隻眼の残像後の時系列です。
※下っ端くん死亡ルート
鮫谷警部、大和警部を襲い、日本政府を脅した男の犯行に至るまでの心情は、自分にも想像できた。
大切な人を失う喪失感は経験がある。
モスグリーンのスーツを身に纏うたび、ある人のことが脳裏に過るのだ。
本名すら明かすことができないまま、腕の中で冷たくなっていった少年。
彼との日々は、数年たった今でも心の片隅で淡く温かく輝いている。
少年を手に掛けたのは、彼が所属していた組織の者であることがわかっている。彼を子飼いにしていたという、長い髪が特徴の男だと、潜入している上司から共有された。
もし、その男が逮捕され、司法取引によって減刑されたとしたら。自分は冷静でいられるだろうか。
これまでに報告された男の行動からそのようなことは起こらないだろうと否定しながら、それでも考えてしまう。
兄が死んだことに気づきながら気丈に笑った妹や、彼を保護したいと動いた我々や、何より無念のうちに息を引き取った彼のことを踏みつけて嗤いながら世間に紛れて生きていく。
写真でしか知らない男の、そんな姿を思い描くと噛みしめた奥歯が軋む音がした。
ありもしない妄想に腹を立てるなど馬鹿げている。
わかっている、わかっているが。あの子のことを考えるとどうしても冷静になりきれない自分がいた。
『どしたの、顔色悪いじゃん。また上司の無茶ぶり?』
頭の奥で呆れたように笑う声に、ハッと現実に引き戻された。
駐車場に停めた車内には先ほどから降り始めた雨の音が小さく響いている。
ハンドルに添えていた両手に額を押し当て目を閉じた。
「カフェインって摂りすぎると体に悪いらしいよ」とキャップを被った少年が、ペットボトルを差し出す姿が瞼の裏に浮かぶ。
いつだったか、自分があんまり疲れた顔をしていたからか、ミョウジが自販機で水を買ってきたことがあった。結局、組織の工作員であることから異物混入を懸念して口をつけることはなかったのだが。当時の判断に間違いはなかったと今でも断言できるが、それでもあの子の優しさを無下にしてしまったことに罪悪感がなかったわけではない。
肺いっぱいに息を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。
ああ、相変わらず自分は上司の無茶に振り回されているよ。それに最近は頭の回転が速い子どもにも良いように使われていてね。
言葉にはせず、胸の内で彼の言葉に返事をした。
『大変そ〜。ちゃんと休みなよ。あ、また一緒に寝たげようか、なんてね』
猫のように目を細めてこちらを揶揄う声は、もう随分と朧気になってしまった。
もし、彼が生きていたら本当は何と言うだろう。軽薄で刹那的な言動が多かったが感情の機微に聡い子だった。
「……怒りや憤りに苛まれるな」
これでよく公安が務まるな、とは上司に叱責された時の言葉だ。
腹の底から沸き上がる煮えるような感情を思考の底に沈めるように深呼吸をした。
恨みや憎しみが悪だと一概に断じることはできない。しかし、激情に呑まれるようではあの子の信頼に応えられない。
警察の職務倫理に反するような違法作業を行うこともある。だが、それがこの国の、国民のためになると、信じている。
運転席のホルダーに挿していた缶コーヒーに手を伸ばし、一気に煽った。
少年の声はもう聞こえなくなっていた。
----
※下っ端くん生存ルート
公安が拠点にしているアパートの一室。
ダイニングキッチンに置かれたテーブルでカレーを食べていたミョウジは、対面で寝ぼけ目のままルゥにスプーンを突っ込んだ男の様子に苦笑した。
「……風見さん、またやつれてるね」
「まあ、こんな仕事だからね」
「また爆弾の解体をやらされたとか?」
「いや、そこまでじゃない。ただ、そうだな。人使いの荒い上司とその協力者に足で使われたり、あれこれと根回ししたり、銃撃戦があったり。無事に解決したからいいが、今回も苦労が絶えなかったよ」
「はは、でも怪我がなくてよかった。お風呂沸かしてるからそれ食べたらゆっくり入ってきなよ」
「ああ、助かる」
以前、何度か爆発に巻き込まれて包帯やガーゼまみれのまま仕事をしていたと聞いたときは、そのうち倒れるんじゃないかとミョウジはヒヤヒヤしていた。仕事を任されるという事はそれだけ頼りにされているという事なんだろうが、体が資本なのだからちゃんと休んでほしい。
風見の正体を知り、彼の協力者として活動するようになったミョウジだが、最近は目の前の男の生活が想像以上にボロボロなことが気がかりだった。仕事柄致し方ない部分もあるのだろう。しかし、眠気覚ましと言ってブラックコーヒーやエナジードリンクを常飲し、栄養も睡眠時間も偏っている現状のままでは体を壊しかねない。
このまま風呂場に向かえばそのまま寝落ちしそうな様子に、自分も一緒に入ったほうがいいんじゃないかとミョウジは思案する。風見が心配なのもあるが「お背中お流しまーす」などと言って後から浴室に入ったらどんな反応をするだろう、と揶揄いたい気持ちもあった。
ミョウジの悪戯心に火が点ついた頃、つけっぱなしにしていたテレビから聞こえてきたアナウンサーの声に風見が反応した。
「ナマエ、司法取引制度が改正されたら証人保護プログラムを受けてみないか?」
「え?」
唐突な質問にミョウジは首を傾げた。
降谷が潜入してる黒の組織に末端の構成員として所属していたミョウジは、廃倉庫で銃撃を受けるも一命を取り留め警察に保護された過去がある。成人した現在は公安の協力者として活動しているが、組織の人間に見つかる可能性もあるので大人しく安全な場所に隔離されていてほしいのが風見の本音だった。
一度説得しようとしたが、聞く耳を持たなかったミョウジは、歳を重ねるにつれかつて以上に色気が増し美しく成長した自身を使って、監視のため配置されていた公安刑事を篭絡しようとしたので失敗に終わっている。あのまま放っておけば、その身に刻まれた銃創痕や火傷痕すら魅力のひとつに組み込んで男を尻で抱いた挙句、自分の側に引き込みかねなかった。流石、妹の入院費用のために反社会的勢力に所属するだけのことはある。
ターゲットにされた担当刑事が公安にスカウトされたばかりで経験が浅いことも要因であった。ぽやぽやと夢見心地になりかけていた同僚の顔をしばいて正気に戻した時のことは今でもよく覚えている。
眼差しと微笑みだけで他者の心に入り込む手腕は公安としては手元に置いておきたいが、個人的な付き合いもあった風見には庇護欲もあり、悩みの種になっていた。
だから、司法取引の範囲が広がった際には証人保護プログラムを受けてほしい。そんな思いもこめて風見は目の前の青年を見つめた。
「やだ」
しかし、そんな望みなど知ったことではないと言わんばかりにミョウジは拒否の姿勢を取った。
「どうしてだ。あの制度が適用されれば、君は安全な生活を送ることができる。名前や住所は変えなければならないが……」
「そしたら、あんたとも縁を切らなきゃいけなくなる」
絶対ヤダね、とミョウジはスプーンに多めに盛ったカレーを口に含む。咀嚼しながら、理解できないといった顔の風見を見て、溜息を吐いた。
「もっと一緒に生きてみたかったって、言ったろ」
は、と風見が息を呑む。
雨音と、炎と、血の匂いのする夜のことが頭を過った。
「今俺の願いは叶ってるところなの。妹も退院できたし、悪いことからは足を洗えたし。それに……とにかく、風見さんには返しきれないくらい恩があるから、役に立ちたいんだ。遠ざけようとしないでよ」
お願い、と眉を下げ、じわじわと瞳を潤ませたミョウジに、空になった皿を持って風見は席を立った。
「自分にウソ泣きは通じないぞ」
「ちぇー」
あの刑事さんはコロッと落ちてくれたのに、と口を尖らせるミョウジの声にため息を吐きながらシンクに皿とスプーンを置いた。
こうと決めたら頑なな性格であることは分っているので、時間をかけて説得するしかない。万が一彼に危険が及ぶようなら、多少無理やりにでも彼の安全を確保しなくては。
湯船に浸かりながら思考を巡らせていた風見は、風呂場の戸を開けて入ってきたミョウジの裸に慌てて立ち上がろうとし、足を滑らせて浴槽に沈み、「そういうとこが童貞臭いんだよ」と揶揄われるのであった。