仕事から離れてどこか遠くに行きたい。
そんなことを考えて眠りについたら、まさか見知らぬ場所で目覚めることになろうとは。働くことに疲れた人間の多くが抱くであろう願望を同じく俺も願っただけなのに。こんな形で叶えられるとは夢にも思っていなかった。夢だろうと現実逃避しようとしたら、「目の前の現実を受け入れなさい」と神に諭された。
そう、神である。
時の界王神を名乗る彼女は、少女のような外見に反して実際はとても長生きで高い地位に就いているのだそうだ。まず神が実在して目の前にいることに驚いたのに、宇宙に数多く存在する星の神の上に界王がいてさらにその上にいるのが界王神であると教えられたものだから、神が大渋滞を起こして整理するのに時間がかかった。界王以上の神は東西南北で区分けされているらしい。日本ではクリスマスも正月も一緒に祝うような混沌ぶりだったけれど、神様ってたくさんいるんだな。
時の界王神は文字通り時の概念を司っていて、世界中の様々な歴史を記録した刻蔵庫を管理しているんだそうな。神がゲシュタルト崩壊を起こしそうな頭でどうにか彼女の言葉を理解した。「」私ってすっごくエライんだからね!」そう胸を張る神はやはりどう見ても子供に見えるが、見た目にはよらないんだろう。へぇー、すごいすごい。
なら何故俺は、そんなやんごとなき身分の御方がおわす場所にいるのだろう。疑問が顔に出ていたのか、界王神は丁寧に説明してくださった。
曰く、俺はこの神が管理し見守る世界とは異なる場所、違う世界から流れてきたらしい。
世の中には様々な文化、多様な歴史を育む世界が数多く存在し、それぞれが干渉することのないように厚く固い境界によって隔てられている。しかし、最近時の界王神が管理する歴史が改変され世界が崩壊しかけるような事件があり、その余波で世界を隔てていた境界に綻びが生じたらしい。事件は無事解決し、綻びも放っておけば自然消滅する程度のものだったので何もせず見守っていたら、俺がその隙間を渡ってこの世界に落ちてきたのだとか。
「すぐに送り返そうとしたけど既に綻びは閉じてしまっていてどうにもできなかったの。この世界には貴方の存在する歴史がないから、このままだと貴方は消滅してしまうわ」
この世界には貴方を知る人がいない。貴方の生きた時間が刻まれた歴史もない。貴方の存在を証明できるものが何もないから。ごめんなさい。私たちの世界の騒動に巻き込んでしまって。
神について説明していた時とは一転して深刻で、申し訳なさそうな表情で告げられて、嘘ではないんだろうと直感した。それでも実感はなかった。自分の家で寝ていたのに気付けば知らない場所で、目の前には神がいて、このままだとあなたは消えます、なんて言われても話が壮大すぎてピンとこない。やっぱり夢なんじゃないかとか、消えたらどうなるんだろうとか、まとまらない思考が泡のように浮かぶ。彼女の話ぶりだと元いた場所に帰れるわけでもなさそうだ。多分、死ぬのと同じなんだろう。享年が三十路かあ。親はもう亡くなっているから親不孝にならないのがまだ救いなのかな。来るのが早すぎるって怒られそうな気はするけど。こんなことになるなら、買うだけ買って読めてない漫画とか録り貯めたテレビ番組とかちゃんと消化しとけばよかった。仕事も引き継げてないのに。後任の人に迷惑をかけてしまうな。
「ナマエさん」
やりたかったこと、やり残したことが波のように押し寄せて呑み込まれそうになる俺を引き止めるような声だった。これまで部屋の扉の近くで俺と神のやり取りを静観していた人が口を開いたのだ。貴方は神様なのかと聞けば、人間ですよと微笑まれる。こちらを安心させるような笑顔に少し気分が和らいだ。
彼は歴史に異常があればそれを対処、修正するために派遣されるタイムパトロールという組織の隊員で、時の界王神の下で活動しているらしい。
「オレに考えがあります」
そう言ったトランクスの提案は、俺をこちらの世界の歴史に送り込むというものだ。比較的安全な時代で生活することで人と関わりを持ち、誰かに俺を知ってもらうことでその人の記憶やその時代の歴史に存在を刻む。そうしてミョウジナマエという人間の実在を証明するのだという。要はこの世界の住人として生きてみませんか、ということだ。
正直なところ、神についても自分の身に起きていることも半信半疑なので急に異世界で暮らしませんか、なんて言われても困ってしまうんだが。そんな俺に反して時の界王神は「その手があったか!」と手を打った。
「歴史を管理するお立場なのに、俺みたいな異物を混入させてもよろしいのですか?」
「あら、世界はとても広いのよ?大悪党ならまだしも普通の人間が一人紛れ込むくらいなんてことないわ、だから何も気にしないでいいの。ここにいる以上、貴方も私たちが見守るべき大切な命ですもの」
そう言って微笑む彼女は少女の外見には不釣り合いな神々しさがあった。ああ、本当に神様なんだなと納得してしまうほどのオーラがあった。その後「異世界トリップものの主人公になったと思えばいいのよ!」なんてあまりにも俗世に染まった一言が飛び出して色々台無しになったが。長い時間を生きて暇を持て余した時の界王神様に、たまにトランクスが差し入れをするらしく、その中にそんな設定の小説があったらしい。
俺の置かれた状況はノンフィクションなんですけど。
転送する時代や場所は界王神様とトランクスが選んでくれた。聞けば、この世界にも地球はあるらしいが、俺のいた世界とは歴史も文化も大きく異なるらしい。お互いの話を擦り合わせて、できるだけ俺の住んでいた国の文化に近い所に送ってもらうことにした。
日本という国がないと教えられた時はショックだった。言葉や食文化は似た地域があるらしいけど大丈夫だろうか。ちゃんと生きていけるかな。
トランクスから俺が暮らす時代が記された巻物を渡された。受け取る手が震える。何もかもが突然で、現実味がない。それでもこれから見知らぬ土地で一人で生きていかなければならない。界王神様やトランクスはたまに連絡をくれるらしいけど、それでもやっぱり不安は大きかった。
「ナマエさんなら大丈夫ですよ。きっと良い人たちと出会えます」
トランクスが笑って俺の肩を優しく叩いた。根拠なんて何もないはずなのに、彼の言葉はストンと胸に落ちてくる。そんな説得力と安心感があった。
「まるで未来を知っているみたいですね」
「さあ、どうでしょう」
おそらく年下であろう男の子に励まされたのが気恥ずかしくて茶化すように言えば、彼はいたずらを企むような顔をした。手の震えは止まっていた。やるだけやってみよう。不安は拭えないけど、気持ちは前向きになった。
巻物を握りしめると光の輪が体を包むように広がった。眩しくて目を閉じると、輪郭が解けていくような感覚がする。
「あ、そうだ。貴方の存在を世界に繋ぎとめるアンカーを作るには、できるだけ長い時間が必要なの。だから赤ん坊から人生やり直してもらうことになるけど、頑張ってね」
「えっ」
界王神様の言葉に思わず瞼を開いた。ちょっと待って聞いてないんですけど!!そういう口にする暇もなく、次の瞬間にはミョウジナマエという男の姿は跡形もなく消えていた。
そういえば、俺はあの場で名乗っていないのにどうしてトランクスは俺の名前を知っていたんだろう。