身勝手な優しさ

※死ネタ

 病に侵され死の淵に立つ男と、彼に縋り付く妻。
 彼らの子である少年は声も上げられず、目を見開いて眼前に横たわる現実を見つめることしかできない。
 仲間たちは俯き、悲しみに暮れている。
 家族を、友人を救う手立てを考え、しかし力及ばず、自身の無力に苛立ち、肩を落とした。
 誰もが絶望に立ち尽くしていた。 

 苦し気に息を荒げ床に臥せる悟空の姿は痛々しい。普段の様子を知っている分、なおさらそう感じてしまう。
 代われるものなら代わってやりたい。
 そんな考えが過った時、雲間から光が差し込むような閃きがあった。

 自分を救った界王神曰く、異世界からやってきたこの身は、こちらの世界では未だ存在が曖昧らしい。
 この世界で生きることで実体を保てる程度には安定したものの、肉体と魂の結びつきが弱く自身が望むだけで、ほんの少しのきっかけで、容易く解けてしまうらしい。解けた体は生命エネルギーとなり、放置すれば拡散して消えてしまうのだとか。だから、寿命を全うすることでこの世界の命として定着させるために界王神さまはオレを地球に送ったのだそうだ。
 では、もしオレの生命エネルギーを誰かに与えた場合はどうなるのだろう。
 例えば、今まさに消えようとしている命を吹き返すことくらいならできるのではないだろうか。

 自分が様子を見ておくから少しだけ休むといい、そう言い聞かせ人払いを済ませた。
 チチの、泣き濡れて赤くなった目元が、わなわなと震える悟飯の姿が不憫だった。
 悟空がいなくなるとたくさんの人が悲しむ。
 この子の力がないと立ち向かえない敵だって、これからも現れるかもしれない。
 なにより、この子に生きてほしいと思った。だってまだ若すぎる。悟飯が大人になって、孫ができるくらい、よぼよぼのおじいちゃんになるまで長生きしてほしい。そのためなら何だって差し出せる。

 自身の胸元を掴み荒く乱れていた弟の呼吸は既に浅く、細くなっている。呼びかけにも反応が鈍くなっていて、いよいよ死期が近いのだろうと感じさせた。

「悟空」

 額にかかる髪を撫で上げて名前を呼んだ。とろとろと持ち上げられた瞼から覗く瞳の生気は薄い。はくはくとわずかに動かした唇からは呼気が漏れるばかりだ。もはや声を出すだけの力もないらしい。

「大丈夫だ。兄ちゃんが助けてやるからな」

 これは一度きりの賭けだ。失敗すればただの自殺で無駄死にもいいところだが、不思議と成功する確信がある。
 ぼう、とこちらを見つめる弟を安心させるように微笑みかけた。
 どうか、この子が元気になりますように。
 両手を胸の中心に当てて、願う。
 本当にそれだけで薄く透け始めた体に、自分の存在の脆さを他人事のように思った。
 輪郭から輝く粒子になって体が空気に融けてゆく。

「……に、ぃ、……ちゃ……」

 掠れた声を絞り出した悟空がふらふらと片手を持ち上げた。両手で包むように握ってやるとわずかに指先が動いて握り返される。
 かわいい弟。オレの大切な家族。元気になって、またいつもみたいに笑ってほしい。いつも負けっぱなしだったけど、できるならもう一度組手がしたかった。また一緒にご飯が食べたかった。口いっぱいに頬張るところが愛おしくて大好きだったから。
 未練ならいくらでもある。
 けれど、後悔はない。
 いつだって守られてばかりの情けない兄だったから、ようやく役に立てたのだと誇らしさがあった。このくらいしかできないけれど、でも、オレにしかできないことだ。
 きっとオレはこの時のために生きてきたのだろう。

「どうか、元気で。幸せになって」


 ふわりと空気に溶けるように気配が薄くなっていく兄を、見ていることしかできなかった。
 なにをしているんだ。
 何が起きてるんだ。
 疑問と困惑と、それを上回る恐ろしさに弱った心臓が竦み上がる。
 なにもわからなくとも、兄が自分のために取り返しのつかないことをしようとしていることだけはわかってしまった。
 止めてほしくて伸ばした手は優しく握られて、そうして笑って、兄は消えた。
 兄のいた場所には小さく輝く光の球が残り、ふわふわと漂うように自分の胸元に吸い込まれていく。じんわりと活力が体の中心から隅々まで行き渡り、石のように重く固まった体がほぐれていくようだ。体は見違えるほど軽くなっていくのに、心はどこまでも重く沈んでいく。
 兄は自分に全部渡すために死んだのだと、理解してしまった。

「戻ってくれ」

 光が触れた胸元に手を置いた。自分の中に溶け込んだ兄を取り戻したくて、身の内にあるはずの気配を辿ろうにも、既になんの痕跡も残っていない。

「だめだ……だめだ、こんなっ……たのむ、戻ってくれ……!兄ちゃん……!」

 こんなことってないだろう。
 大好きな人の命を与えられてまで生き永らえるくらいなら、あのまま手を握られて看取られた方がどれほど良かったか。

「ぁ、あ……うあぁ……!ぁあああ………っ!」

 幸せになれ、と微笑む姿が焼き付いている。
 なんて残酷なことを言うのだろう。
 お前がいなければ叶うはずもないというのに。