愛と呼ぶには重すぎる

灼熱の太陽と熱せられた地面に黒いスーツなんて自殺行為もいいところだが、不可抗力なんだからどうしようもない。
トンネルを抜けると雪国ならぬ玄関を出たら砂漠。ぽかんと口を開けて立ちすくんでいる間に握りしめていたドアノブの感触が消え、振り返った時にはドアも部屋もなくなっていた。
悪い夢なら醒めてほしい。これから面接なんだよ。砂まみれなんだけど。
ぐちぐちと湧き上がる不安や不満も照りつける日差しに次第に萎びていった。
当然のように電話もメールも繋がらない。知らない場所に身一つで放り出されることがこんなに不安だなんて。頼れる人どころか、周囲には人も建物の影すらない。
耳鳴りがする。頭は締め付けられるような痛みを訴えてくる。怖い。どうしよう。どうして。
現状を打破する方法どころか、もう思考もままならない。意味のない単語がぐるぐると頭の中を巡る。
――ああ、あの子たちもこんな気持ちだったのだろうか。だとしたらさぞ怖かったろう。

朦朧とする意識で、走馬灯の代わりに何年か前に出会った子どもたちのことを思い出した。突然現れて唐突に消えた彼らは今どうしているのだろう。せめてもう一度会って無事を確認したかったんだが、その前にオレはお陀仏のようだ。
きゅう、と狭まっていく視界の中に陽炎に揺らめく黒い影を見たような気がして、そこから先は覚えていない。

訳がわからないまま人生の幕を下ろしたと思いきや、今のオレは清潔なシャツとベストに袖を通してある会社で働いている。元より転職活動中だったのだが、まさか異世界で働く事になるとは思わなかった。
行き倒れていたところを助けてくれた上に住み込みで仕事まで与えてくれた親切な人にお礼を伝えると、英雄を演じるためのパフォーマンスだと吐き捨てられた。
命の恩人が悪い人だった場合、これは助かったと言えるのだろうか。今のところ臓器売れとか薬運べとか明らかに危ない事はさせられていないのでセーフということにしている。

与えられた仕事の内容は恩人さんの身の回りの世話をすること。
曰く、戦う能力も小賢しく回る頭もない人間の方が切り捨てやすいとか。それが物理的な意味を持っていることはすぐに想像がついた。良からぬことをする素振りを見せただけできっと右腕で鈍く光るデカいフックでざっくりやられるんだろう。本人を前にして言ってしまうあたり相当な実力者なのか、ちょっと迂闊な人なのか判断に困るところだ。逃げ出したい気持ちはあったが、かといって見知らぬ土地で他に行くあてもなく、元いた場所に帰る方法なんて見当もつかない。また行き倒れるかホームレスになるのが目に見えている。それに、広くはないが与えられた部屋は綺麗だし服も食事も支給されるのだ。恩人さんは多分おそらくかなり悪い事を企んでいるんだろうけど、この好条件の前では屈するしかない。

この世界が漫画の中だということに気付いたのは買い出しの時だ。
街の人との会話の中に出てきた王下七武海やアラバスタといった単語は、俺がいた場所にあった漫画やアニメで見聞きしたことのあるもので。うっすらとした記憶なので時系列や細かい部分はわからないが、自分の雇い主が主人公の敵だったことも思い出した。たしかアラバスタを乗っ取ろうとしたけど王女と麦わらの一味に倒されるみたいな、そんな感じだった気がする。あれだけ特徴のある容姿をしているのに一目でわからない程度の記憶力。いやでもまさかフィクションの登場人物と対面するなんて思わないじゃないか。

俺を拾った男ことサー・クロコダイルは、最近バロック・ワークスという会社を立ち上げたばかりなので、主人公達がこの国にやってくるのはまだ先だと思われる。何を目的にしていたのかまでは覚えてないし、聞いたところで教えてくれるとも思えないが、悪事には違いない。その企みを阻止しようだとか、誰かに密告しようと思うほど俺は正義感が強くなく、また行動力もなかった。あの人悪い事をしようとしてますよ、なんて言ったところでそんな曖昧で根拠もない言葉を誰が信じてくれるだろう。国盗りを画策していることは知っていても具体的な計画を知らなければ、証明する手立てもない。いつか主人公の海賊団やこの国のお姫様が解決するのだから、自分の事で精一杯な男が何かすることもないよな。
そうやって自分に言い訳をして、解放される日まで苦しむたくさんの人々から目を逸らしていることを自覚しながら、俺は今日も与えられた仕事をこなしている。

***

「失礼します。おはようございます、オーナー」

毎朝決まった時間に重厚な扉をノックし、少し待ってからカートを押して室内に入る。 返事がないのはいつものことだが、仕事を与えられてからしばらくはどのくらい時間を置いて入室すればいいか感覚をつかむのに苦労した。
雇い主は朝食を自室で摂るのでコックが作った食事を運ぶのが毎日1番最初にする仕事である。部屋に入ればクロコダイルは既にベッドの上で体を起こしていた。寝起きで頭が回っていないのかぼんやりとしている姿を横目にテーブルに朝食と新聞を並べていく。
コーヒーの香りで少し覚醒してきたのか、床に足を下ろしてこちらに向かってくるタイミングで椅子を引いて席に着くのを待った。
着席を確認したらカートに乗せていた小皿を手に取り、クロコダイルの前に置いたそれと同じスープを口に含む。今日も絶品だ。俺の体に異変がないのを確認すると、オーナーはカトラリーに手を伸ばした。
警戒心の強い人なので、自分の見ている前で毒味をさせないと気が済まないのだと使用人の先輩に教えられて、その先輩がいなくなってからは俺がその役目を引き継いでいる。なんでいなくなったかは言わずもがな、次消えるなら俺だろう。一度血を吐いてぶっ倒れた時は終わったと思ったが、社長の気まぐれで手当てされて命を拾ったのでこの人には救われてばかりだ。いつもは最低限の関わりしかないのに、喉をやられてしばらく声が出せなかった俺をからかうのが楽しかったのか、ちょいちょい医務室に顔を出してきたっけ。イエスノーで答えられないような質問ばかりされるのでメモにペンを走らせる俺をニヤニヤと眺めてきて居心地が悪かった。常駐してた医者も萎縮してた。後遺症もなく回復できたので名医だったろうに、いつの間にかあの人もいなくなっていたな。離職率の高い職場だ。

ベッドシーツを取り替えたり、クローゼットから選んだ服一式を取り出してやたらおしゃれなハンガーラックに引っ掛けている間に社長は食事を終えていた。早食いというわけではなく、朝は少食なので料理の量が少ない。コーヒーの入ったカップを手に、フックに新聞を引っ掛けて器用に読んでいるのを邪魔しないように皿を下げて退室した。

雇い主と使用人という間柄、必要な会話を最小限交わすくらいの距離感はちょうどいい。海賊だけど機嫌が悪いからと殴ったり蔑んだり痛めつけるのが趣味な人ではないのでヘマをしない限り何かされることもない。飲みニケーションとか体育会系のノリは肌に合わないのでお互い不必要な干渉はしないというところもこの仕事の良いところだと思う。今は何より安定を求めているから願わくばこんな日々が続けばよかったんだけど、何事にも終わりはある。

王女の声が広場に響き、人々は武器を降ろして空を仰ぎ歓声を上げている。
クロコダイルは敗北して、俺の職場は無くなった。
悪事に直接関わっていないとはいえ、連帯責任と言われたら言い返せない。逮捕されるのは嫌だったのでどさぐさに紛れて商船に乗り込みアラバスタを出た。

***

「新世界へ入る前に、拾っていくものがある」

先程まで浮かべていた笑みから億劫そうに表情を歪めてクロコダイルが呟いた。いかにも面倒だと態度に出しながら、しかし普段より少し早い足取りに有能な殺し屋は気付いている。

面倒な人に好かれたもんだな、あの使用人も。

***

ガキの頃に奇妙な体験をした。
いつものように盗みを働いて追いかけてくる連中を撒くために駆け込んだ路地裏。住人もいないあばら屋のドアを押し開けて体を滑り込ませれば、見たことのない場所に出た。
狭いが埃もカビの匂いもしない明るい室内に虚を突かれたが、目の前にいる人間に咄嗟に拳を振り上げると慌てたように両手を上げて待ったをかける男は見るからにひ弱そうで。
ミョウジナマエと馬鹿正直に名乗った男にクロとだけ伝えた。信用できない相手に例え名前であろうと情報を与えてやる気はない。

行く当てがないとわかるやケイサツに行こう、という男に持っていたナイフを突きつけた。ケイサツが何かはわからないが、おそらく海軍のような組織なのだろう。保護してもらおうなどと宣うが、そんな見え透いた罠にかかってやるつもりはない。捕まってたまるか。
余計なことをしたら殺すと首筋に切っ先を押し付ければ、何を思ったのか今度は衣食住を提供すると言う。

「毒でも盛ろうって腹か」
「しないよそんなこと……そもそも毒物なんて持ってないし」

その気になればいつでも殺せる。だから使えるだけ使って、絞れるだけ絞って捨ててやろう。バカな奴だ。せいぜい腰を低くしておれに尽くして死ね。
その日からサイズの合う清潔な服を与えられ、暖かい食事を食べて、柔らかなベッドで眠る日々が始まった。
初めはおれが脅したから、危害を恐れてこんなことをしているのだと思った。なのにこれまで見てきた人間のような怯えや恐怖や下心といった感情はそいつからは読み取れない。
シャワーの使い方がわからないかもと言って一緒に風呂に入った時には、コックを捻るだけで温かな湯が出てくることに驚いている間に頭を洗われて、はじめて温かな湯船に浸かった。
頼みもしないのに余計なお世話だ。いらぬお節介だ。ありがた迷惑だ。
使い潰して殺してやろうと思っていたのに、そんな言葉が口をついて出る。自ら与えてくるのだから利用すればいいとわかっているのに、享受してしまえば引き返せなくなる予感があった。心地よいと思ってしまうことが怖かった。
それでも、いらないと突っぱねても遠慮するなと笑って毎日飽きもせず必要以上に構ってくる。

「洗濯物取り込んでやったぞ」
「マジ?!急に降ってきたから絶対濡れたと思ってた!助かるー!ありがとう!」

慌てたように帰宅した男は笑顔で礼を言ってくる。たいしたことをしたわけでもない。おれの服が濡れるのは不快だから回収しただけだ。

「今日はなにか食べたいものあるか?」
「……なんでもいい」
「それ一番困るやつ」

裕福でもないのに市場に向かえば欲しいものはあるかと聞いてくるせいで必ずひとつ菓子を選ぶのが恒例になった。

むず痒い。だが嫌ではない。

出会って数ヶ月経ち、はじめて名前を呼んでやれば、それだけで嬉しそうに笑うこの男との生活は思いのほか悪くなかった。
もう少ししたら、本名を教えてやろう。あの唇がおれの名前を呼ぶのを想像するだけで胸がぎゅうと締め付けられるような気持ちになる。もう少し大きくなったらおれも外で働いて、こいつと暮らしていくのも良いかもしれない。
殺してやろうなんて考えは、もうすっかりなくなっている。
こんな日が続くのだと信じていた。

翌日、激しい夕立に駅まで傘を持っていってやろうと玄関を出たら、あのあばら屋にいた。
夢のようなあの日々は本当に夢だったのかもしれない。それくらいあっけなく終わってしまった。

与えるだけ与えておいて、おれに幸せを教えておいて、今更何もかもなかったことにするのか。
生ぬるい生活で鈍ってしまったのかあんなに簡単だった盗みもままならない。殴られて打ち捨てられた路地裏で雨に打たれる体の内側ではぐちゃぐちゃになった感情が渦巻いていた。
ふざけるな。どうして。許せない。裏切り者。会いたい。どこにいるんだ。
――必ず見つけ出してやる。


だから探した。
あばら家にいても一向にあの部屋に繋がる気配はなく。各地を転々としながらナマエの姿を追い求めた。ロジャーが処刑されてからは海賊として海に出た。成長するにつれ、未知の物に溢れていたあの場所は異世界だったのかもしれないと思い至り、そうなると次は神隠しや異界と繋がる場所について調べた。それでもナマエに繋がる手がかりは見つからない。
気付けば30年もの月日が経っていて、それでも諦めきれずにいる。かつて胸に芽吹いた種は捻じれに捻じれ歪な姿に成り果てた。声も顔もあの男にまつわる記憶が朧げになってもまだ捨てられない。

そうして運命の日は訪れた。
砂の海の中、虫の息で横たわるそれに言い知れぬ感情が湧き上がる。ようやく見つけたと歓喜し、何を今更と憎悪した。きっとはじめは寂しさや恋しさだったのだろうが、もはやその程度では生ぬるい。
相反する感情すら糧にくべて育ったそれは昏い花を咲かせてこの身の隅々まで蔦を伸ばしていく。
随分と長い時間が経っているはずなのに、抱き上げたナマエは掠れた記憶の中の姿とそう変わらない。やはり時間の流れが異なる世界と繋がっていたのだろうと思ったが、それだけだった。これが軍やジェルマの科学者ならば解剖して研究して自らの発展のために利用しようとするのだろう。

今や自分より小さな男の頬を撫でる。顔を横断する傷痕を歪ませてクロコダイルは笑みを深めた。
そばにいればそれでいい。
王国を乗っ取り、古代兵器を手に入れようと目論む海賊の願いはそんなささやかなものだった。

***

いくつかの船を乗り継いで行き着いたのは穏やかな秋島だった。酒造が盛んな港町は町の名産である酒を求めて様々な人が訪れる。酔っ払いも多いので治安が良いといえるかは微妙な場所だが、島の中心にある大きな紅葉の木が気に入ってここに住むことに決めた。
新しい職場はレストランでの給仕だ。前職に比べると給料は低くなったがなんとか生活はできているし、まっとうな仕事に就けたのだから文句はない。日用品もようやく揃ってきたし、来月は少し奮発してケーキでも買おうかな。栗やカボチャを使った甘味も人気でどこかの海賊も好んでいると島の人も言っていた。街中のパティスリーに並ぶモンブランやタルトは見ているだけでも楽しいが、やっぱり味覚でも味わいたい。
自分へのご褒美に思いを馳せながら入店を知らせるベルの音に入り口に体を向けると、穏やかな土地に似つかわしくない重く暗い雰囲気を纏った大男がいた。簡潔にいえば前の職場の上司。気まずさに冷や汗が滲む。トレーを持つ手に自然と力がこもった。インペルダウンからマリンフォードの件は新聞で見て知っている。知っている名前がいくつか載っていたそれを捨てるのは勿体ないという野次馬のような気持ちで部屋に置かれたままだ。あの人のことだからまたどこかで海賊してるんだろうなと思っていたが、まさかまた会うことになろうとは。

「よお。元気そうで何よりだ、ミョウジ」
「は、い。おかげさまで。お久しぶりです、オーナー」

圧倒するようなオーラを発しているのか、賑やかだった店内は水を打ったように静まり返っている。クロコダイルは完全にこの場を支配していた。元七武海の、と客の囁く声がそこかしこで聞こえ恐怖がさざ波のように広がっていく。やっぱり世界的に恐れられる人なんだな。入口近くにいた同期の従業員が極力気配を消して厨房の方へ移動していくのを見ていると、こっち見んなと言わんばかりの顔で手を払うジェスチャーをされた。巻き込まれたくないという気持ちがありありと出ている。俺が彼の立場でも同じ気持ちだろうから薄情とは思わなかった。いきなり死の気配と対面したら誰だって逃げる。

「これから新世界へ行く。お前も来い」
「えっ、」
「あぁ?」

当然頷くものだと思っていたのか、クロコダイルが眉を寄せた。それだけで室内の緊張が高まる。いいからYesと言っとけやと満場一致の無言の圧力が圧し掛かって肩身が狭い。でも、おそらく俺の人生が決まる選択をそう簡単に頷けない。

「何か問題があるのか?この店を離れられない理由でも?」

す、と目の前の男が視線を流した先には店長がいた。
いえいえそんな滅相もない!どうぞお連れください!
上ずった声で青ざめながら首を振る姿は普段の横柄な態度とはかけ離れていて、新人だからといびられていた身としては少し溜飲が下がった。狙い定めたように睨むクロコダイルにこのままでは店長が泡吹いて倒れそうだと口を開く。

「一緒にいてもあなたのお役に立つのかな、と。自分には戦う力も戦略を練る頭もありませんので」

かつてはその無能を評価されて雇われたが、今の彼に必要なのは有能な部下だろう。それこそ今クロコダイルの後ろに控えるMr.1のような。俺では到底務まるとも思えない。役不足が過ぎる。

「……それを決めるのはてめぇじゃねえ。おれが来いと言ったんだ。お前はただ黙ってついてくりゃあいい」

必要なことを端的に話すクロコダイルらしくない、なんともはっきりしない物言いだった。
思い通りにならないが、説得する材料が浮かばす駄々をこねる子どもような。スーパーのお菓子コーナーで泣き喚き地団駄を踏む子どもが脳裏をよぎる。微笑ましいなと思う俺の隣で不愉快そうに顔を顰めていた少年がいたっけ。同じ年くらいなのにその子は随分大人びていたように思う。
たった数百円の価値しかないそれが何より欲しいと真っ赤な顔に大粒の涙を流して訴えていた見知らぬ子どもと眼前の大男が重なってしまうともう駄目だった。恐怖の代名詞みたいなこの人をかわいいと思ってしまうなんてどうかしている。
それでも素直に頷きたくなってしまった。

「わかりました。お供します」
「手間かけさせやがって」

用は済んだと踵を返すクロコダイルを追いかけようとして足を止める。仕事中だったから制服のままだ。シャツとベストにスラックスというウェイターの格好に、私服へ着替えようかと逡巡したが、いいから早く行けと扉を指さす店長にまあいいかとそのまま店を出た。借りた部屋も私物も全部引き払われて捨てられてしまうだろう。幸い貴重品は手元にあるし、褒められた手段ではないがこれからはきっと今より沢山金品が手に入るはずだから必要なものはまた買えばいい。

まるでこの世界にやってきた時みたいだ。
あの砂漠を思い出して、けれどあの時よりも晴れやかな気持ちでミョウジは足を踏み出した。