お兄さんと天才少年

 唯一の友達を外の世界に送り出し、コンピュータとテレビだけの部屋から遊具が設置された屋上に足を向ける。
 滑り台やデフォルメされた動物の形をした乗り物が並ぶそこは、カラフルな色彩のくせにいつだって寒々しさがあった。
 父が去り、母が亡くなり、新しく家族になった優しい人には、いつしか距離を置かれるようになった。
 自分の手で生み出した友達はもういないし、人間の友達は最初からいなかった。
 周りにはいつだって機械しかなかった。それらは僕の味方であり、僕と他の人たちを隔てる壁でもあった。
 僕だって同じ年の子供みたいに友達と遊んでみたい。家族と旅行がしたい。一緒にご飯を食べたり、お風呂に入ったり眠ったりしたい。
 名声なんかより、人の温もりがほしかった。
 けれど、監視カメラや、あの人の部下たちに一日中行動を見張られるような生活に、そんな夢が叶えられることはないだろうことは嫌でもわかる。
 ここは箱庭だ。
 幼稚な遊具を並べて、ご機嫌をとった気になる大人達が拵えた檻の中だ。出口はひとつ。
 そこに向かう足取りに、もう迷いはない。

「僕もノアズ・アークみたいに飛べるかな」

 屋上から身を躍らせる。
 もしも鳥のように自由に飛べたならどこへ行こう、なんて馬鹿げた想像をしながら重力に従って落ちていく体に自嘲した。
 最後に父さんに会いたかったな、と思ったところで、少しの衝撃と浮遊感に見舞われる。
 閉じていた目を開くと、慌てたような男性の顔。どうやら抱き上げられているらしく、男性が触れている箇所からビル風で冷えた体が温められていくようだ。
 周囲に目をやるとアメリカの夜景が見えた。地面はまだ遠く、地上を走る車のライトが列をなして動いている様子はミニチュアのようだった。
 そうか、僕はもう死んだのか。そして天使がお迎えにきたんだ。

「天使さまってほんとにいたんだ」
「……え?」

 ぽかんと口を開けて首を傾げる姿に親しみを覚えた。
 黒いワイシャツに黒いスラックスで普通の人みたい。絵画にあるような厳かな雰囲気より、こっちの方がいい。

「僕は天国に行けますか?」
「さ、さあ。天国はちょっと行き方がわかんないから、親御さんのところに送ろうと思うんだけど……君のお家はどこ?」
「僕、もうあの場所には帰りたくないんです。だから飛び降りたのに……」

 やはり自殺は罪なのか。
 天国ではなく家に連れて行くと言う天使に縋り付く。
 あそこには戻りたくない。
 苦しかった日々を思い出すと涙が溢れてきた。天使は困惑した様子で「警察のほうがいいのかな」などと呟いていたが、金と権力のある身元引き受け人のことだからどんな手を使ってでも僕を取り戻しに動くだろう。

「お願いです……天国じゃなくていいから、どこか遠くに連れて行って……!」

 わかった、と頷くと少年は安心したのか気を失うように眠ってしまった。
 さて困った。
 まさか夜景を見ようと夜の空を散歩していたら男の子が落ちてくるなんて思わないじゃないか。これから天空の城を探しに行く羽目にならないよな、どこかの映画じゃあるまいし。
 アメリカに住む工藤さんのところに遊びに来ただけなのに、どうしてこう事件性のありそうな事柄に巻き込まれてしまうのか。
 家に帰りたくない、と泣く姿があまりに痛々しかったから思わず頷いてしまったけれど、これって拉致とか誘拐になるのでは。でもなあ、少年の口ぶりからして虐待の疑いもあるんだよなあ。このままこの子が落ちてきたであろうビルの屋上に置いて帰ってもいいが、もし本当に虐待だったりしたら後味が悪すぎる。天使とかいう誤解も解きたい、オレはただの地球人だよ。
 今後の行動について頭を悩ませていると地上の方が騒がしくなってきた。
 このままでは人に見られてしまう。工藤夫妻と「やむを得ない場合を除いて、普通の人らしくないところを目撃されないようにする」と約束をしているし、不要な面倒はこちらも避けたいので一度工藤さんの家に少年を連れて行く事にした。
 風に当たって体調を崩されても困るので優作さんの気を辿ってロサンゼルスまでひとっ飛び。瞬間移動ってほんと便利。教えてくれた義弟には感謝しかない。
 瞬きの間に夜景から暖色の光が灯る書斎に景色が一変した。家主は慣れたのか突然現れた人間にも眉ひとつ動かさない。昔は椅子から転げ落ちるくらい驚いてくれたのに。少し寂しい。

「やあ、おかえり。早かったね」
「ちょっと事情がありまして」

 優作さん曰く、彼は巷で天才少年と呼ばれるくらい有名な子供らしい。そしてどんな理由であれ子供を無断で連れてきちゃったオレはやはり犯罪者だろう。

「自首します」
「まあ待ちなさい。君が何を考えてお縄につこうとしてるのかもわかるが、一度落ち着いて」

 両手を差し出したところで優作さんに制された。
 犯罪者ではなく、救世主になれるかもしれないと客間のベッドで眠る少年を見て目元を緩める彼には何かわかったらしい。
 「一人で納得しないでくださいよ」とむくれて見せれば、話は少年が起きてからだとコーヒーを淹れに出て行ってしまった。
 焦らしよる。探偵ってそういうとこありますよねと言えば、作家だと訂正された。

 しばらくして少年は目を覚ました。
 起き上がってベッドの上で所在なさげに視線を泳がせていたので、2人分のココアを淹れてマグカップを渡すと少し落ち着いたようでちびちびと飲んでいる。自分のマグに口を付ければ甘さとほろ苦さがいい塩梅で我ながら会心の出来だと内心ガッツポーズした。目分量だといつもお湯を多めに入れてしまうので今日は大成功だ。

「僕は、生きてるんですよね」
「生きてるよ。ここはロサンゼルスにあるオレの友人の家。マサチューセッツからは結構距離があるから君の言う『どこか遠くに』ってお願いは叶えられてると思う」

 少年は安心したのか口元を緩めた。

「……助けてくれてありがとうございます。それと、ご迷惑をお掛けしてごめんなさい」
「いや……まあ、びっくりしたけどね。それだけ追い詰められてたんだろ。その辺の話は追々聞くとして、まずはお互い自己紹介しよう」

 サワダヒロキと名乗った少年は大企業の社長の養子らしい。その天才的な頭脳で何かすごいプログラムを作る為にずっと監視された生活をしていたとか。
 ひどい話だ、そりゃ出て行きたくもなる。あの時のオレの判断は間違ってなかったと確信した。自分が生きてると分かった時のヒロキくんは安心したように表情を和らげていたし。人間好き好んで死にたいなんて思わないもの。助けてよかった。
 天使疑惑もしっかり晴らした。当時のことを思い出したヒロキくんは恥ずかしいのか気まずいのか俯いて耳を赤くしていて微笑ましい。

「知り合いに天使がいるんだけど、その人は青白い肌に白い髪なんだ。破壊神の付き人をしているから死んでも迎えには来ないよ。死んだ魂はあの世に飛んで、閻魔さまの審判で天国に行くか地獄に落ちるか決まるんだ」
「へ……へぇ、そうなんだ」

 地球のスイーツを食べては目を輝かせていた天使さまを思い浮かべながら本物の天使について話すと、なんとも微妙な顔をされた。「気を遣ってくれなくてもいいよ」と苦笑いされてしまったけど、もしや作り話だと思われてる?

「天国行きの飛行機はいつも大行列で、整列させるために鬼の係員さんは忙しそうにしてたよ」
「はは、まるで見てきたかのように語るね。君にも作家の才能があるのかもしれないな」

 いつの間にか部屋にいた優作さんからも生暖かい眼差しをいただいてしまった。
 本当のことなんだけど、ここでいくら話しても信じてもらえなさそうだ。2人とも科学で証明できないものはありませんってタイプみたいだし。それに今は優先することがある。

「ヒロキくんは目を覚ましました。優作さんが気付いたことについて話してください」

 優作さんが推理したヒロキくんの置かれていた状態はほぼ当たっていた。
 オレは自己紹介をした時におおまかに事情を聞いたけど、優作さんはベッドで横たわる姿を見ただけで自殺の動機まで当てるのだから底が知れない。恐るべき観察眼。
 ヒロキくんの死体が見つからない以上、しばらくの間捜索は続くだろう。シンドラーは彼に対して強い執着を持っている。それが恐怖なのか、怒りなのかはわからないが、生死が判明するか、死亡していると納得するだけの月日が流れるまで諦めないだろう、というのが優作さんの推測だ。なのでその間は身を潜める方向で話がまとまった。しばらくは工藤夫妻の家で過ごし、捜査範囲がロサンゼルスまで及ぶようであれば拠点を日本に移すことになる。人目につかないように暮らすのはストレスになるが、有希子さんに変装を施してもらい、たまに外に出る事もできるらしい。まかせて!と力瘤を作る仕草でウインクする彼女はとても頼もしかった。いつまでも食い下がるようであれば、探偵役として優作さんが現場に出ていきそれらしいストーリーを語り聞かせて納得させるらしい。ストーリーテラーってすごい。
 こうしてヒロキくんを助けようプロジェクトの企画が概ね決定した頃、渦中の彼がおずおずと口を開いた。

「父さんには、僕が生きていることを伝えたいのですが…」

 両親は離婚したが、父親とヒロキくんの関係は良好だったらしい。遠い日本に住む父親が、自分が行方不明になったと知ればその心労は計り知れない。だからどうにか無事だと知らせられないかというのがヒロキくんの願いだった。
 それならオレがひとっ走り父親のところまで飛んでいこうかと提案するも、にこりと微笑む優作さんに待ったをかけられた。

「それについては私に考えがある」


「まさかヒロキくんの父親と優作さんが友達だったなんてなあ」

 泣きながら抱き合って喜ぶ親子を眺めながら、運命について考えた。こんな偶然ってある?
 樫村さんがヒロキくんを探すために渡米し、宿泊費用を節約するために友人の家を訪ねたというのが表向きの話。しかし実際は友人の家で匿っている息子に会いにきたという筋書きで、樫村さんは工藤夫妻の家にやってきた。
 尾行や盗聴器の類がないか念入りにチェックして、地下にあるヒロキくんの隠れ家に連れていけば感動の再会と相成りました。シンドラーの捜索の手が樫村さんやその周囲にまで及ぶ可能性を考えて、しばらくはまだ日本とアメリカで別々に暮らすらしい。
 ありがとうございます、と涙ながらに感謝の言葉をもらってなんだか少し照れくさかった。