夜半の語らい

 子供たちに刃を向けた時のことを夢に見た。
 きんと冴えていく頭の中に、「覚えていなかったのだから」、「あなたは悪くない」と言ってくれた先生方や生徒たちの顔が浮かんだ。彼らの優しさが冷えていく心に沁み入るも、じくじくと胸の内から発する痛みは己の罪悪を知らしめるようで。まだ真夜中といっていい時間だが、どうにも眠れそうになかった。

 寝床を抜け出して夜の散歩に洒落込めば、冷えた風が薄い着物の裾から入り込む。
何か羽織るものを持ってくればよかったな。そうは思えど部屋に戻る気にはなれず、あてもなく歩いていると思わぬ人物にでくわした。
 用務員のミョウジナマエさん。
 備品や建物の修繕といった環境整備、清掃、巡回などを仕事にしている学園の職員だ。
普段は子どもたちが驚かないように、人並みの存在感を出しているらしいが、人気のない夜中ともなれば、その気配は随分と希薄になる。斜堂先生は元より影の薄い人だが、この人は意図的なのだろう。

「——おや、土井先生」

 月明かりを背にこちらに話しかける姿は、地面から伸びた影が実体になったようだ。たしかにそこにいるのに、掴みどころがなく、儚さすら感じる。

「どうかされましたか?」

 逆光で彼の表情は伺えない。それでも発せられる言葉には熱の通った気遣いが感じ取れた。

「少し、寝付けなくて、散歩でもと」

 多少夜更かしをしたところで授業に支障を出すようなことはないが、なんとなく悪いことをしたような気分になった。あちらはただ見かけたから声をかけただけだというのに。
 私の返答に、ミョウジさんは「そうですか」と小さく頷いたように見えた。すぐ近くにいるはずなのに、視界が悪いわけでもないというのに、目を離すと消えてしまいそうに思えた。どうにも遠く感じてしまって、足を前に踏み出した。近づく私に特に何も言わず、ミョウジさんはその場を動かずにいる。

「もしよければ、私の部屋にきませんか?」
「え?」

 私と彼の距離が腕を伸ばせば届くほどになった頃、夜風に乗ってそんな声が聞こえてきて、思わず声が漏れる。それをどう受け取ったのか、わずかに視線を下げた彼に、考えるより先に首を縦に振っていた。

 長屋の端、決して広いとは言えないが、大人の男1人が寝起きするには狭すぎない大きさの個室が彼の部屋だ。
 文机と燭台、小さな押し入れ、部屋の隅には折り畳まれた布団が置かれている。自分や他の先生方とそう変わらない、荷物の少ないさっぱりとした部屋だった。

 灯心に火をつけると、ミョウジさんは押し入れから取り出した小袖を差し出した。「風邪を引いてしまいますよ」と微笑まれては受け取はないわけにもいかず、礼を言って羽織れば肌寒さが和らいでいく。
 思っていたより体が冷えていたらしい。薄手のものでもあるとないとでは大違いだ。

「眠れない、とおっしゃられましたが、差し障りなければお話を伺っても?」

 ひと心地ついたところで、ミョウジさんが口を開く。聞かれるだろうことは予想できていたので、当たり障りのない言葉で濁すこともできた。どんな言葉を返しても、仮にそれが嘘だとわかっていても、言葉通りに受け取って詮索しないでくれることもわかっている。

「実は……少し、夢見が悪くて」

 それでも、この人を前にすると、どうにも正直に打ち明けてしまうのだ。
 何がそうさせているのか思うところがないでもないが、自身の気持ちを深く掘り下げるにはまだ決心がつかない。遠い昔、兄のように慕った少年のおぼろげな姿がちらついた。

「……天鬼の件ですか」
「はい。あの時、私は本気で彼らを排除しようとしたのです」

 竹林の中で六年生たちと対峙し、自分の投げた忍具が彼らを傷つけた。血が出ていた。
抵抗できないきり丸たちを命じられるまま斬ろうとした。それが正義だと吹き込まれ、幼い子どもと知りながら。

 包帯やガーゼを貼った顔で、泣きながらおかえりなさいと笑うあの子たちの顔が脳裏をよぎる。
記憶喪失だったとはいえ、私のしたことは学園への裏切りと造反だ。再び迎え入れてくれた皆の優しさへの感謝と同時に、己の不甲斐なさに身を裂かれそうな気持ちに苛まれる。

「もしも、取り返しのつかないことなっていたら。そう思うと恐ろしくてたまらない」

 口にしてはじめて、ああ自分は怖いのか、と自覚した。
 花のように鮮やかに広がる血飛沫を知っている。先ほどまで笑顔だった人たちが、物言わぬカカシのように動かなくなることを知っている。
ただ逃げることしかできなかった私が、あのような地獄を生み出せる人間になっている。
今回はたまたま誰の命も奪わずにすんだが、もしも、記憶が戻らなかったら。

「……人は間違える生き物です、などと、教師であるあなたはよくわかっておられるでしょう。そのうえで、あなたは自分を許せないのですね」

 俯いて思考の渦に飲まれている私に、ミョウジさんが声をかけた。頷く私に、目の前の人物は普段と変わらず、感情の読めぬ顔で言葉を続ける。

「先の件についても責任を果たされたと聞いています。それでも、ご自身の行いを許せないと思うのなら、それで良いのではないでしょうか」

 周囲に聞こえぬよう声を抑えながらも、よく通る声が鼓膜を揺らす。

「時間をかけて許していくのも良いですし、一生許さなくても良い。そんな自分を受け入れて、折り合いをつけていくくらいでもよろしいかと思います」

 もっと肩の力を抜いてやりなさい。そう言われたような気がした。
 あなたは悪くない。
 仕方なかった。
 悪いのはドクタケだ、いいや果たし状を送ってきた諸泉だ。
 皆は口々に言葉をかけて慰めてくれた。
 誰も私を責めなかった。
 うれしい反面、苦しかった。誰もが私を許してくれたのだから、私も自身を許さねばならない。より正しくあらねばと追い立てられるような心地だった。
 そうか、許さなくても良いのか。
 晴れやかとは言えなくても、少しだけ心の中の靄が払われたような気分だった。

「なんだか、少し気が楽になりました」
「そういってもらえると、偉そうに講釈を垂れた甲斐があります」
「教師も向いているのでは?」
「ふふ、まさか。私は誰かを導けるほどできた人間じゃあありませんよ」

 燭台の火が小さく揺れる。薄く微笑むミョウジさんがこちらに手を伸ばしてくる。くしゃりと髪をかき混ぜるように撫でて、労わるように頭を軽く二度叩かれた。

「あ、」

その仕草に覚えがあって、思わず離れてゆく手を掴みそうになる。しかし、こちらが触れるより先にするりとかわしたミョウジさんは、立ち上がると引き戸を開けた。

「白湯でも持ってきましょう。待っててください」

 こちらの返事を待たずに部屋を出ていった後ろ姿に、行き場を失った手をそろりと下ろす。
 
 過去の影がちらつく。
 記憶を失った反動か、以前よりも昔の事を思い返す時間が増えた。朧げだったあの人の姿や声がふと鮮明に蘇ることがある。
 雪の降る中、街に降りたいと我儘を言う私を見かねてこっそりと連れ出してくれた背中。ひんやりと冷えた、小さくも固く鍛えられた手のひら。
身分が知れないようにと即席で兄弟の芝居を打って、私が彼を兄上と呼んだのだ。あの日をきっかけに、本当の兄のように彼を思い、懐いて、別れを惜しんだあの日々が。
あの人の名前はミョウジナマエではなかった。別人のはずだ。だが、当時は任務で偽名を使っていたとしたら?

「――、」

 ぽつりとこぼれた声は兄と慕った少年の名を紡いで、誰に届くこともなく夜の中に溶けて消えた。