兄の様子がおかしい

※もしも弟だったらと同じ世界線です。

 目を覚ますと見渡す限りの大自然の中にいた。
 排気ガスに汚れていないきれいな空気。ぽかぽかとした陽の光が柔らかく降り注ぐ穏やかな気候。桜っぽいけど桜じゃないなんか桃色の花。鹿みたいなツノが生えた虎っぽい生き物。全体的に見たことのない生物に溢れた世界だった。もっというと知らない星だ。絶対地球じゃない。
人間のような知的生命が存在していないのか、人工的な建物もなかった。

 帰ろうにも連絡手段がない。いつも持ち歩いている携帯端末はなくなっていた。代わりにホイポイカプセルのケースがポケットに入っていたので、試しに投げてみるとドーム型の家が出てきた。他のカプセルには食料や消耗品が山ほど入っていて、長く見積もっても2ヶ月は暮らせるだろう。
 ひとまず当面の生活は心配なさそうだが、問題は誰が、何故こんな事をしたのかだろう。

 オレは普段通りタイムパトロールの仕事をして帰ってきたはずだ。2週間ほど家を空けていたので一息ついたら久しぶりに近くに住む兄家族のところへ顔を出そうか、なんて考えていた気がする。
それで、自宅の鍵を開けて、そこから記憶がない。

 ううん、と頭を捻っていると、目の前に見慣れた人影が現れた。特徴的な髪型で山吹色の道着を着た兄は朗らかな表情で「よぉ」と片手を上げた。

「兄さん!」
「ナマエ、元気そうでよかった。びっくりしたろ」
「ああ。目が覚めたら知らない星にいたんだからそりゃ驚くって。なんでこんなことになってんのかわかんないけど。兄さんが来てくれてよかったよ」
「へへ、この場所見つけるの苦労したんだぜ」

 にしし、と笑う兄に、途方に暮れていた心が掬い上げられるようだった。見つけてくれて助かった。この人がいればたいていの問題は解決してしまうから安心感がすごい。持つべきものは超チート級の身内。
口ぶりからきっと行方知れずになったオレを探しに来てくれたのだろう。ありがたい限りだ。とにかく、今は一刻も早く地球に連れ帰ってほしい。

「それでさ、瞬間移動で連れて帰ってほしいんだけど」
「なんでだ?」

 なんで?え、なんでって言った?むしろなぜ兄はそんなことを言うのか。オレの方がなんでだわ。
 思わぬ返しに口角が引きつってしまう。訳わかんない場所にいるよりは家に帰りたいに決まってるでしょ。

「……そ、そりゃあ、仕事もあるし家のこともしなくちゃならねぇだろ。帰らねぇと」
「いいじゃねえか別に」
「え、」
「ナマエがいなくても誰も困らねぇよ。自分でそう言ってたじゃねえか。覚えてねえのか?」
「……え?」

 普段話している時と同じ顔、同じ声で、あまりにも兄らしからぬ事を言うものだから言葉に詰まってしまう。
 たしかに、そんな事を口にした事があった。タイムパトローラーとしていろんな時空を見ていく中、自分の存在しない世界で幸せそうに生きる仲間たちを何度も見てきた。外からやってきた自分がいない世界が普通で正常なんだから、むしろ自分がいる方が特異でおかしい事だと考えたこともあった。そんな後ろ向きな気分の時に口走った言葉だったと思う。今はもう開き直ってるから問題ないんだけど。兄はそんなオレの言葉を覚えていたらしい。

 はくり、と唇を震わせるオレに、その認識は間違いではないのだと、さらに悟空は言葉を重ねていく。

「お前が言った通りだ。世界はなんにも変わらねぇ。だったらここにいりゃあいい。昔みたいに2人で暮らそう」
「な、なに、言って。兄さん、まさか……偽物か?」
「オラ孫悟空だぞ。地球育ちのサイヤ人で、ナマエの兄貴だ。嘘だと思うなら昔の話でもするか?」

 気の質も、話し方も仕草も、全部が兄だと伝えてくるけれど、それでも信じたくなかった。だってこんな事を言う人じゃない。オレの知る孫悟空は無邪気で、素っ気なくはないけど周りのことはあまり気にしないさっぱりした性格で、主に自分が強くなることと、強い相手と戦うことを楽しみに生きる人だ。最近は後進を鍛えてその成長に喜びを見出していたはずで。こんな、人さらいじみたことをするなんて。
誰かが悟空に化けているのではないかと疑っても、目の前の人間は動揺するそぶりもなく、オレたちしか知らない出来事を懐かしむように話し始めた。違和感でくらくらする。
 つまり、ここに連れてきたのは兄で、帰ることも外部への連絡手段も持たないオレは、このままでは兄の言う通りこの星で生きていくしかないということだ。訳がわからない。兄がこんな事をする理由がわからない。

「なん、で、こんな、誘拐みたいなこと」
「オラは何度も言ったぞ。もっと自分を大事にしろって。無茶するなって。でもナマエは全然聞いてくれなかったじゃねえか」

 仕事で生傷を作って帰るたびに悟空はなんでこんなに怪我してくるんだと聞いてきたことがあった。仙豆は効かないし、仙豆を基にして作られたセンズエキスの効きも悪いオレは基本的に怪我をしたら薬で治療して自然治癒か、メディカルマシンに頼るしかない。骨折や内臓のダメージなど大きなものでない限りは基本的に自分の治癒力に任せている。歴史の修正という任務の関係上、戦闘になることの方が多いし、傷を負うこともあるけれど、それなら悟空の方がよっぽどだろう。それこそ命を落とすほどに大きな怪我だってしてきたじゃないか。
なにかおかしい。悟空の成り代わりではないというなら、何らかの術をかけられている可能性はないだろうか。とにかく、誰か助けを呼ぶか、脱出しないとまずい。

 兄の手がオレの頬に伸びる。後ずさるよりも早く、親指の腹が頬に貼ったガーゼを撫でる。さりさりと布越しにいたわるような手つきで触れる手に、視線を持ち上げて悟空の表情を窺えば、いつものからりとした笑顔とは似つかない、しっとりとした笑みを浮かべていた。ゆるく弧を描いていた唇が開く。頬に触れていた手が頭の後ろに回されて引き寄せられた。

「もう好きにすることにした。なに言っても聞かねえナマエが悪いんだからな」

 するりと囲い込まれた腕の中、耳に吹き込まれる囁きに背筋が泡立つ。

「修行はここでする。家に帰る時は留守番になっちまうけど、すぐ戻るようにするさ。地球にはもう返さねえ。誰にも会わせねえ。オラと2人だけだ」

 抜け出そうと身じろぎするも動きを封じるように抑え込まれてしまった。これは抱きしめるというよりホールド。絶妙な力加減で苦しくはないけど振りほどけそうにない。泣き落としのつもりで「にいさん、離して」なんて甘えた声で呼んでみても耳元でくすりと笑うだけで離してくれそうにない。まずいまずいこれはまずい。

「ずっと思ってたんだ。なんで離れちまったんだろうって。パオズ山から降りたのが悪かったんかな。神殿で修行する時に無理矢理にでも一緒に天界に行けばよかったのか。ナマエがコントン都とかいう場所に働きに行ったのがダメだったんか」

 オレに話しかけるというより独り言みたいな呟きの内容が怖い。もうなんだか話が通じる気がしなくなってきた。逃げる以前に捕まってしまってるから詰んでる。オレをあざ笑うように清々しく晴れ渡る青空に薄桃色の花びらが舞い上がっては散っていく。こんな状況じゃなければ花見でもしたかったな。
 目を伏せていた兄は額を合わせて微笑みを浮かべた。

「でも、もういいんだ。だってこれからはオラだけだ。お前にはオラだけいればいい」

 唇にかさついた柔らかな感触が触れた。世界が白く滲んでいく。

***

「うっ!……ぁ、ゆ、夢か……」

 飛びあがる勢いで体を起こせば見慣れた部屋が視界に入った。ばくばくとうるさい心臓と呼吸を整えながらベッドの横の締め切っていたカーテンをめくって窓の外を見る。外に広がる見慣れた景色にようやく気持ちが落ち着いてきた。地球の、自分の家だ。
夢で良かった。こわかった……。力で敵わない相手に実力行使されたり話が通じないとこんな恐ろしいもんなんだな。なによりそういうことを一番やらなさそうな相手がやるというのが怖い。
はあ、と深呼吸をして凝り固まっていた体をほぐすように伸びをすれば、すぐ近くから見知った気配が声をかけてきた。

「ナマエ、起きたのか」
「うひぃ!!」

 それはつい先ほどまで夢でオレを追い詰めてきた男の声だった。今度こそベッドから飛び上がったオレに兄は「どうしたんだよ」とからから笑っている。

「に、兄さん。どうしたんだよ」
「お前がこっちに帰ってきたのを感じたからよ。顔見に来た」
「あれ、オレ鍵締め忘れてた……?」
「ああ、呼び鈴鳴らしても出なかったから瞬間移動でな」

 プライバシー……いやこの兄の前じゃそんなもんあってないようなもんか。普通家主から返事がなければ出直すところを力でごり押ししてくるところは相変わらずで笑ってしまう。
 ベッドに腰掛けた悟空はそのままオレの頬に手を伸ばした。ガーゼの上から優しく撫でる指先に夢の内容が蘇ってきてひやひやしてしまう。

「また怪我してんな」
「あ、ごめん。心配かけて」
「……いや、いいさ。お前が頑張ってんのはわかってっから。死にかけるようなのはやめてほしいけどな」
「はは、努力しまーす」

へらりと茶化してみせれば、ぐりぐりと少し雑な手つきで頭を撫でまわされる。
ああ、うん、いつもの兄だ。

***

 薄暗い部屋の中、着替える前に力尽きたのか、普段着のまま上半身をベッドに投げ出して眠る弟を抱き上げて横たえる。よほど疲れているのだろう、布団をかけても起きる気配はない。額にかかる髪を優しい手つきで払えばむにゃむにゃと言葉になりきらない寝言を呟く姿に笑みがこぼれた。普段は年相応に大人びて見えるのに寝顔はどこか幼くて昔に戻ったようだった。
寝かせる時に見えた腕や腹に巻かれた包帯に思うところはあれど、弟が自分で選んだことなのだから口出しするのは憚られる。けれど心配なのだ。できれば安全な場所で笑っていてほしかった。

「あーあ、いっそ誰もいねえとこにしまっちまいてえな」

ふにふにとやわい唇を撫でながら兄がそんなことをぼやいていたことなどナマエは知る由もない。