工藤優作は焦っていた。
人気絶頂の売れっ子女優と駆け出しの作家の結婚は世間を大いに騒がせ、祝福と嫉妬の渦を巻き起こした。
幸福を願う声と同じくらい怨嗟の叫びが事務所に山ほど届き、中には脅迫まがいのものもあったが二人は特に気に留めることはなかった。藤峰有希子が独身の頃からそういった頭のおかしな手紙は届いていたので「あるある」と楽観してスルーしていたし、ぶっちゃけ二人とも新婚のテンションで舞い上がっていたのだ。どんな困難も愛の力でなんとかなるさ、みたいな謎の万能感に溺れていた。子供の名前に好きな作家のペンネーム付けようか、なんて笑い合うくらいキラキラしていた。将来その子供が周囲を欺くために作家の名前から偽名を名乗り始めるので遺伝かもしれない。
「待っててねユキちゃん。そいつとお腹の子殺したら僕らのお家に帰ろうね」
世の中は理不尽に溢れている。
夜の散歩なんてしなければよかった。河川敷じゃなくて住宅街とか、もっと明るく人目のあるところを歩けばよかった。
自称ユキちゃんの恋人とかいう小太りの男に刃物を向けられ、橋の下に追いつめられる間に優作は一生分の後悔をした。
弁は立つ方なのでどうにか落ち着かせようと言葉を発したが、これがまあ逆効果。口を開いただけでお前の存在が憎いと言わんばかりの形相で怒鳴られたので余計なことをすれば妻と子の命まで危ういと察っした優作はすぐ口を閉ざした。
気分は打ち上げられた魚である。状況は最悪だった。
毛利小五郎のように柔道とか、なにかしら体術を身に着けておけばどうにかできたかもしれない。
言葉が通じない相手を前に、優作は己の無力を痛感した。事件現場では犯人はだいたい口で言い負かしてきたし、暴力に訴えようとしてきても周りの警官が取り押さえてきたので危機感が鈍っていたのかもしれない。
「お前なんかよりずっと前からユキちゃんが好きだったんだ。僕の方が彼女を幸せにできるし彼女もそれを望んでいるんだ僕らは両想いだから。それをぽっと出のお前なんかが!ユキちゃんを奪いやがって。だからお腹の子を追い出して僕らの子供を作ろうね。ね、すぐ助けてあげるからねえあいしてるあいしてる」
過激派同担拒否男は薬でもキメてるのか、焦点の合わない瞳をかっぴらいて訳の分からないことを捲し立ててくる。はあはあと息を荒くした男が振り上げたナイフが鈍く光った。
せめて愛する人だけでも、と震える妻を強く抱きしめる。死を覚悟した。非科学的な事は信じていないのに、死んだら絶対呪ってやるからな、と男を強く睨みつけた。
振り下ろされるナイフに、間違っても有希子が刺されることがないようにと背を向けた、その時。
「おじさん、何してんの」
中性的な声が優作の鼓膜を揺らした。
いつまでもやってこない痛みに目を開き、声のした方へ視線を向ける。そこには、ナイフを持つ男の手首を掴んだ少年の姿があった。掴まれていないほうの手で少年の腕を叩き振りほどこうともがく不審者だが、彼は歯牙にもかけていないようだ。
「離せよ!このっ、クソガキッ!お前には関係ないだろ!」
「関係ないけど、流石に人が殺されそうになってたら見て見ぬふりできないでしょ。やめなよこんなこと」
声変わり前の少し高い声が呆れたように男を諭している。
掴む手に力が込められたのか、男が身を捩って呻いた。
「〜ッ!わかった!わかったから離してくれ!腕が折れる!」
「ほんとに?自首する?」
「するっ!するから!」
こういう場合、気を緩めると反逆されるのがセオリーなんだが。
そんな疑心しかない優作に対し、少年は素直に手を放してしまう。
痛い、と半泣きで呻いた男は一転、少年の体にナイフを突き立てた。腕の中の妻が短く悲鳴を上げる。
「バカが。正義の味方ぶったいい子ちゃんが!お前みたいなのが一番むかつくんだよ!どいつもこいつも僕を見下して……!殺してやる……殺してやる!」
男の逆鱗に触れてしまったのか、拳を振り上げ何度も少年の顔を殴打している。さすがに止めなければ、と恐怖に硬直していた体を叱咤して優作は男を引きはがそうと足を踏み出した。
「うそつき」
優作の手が届く前に不審者が吹っ飛んだ。ボールのように弾んで転がり橋桁にぶつかって動かなくなったところを見るに、おそらく気絶したのだろう。
あまりのことにぽかんと口を開いたまま少年の方を見ると、人差し指を親指で弾く動作をしていた。
いや、まさか、デコピンで……?
ミステリー作家でリアリストな優作は、目の前で起きた光景に疑問と衝撃が尽きない。だが脅威が去ったことは確かなのでひとまず警察を呼んだ。
犯罪者であろうと脈がなければ過剰防衛でこちらも罪に問われかねないので一応生存確認もしておく。
なによりも身重の妻とお腹の子の状態が心配で仕方なかったが、繊細な美貌に反し意外とメンタルが剛の彼女と、その体で育まれている子は医者が太鼓判を押すほど元気だった。
犯行現場に居合わせたという事で一緒に病院と警察に連れていかれた少年は怪我ひとつないという。有希子が妊婦であると聞いて膨らんだお腹を見て微笑んでいた。
「君は、ナイフで刺されてなかったかい……?」
「刺される前に刃先を受け止めましたので怪我はしていません」
「……顔を殴られていたよね?」
「あの人あんまり力が強くなかったみたいです。ほら、どこも腫れてないし、痣もないでしょう?大丈夫ですよ」
結構鈍い音がしていた気がするんだがな、と優作は内心首を傾げた。
しかし、彼の顔を見る限り本当にかすり傷ひとつない。
「ご心配ありがとうございます。お二人は怪我とかしてませんか?」と気遣わしげな様子の少年に、優作はひとまずお礼がしたいと言って連絡先を交換した。
感謝の念は尽きないが、それに加えて目の前の不思議な少年への興味が優作の行動を後押ししていた。
***
山に捨てられていたのを親切なおじいさんに拾われて二人仲良く暮らしてきたけど、おじいさんが亡くなってしまったので山を下りて一人で頑張ってる。
菓子折りを持ってやってきた工藤夫婦に自身の生い立ちを聞かれたので、これまでの人生について要約したナマエに夫婦は渋い顔をした。
公園にあるドーム型の遊具の中でのやりとりである。
有希子が「秘密基地?」と聞き、少年が「お家」と答えたところで2人の眉間の皺が増えた。
先日母親になった有希子は、子供の境遇に胸を打たれたのか涙ぐんでいてナマエは気まずそうに目を逸らした。
実際は「リーマンしてたら異世界トリップして人生やり直してたら、ひょんなことからまた別の世界に飛ばされたので山暮らししてた」が正しい。やり直してた頃は義弟に孫ができるくらいの年齢だったのに、ここでは何故か10歳くらいの外見に退行している点も奇妙だったが、どんな願いも叶う珠がある世界に生きていたので「そういうこともあるか」とナマエはあまり気にしていなかった。
前の世界では親切なおじいさんこと孫悟飯に拾ってもらったし、一緒に生活していたのは本当なので嘘は言ってない。話せば長くなるし信じてもらえるとも思わないのでトリップ云々は言わなかった。
この世界に来る前は本当にいろいろあった。たいてい命と地球の危機。こないだの不審者なんて指どころか、視線一つでどうにでもできるような、かわいいもんだった。
「君さえよければ、一緒に住まないか?」
ハードな人生だったな、とナマエが半生を振り返っている間に夫婦の間で何かやり取りがあったらしい。
急なお誘いに少年は首を傾げた。
聞けば護衛として雇いたいらしい。
女優だった藤峰有希子には熱狂的なファンも多く、いつまた頭のおかしい変態に襲われるかわからない。SPや警察に頼むことも考えたが、例の事件から少し人間不信気味の夫があれこれ勘繰ってしまい踏み切れないという。
そこで白羽の矢が立ったのが悪漢を仕留めたナマエであった。給料と衣食住を保証するとの条件付きと聞いて頷かない理由はない。衣食住の保証は大助かりだ。山暮らしも公園で野宿するのも苦ではないが、文明の利器を知ってしまったら便利を求めてしまうのが人間というものである。
ヤバい奴とはいえ、相手が地球人なら敵にもならないだろう、と食いつきのいいナマエに「苦労したのね」と有希子はハンカチを濡らしていた。
ナマエはといえば、彼女の腕の中で寝ている赤ん坊が義弟の幼いころに重なって庇護欲が掻き立てられていた。
ナマエが工藤夫妻の住み込み護衛を初めて数年が経ち、新一が小学校高学年になる頃に世間の興味も薄れただろうからと護衛を退職した。
その後はバイトを転々とし、縁あってポアロで働くことになる。
ひったくりや強盗などの事件に遭遇することもあるが、たいした問題でもないのでのんびりと余生を楽しんでいたのだが、工藤新一の失踪と江戸川コナンの登場により、そんな日常は儚く崩れ去るのであった。