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アラームが喚くように鳴るのを寝ぼけた頭と手を動かして停止する。二度寝の誘惑にどうにか打ち勝って、あくびをしながらリビングに顔を出せば台所で母が朝食の支度をしていた。その背中におはようと声を掛けると、包丁を使っているのか振り返ることはないが声は返ってきた。

「急がないと学校遅刻するわよ」
「会社の間違いだろ、オレもう26だよ」
「何言ってんの、今日はハリネズミの世話当番でしょ」
「……え?」

ハリネズミ?学校でそんなの飼ってたっけ?いや、違う、オレはもうとっくに学校は卒業して…

「まだ寝ぼけてるんじゃない?先に顔洗ってきたら」

呆れたような声でこちらに振り向いた母の顔がぼやけていく。あれ。あれ、母さんってどんな顔してたっけ。明るい茶髪と黒髪のどっちがオレの母さんだったっけ。思い出せない。思い出せない。そのうち母親であるはずの女性の髪が、体の輪郭が解けて、テーブルや椅子の形がぐにゃぐにゃと歪んでいく。女性の声が耳を打つように反響して何を言っているのか聞き取れない。
ここはどこだ。オレの帰る場所は、オレの居場所はどこだ。
そのうち床がひび割れて、蟻地獄のように自分の足元を中心に沈んでいく。吸い込まれるように落ちて、家も家族も全部飲み込まれて、真っ暗になった。

「あー……またこの夢か………」

ベッドに横たわったまま枕元に置いたスマホを手探りで掴み液晶画面を見れば、起きるにはまだ早い時間だった。目はすっかり冴えてしまっているし、二度寝したとして、またあの悪夢の続きを見るかもしれないと思うと眠る気も失せる。
夢の名残りのようにじっとりかいた寝汗がとにかく鬱陶しかったのでシャワーを浴びて制服に着替えた。
ハーツラビュル寮はハートの女王の精神に基づくだけあって、内装も赤を基調にしている。ハートをモチーフにしたドレッサーや天蓋付きのベッドは3年使っていてもまだ慣れない。特にベッド。天蓋なんて今でもお伽話でお姫様が使うイメージしかないものだから、自分の部屋にあることになんとなく違和感がある。全体的にお上品なんだよな。陰キャには眩しいです。

「まあ、ここも夢みたいなもんだし」

なんたってゲームの世界ですから。

─────

部屋にいると気分が落ち込みそうなので寮のキッチンに顔を出せば先客がいた。いるだろうなとあたりをつけてきたので予想通りだ。制服にエプロン姿のクラスメイトは、おはようと声を掛ければわざわざ振り向いて笑顔を見せてくれる。朝から爽やかな奴だ。歯磨き粉のCMとか似合いそう。ぽけっとしているオレが寝ぼけてると思ったのかにこやかな顔はそのままに首をかしげられた。

「今日は早いな、何かあったか?」
「いんや、何も。なんか目が覚めちゃった。それ朝飯?」
「まあな、ホットケーキを作ろうと思って」

ボウルの中身を手際良くかき混ぜながら帰ってきた言葉に食欲がそそられる。あ〜、ベーコンと目玉焼き乗せて食いてえ。ホットケーキの舌になったわ。この欲求は食べないと治まらないのでもう食べるしかないですね。

「いいな、オレも食いたい。作るの手伝うから2人分焼いてもらえないかな?」
「勿論、少し分量を間違えてな。1人だと多いと思ってたから助かる」
「嘘だあ。お料理上手なトレイ・クローバーくんが計り間違いなんてするわけないじゃん」
「あはは、俺だってたまにはやらかすさ」

さっき計量器で粉の量を計っていたから多分最初から2人分作ろうとしてくれてたのかもしれない。気遣いのできる子…共学だったらさぞモテたろうな。この学園にも彼に想いを寄せる人の1人や2人や10人くらいいるかもしれん。

手を洗いながら横目でクローバーを見ると、何やらニコニコしている。いつも穏やかな人だが、今日は特にご機嫌らしい。サイエンス部で新しい実験でもするのかね。楽しそうで何よりです。部員のテンションがハイになった日のサ部からはたいてい爆発音が聞こえるので今日は部室あたりには近寄らないようにしよう。
フライパンでホットケーキを焼きはじめたクローバーの隣で、冷蔵庫から取り出したベーコンを切りレタスを手でちぎる。バターをフライパンで熱して溶かして、ベーコンをウインナーをこんがり焼き目がつくまで焼いて皿に盛る。同じように目玉焼きを半熟くらいまで焼いて。クローバーが盛りつけたホットケーキの上に乗せてレタスを添えたら完成。
移動するのが面倒なので、丸椅子を持ってきて作業台に並んで座った。朝から自炊する生徒はあまりいない、だいたいは食堂で朝食を摂るので厨房は静かだ。遠くから聞こえる生徒たちの声をBGMに取り留めのないことを話した。のんびりとした時間が過ぎていく。
なにもかも見慣れない世界でも、食べ物の名前や味は同じことにホッとする。以前屋台でたこ焼きを見つけた時は嬉しかった。監督生はたこ焼き好きかな。マジフト大会の時に屋台が出てたら案内したい。この世界と向こうの世界に共通点があるとわかれば少し肩の力を抜けるかもしれないし。
昨日食べられなかったタルトもいただいた。いつも通りとても美味しかったので素直に伝えるとイベントスチルみたいな微笑みを返されたのでちょっとビビった。これはもしや監督生が回収するイベントだったのでは……?

───

「……ヒント」
「テストではヒント出ないぞ」

うーんと唸って記憶の中を探ってみても、わからんということしかわからない。
授業が始まるまで教室で小テストに向けて問題を出し合わないかと誘われて、断る理由もなかったのでまだ人の少ない教室でテスト対策をしているのだがさっぱり奮わない。昔から理系は苦手だ。忌避感から余計にとっつきにくくなっている。この世界の歴史は意外と面白かったので前向きに取り組めるんだけどな。知ってる作品の悪役が偉人として語り継がれている理由に触れることができるのでこれまで授業で居眠りしたことはない。
問題は錬金術だ。薬草や薬品の名前を覚えるだけでも一苦労なのにそれを調合するとどうなるかなんてわかるわけがない。こりゃ赤点かな。すっかり投げ出して考えるフリになっているのを見抜いたクローバーは苦笑いしている。サイエンス部員なので錬金術は得意分野らしい。オレが出した問題にもすらすら答えていた。

「教えてクローバー先生……!」
「仕方ないな」

両手を合わせて助けを求めると、やれやれと大袈裟に肩をすくめたクローバー先生は教科書をペンで指して解説してくれた。面倒見がいい。しかもめっちゃわかりやすい。おかげさまでテストはギリギリ及第点でした。クローバーにはお礼に食堂で人気のティラミスを献上した。

───

選択科目で別れた後、クローバーが階段から落ちたらしい。
「足を挫いたんだと。あの様子じゃマジフト大会には出れないだろうな」と残念そうな顔をしたクラスメイトが教えてくれた。まず大会選手だったのも初耳なんだがまあそれはいい。出店以外あんま興味ないし。マジフトって金色の羽生えた玉追っかけたりする点取りゲームだっけ。玉じゃなくてディスク?へえ。
信じられないという顔をしたモブ顔の誰かを適当に誤魔化して別れた。別の作品の知識と混ざっちゃったかな。
クローバーには今日も助けてもらったしお見舞いに行くか悩んだけど、彼の人望から見舞いにいく人も多いだろう。ただのクラスメイトが出向いてもかえって迷惑かもしれないし、教室で見かけた時に声かけたらいいか。

「あ!ちょうどよかった!」

寮への道を歩いていると向かいからやってきたダイヤモンドに呼び止められた。普段あまり関わらない生徒にもにっこり笑って話しかけられるのすごいな、これがコミュ強。

「今急いでる?」
「いんや、暇だよ」
「よかった〜!これトレイくんに渡してほしいんだけど頼める?」

眉を下げてラッピングされた小さな包みを差し出すダイヤモンドに小さな疑問がわいた。

「寮から出てきたんだろ。部屋に行かなかったのか?」
「行ったんだけどね。お見舞いに来た監督生くん達と話してたら、どうもトレイくんの怪我が事故じゃないっぽくてさ。知り合いに聞き込みしようと思って急いで出てきたら渡しそびれちゃったんだ〜」

聞けば最近妙に怪我人が多いらしい。物騒な学園なので年中怪我人は出てるだろうが、彼らは共通してマジフト大会の選手なのだそうだ。ペロッ、これは本編かイベントの気配。関わりたくねえ。でもせっかくクローバーのために選んだ物なのに、代理を頼んだら渡す方も渡される方も嫌じゃないか?

「あとでまた行けばいいんじゃね?友達ならウザがられないでしょ」
「まあまあ。今日いつ戻れるかわかんないしさ!お願いだよ〜!」
「……まあ、いいけど」

圧に負けて受け取った包みを鞄にしまうとダイヤモンドは満足そうに頷いた。クローバーにはもうメッセージを送ってあるからそのまま渡せばいいらしい。それこそあとで渡すって伝えたらよかったのでは……?謎だ。日持ちしないものなのか?
よろしくね〜!と明るい声で去っていく背中を見送って、薔薇の香りのする方へ歩き出す。よくわからんが、ストーリーに関わるより届け物をする方が楽だろう。

副寮長にあてがわれた部屋の前でドアをノックして名前を言えば、何やら少し慌てた様子で家主が扉を開けてくれた。なるほど、やっぱり足の早い品だったらしい。それならと鞄から取り出した包みを差し出せば何やら様子がおかしい。

「お届け物でーす」
「……え、お前が?わざわざ来てくれたのか?」

ダイヤモンドー!!さてはあいつ、誰が届けにいくか伝えてなかったな!副寮長めちゃくちゃ狼狽えてるじゃん……気まずい……。寮長をパシらせるわけにもいかんか、でもクローバーともっと仲の良い後輩や友達に頼むと思ってたんだろうな。オレですみませんね。

「立たせてごめんな、安静にしてくれ……歩けるか?」
「ああ、いや……すまないが手伝ってくれないか?松葉杖使うの忘れてた……一人で歩くのは少し辛い……」
「ええ、マジかよ」

扉を支えにして立つ姿勢から肩に腕を回してもらってゆっくりとベッドまで連れて行く。とんだうっかりさんだな、どんだけ慌ててたんだ。
ベッドに腰を下ろしたクローバーは足以外に目立った怪我はなさそうだ。

「ありがとう」
「いや、急に来たオレが悪いよ。すぐ帰るから」

長居しても邪魔だろうからさっさと退室した。移動とかしばらく大変だろうから、何か困ってるとこを見かけたら手伝えるといいんだけど。それこそダイヤモンドとかローズハート寮長が手助けするだろうから余計なお世話かな。

───

「けーくんからのサプライズ!うまくいったかな〜?」

語尾にキラキラした絵文字がついたメッセージを確認して思わずため息がでた。ケイトのやつ、やってくれたな。お礼に今度何か甘くない料理を振る舞おう。ついでに俺が彼を好きだと見抜いたきっかけについても問い詰めたいし、味方になってくれるならありがたい。

あいつが訪ねてくるのは全く想定していなかった。副寮長が怪我をしたという事は生徒の誰かから聞くだろう。心配もしてくれるだろう。でも、彼はそれだけだ。わざわざ部屋に見舞いにくることはない。だって、あいつの中で自分はただの同級生なのだから。
俺だってクラスメイトが病気や怪我をしたと聞いて、その場では気にかけても部屋を訪ねて安否を確認しようなんて思わないだろう。だから、次に会えるのは教室だと思っていたのだ。
扉の向こうから聞こえた声に、柄にもなく飛び起きた。
にやけそうになる顔を引き締めて、いつも通りを装おうとして、結果、普段なら絶対にしないミスをしたりして。舞い上がってるなあと自嘲した。ケイトの企みで、彼は頼まれたから来たのだとわかっても嬉しい。肩を貸してくれた優しさが嬉しい。お大事に、と俺を気にかけて口にした言葉が、嬉しい。

喜びを噛み締めて、言われた通り安静にしようとベッドに潜り込んだ。

───

大会選手の怪我は本当に事件性があったらしい。急ぎ足の監督生にすれ違いざまにイベントか聞いたら「本編です本当にありがとうございましたチクショウ!」とヤケクソ気味に返された。お疲れさまです。今度なにか差し入れしよ。
ストーリーは途中まで把握してて、内容がわかるうちは原作に沿った行動をしますと言ってたのでひとます今は大丈夫なんだろう。犯人もわかっているようだ。負けるな監督生。遠くから応援してるぞ。余計な茶々を入れたり変な関わりを持って展開を変えたりするようなことがあったら悪いし!がんばれがんばれ!

迎えた大会当日、オレが出店でたこ焼きを食ってる間にサバナクローの寮長がオーバーブロットして大変だったとオンボロ寮で砂まみれの制服をはたく監督生の愚痴を聞くハメになった。