Agapanthus
君からの悪戯が欲しい【ハロウィン】
「と、Trick or Treat! お菓子くれなきゃ、悪戯しちゃうぞ! ……なんて」
「……ええっと」
私の言葉に目を見開いた。じっと見つめる彼に居た堪れない気持ちを覚える。あははっと乾いた笑いを浮かべて誤魔化そうとした時、彼がポケットから何かを取り出した。
「これはどうかな? 今日現場でお菓子を貰ったんだ」
「わぁ! 美味しそう!」
「でも、これは私が貰ったものだから、君には渡せないね。だから残念、君に悪戯をしてもらうことになる」
「え?」
予想外。彼なら今日というハロウィンのイベントを楽しみにしているから、もちろんお菓子を用意してくれていると思っていた。
「えっと。ほら、飴とかでもいいんだよ? お菓子ならなんでも」
ポケットの中にはもうない? と、無茶な質問を投げかけると、彼はそっと微笑んだ。
「……君に委ねるよ。もちろん、このお菓子が欲しいならあげることができるけど、もし意地悪をしたいなら、許してあげるよ」
「凪砂くんは私に悪戯してほしいの……?」
「君からの悪戯は、どんなお菓子よりも甘いからね。でも、君次第だよ」
そう言って私の顎に指を添えた。細く弧を描いた目の奥は私を捕えていた。これは、「悪戯をしたい」と言わせるつもりだ。
「……じゃあ、悪戯しちゃうよ。いいの?」
「……ふふ。私の彼女はどんな悪戯をしてくれるのかな」
不適な笑みを浮かべて私の唇をゆっくりとなぞる。彼の視線はそれに落ちていた。
これはキスをしてほしいという、彼からの合図だ。熱のある雰囲気に呑み込まれそうになる。悪戯をするのは私のはずなのに。
彼のペースに引き込まれていくのを阻止する。彼の硬い胸板を押して。
「凪砂くん、悪戯考えたよ。凪砂くんからのキスを禁止するとかはどう?」
「……それは、なかなか痛い悪戯だね」
「ふふ、そうでしょう? なかなかキスができない歯痒さを体験しようね」
ふふんっと得意げに彼を見上げると、眉尻を下げていた。これは私の勝ちだ。
私のペースに彼を取り入れればこっちのものだ。残りの今日をキスなしで終えれば彼への悪戯は大成功だ。
そう思い、ソファから立ちあがった瞬間、視界が反転した。大きな影が私を覆っていた。
何が起きたのかわからずに瞬きをすると、私の手を強く握っていた。
「あ、の凪砂くん……?」
彼の瞳が、どこか苦しそうに揺れている。どれほどまでに私に触れたいのか、それだけで痛いほどに伝わる。胸の奥がきゅっと甘く疼いた。
「……凪砂くん、これは私からの悪戯だから、だめだよ」
彼の瞳に映る自分の姿が、やけに近くてふと視線を逸らす。見ていたら、容易に許してしまいそうだから。息が止まりそうなほど唇を硬く結んだ。
ふいっと顔を背けると、彼はそれを見逃さずに追いついてくる。
「そんなに、キスしたいの?」
愚問だ。彼が私とキスをしたいと思っているのは明白なのに、確かめてしまう。彼の言葉で聞きたくて。
「……うん。なかなかに効く悪戯だね」
私を見下ろす彼は待てをされた犬のように欲望を抑えていた。私からのご褒美——キスを待つかのように。
「そっか。じゃあ悪戯、成功だね」
キスをしたらダメだと自分で言ったというのに、彼のこんな表情を見ては心が揺れ動く。私を心の底から求めてくれる。そんな状況を目の当たりにしては「キスしてもいいよ」と、言ってしまいそうだ。
何か言おうと口を開いては噤んでしまう。今更引き下がるのも少しだけ悔しいから。
そんな私の様子をこの距離なんだから、彼もわかっている。私の本音は彼に透けて見えているだろう。
「……でも、私からはできない分、君からしてもらうのはありだよね」
「へ?」
間抜けな声が漏れる。先ほどまで懇願したように私を見ていた彼はどこに行ったんだろうか。
「あ、ありなのかな」
「……うん。私からはダメだけど、君からは良いはずだよ」
「でも、それって悪戯なのかな……」
「うん。君の好きなタイミングでしていいんだ。今すぐにでもしたい私にとってはこの上ない悪戯だよ」
そう捲し立てるかのように言って瞼を閉じる彼に、反論できなかった。確かに、私はキスを禁止したわけではないのだから。
「じゃ、じゃあ——瞼、閉じて」
従順にコクリとひとつ頷いた彼は私のなすべきままだ。
彼の膝の上に対面するように乗って、首の後ろに手をかける。自然と彼の手は私の腰に添えられた。
「……っ!」
優しく撫でられて背筋が伸びる。その反応が伝わったのか、彼の口角は少しだけ上がっていた。
「絶対に動いちゃだめだよ」
「……わかった。動かないよ。君が何をしてくれるのかちゃんと感じたいからね」
彼の綺麗で整った顔を間近にすると、緊張が走る。いつも瞼を閉じて、彼のキスを一心に受け止めるだけの私が、彼にキスをしようとしていて、その上焦らそうとしているのだから。
彼の顔をじっと眺める。何分経っただろうか。時計を見ている暇もないほど、愛しい人の顔は飽きないものらしい。
そろそろ、彼も限界なはずだ。腰に回る手の力も心なしか強まっている気がする。
「凪砂くん、キスしたい?」
「…………うん。正直したい。でも君が焦らすのもそれでいいね。こうして、君の体温を感じられると心地いいから」
彼なら我慢できないと、このままキスをしてしまうかと思っていた。この短時間に彼は私のことをどう思っていたのか、想像するだけで胸の奥がじんわりと温かくなっていく。それと同時に、私にキスをしたい衝動を抑えられるという事実に少しだけ妬ましく思う。
「それじゃあ、このままでも凪砂くんは耐えられるの?」
瞼をゆっくりと開くと、穏やかな笑みの裏に、静かな熱が滲んでいた
「君の息が私に触れるたびに鼓動が早くなっていく。それでも、君が望むなら、私はいつまでも『待て』を続けるよ」
ぎゅっと互いの温もりが溶け合った。優しく、力強い抱擁に私の胸も蕩けそうだった。それだけでいいのかもしれない。でも——
「……私は、耐えられないよ」
その一言を耳にした途端、息を呑むように彼の首元は強張った。喉仏が大きく上下した気がした。
「……そう。それじゃあ、我慢しないで、君はどうしたい?」
あくまでも、私に選択を委ねる。狡い。否、今の状況で言うと、狡いのは私の方だ。彼に『待て』をし続けて、焦らして彼を弄んでいるのだから。
「凪砂くんの思い通りになると悔しい」
「ふふ、つまりそれは私の思い通りになってくれたということだね」
クスッと笑った彼に、悔しさを覚えると共に、彼に染められているのだということに胸が波立った。彼の悪戯な瞳に見つめられると、彼の中に溶けていくようで溺れたいと直感する。
「……凪砂くん。もう一度、目閉じて」
色のある言葉の響きに、先ほどとは異なる雰囲気だと彼は悟る。彼の唇に吸い込まれるように上唇に優しく触れて、ゆっくりと口付けた。短いだけの軽いキス。それでもお預けをされていた彼には充分すぎるほどだっただろう。
でも、一度だけでは足りない。そう感じているのは彼だけではなく私も。こんなに彼にダメだと言っていたのは自分なのに、どうしようもなく彼とのキスに渇いていた。
再び口付けると、彼の瞳が私の瞳を捕らえて離さなかった。約束通り、彼は一度も動いてはいないのに、視線だけで私を誘っていた。
またしたいと思うほどに。
「凪砂くん、」
「うん。私も余裕を見せていたけど、思っていた以上に限界だったのかもしれない」
そう言って私を真っ直ぐに見つめる彼が愛しくて、強請るようにキスを続けた。唇を重ねるだけの行為。彼はかつてキスに意味を見出せないと言っていたけれど、今ではこんなにもキスをしたがるようになってしまった。たったそれだけの行為が、互いの熱を、想いを共有させてくれる。
「凪砂くん、悔しい?」
「……ふふ。そうだね。この悪戯はやっぱり成功だよ。こんなにも君が欲しくて堪らないと思ったから」
「じゃあ、私の『勝ち』だね」
「うん。君になら負けてもいいと思えるよ」
笑いながら額を合わせては唇を絡める。幾度交わしても満たされない渇きを潤すように、ハロウィンという口実で互いに求め合った。 prev back next