ぎいぎいと緩やかに揺れる船がまるで揺り籠のようで眠気を誘う。くあ、と漏れるあくびを噛み殺して部下達が提出してきた書類に目を通していると、コンコンと扉がノックされた。この部屋に来る人間は限られている。特に、こんな夜更けにやってくる人間は一人しかいない。
「どうぞ」
そう言葉にするのと同時に部屋の扉が開いた。ノックの意味を成してないのはいつものことだ。
「進捗はどうだ?」
にまりと悪戯っ子のような笑顔で部屋に入ってきたサボの手には、芳しい香りを漂わせるコーヒーと菓子を乗せた盆があった。深夜の書類仕事で眠気に負けそうになると、だいたいサボがコーヒー片手にやってくるのは何故だろう。タイミング良すぎないか。
「ぼちぼちかな」
「そりゃあいい」
広げっぱなしの書類を適当にどかして盆を置き、俺の向かい側へ移動させた椅子に座ったサボは夜中ということもあり、シャツとズボンというラフな格好だ。普段着ているコートや帽子がないからか実年齢より幼く感じる。そう言ったら拗ねるから本人には言わないけど。
カップに手を伸ばして芳醇な香りを吸い込めば寝ぼけた頭が冴えてくる気がする。サボの登場で元々消えそうだった集中力が完全に切れたことだし、少し休憩しよう。無視して働いていてもちょっかいを出されて気が散るのは経験済みだ。
「前から思ってたんだが、お前は少し働きすぎじゃないか?」
「働いてないと落ち着かないんだよ」
「うげ、ワーカホリックかよ…そのうちまた倒れるぞ」
目の下にこんな隈作って、とまるでどっちが年上かわからないやり取りもいつものことだった。お節介焼きというかなんというか。ほっといてくれ、と言ってもなんだかんだと理由を付けては世話を焼いてくるのは元々の性格なのか。それとも、過去に盃を交わした兄弟との思い出が、無意識に行動に影響を与えているのか。
「はいはい。それより、お前は何か思い出せたのか?」
「いや、今回も収穫なしだ」
部屋に入ってきた時とは一転して、少し寂しそうな、残念そうな顔をするから、「まあそのうち思い出すさ」と頭を撫でてやる。
「元いた場所には帰りたくない」と言って、なし崩し的に革命軍入りしたサボだが、だからといって何の記憶もないというのは不安になるらしい。少しでも自分自身や故郷についての情報が掴めるならと、任務のついでにあちこち飛び回っている。ゴア王国についての情報も手に入れたが、どうも自分の出身国であるという実感は薄いらしく、記憶を取り戻すきっかけにはなり得ていない。
「もうガキじゃないんだから」と言いながら撫でる手を振り払わないから、気の済むまでわしゃわしゃと撫で繰り回してやった。慰めでも気休めでもなく、彼がいずれ記憶を取り戻すのは事実だ。俺はそれを知っている。悪魔の実のような特殊な能力ではなく、漫画という紙媒体から得た知識として。
俺はこの世界の住人ではない、所謂トリップした人間だった。
いつも通り通勤していたはずなのに何故か見知らぬ街に辿り着いていたなんて、にわかに信じがたい話だから誰にも話していない。電波もないから知り合いにも会社にも連絡がつかず、日本とは文字も通貨も文化も、何もかも違う環境に途方に暮れていたところをドラゴンさんに拾われた。彼の保護下でどうにか帰る方法がないかと調べ、胡散臭い儀式を試したり、人が消えたというオカルトスポットがあれば現地に向かったりとあらゆる手を尽くしたが、結果はこの通り。今や革命軍の古参と位置づけられる程年月が流れてしまった。船から冬の海にダイブしたのを最後に、俺は帰ることを諦めた。世の中どうにもならないことがある。ベッドの上で目を覚まし、サボを含む組織の人達にしこたま怒られて、俺はこの世界に骨を埋める覚悟を決めた。帰る場所は向こうの世界ではなく、革命軍だと決めた。長年世話になっているし、世界革命なんて思想は持ってないけど、ドラゴンさん達には恩があるからできるだけ役に立てればいいと思っている。
そんな俺にとってサボは弟のような存在だった。ドラゴンさんやイワさんの周りをうろちょろして戦い方や知識を吸収し、コアラと喧嘩をしたり遊んだりしている様子は微笑ましかった。俺にはオカルトスポット巡りの時に行った街の話をせがんできた。ただ彼が声変わりする頃に海にダイブしたせいか、思春期にトラウマを植え付けてしまって、俺に対し多少過保護気味になってしまったのは申し訳なく思っている。ごめんて、あの時は死ねば帰れると思ってたんだ。もうやらないからと言っても聞く耳を持ってくれないから今では諦めて好きにさせている。
俺のせいで乱れた髪を手櫛で整えたサボは書類の下敷きになっていたファイルを引っばりだした。世界中の主要な海賊たちの手配書をファイリングしてあるそれには、当然白ひげ海賊団の手配書や麦わらの一味の手配書もあった。
「麦わらたちの懸賞金、また上がったな」
「そうだな。エニエス・ロビーを落とすなんて命知らずにも程がある」
「違いない。でも、こいつらのこと割と気に入ってるんだ。こいつはこれからもっと大物になるぞ。おれの勘がそう言ってる」
海賊らしからぬ天真爛漫な笑顔で写るルフィの手配書を眺めながらそう言って笑うサボに、同情とも哀れみともなんとも形容し難い気持ちが湧いてくる。他の海賊の手配書もぱらぱらと捲っているが、火拳のエースについては今現在思うことはないのか特に何も言わなかった。今の彼の中では、エースもルフィも結局は"見ず知らずの海賊"の域を出ない。それが少し切ない。
サボたち義兄弟のことも、今後起こるであろう頂上戦争のことも俺は全部知ってる。知っていて、何もしないのは俺がどうこうできるような事柄じゃないからだ。彼に自分の知っている事を伝えたところで、それを証明する手立てもない。かつて、サボが家族より強い絆を結んだルフィとエースの手配書を見ても何の記憶を取り戻さないのだから、ただの同僚である俺の言葉が彼に影響を与えるとも思えない。
「なあサボ、もしも麦わらのルフィがお前の兄弟だったらどうする?」
「なんだよ急に。…でもそうだなあ、あんな破天荒な奴が弟だったら手を焼きそうだよな。一緒にいると退屈しなさそうだ」
今まで麦わらの海賊団が行ってきた数々の戦いを想像してか、楽しそうに思いを巡らせるサボはいつもと変わらない。お前ら義兄弟なんだよ、と言ってしまえたらいいのに。俺にできることなんて何もない、それが少し悔しい。
エースという、彼がこの世界で最も大切にしていた人のうち1人の死によって、サボの記憶は蘇る。なんて皮肉な運命なんだろう。