉めた。


「風邪引くなよ……」

 きっと、また声から忘れてしまうのだろう。どれだけ忘れまいと思い出にしがみついても、何度思い返しても、記憶は薄れていくのだと思い知った。思い出せなくなっていく自分に失望した。
 ーー生きてた世界が違うだけで同じ人なんだろ。ならいいじゃねぇか。また一緒に冒険しようぜ。
 喉元まで迫り上がる言葉をぐっと堪えて、ウソップは震える唇を無理矢理引き上げて笑った。
扉が閉まると、堰を切ったように涙と鼻水が溢れて、嗚咽が止まらない。

「せめてちゃんと、別れが言えてよかった……!」

 これまでだって一歩間違えば死ぬような危ない綱渡りばかりの旅路だった。
 アラバスタも、空島も、エニエス・ロビーも。シャボンディ諸島で七武海のくまに襲われた時なんて、本当にダメかと思ったほどだ。それと同じで、ナマエにとっては何度目かの命がけの局面に遭って、助からなかったってだけだ。
 あの場におれ達がいたら、と何度考えただろう。無事とはいかなくとも、命はあったんじゃないかと思う。強くなって、ルフィを支えてやるんだと、特訓に明け暮れて自信もつけて仲間たちと再会した。けど、やっぱりアイツだけはいなくて。
 誰も何も言わなかった。その話題にどう触れたらいいかわからなかった。2年前から見違えるほど力を付けたルフィの変わらない明るさに、乗り越えられたんだと安心した。ならばわざわざ掘り返すこともないだろう。今はまだ振り返ると泣きたくなるが、いつか思い出話になれば、酒を飲みながらナマエの話もできるようになるかもしれない。そんなことを思っていた。
 だが、傷は塞がったとしても、なくなったわけじゃない。


 この場所が普通じゃないことには気付いていた。
 最初の違和感はサンジと話した時。前髪の分け目が逆だったのはその日の気分かと思って特に気にしなかったけど、ゾロのピアスや、ナミが刺青を入れてる腕までもがみんな左右逆になっているのを見て何かおかしいと確信した。ウソップは目に濃い隈を作っていたし。なにより、4人ともオレを見て複雑な顔をするのだ。寂しいのか、悲しいのか。何を考えていたのかまではわからないが、見てるこっちも息苦しくなるような気配がしていた。この調子だと他の仲間もどこかしら自分の知る彼らとは異なる部分があるのだろう。オレがおかしいのか、皆に何かあったのかはわからないが、とにかく原因の究明と状況を打開するために、まずは情報を集めるべきだろう。

 この船で一番情報がありそうな場所を思い浮かべ、やってきた図書館には人影があった。
 窓辺のソファで本のページをめくっていたロビンは、こちらの姿を認めると「いらっしゃい」と微笑みを浮かべている。彼女からはこれといった違和感はないように見えた。

「なにか探し物?」
「うん。って言っても、どうしたら見つかるのかはよくわかんないんだ」

 棚に並ぶ本の背表紙を見ながら、それらしいタイトルの物がないか探っていく。起きたら仲間の様子がおかしい時の解決法、なんてピンポイントで書いてる本があるわけないけど、これまで集めた本の中に少しでもとっかかりになる物があるかもしれない。

「それはもしかして、これかしら」

 差し出されたのはさっきまでロビンが読んでいた本らしかった。受け取って表紙を見るも掠れてしまってタイトルが読み取れない。随分と古いもののようだ。

「これは……?」
「死者に会う方法がまとめられた本よ。栞が挟んであるページにあなたの知りたいことが載っているわ」

 表紙と同じく、中身も傷んでいるが文字は読むことができた。破いてしまわないように気を付けながら少しカビ臭い本の栞のページを開いて目を通していく。

 満月の夜。清らかな水を貯めた盆に鏡を沈め、水面の揺らぎが収まるまで待て。鏡に月が写り込んだ時、想い人の姿が現れる。
 それはこちらとは異なる場所、異なる時間を生きる者の光景であり、亡くなった当人ではない。容姿も性格も、考え方も全く同じ。しかし生死を分ける分岐点で、この世界とは違う選択をして命を落とさなかった平行世界を写し取っている。
 対象に話しかけてはならない。こちら側から干渉すると並行世界に生きる対象に故人の記憶が混ざってしまう。また対象を中心に周囲にも幻覚などの影響が伝播、侵蝕する。
 対象が写っている時に鏡に触れてはならない。魂が引きずられ、肉体から剝がれ世界の狭間を越えてしまうと対象はこちら側に飛ばされてしまう。
 対象にこの世界のものを口にさせてはならない。水の一滴でも口にすると対象はこの世界に縛られ、元居た場所に帰ることができなくなる。
 もし対象がこちら側に来てしまった場合、帰る方法は一つ。こちらの世界で日が沈み、再び昇るまでの間に水盆の中の鏡に触れること。それが叶わなかった場合も対象はこの世界から出ることができなくなる。
 要約するとそのようなことが書かれていた。
 この内容を信じるなら、オレは自分のいた場所と似て非なる別世界にいることになる。
たしかに辻褄は合う。違和感を覚えた時に思い出したが、記憶が飛ぶ直前のオレは大浴場にいたはずだ。伸びてきた手に捕まって抵抗したところで意識を失った。あれは見間違いでもなんでもなく、この船のルフィだったんだろう。
 毎日見ていた悪夢も、”ナマエ”が死ぬ直前の記憶に同調していたんだとすれば納得できるし、あっちの仲間達の様子が変だった理由もわかった。

「こっちのオレは死んだのか」
「……ええ」
「マリンフォードで……?」
「新聞にはそう書いてあったわ。私たちはあの場にいなかったから、詳しいことはルフィしかわからないけれど」

 目を伏せるロビンを疑うはずもなかった。異世界であれ、仲間であることに変わりはない。
なるほど、サンジたちがぎこちなかったのも頷ける。死んだ仲間と同じナリをした奴が船内をふらふらしてたら、そりゃあ、どんな顔したらいいかわかんないよなあ。

「知らなかったとはいえ、アイツらに酷い事しちゃったな」
「……いいえ。どんな形であれ、もう一度あなたと会えてよかった。みんなそう思っているわ」
「だといいけど。オレはこっちで言うところの『並行世界のナマエ』であって本人じゃない」
「それでもよ。私たちは彼を看取ることもできなくて、どこに埋葬されたのかも、わからないから……」

 海軍からすれば、こっちのオレは罪人にトドメ刺す直前に横入りして台無しにした大戦犯だ。碌な扱われ方はされてないだろう。さらし首か八つ裂きか。そもそも墓なんてないんじゃなかろうか。魚のエサにされるか、怒りの捌け口にされて骨すら残ってなくても不思議じゃない。
 ロビンもそんなことはわかっていて、でもどこかにオレの墓があるのだと信じたいのだろう。

「さあ。そろそろ行った方がいいわ。ルフィは甲板にいるはずよ。水盆もそこにある。あなたには何よりルフィと話してほしい。私たちはこのまま船内で見送るわ」
「わかった。ありがとう。オレ1人じゃ夜明けまでに間に合わなかった」
「ふふ。このままこの船にいてほしい気持ちもあるのよ?」
「でも、帰してくれようとした。ここで待っててくれたんだろ?」

 オレの問いかけにロビンは何も言わず微笑んだ。

「ーー最後にひとつ、教えてちょうだい。あなたも違う世界に行く方法を探しているの?」

 ドアノブに手をかけたところで、ロビンから声がかかる。投げかけられた質問には心当たりがあった。
 この図書館の一角を占めるオカルト系の本。一部のクルーから「胡散臭い」と鼻を鳴らされるそれらは、神隠しなどの世間で有名な失踪事件や、異なる世界と交信ことを目的とした真偽不明の儀式に関する事が記されている。本棚に並ぶタイトルにはどれも見覚えがあった。きっとこちらの自分も現代に帰る方法を模索していたんだろう。
 サニー号から離れてでも、どこか行きたい場所が、探し求めていたものがあったのか。ロビンの質問の意図はこういうことだろう。
 死んだ男がどう考えていたのかは確認のしようもないが、オレの答えは決まっていた。

「興味はあるけど、行きたいとは思ってないんだ」

 振り返って真っ直ぐにロビンの目を見た。オレと彼は違う人生を歩んだけれど、性格は同じらしいから、似た答えを持っていたかもしれない。死人に口はないのだし、それなら都合の良いように信じてくれたらいいと目いっぱい笑ってみせた。

「おれはサニー号に居たい。皆が好きだから、もういいんだ」
「そう。私も、あなたと過ごせて楽しかったわ」
「こっちのオレもきっと喜ぶよ。……さよなら」
「――ありがとう」


 遠ざかっていく足音を聞きながら、ロビンはソファの背もたれに寄りかかり窓の外に目をやった。凪いだ黒い海はキラキラと夜空の光を反射している。月明かりが差し込む室内は電気を消しても比較的明るい。
 新聞を見て、何かの間違いであれば良いと思った。
 地獄の日々の中でようやく得た止まり木。ここにいたいと思わせてくれる、優しい人たち。そんな仲間の1人がいなくなってしまった事が信じられなかった。
 世論は、罪人が逃げおおせるきっかけとなった謎の乱入者を口汚く罵って、無名の男の悪名はいまや世界中に知れ渡っている。手配書すらないというのに、新聞に載った数枚の写真に海賊を嫌う人々の憤りは向けられた。
 遺体は持ち去られたらしい。誰の仕業かは今でも明らかになっていないが、せめて海賊であれば良いと思う。あの場では、彼の行いに恩義を感じる者も多くいたはずだから。


 あの老婆に会ったのが全ての始まりだった。
 停泊中の島を探検と称していつものように歩いていた時。寂れた裏路地を横目に通り過ぎようとして、こちらを呼ぶ声を聞いたのだ。
 ――ちょいと、そこのお兄さん。
 ――こっちにおいでよ。いいモンがあるよ。
 人の良さそうな笑みを浮かべて手招く姿に、特に警戒もなく近づいた。
 簡単な木組みにぼろ布を被せて屋根を作り、布を敷いた地面に商品を並べただけの、お世辞にも儲かっているとは思えない小さな露店。そこに胡座をかいた老婆は、商品の中から小さく薄汚れた丸い鏡を指して言った。

「死んだ人間に会いたいと思ったことはないかい?」

 無視することができなかった。興味がないと一蹴して、さっさとその場を去ることもできたのに。沈黙を肯定と受け取ったのか、鏡の使い方を話すと店主は鏡と傷んだ本を握らせた。

「あたしの望みはもう叶ったからアンタに譲ってあげる。上手くおやりよ」

 不気味なほどにこやかな笑顔に見送られて船に戻り、あとはこの通り。


 雲ひとつない空には星が瞬いている。月は西に傾いているから、もう2時間もすれば水平線から日が昇り始めるだろう。
 船首の近くには水盆が置かれていた。中を除くと本に書いてあった通り鏡が沈んでいる。

「お前がオレを連れてきたんだってな」

 サニーの頭の上、特等席であぐらをかく背中に声をかけた。こちらに振り返ったルフィは、夜食のつもりなのかバスケットを抱えている。その中からサンドウィッチを取り出した。

「食うか?」
「いらねぇ」
「飲み物もあるぞ」
「いらんて。わかってて言ってるだろ。もう全部バレてんぞ」
「ちぇ。なーんだ」

 特に残念でもなさそうな声だ。取り出した骨付き肉に齧り付く姿からは、なんの悪意も害意も感じられない。

「どうしてこんなことをしたんだ」
「お前に、もう一度会いたかったんだ」

 ぶちりと肉を食い千切り、飲み込んで、ルフィは口元だけで笑った。

「最初は胡散臭くて信じてなかったんだ。でも、せっかくもらったし。ダメ元でな、やってみたんだ」

 湧き水で有名な土地だったから、清い水とやらもあっさり手に入った。必要な材料のどれか一つでも手に入れられなければ、早々に飽きて倉庫に放り込んで忘れていたかもしれない。

「そしたらさ、いたんだよ」
「……」
「鏡の向こうで、動いてて。おれたちと同じ顔の奴らと一緒に飯食ってバカやって、笑ってたんだ」
「……ルフィ」
「そんなん、話しかけちまうだろ。触りたくなっちまうだろ。ずっと見てるだけなんて、我慢できるわけないだろうが」

 船首にバスケットを置いたまま甲板に足を降ろして、この船の船長が歩み寄ってくる。

「なあ、また一緒に冒険しよう。おれたち皆強くなったんだ。今度は、あんな、あんなふうに、っ……お、お前を」
「それでいいのか?」

 目を見開いて、唇を戦慄かせながら、下手くそな笑顔を貼り付けて、そうして差し出された手は震えていた。

「オレがお前の手を取ったとして、本当に、お前は嬉しいか?」
「……」

 彼らが後ろめたさや罪悪感で制止できなかったのなら、オレが終わらせてやろう。こいつの幼馴染だった男の思いは知っている。だから代わりに言ってやらねば。

「お前の幼馴染で、仲間だったナマエはもう死んだ。こんなことしても意味がないことくらい、わかるだろ」

 ひゅ、と男の喉がか細く鳴った。

「う、うぅ、……っあ」

 わなわなとルフィの肩が震える。目尻に涙が溢れ、頬を伝い落ちていく。

「あ、ぁ、うあ、ぁあああ」

 体の底から湧き出る感情をそのまま吐き出すような慟哭だった。夢で見た時と同じく、失った者への悲しみと後悔があった。

「おれ、おれが、村から連れ出さなかったら、よかったんだ。あいつは海賊にはならねぇって、ずっと言ってたのにっ。そしたらナマエは死なずにすんだ……!」

 そうやって、自分の心に爪を立て、傷つけながら生きてきたのだろう。もう誰も失わないように、負けないためにと腕を磨きながら、自分のせいでと責め続けていたのだろう。

「……いや、それは違う」

 震える肩に両手を添えて、目線を合わせた。溢れる涙はいくら拭っても止まらなくて、目元に沿わせた指をぬるく湿らせていく。

「オレは海賊になってよかった。麦わらの一味に加えてくれて、本当に嬉しかった」

 これはオレの本心であり、この世界で生きた彼の本心でもある。
 最初は、なんでこんな目に、と思っていた。フーシャ村で平穏に生きていければそれで良かったから。けれど、日を追うごとに、仲間が増えるにつれ、居心地が良くて楽しくて、ずっと一緒にいたいと思うようになった。だから、こちらのナマエはあの結末を選んだ。

「”ナマエ”は未練も後悔も残して死んだ。けどな、大好きな人を助けられて、役に立てて、心から喜んでいたよ。誇らしく、最期まで笑っていたんだ」

 きっとまた皆で冒険の海へ繰り出してほしい。
 これが彼の最後の思考だ。死にたくないと喚き、痛みと恐怖に泣きながら、歪でぐちゃぐちゃだったけど、最後の瞬間まで胸に抱えていた願いだった。

「おれ、アイツにもう一度会いたかったんだ。会って、怒って、ごめんと、ありがとうって言いたかったんだ……」
「……言わなくても、伝わってるさ」

 涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながら芝生に転がったルフィの隣に腰を下ろした。
 鼻をすすりしゃくり上げる声を聞きながら、ふと思いついた事がある。

「もし、覚えてるのが苦しいなら、忘れたっていいんだぞ」

 本当に深い意味もなく零れた言葉だったが、隣からじっとりとした視線が刺さるから、間違えたなぁと空を仰いだ。絶対怒った。顔が見れない。

「……そういう奴だよなお前は。そんなとこも全部、忘れてやらねぇ」
「……あっそ」

 こちらに背を向けて拗ねるルフィの髪を風が優しく揺らす。東の空は少しずつ濃紺から薄紫に色を変えつつあった。

「ーーそろそろ行くよ」

 立ち上がり、水盆の前に立つ。ようやく泣き止んだ青年は気まずそうに頬を掻いて、パン、と両手を合わせ頭を下げた。

「ごめんな、いっぱいしんどい思いさせちまった」
「それはほんとにな!死ぬ体験なんて一度でいいっつーの!」

 拳で軽く相手の胸を叩く。降りかかった厄介事への仕返しと、もう二度とこんなことするなと念をこめて。
 ただでさえ異世界トリップなんてとんでも体験をしているといのに、毎夜殺される夢を見て挙句に別世界に連れて来られるなんてもうゴリゴリだ。まあ、彼らの憂いを断つ手伝いができたのなら、今回だけ良しとしなくもないけど。
 水面に指をつける。ひんやりとした水と少しざらついた鏡に触れると自分の体がほんのりと光を発し始めた。空気に溶けるように透けて薄らいでいく。

「元気でな」
「ルフィも。皆によろしく言っといてくれ」

 もうすぐ夜が明ける。


「あああああクソ!!ふざけんなーーー!!!」

 目を開けば見慣れた船でした。なんて想像はあっさり裏切られ、眼前に広がるのはどこまでも続く暗闇。前も後ろもわからず、どの方向に行けばいいのかもわからない。地に足が着いていることだけがわかる、真っ暗な世界だが、こちらを見る無数の視線は感じ取ることができた。
 そうこうしているうちに手を、足を、肩を、服の裾を掴む手の感触を察して、振り払うためにとにかく走り回っている。

「なんなんだよ気色悪い!!船はどっちだー!!!」

 ここまできて帰れませんでした、なんて洒落にならない。手がかりもないまま体力を消耗するのはよくないとわかっているが、この手、引っ張る力がまあまあ強いのだ。しかも時間を追うごとにうっすらと声まで聞こえるようになって、それがどれも聞き覚えのあるものばかりだからタチが悪い。
 耳を塞いで掻き消すように叫ぶオレを黙らせたいのか、群がる手のひとつが口を覆った。次いで足首を掴んだ手に引っ掛かって思いっきり地面に転がってしまう。好機とみたのかどこかへ連れて行こうとする手に引きづられていく。抵抗させまいと両手も掴まれたものの、それぞれの目的地が違うのか別の方向へ引こうとするせいでさながら大岡開きの様相だった。文字通り手も足も出ない状況で体に走る痛みに耐えていると、目の前でチリ、と光が爆ぜる。
瞬間、燃え上がる炎に周囲一帯が照らされた。

「まったく、お前も世話が焼けるな」

 火と相性が悪いのか、無数の腕がわらわらと離れてゆく間に炎が人の姿をかたどっていく。テンガロンハットを片手で抑え、少し呆れを含んだ声を発した男。その顔にはそばかすが散り、口元は不敵な笑みを浮かべていた。

「――あ、」
「なかなか帰ってこねぇから様子を見にきたら、これだ。類は友を呼ぶってやつか?ルフィもお前もどうしてこう厄介事に巻き込まれるんだろうな」
「な、なんで」
「悪いが、ゆっくりお喋りしてる時間はねぇ。帰り道はあっちだ。振り返らず、まっすぐ行けよ」
「……ありがとう。またな」

 男が指し示した方へ駆け出した。話したいことはあったけれど、自分よりもっと言いたいことのある奴らがいるに違いない。抜け駆けするのも悪いだろう。零れそうになる涙を拭って、足を動かした。
 現世や冥府、異世。あらゆる世界の境界にあたる場所で、青年は遠ざかっていく足音を見送って暗闇に向き合った。
 メラメラの実は現世で新たに発見された。だが、多くの人々に、世界にどのように認識されているかによって、死者は振るえる力も、姿形も、性別すら変化することがある。
 火拳の肩書きを持つ男は、生前と同じくその輪郭をゆらめかせ、手のひらから火炎を放った。

「さて。諦めの悪い連中にゃ、お引き取り願おう」


 言われた方向に向かってるはずなのにどこにも辿り着かない。背後から照らす炎も見えなくなるくらい走ってきたというのに。
肺が破れそうに痛い。足が持ち上がらなくなってついに立ち止まってしまった。
 どこかに連れて行こうとする手も、旧友も誰もいない。自分の息遣いと心臓の音以外、物音ひとつ無い静寂と自分の手すら見えない真っ暗な世界。先程まで感じていた希望はすっかり萎びて、このままずっとここに独りなんじゃないかと、嫌な想像が体を蝕んでいく。
 どうすればいい。本当にこのまま進んでいけば帰れるのか。気付かないうちに道を間違えたのかもしれない。は、と深呼吸をして、暗闇に目を凝らした。すると黒々とした視界の中に仄かな光があった。見間違いとすら思えるような、小さくぼんやりとしたそれに向かってゆっくりと足を動かす。瞬きのうちに消えてしまいそうなか細い灯りを縋る思いで見つめながら歩みを進めると、少しづつその輪郭があらわになっていった。
 ほんのりと光を発していたのは一本の腕だった。先程まで纏わりついてきたものとは違い、動くことなく、ただ手のひらを広げている。

「……」

 罠かもしれない、と思わなくもなかった。けれど言いようもない安堵が胸に溢れて。こちらを待つように差し伸ばされる手を、今度は自分から掴んだ。
 それをきっかけに、眩いばかりの光が満ちて世界が白んでいった。


 目を開くと、木目の天井があった。消毒液の匂いがするのでおそらくは医務室にいるのだろう。体を起こそうとしたがうまく力が入らない。まるで長いこと動かしてなかったみたいに、関節がみしみしと音を立てている。
 体感では半日くらいだったが、もしや結構時間が経っているのでは……?
 起き上がることを諦めたところで左手が暖かいことに気付いた。
 ブリキみたいに固まった首をどうにか動かしてみると、ベッドに突っ伏して眠る頭があった。視線を下げると、相手が自分の手を包むように握っているのが見えた。
 相手を起こさないように引き抜いて、あちこちに跳ねた髪を手櫛で撫でてみると、男が小さく反応した。
 がばりと勢いよく頭を持ち上げた幼馴染は目を見開いてこちらを見ている。

「起きたのか」
「……お、はよ」

 普通に話しかけたつもりが、喉もガラガラで掠れていて酷い声だった。まじで何日経ってる?もうラフテル行っちゃったとかない?大丈夫?

「ルフィ。いまって何日」
「お前、あんま、心配かけんなよ」

 俯いて表情が窺えないルフィは唸るようにそう言ってオレの上にのしかかってきた。いつもより重く感じるのは体力が落ちてるからだろう。苦しいから早く退いてほしい。

「お前、全然起きねぇし。心臓止まりかけるし」
「まじで?」

 思ってたよりだいぶ命の危機だったらしい。ちょっと並行世界にトリップしてましたって気楽に捉えてたけど、つまるところ臨死体験だったんだな。あのバカ、とんでもねぇことしやがって。
 ああ、仮死状態だったから体がこんな硬くなってるのか、経験がないからわからん。

「ずっと待ってた」
「ごめ、ん」

 まあ発端は並行世界のお前なんだけどな、と思わないでもないが。オレは悪くない。でも心配かけてごめん。あと、ずっと気になってるんだけどオレが倒れてからどれくらい経ってるかそろそろ教えてほしい。

「なぁ、オレってどれくらい寝て、」
「チョッパー!!ナマエが起きたーー!!!」

 聞けよ人の話を。
 オレの上に突っ伏したまま、ルフィの大音声で駆けつけた船医から、オレが風呂でぶっ倒れてた事、それから5日昏睡状態だったことを教えられた。さらには他の仲間達からそれぞれ「心配かけさせやがって」とお叱りを受け、泣きつかれ、圧をかけられ。そして、落ちた体力を取り戻すために地獄のリハビリが始まるのであった。
 医者と剣士のスパルタに泣きを見ることになるのはまだ先の話。


※遺体の行方

 赤髪の男は膝を付き、震える指先で眼前に転がる青年の頬を撫でた。
 ああ、こんなに冷え切ってしまって。風邪を引いたらどうするんだ。
 温めてやらねばと抱き上げた身体は奇妙なほど軽い。
 青年は腰から下がなくなっていた。
 視線を巡らせれば、少し離れた場所に足が落ちている。拾い上げようと腕を伸ばした拍子に青年の炭化した腕がぼろりと崩れ落ちた。硬く凍り付いた地面に当たってさらに細かく、塵になっていく。
 消えてしまう。はやく集めないと。
 おれの最愛がいなくなってしまう。

「だめだ。おれはずっと待ってたんだ。あと少しだったはずなのに。こんな、こんなのってないだろ」


※他の世界では

ある時は大渦に巻き込まれ、樽に幼馴染を押し込んで、小舟と共に波間の影に消えた。
ある時は流れ弾が急所を貫通した。
ある時は雪崩に巻き込まれた。
ある時は瓦礫に押しつぶされた。
ある時は斬り裂かれた。
ある時は空へ向かう船から落ち、海に叩きつけられた。
ある時は炎に巻かれた。
ある時は人攫いに遭った。
ある時は病に罹った。
ある時は毒に侵された。
ある時は幼馴染となる少年と出会う前に飢えと怪我に耐えられず。

そうして、生き残っているのは一人だけ。