Enchantée


 熱い。鼻から喉へ、そして肺へ回っていく空気は重くて鈍くて、口から吐き出すと、さらに湿度を増して部屋を濁らせる。目を瞬いて入ってきた汗を流す。こめかみを生温い汗が伝って背筋がゾワゾワ震えた。
 氷の溶け切ったコップから麦茶を喉に流し込み、誤嚥しながらも飲み干す。一瞬喉が冷えるが、息を吸えばすぐに元の温度に戻った。コップを置いて、椅子から立って、作品作りに戻ろうとした。――それからの記憶はない。




 大家さんからの通報で、マンションの一室に入る。何も音がしない、じっとりと重い空気の中、熱いドアノブを捻ってリビングに入る。目の前には天井近くまである彫刻と、その前に倒れた女性。湿度と温度が高い部屋からして、確実に熱中症だった。
 一緒に来た先輩警官が女性の脈をとり、かろうじて生きていることがわかる。先輩が女性を隣の部屋のベッドに運ぶのを横目にクーラーをつけ、大家さんが取ってきた氷嚢やスポーツドリンクをベッドに持って行く。
 ベッドに寝かされている女性は思っていたよりもずっと若かった。18か、9か。高校生にしては大人びていて、大学生にしては幼い、そんな雰囲気だった。それに、少女と言っても差し支えない程の見た目をしている。目の前の少女がこの彫刻を彫ったのかと、驚きながら見つめる。2Kの一室を占領するように佇む彫刻は、背中合わせの男女が裸で絡み合っている。綺麗なことはわかるが、その芸術性は俺にはあまりわからない。
 彫刻から目を離し、救急車が来るまで出来る限りの処置をする。
「う゛……ぅ、ん……?」
 うめき声を上げながら目を開ける少女に、部屋にいる全員が目を向ける。緑の混ざった茶色の目が左右に動き、腰のあたりから起きあがろうと動く。
「ぁ……」
 少女は眉間に皺を寄せてそう発すると、ベッドに倒れ込む。先輩が支え、ゆっくりと降ろされる。異性に触れられても全く反応しないあたり、それだけ意識が浮ついているのだろう。先輩は辺りを見渡し、俺を呼ぶ。大家さんが救急隊員の誘導のために出払っているので、消去法で俺が呼ばれたのだろう。
 先輩は俺に少女の様子を見ておくように伝え、部屋の中を捜索し始めた。念の為、だろう。意識が朦朧としているところから、もしかしたら薬物の類かもしれないし、他の何かが出てくるかもしれない。
 俺は先輩が部屋を漁る音をバックミュージックに、顔を顰めて苦しそうな声を上げる少女を眺める。額に張り付いた髪を払い、濡れたタオルで汗を拭いてやる。眉間の皺がいくらか消え、再び双眸がまたたく。
「……くらい」
 オリーブ色の瞳がぐるぐると辺りを見渡し、ぱちりとまばたく。
「大丈夫?」
 そう声をかけると、ベッドに横たわっている体がびくりと震えた。彼女はこちらに顔を向け、俺は焦点の定まらない瞳に見つめられる。ふるふると揺れていた瞳は次第に動きを止め、オリーブ色の瞳に見つめられた。
「大家さんから、通報があって……君が部屋から出てこないって」
「……あたし、倒れてた?」
 ゆっくりと小さな口が言葉を紡ぐ。その言葉に同意を示すために首を縦に振れば、興味なさげに視線が動いた。
「そろそろ救急車来ると思うから、寝てな?」
 すっかり俺に興味を無くしたのか、天井を見つめている少女にそう声をかける。
「ん」
 少女はそれだけ答え、壁に向かって寝返りを打った。
「お兄さん、名前は?」
「萩原、研二。お嬢さんは?」
「#名前#、#苗字##名前#」
 少女――#名前#ちゃんはそれきり黙ってしまった。俺に背中を向けて、いつのまにか静かに寝息を立てている。

 ――それが、#名前#ちゃんとの出会いだった。

 初めて会った日から2日後、俺は制服姿の#名前#ちゃんと再会した。元々人の顔を覚えるのは得意だが、#名前#ちゃんほど強烈な出会いをした人を覚えないはずがなかった。
「萩原さん」
 小さな口からはっきりと切り出される言葉に、この子はこんなにはっきり話すんだ、と意外に思った。初めて会った時は意識も朦朧としていたし、仕方のないことかもしれないけど。
「#名前#ちゃん、だったよね」
 #名前#ちゃんに視線を向けてそう返すと、彼女はこくりと頷く。
「萩原さんうちの学校で評判らしくて、友達に行けって言われてきた」
 #名前#ちゃんはそう言って開いている扉から中に入ってくると、置いてあるパイプ椅子に座る。それから伏せられた目で瞳を横に動かし、俺をじっとりと見つめた。ふと視線を動かせば、オリーブ色の虹彩が光を帯びてまばらに輝いていた。
 人形のようなその瞳に見惚れながら、#名前#ちゃんの向かいに立ち、しゃがんで視線を合わせる。
「そりゃ嬉しい。#名前#ちゃんは俺のことどう思う?」
「……綺麗だよね。」
 頬杖をつきながら言われた言葉に戸惑って固まる。かっこいいとは何度も言われてきたけど、率直に綺麗と言われたことはあまりなかった。それも、真顔で。
 固まる俺のことなどお構いなしに#名前#ちゃんは続ける。
「頭身は高いし、目は大きいし、優しい顔立ちの割に顎がしっかりしてるのも女受け良さそう。鼻筋も通ってて、鼻中隔が長くて――」
 #名前#ちゃんの言葉が急に止まる。だんだん明るくなっていった表情も、そこで止まる。それから、何か言うことを躊躇っているような、絶妙な空気が流れた。
「……どうかした?」
「なんでもない。萩原さんが綺麗ってだけ。」
 聞き返せば、そうはぐらかされる。#名前#ちゃんは真顔に戻っていた。
「そういえば友達に萩原さんの名前教えろって言われたんだけど、教えていい?」
「別にいいよ。」
「ん」
 #名前#ちゃんはそう言って頷く。どうやらこの返し方は、面倒くさがっているのではなく口癖らしい。#名前#ちゃんは返事も相槌も「ん」の一言だ。
「じゃあ好きなタイプは?めっちゃベタすぎるこれ」
 #名前#ちゃんはスマホを見ながら聞いてくる。多分俺に聞くことリストでもあるのだろう。
「どうかな、あんまり好きな子に共通点ないしな……」
「友達が泣くからなんか捻り出して」
「えぇ……意志がはっきりしてる人、かな?#名前#ちゃんはどうなの」
「綺麗な人」
 #名前#ちゃんはスマホを置いて、俺の顔をじっと見てくる。彼女の目がスッと細められ、そしてまた開かれる。まるで品定めでもされているような視線に、背筋がゾクゾクした。
「#名前#ちゃん?」
「ん」
 無言の空間に耐えかねて#名前#ちゃんの名前を呼ぶと、また一文字が返ってきた。
「そんなに俺の顔好き?」
「どうだろう、綺麗だとは思う。」
「そっかぁ」
「うん」
 #名前#ちゃんは再び視線を落とし、スマホを手に取る。
「もう帰る?」
「うーん……もう少しいる。友達がうるさい」
 #名前#ちゃんはそう言って、また俺に質問してくる。時間の許す限り質疑応答は繰り返され、#名前#ちゃんは満足したような顔をして帰っていった。#名前#ちゃんにも何個か質問をしたので、#名前#ちゃんが高3でそこまで真面目じゃないことは分かった。出会って2回目だけどなかなかに濃い時間だったと思う。




 萩原さんと会ってから毎日友達に詰め寄られる。この前は家まで押しかけられてたし[V:8212][V:8212]友達は聖地巡礼と言っていた。わからなくはないが、もう萩原さんに会いに行けばいいにと思う。
 今日もまた、帰り道にある交番に寄る。目当てはもちろん萩原さん。いつものように扉を開けて中に入る。
「こんにちは」
「こんにちは、#名前#ちゃん」
 萩原さんは私の方を向いて、微笑む。相変わらず綺麗な人だと思う。
「今日は早いね」
「なんか授業少なかった」
 そう答えてから、いつものようにパイプ椅子に座る。萩原さんはお茶を出してくれる。綺麗な指先が机の上を滑った。指、腕、首と目線を上げていくと、これまた綺麗な顔がくっついている。
「萩原さんはいつ見ても綺麗だね」
「……口説いてる?」
「どうだろう」
 口説くという行為は知ってるけど、ただ思ったことを口に出しているだけなのでいまいちわからない。私より萩原さんがやりそうなことなのに。
「#名前#ちゃんって、色んな人の人生狂わせてそう」
「萩原さんこそ」
「俺は自分がイケメンだって知ってるから」
「じゃあ私は」
「口が上手い。」
 萩原さんはそう言って微笑む。綺麗な人は、笑うとより綺麗になるんだと萩原さんに出会ってから知った。萩原さんは綺麗だけど、ニヒル、と言う言葉も似合う。分からなかった概念がだんだん理解できるようになってきた。
「萩原さんに会ってから、人への解像度が上がった気がする」
「なにそれ」
「綺麗な人は何しても綺麗だけど、綺麗だけってことじゃないことがわかった」
「言うねぇ……そろそろ#名前#ちゃんのことが好きな子から刺されそうだ」
 萩原さんはそう言って、眉を下げながら笑った。素直に喜べないような、困ったような、よくわからない表情だった。そんな萩原さんを見ていると、手が勝手に萩原さんの顔に伸びていく。
 萩原さんは驚いて動けないようだった。それをいいことに萩原さんの頬に触れて、親指で目の下をなぞる。長い下まつ毛が、親指の先に触れる。瑞々しくて綺麗な肌の感触を、手のひらで感じる。
「……#名前#ちゃん?」
「……なに」
「いや、なにって……」
 戸惑っているのか、少しだけ声が震えていた。その様子が面白くて、もっと触れたいと思った。萩原さんは綺麗だけど、綺麗だけじゃないと分かっていたから、もっと知りたいと思った。
 鼻筋をなぞって、唇に触れて、綺麗の全てを理解したくなる。しわ一つでさえ見逃したくない、そんな感情が湧いてくる。でもこれ以上はダメかと思い、萩原さんの頬に手を留める。
「萩原さんは綺麗だね。綺麗だから……何しても許してくれそう」
「……そりゃどーも」
 萩原さんは、どこか寂しげな顔をしながら答える。それがなぜか気に食わなかった。
「許してくれるなら、キスしてもいい?」
 興味があった。こんな綺麗な人とのキスというものに。どんな味なのかとか、どういう反応をするのかとか、そういうのが気になった。まだ何も知らないから。
「そういうのは、だめかなぁ」
「だよね」
 萩原さんは優しく笑って首を横に振る。相変わらず笑顔が似合う人だ。
「でも、俺以外とはしない方がいいよ」
「なんで?」
「勘違いされちゃうから」
「ふぅん」
 自分にはあまり関係のない話に思えて、適当に相槌を打つ。萩原さんは苦笑いしながら続けた。
「#名前#ちゃんは可愛い女の子なんだからさ」
「でも萩原さん以外にこんな綺麗な人見たことない」
「そういうことじゃなくてね……」
 萩原さんはそう言って私の頭を撫でる。それから「もう帰りな?」と付け足した。いつもはもう少しいるけど、今日は言われた通り帰ることにする。
「ん。……あ、萩原さん」
「なに?」
 交番を出る直前、思い出したように振り返る。萩原さんは優しい顔をしていた。
「もっと顔触りたいから、いつかうちに誘っていい?」
「……それは、俺が危ないかも」
「そっか」
 萩原さんはやっぱり、困ったような顔をして笑っていた。
 今まで自分の思っている綺麗を作ろうと必死になっていた。だけど最近は萩原さんという綺麗な人がいるから、なんだか少しだけ楽な気分で作品に向き合えている。萩原さんをもっと知りたいとは思うのだが、世間様はそれを許してくれない。少しだけモヤモヤした気持ちになりながら家までの道を歩いた。

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果ての星