Agapanthus

月に照らされる水面も、貴方も



「水浴びしていこうか」

 暗いはずの夜に明るいのは、丸くて大きい月のおかげだ。彼の表情がよく見える。

「えっ。わ、わたしもですか……?」
「当たり前だ。お前も浴びたいだろう」

 夜も更けているということもあり、こんな山奥には誰もいない。が、共にいるこの人が問題だ。想いを寄せている人。
 彼はそんなこと気にしていないだろうに、私だけ生娘のように恥じらっていた。
 汚れを落とすためだと言うが、わざわざ一緒に入らなくても良いのではないか。

「恥ずかしいのか? 生きるためにはこういうことも必要だ」
「は、はい……」

 恥を偲んで衣服を脱ぎ、冷えた水の中へと足先を入れた。春とはいえ、まだ山の方には雪が残っている時期だ。夜も冷たい風が吹いていて寒い。湖の水もピリと感じるほどには冷たかった。

「つめたっ」

 彼は私が水の冷たさを感じている隙に入っていたようだった。あっという間に腰まで浸かると、恐々といていた私を見かねて手を差し伸べてくれた。
 トクントクンと鼓動が速くなるのを感じた。すぐに伸びない私の手をいとも簡単に取る。水かきが大きく、骨もゴツゴツとした立派な手だ。私の手とは比べ物にならないくらい逞しい。

「早く来いよ。冷たくないさ」

 肌が見えないよう衣服で前を隠してちゃぷんと両脚を入れた。見ないでくださいね、と背を向けながら。

「わかったわかった。じゃあ手、離すぞ」

 名残惜しくも彼の温もりが離れていく。彼に背を向けてばしゃばしゃと水を浴びる。徐々に水温に慣れてきた頃には気持ちいいと感じるようになっていた。
 私が落ち着いたのがわかったのか、少しだけ今日の出来事をを振り返っていた。呑気なものだ、脱獄している身だというのに。

「そうだ。明日は――」
「わっ! こっち見ないでください!」
「ああ、そうだったな。何がそんなに恥ずかしいんだか」
「房太郎さんは慣れているかもしれないですけど、私は恥ずかしいんです!」 

 へえと関心がなさそうな反応が返ってくる。同性だったらまだしも、異性で、そして想いを寄せている相手だなんて尚更だ。バクバクと大きく脈打つ鼓動が私の中で破裂しそうだった。
 彼が動くたびに水面が揺れるのを感じる。同じ場所に浸かっていることをまざまざと思い出させる。
 気まずくなった私はしばらく口を開かなかった。二人の間に流れる沈黙。聞こえるのは彼が水を掬い上げる音だけだ。
 ふと、水面を見ると月が深い青に映し出されているのに気づく。月の色だけではなく、赤や紫、緑など、まるで虹のような色。ゆらゆらと揺れるそれはとても幻想的だった。彼にも見せてあげたい、そう思って声をかける。

「房太郎さん、見てください。月が――」

 と、不意に体を彼の方へと向けてしまい、思わず彼の身体に見惚れてしまう。太い筋の通った腕に、綺麗に割れている腹部の筋肉。そして何より大きな肩幅が、私の体とは大きく異なることを思い知らされる。
 美しい造形に艶のある長い髪からは忘れてしまうような体格を改めて思い知らされる。月に照らされて綺麗なのは水面だけではなかった。水に濡れた髪も肌も月に照らされて輝いていた。

「お、もういいのか。見ても」

 そんな彼の冗談は今の私にの耳には届かない。
 ゴクリと音を立てて唾を飲み込めば、息が止まるような感覚に陥る。

「……おい。どうして息止めるんだよ」

 息が止まるような、ではなく止めてしまっていたようだった。私の口元に手を添えた彼の笑みは、湖の反射で七色に輝いていて幻想的だ。私の心臓はうるさいくらいに鼓動を立てていた。

「もう恥ずかしくないのか?」
「……え? あっ!」

 ハハっと笑いながら髪を掻き上げる仕草でさえ惹かれて目を奪われた。悔しくて睨んでも怖くないと言いたげに楽しそうに微笑んでいた。

「そんな可愛い反応されちゃあ――」

 ふと楽しそうに笑っていた彼が私の耳元に顔を近づけた。これ以上心臓が持ちそうにない私は思わず後退る。
 しかし彼はそれを許さなかった。力強く腕を引っ張り、引き寄せた。再び彼の顔が耳元にくる。うるさく響く心臓がそろそろ彼に聞こえているのではないか。

「食べたくなるだろ?」
「〜〜!」

 意地悪な表情で囁いた彼はまるで獲物を狩る獣のように鋭い瞳をしていた。急激に集まった熱で頭は真っ白になる。今の私は顔が真っ赤だろう。

「ぼ、房太郎さんのえっち!」
「……好いてる女には誰だってそうだろう」
「えっ」

 ぼそっと放った言葉は私の感情をぐちゃぐちゃとかき混ぜた。軽口をたたくような声色で言うから、その言葉が本心かどうかなど読めはしない。
 上を向いて月を眺めては「綺麗だなぁ」と呟く彼に、私は何も言い返さなかった。いや、今の私には何も言い返なかった、が正しい。頭の中で入り混じるたくさんの言葉喉の奥で詰まってなかなか出てこなかったからだ。
 彼に何を伝えればいいのか。私も好きだと言ったら困らせてしまうのではないか。そんな不安ばかりが大きくなっていき、何も言えなかった。

 今はただ、彼と過ごす幻のような時間にただ浸っていたかった。

prev back next

top