リナリア

好きな人がいた。
幼い頃からずっと一緒でお互いの好き嫌いも、得手不得手も、長所も短所も知っている。所謂幼馴染と呼ぶべき間柄の、親しい友人。あいつは今だって、俺のことをそう思っているのかもしれない。心を通わせて、キスしたり、体に触れてみたいだなんて、そんな劣情を向けられていたなんて、きっと夢にも思っていないだろう。俺とあいつが同じ性別じゃなければ、あるいはそんな可能性があったのだろうか。


電線が張り巡らされた空を見上げるだけであいつとの思い出に苛まれるから、長期出張の話に飛びついて逃げるようにアメリカへ渡り、3年。日常会話程度の英語は習得していたし、文化の違いに戸惑うことはあったが、今では慣れたものだ。仕事も軌道に乗り、激務という程忙しくもなくなった。こちらで知り合った友人とも仲良くやれている。
客観的に見て順風満帆な人生だと思う。それなのに、どこか乾いたように感じるのは、どうしても手に入らないものを、そうとわかっていながら求めてしまうからなのか。カフェテリアの窓際で、既に冷めてしまったコーヒーを口に運びながら、ぼんやりとしていたら携帯が着信を知らせた。液晶画面を見れば、時間と家に向かうというたった2行の淡白な文面。箇条書きのメモのようなメールにわかったと返して店を出た。

同郷という共通点から会社の同僚に紹介された赤井秀一という男は、寡黙で、あまり自分について語らない奴だった。言葉が足りないところもあるが、あれこれと詮索してこないところに居心地の良さを感じた。彼は他人に対する関心が薄いんだと思う。気になるが聞かないという気遣いではなく、興味がないから何もしないという印象だった。向こうは俺のことをどう思っているのかわからないけれど、こうして連絡を寄越してくるくらいなのだから、嫌われているわけではないと思いたい。
何度か会って話をしたり、家にも招くようになった時、転機があった。
同僚に借りたはずのドラマがポルノビデオにすり替わっていたのが全ての始まりだ。いたずら好きな同僚のことだから、俺の反応見たさにわざと中身をすり替えたパッケージを渡してきたのが容易に想像できた。流行りのドラマを観ようとしていたのに、突然裸の男女が画面に映し出された時の空気といったら、今思い出しても背筋が冷たくなる。男二人だし、2人共そういうビデオをわざわざ借りて見るタイプでもないからたまには…なんて気まずい空気を振り払うべく、軽い気持ちで再生ボタンを押して、そしてまんまと雰囲気に呑まれてしまった。
男と関係を持ったのは初めてだったけど、体の相性も良くて、溜め込んでいた性欲の発散にもなった。その日から、俺達の関係にセックスが追加された。
ただお喋りして飯を食うだけの日もあれば、転がるようにベッドに直行する日もある。俺はいつも抱かれる側だった。一度くらいは抱く側になってみたくて押し倒そうとしたけど、あの仏頂面は意外と鍛えているらしい。逆にベッドに沈まされて、散々な目にあった。「俺と戯れるには、お前はか弱すぎる」などと言ってグズグズに蕩かされた。あまりにもねちっこい前戯に泣き喚き、ぐちゃぐちゃにかき混ぜるような責めに声を枯らさせたのは今でもよく覚えている。あれ以来、赤井を抱いてやろうとは思えなくなった。
頑固な所もあるし、今でも何を考えているのかわからない事も多いが、赤井の傍は居心地がよかった。何をしていても、していなくても、同じ時間を過ごすだけで充分だと思える程に。
ただ一度だけ、行為中に唇を寄せられたことがあった。ムードに呑まれたのか、まなじりを朱に染めた赤井が唇を重ねようとして、俺はそれを拒絶した。俺たちは恋人じゃない。だからキスはしない。そう言って以来、赤井は唇にだけはキスをしない。女々しくても構わない。友愛と恋愛の線引きはちゃんとしておきたかった。

行為の後、赤井はほぼ必ず煙草を吸う。ベッドに腰掛けたまま、こちらに背を向けて煙草に火を点けるのだ。吸口からゆっくりと肺にニコチンを溜めている背中を見て、ゆらゆらと立ち上る糸のような煙を目で追うのが、俺の恒例になっている。蜂蜜を思わせる甘い香り。アイツと同じ銘柄だ。
離れたくて、海の向こうまで来たのに、こんなところでアイツの気配を感じることになるとは思わなかった。それなのに、逃げ出したいくらい、大事にしていたのに。最近は、幼馴染の事を思い出さなくなりつつある。あいつがどんな声だったのか、忘れそうになっている自分がいる。代わりに、赤井の声や、姿が、上書きするように記憶に残っていく。友情が愛情に変化していくようで、自分で引いたラインがあやふやになっていくみたいで、少し怖かった。

「日本に行くことになった」

だから、メールで知らせた時間通りに家にやってきた赤井からそう告げられた時、いい機会だと思った。急に決まった事で時間がないからと、玄関も潜らない赤井を前に、心に積もっていた不安を言葉にしてしまっていた。

「別れようか」 

目の前の男は口を開かない。「なぜ」とも、「わかった」とも言わず、ただそのペリドットのような瞳でこちらをじっと見つめている。なんだか責められているような気持ちになって、言い訳染みた言葉がポロポロと溢れた。

「海の向こうじゃすぐに会うこともできないだろ。ここのところ、お互い忙しくて時間も合わないし。そもそも恋人でもないから別れるって言い方も変か。セフレ解消っていうか、ただのお友達に戻りましょうっていうか……まあそんな感じで」

声が尻すぼみになっていく。過去の未練を吹っ切れず、新しい恋を育てられる程若くもない。体を繋げられても、心まで通わせられる自信がない。いつもここぞというところで手を引いてしまう自分を、臆病だと思う。きっと赤井との関係も、あと一歩手を伸ばせなかった後悔の1つになるのだろう。かっこ悪くて、情けない。それでもやっぱり、怖いのだ。玄関扉の沓ずりが、俺と赤井の間にある境界線のように思えた。

「それじゃあ、元気で」

ぎこちないながらも笑って、握手して別れようと右手を差し出せば、手首を掴まれた。そのまま、ぐっと腕を引かれて思わずたたらを踏めば、よく知った甘い香りが鼻腔をくすぐった。

「仕事が片付いたら、こっちへ来い」

俺の体に回した腕に少しだけ力を込めて、赤井は呟くようにそう言った。

「何時までも胸に燻る未練などいい加減散らしてしまえ。忘れられないと言うなら、俺が塗り潰してやる」

バレてたのか、思わずそう口にすれば、お前は自分で思っているより感情が顔に出る、と相変わらずの仏頂面で返された。お前は顔に出なさすぎだ。

「俺に会う為に、日本まで来い」

待っている、そう言って寄せられた唇を、今度は拒まなかった。