下っ端くん

 待ち合わせ場所といえば、と聞けばまず挙げられるモニュメントがある広場。
 帰宅ラッシュの時間にもなると、平日でも多くの人が友人や同僚と夜の街に繰り出すため、あるいは新しい出会いを求めて集まる。
 その広場の円形のベンチに浅く腰掛ける子どもがいた。少年と形容するのが正しいだろう。すらりと伸びた足のシルエットを浮かび上がらせるようなタイトデニムに、ゆったりとしたパーカーのフードをキャップの上から被り、俯き加減で値踏みするような視線を行き交う人々に向ける瞳は、獲物を狙う肉食獣を思わせる。静かに、しかしギラリと熱を孕んだそれに時折チラチラと様子を伺うような素振りを見せる大人もいた。それでも声をかけないのは、少年が纏う近寄りがたい雰囲気のせいだろう。はっきり見えるのは口元だけにもかかわらず、フードの隙間からさらりと溢れる髪を耳にかける指先や、たまに組みかえる足にどこか人を惹きつけるような色気があった。10人に聞けば10人が美しいと言うだろう。光に集まる蛾のように、ふらりと足を向ける大人は珍しくない。しかし少年と目が合うと、その猫のような瞳に見つめられると、大抵の人間は怯んで立ち去ってしまうのも、また珍しいことではない。

「やあ、また会ったね」

 高嶺の花のように一人で佇む少年に声をかけたのはスーツを着た男だった。仕事帰りなのか、ビジネスバッグを手に、少し疲れた顔には笑みを浮かべて親しげに近づく大人にパッと振り返った少年は、それまでのツンとすました表情から一転、花の咲くような笑顔で男を迎えた。

「神田さん、お仕事おつかれさま!もうすぐ11時だよ、また残業?」
「そうなんだよ。まったく、あの上司にも困ったもんだ」

 ベンチから立ち上がり、じゃれつくように男の腕を取った少年は内緒話をするように声を潜めて口を開いた。

「俺でよければ話聞くよ?」
「君は僕のお金で食べる食事が目的だろう?」
「あは、まあそうなんだけどね。俺はお腹が満たされて、神田さんはストレス吐き出して心が満たされる。お互いイイことしかないと思うんだけどなあ」
「そうだなあ……給料日だし、その言葉に乗せられてあげよう」
「そうこなくちゃ!ホテルいこ!」

 ぐいぐいと腕を引く子供に足をもつれさせないように小走りでついて行く大人。歳の離れた兄弟に見えなくもない2人だが、その足は歓楽街に向けられる。2人の関係はいわゆる援助交際と呼ばれるものだった。

───

 構成員の少年を秘密裏に保護したいので、身分を偽って接触し信頼を得ろ。
 風見が上司である降谷からそう命じられたのは3か月ほど前のことだ。それから彼の身辺調査や自身の経歴を偽装する手筈を整えることひと月。「少し頼りないサラリーマン」という設定で神田と名乗り、件の少年と初めて対面したのが2か月前。今回の接触で交流は3度目になる。

 調査の結果、彼は構成員としての報酬と援助交際で得た金銭で生活していることが分かっている。
 名前はミョウジナマエ。父親は事故死、母親はネグレクトの後に蒸発。妹が一人いるが、病気で入院中。両親は駆け落ちだったらしく親族との繋がりはない。降谷がバーボンとして子供と接触し入手した情報によれば、その妹の入院費用を稼ぐために春を売っていたところを、組織の人間と出会い構成員として所属したらしい。組織の人間になったといっても、仕事といえば運び屋のようなことをしているだけで暴力や殺人にはまだ関わっていない。ならば、今後取り返しのつかない犯罪に手を染める前にこちらで確保して彼の人生の軌道修正を図りたい、というのが降谷の意向である。彼の置かれている環境ならば情状酌量の余地もあるだろうと上層部も了承した。
 バーボンには、疑わしきは罰するがポリシーのトリガーハッピーがその少年を子飼いにしているので、彼を引き離すことで多少の意趣返しがしたいという気持ちもあったのだが、それは彼の心のうちに秘められている。何かあるとすぐ引き金を引こうとするようなヒャッハーの相手はストレスが溜まるのだ。

 そんな上司の内心など知らぬ風見は命令を確実に遂行するために今日もミョウジ少年と接触を試みていた。
 よく笑う少年というのが風見がミョウジナマエに抱いた印象だ。
 初対面の時に比べるとずいぶんと砕けた口調で話すナマエに、警戒心が和らいでいるのを確信する。思えば、初めて会った時はいきなりホテルに連れていかれてベッドに転がされそうになったものだから慌てたものだ、と風見は振り返る。

「お兄さんはこういうの初めてなんですか?だったら任せてください。ちょっと自信あるんですよね」

 笑みを浮かべて腰に跨り、ぷつりとシャツのボタンを外す姿は、自信があると言うだけあって慣れた手つきだった。
 ストリップショーのように勿体をつけて服を脱いでいく少年にぶわりと汗がにじむ。仕事なら、必要ならば、ハニトラも辞さない覚悟はあるが、それでも未成年と懇ろになる気はさらさらなかった。子供は庇護の対象で、性的に消費するものではないのだ。冷ややかな視線を向ける上司が脳裏をよぎる。どうにか回避したい。匂い立つような色気を醸し出して自分の胸元をなぞる手を掴み待ったをかけると、少年はきょとんと瞬きをした後、それまでの蠱惑的な微笑みから一転して笑い出した。シーツに倒れこみ、ごろんと横になっても体を震わせるものだからだんだんと言いようのない恥ずかしさが込み上げてくる。

「、そんなに笑わなくてもいいだろう……」
「っふは!ごめんなさ、……ッはは、あー、そうですね。勇気が出ないなら今日はご飯食べてお話しましょうか」

 そう言って腹筋を使って上半身を起こすとさっさと身なりを整えて、メニューを取り出して笑顔を向ける姿はどこにでもいそうな子供だった。
 そのあとは宣言通りルームサービスを頼んで交代でシャワーを浴び、ナマエが寝落ちするまで他愛のないことを話した。翌朝になって別れ際に5万円を差し出すと「寝てないのにそんなにもらえない」と言う。黙って受け取ればよいものを、こういういじらしさが降谷さんに保護したいと思わせる要因なのだろう。風見は負担に思わせないように3万円だけ握らせてチェックアウトすると迎えが来るというナマエとホテルの前で別れた。

「お兄さんのこと好きになっちゃったから、気が向いたら来てよ」

 去り際に彼がよく大人をひっかけるために使う広場の場所を告げて、朝焼けに白むホテル街に消えていくナマエに、風見は自分が無事に対象の信頼を得られたことを理解した。
 それからは一定の頻度で逢瀬を重ねている。その中で、書面では得られないデータもあった。好きな色は緑でモスグリーンのジャケットを好んで身に付けているとか、甘党で季節のスイーツに目がないとか。たいした情報ではないが、それとなくコンビニのスイーツを差し入れてみるなど好感度を上げるために利用している。
 どうやらナマエは風見のことを童貞だと思っているらしく、「早く卒業しないと妖精さんになっちゃうよ」とからかうこともあった。違うと言葉を重ねれば重ねるだけニマニマと笑みを深めるナマエに、風見は早々に誤解を解くことを諦めた。「勇気が出ない妖精一歩手前の神田」でいればナマエとセックスせずに済む。自尊心を犠牲にしても悪くない対価だと自分を納得させて、風見は今日も少し頼りなさそうなサラリーマンを演じる。

───

 月に2回程度の間隔で会ってはホテルで食事をして同じベッドで並んで眠る。隣り合わせで誰かと眠ることも慣れてしまえばなんということもない。むしろ、仮眠室で眠る時に隣にあのぬくもりがないことに違和感を覚えるほどで。自覚した時は自分の頬をぶっ叩いた。危ない。しっかりしろ風見裕也。
 風見はナマエに対してパトロンというより親戚の子供と接するような父性感情が芽生えてきていた。監視対象に情を持つなど未熟であると上司から叱責を受けそうなものだが、仕事と割り切れるほど風見は機械的になれないでいた。

 ナマエの口から妹の話題が出たのは、初めて会ってから1年ほど経った頃だ。
 それまではさりげなく彼のプライベートについて話を振っても、のらくらとかわされていたので風見は少しだけ動揺した。
 神田さんだから話すんだけど、と真剣な顔で口火を切って語られたのは既に身辺を調査して知っている内容だった。だが書類の文字を読むのと、本人の口から語られるのとでは実感が異なる。彼は本当に妹を大切に思っていて、だからこそ高額な手術代を稼ぐために文字通り体を張って生きてきたのだ。たった一人の家族のために。犯罪の片棒を担いでまで。

「男なら妊娠を気にすることはないし、それに俺、そこらの女子より綺麗だからね。相手には困らなかったよ」

 蜜を含んだ花のような色気を覗かせて笑うその顔が、懸命に虚勢を張っているように見えるようになったのはいつからだろう。自分をからかって遊んだり、ファミレスで期間限定のスイーツを奢ったときに見せるさっぱりとした笑顔のほうがよっぽど似合っているように思えた。話し終えたナマエは、張り詰めていた糸を解きほぐすような長い溜息を吐いて晴れやかな表情を見せた。

「お腹すいた」
「そうだね、何か食べようか」

 ホテルで食事をして交代でシャワーを浴びる。彼が自分のことを話したこと以外、変わったことは何もなかった。だからいつも通り、先にベッドに入り文庫本を読んでいた風見は浴室の扉が開く音で顔を上げて、目を見開いた。生乾きの髪からぽたりと拭いきれなかった水滴がナマエの肩に落ち、鎖骨を伝って胸を滑る。その軌跡を無意識に目で追ってしまい慌てて視線を逸らした。

「着替えを忘れたのか?持って行ってあげるから浴室で待ってなさい」
「神田さん」

 ぺたぺたと裸足で床を踏む音でナマエがこちらに歩いてくることを察し、思わず体を後ろに引いた。彼の裸を見たことがないわけではない、ふざけて全裸でベッドに潜り込まれたこともある。それゆえに彼の裸体が目に毒だということも知っている。

「ああ、私物に触られるのは嫌だったかな。ごめんね」
「ねえ、神田さん」

 ベッドに乗り上げて、四つん這いで迫る子供に壁際に追いつめられる大人なんて傍から見たら失笑ものだろう。こういうところが童貞臭いと揶揄される要因なんだろうなと思った。わかっている。これが現実逃避であることも。シャツの襟元を引かれて視線を合わせないよう逸らしていた顔を覗き込まれる。

「俺のこと抱いて」

 初めて会った時のような、壮絶な色気でもって行為に及ぼうとするのだろう。そんな予想とは裏腹に、迷子のような顔で、切なげに眉を下げて懇願するようなナマエの様子に風見は動けなくなった。薄く開かれた形のよい唇からもれる吐息は熱く、涙で膜を張った瞳は欲を孕んでいる。むせ返るようなそれにぐらりと理性が軋む。ごくりと喉が鳴る。魔性という言葉は彼のためにあるとすら思える。流されたいと思った。それでも、それでも風見に湧き上がるのは情欲よりも庇護欲だった。

「できないよ」
「……意気地なし」
「ごめんね」
「準備したのに、バカみたいだ」
「ごめん」
「お金が欲しいんだ……お願いだから、何してもいいから協力してよ……」

 手の届く範囲に衣服がなかったのでひとまずシーツを羽織らせて背中をさすってやると、妹の手術が決まったのだと、ついに目尻から涙を零したナマエは時折しゃくり上げながら先ほどの話の続きを語った。その手術が成功すれば妹は快方に向かうらしい。ただ入院費と生活費を稼ぐだけでも精一杯なナマエに手術代を支払う余裕なんてない。だからなりふり構ってられなかったのだと。落ち着きを取り戻したナマエはシーツを頭まで被って饅頭のように丸くなって不貞腐れていた。

「さっきの話だけど、知り合いに警察官がいてね」

 そう切り出すと、ナマエ饅頭は気まずそうにもぞもぞと小さくなって風見から距離を取った。通報するの?くぐもったか細い声にそうじゃないよと言えば安心したのかこちらに寄って来るのだから可愛らしい。絆されていることを改めて自覚しながら、あらかじめ降谷や上層部と計画していた案を少年に話した。

 理由はどうあれ悪い組織に所属している限りナマエや、ナマエの妹に危険が及ぶ可能性がある。だから神田の知り合いの警察官に保護してもらい、仕事を斡旋する。手術費用は一旦神田が負担してナマエは働いて得た給料の一部を神田に返す。実際は神田の金ではないのだが、組織から引きぬけるのなら取引にしてはたいした額でもない。ナマエはその容姿と人の懐に潜り込み篭絡する手腕を生かして公安の協力者にしてはどうかという話も出ている。
 ナマエは戸惑っているようでシーツを持ち上げて首を傾げた。

「なにか企んでる?」
「どうしてそう思うんだい?」
「俺にいいことしかないんだもん。なんでそんなに親切にしてくれるの?」

 その手を取るべきか、何か裏があるのではないか。揺れる心情が手に取るように分かった。彼の不安は全くその通りで、風見は、警察は企みをもってミョウジナマエに接している。初めから風見は降谷の命令でミョウジに接触している。
 打算があった。そのために1年もかけて何度も逢瀬を重ねてきた。だが、それは彼を、ひいては彼の妹を救うことになる。そう信じている。だから風見は微笑んで告白した。

「好きだからだよ」

 それは神田という男を演じて出た言葉なのか、風見の本心から出た言葉だったのか。
 シンと静まり返った部屋に息を呑む音がやけに大きく聞こえた気がした。

 少し考えさせてほしい、そういって耳まで赤く色づいた顔を隠すようにナマエはまた饅頭になった。
 これまでも散々言われたことがあったろうに、初心な反応をするものだから悪戯心がうずいてしまって、これまでの仕返しとばかりにからかえば枕を投げられた。あまりにも幼稚で愛らしい反抗につい声を出して笑ってしまい、拗ねたナマエは翌朝まで口をきいてくれなくなった。

「考えがまとまったら連絡してほしい」

 何度目か逢瀬の時に交換した電話番号を改めて伝え、ホテルの前で別れた。
 ナマエは消息を絶った。

───

 ミョウジナマエが消えて三か月。逃げたか、もしくは彼の身に何かあったのではとナマエの行動圏内を探したが影も形も見当たらない。組織に風見のことがバレた可能性も考えたが、バーボンとして探りをいれた降谷曰く、そういった話はないとのことだった。そしてバーボンらが利用する組織の拠点にもナマエは顔を出していないとも。
 時期尚早だったか、不信を抱かせたかもしれないと自分の行動を反省しても時間は戻らない。日課になりつつある広場に足を向ける。朝から降り続ける雨で屋内に人が流れたのか、広場を利用する人間は少ない。見渡しても目的の人物の姿はなかった。ビジネスバックを持ち人通りの少ない路地を歩く。傘に打ち付ける雨音が耳障りだった。ギラギラとネオンが眩しいホテル街よりも奥まった路地のほうが落ち着いて好きだと笑う顔がチラつく。任務の失敗よりも、彼の身を案じる気持ちが風見の大部分を占めていた。無事でいてくれたら、どこか他の土地で元気にやっているのならそれでもいい。なにか情報が欲しかった。

 ポケットに入れていた携帯が震える。
 神田の私物として所持しているほうのスマホだった。これの連絡先を知っているのは一人だけだ。慌てて取り落とさないように端末を取り出すと表示される着信者は想像していた人物で、焦りが伝わらないように深呼吸してから端末を耳に当てた。

 ざあざあと雨が地面を叩く音がする。努めて冷静に、優しく、何度か名前を呼べば、少し間を空けて、小さな声で応答があった。

「神田さん………たすけて」

 泥水が跳ね返りズボンの裾が汚れようが気に留める余裕もない。傘はどこかに落としてきたので全身びしょ濡れだ。眼鏡のレンズに付く水滴が、まとわりつくシャツが鬱陶しい。居場所を聞き出しても走りながら通話を続けているのは彼の声があまりに弱弱しいからだった。怪我をしている、おそらく重症だろう。咳き込みながら神田の名を呼ぶ声に歯がゆさが募る。悪い予感がした。

 炎を上げる工場跡の近くにナマエはいた。近くにいた人間が消防を呼んだのか、遠くでサイレンの音がする。火の手が上がっていない倉庫の中、血だまりの中に横たわる少年に予感が最悪の形で的中したことを理解した風見は奥歯を噛み締めた。救急と上司に連絡を入れてナマエに駆け寄る。炎に巻かれたのか、焼けて穴の開いた服からもわかる火傷と腹部に開いた銃創から怪我の原因が組織関係だろうことは予想できた。

「失敗しちゃった」

 風見に気付いたナマエが痛みをこらえながら掠れた声で笑う。それがあんまり痛々しくて抱きしめようと咄嗟に伸ばした腕を、怪我に障ると理性で押し留め、傷が少ない手を取って握った。
 ケホ、と咳き込む口から血が零れる。内臓も損傷しているのか。この傷ではおそらくもう長くないだろうことは、経験からわかってしまった。

「どうしてこんな……!」

 やり場のない怒りが溢れる。それに眉を下げたナマエがごめんなさいと掠れた声を漏らした。

「神田さんの話を受けるか、悩んでたらね。俺の上司が、金払いのいい仕事を紹介してくれて。神田さんに迷惑かけたくなかったし、いつもみたいに荷物を運ぶだけならイケると思ったんだ」

 結果はこの有様なんだけどね。
 自嘲するナマエの腹部を圧迫して少しでも出血を抑えようとするが指の間から伝い落ちる血に背筋が冷たくなっていく。

「神田さん……お願い、聞いてくれる……?」
「……僕にできることなら」
「妹のこと、頼みたいんだ」

 妹には自分は遠くに出稼ぎに行ったと伝えてほしい。たまに見舞いに行って退院するまで見守ってほしい。今回の報酬は前払いだったから手術代はもう振り込んであると言った時は声を荒げそうになった。
 それで君が命を落としてどうする。
 残された妹さんの気持ちを考えろ。
 諦めるな、まだ死ぬと決まったわけじゃない。
 言いたいことはたくさんあるのに、死に際に立つ子供にお願いと言われたら、応えないわけにはいかなかった。

「わかった、彼女の事は必ず守る。だから安心しなさい」

 口角を引き上げて笑顔を作れば、とろとろと、今にも閉じてしまいそうな瞼を持ち上げて、ナマエも笑顔を見せた。お互い酷い顔をしていて、それがおかしくて、声を出して笑いあう。

「大人は嘘つきばっかりで嫌いだったんだけど、神田さんの事は信じてもいいなって思ったんだ」
「あの夜……好きって言ってくれてすごく嬉しかった。俺も神田さん好きだよ」
「あんたと、もっと一緒に生きてみたかった」

 囁くような声で呟いて、それきりナマエは動かなくなった。
 トタン屋根を打ちつける雨と救急車のサイレンの音が降る中で、力の抜けた手を握り締めながら、風見はしばらくの間、項垂れていた。

「君が好きだと言った男は、神田は、この世に存在しないんだ」

 経歴から名前まで何もかも嘘で作られた神田という男を信じて逝った子供に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「私は風見雄也。公安警察だ。君を保護するために身分を偽って近づいた。君が嫌う嘘つきな大人だ」
「………すまない」

───

 任務に失敗した風見は1ヶ月の謹慎を命じられた。
 謹慎、というのは表向きで、目の前で子供を看取った風見の心を落ち着かせるための休暇だった。ナマエが心を許したように、風間もまたナマエに心を開いていたことは仲間内に周知されていた。

 沈痛さを滲ませた面持ちで、風見は病室の前にいた。ミョウジナマエの遺言を果たすために。
 ベッドに座る少女にはナマエの面影があって、風見の胸がずんと重くなる。見知らぬ男が病室の入り口で動かない事を不審に思ったのか、戸惑ったような顔をする少女に風見は重い口を開いた。

「そうですか、兄は海外に」

 話を聞いた少女は気丈に笑って見せた、それがハリボテの笑顔である事はきつくシーツを握りしめた両手が物語っている。

「兄はきっと向こうで元気にやっているでしょう。なら、私も早く元気になって、長生きしないとダメですね」

 声を震わせながらも涙を見せない少女を慰める資格はない。自分は助けられなかったのだから。罪悪感で押しつぶされそうな風見に少女は言葉を続けた。

「神田さん、ありがとうございます、兄と仲良くしてくれて。見た目はいいんですけど、中身はあんなだから苦労したでしょう?」
「そうですね、振り回されることも多かったです。ですが、彼と過ごした時間はとても充実していました」

 少女の知らないミョウジナマエについて風見が話し、風見が知らないミョウジナマエのことを少女が話す。一人の少年を悼むようにぽつぽつと話をして、風見は病室を後にした。
 それから何度か彼女の見舞いに行き、退院と同時に神田という男は役割を終えた。
 組織の構成員の家族ということで、今後も危険が及ばないように少女には監視が付くらしい。そのメンバーに風見は選ばれなかった。気遣われている。それがありがたくもあり、情けなくもあった。

 どんなに辛い出来事も時間の流れの中で過去になり、折り合いをつけられるようになる。
 ミョウジナマエの件は風見に消えない傷を残し、同じ失敗は2度としないと仕事への決意を新たにさせた。
 今日も緑色のスーツを見に纏い、風見は警察庁の門を潜る。
 彼が信頼を寄せた男は偽物であったが、せめて向けられた好意に恥じぬ生き方をするために。