「ケニー?」

たった今までダンブルドアのローブを握って怒鳴っていた体が、危なげに傾いだ気がして名前を呼ぶ。マダム・ポンフリーと僕の間に倒れ込んだ彼は既に意識を失っていた。えもしれぬ恐怖が全身を駆け巡って、鳥肌がたつ。もう一度名前を呼んだ。返事はない。

「おい!!」

マダムが頬を叩いてもなんの反応もない。フレッドやジョージ、リーが異変に気付いて駆け寄ろうとして、大人たちに阻まれているのを視界の端で捉えた。動かないケニーの体が担架に乗せられて運ばれているのについていこうとして、その腕を捉えられる。力任せにふりほどこうとして、それがマダムの手だと気が付いた。

「あなたが行ってもどうしようもありません」

頭で理解できても納得できるわけじゃない。でも、と言いよどむ僕を、そっとマダムは抱きしめた。歯がゆくて唇を噛む。何かしたいのに、してやりたいのに、何もできない自分が本当に、恨めしい。
ふと自分の体を見下ろすと、すがりついた名残でか、服がぐっしょりと彼の血で濡れていた。彼が横たわっていた場所も同じく血の跡が残っていて、そんな出血量だったのかと、背筋がうすら寒くなる。ひとつ不安になると、それが波のようにどっと押し寄せてきて、ぎゅっと拳に力をこめた。手のひらは乾きかけの冷たい血でぬるついていた。

「私と一緒に医務室に行きましょう」

背中を押されるままに歩く。どこをどう歩いたのか覚えていなかった。乾ききっていない血は僕に、ケニーが死んでしまうかもしれないという恐怖と、まだ生きているかもしれないという希望を抱かせた。血が乾ききってしまえば、彼が死んでしまうような気がした。

「シャワーを浴びてきたほうがいいでしょう」

だから、そう提案してきたマダムの提案はやんわり断った。血濡れの体で椅子に座ったり壁に寄りかかったりするわけにもいかず、なんとなく立ち尽くしていると、バーンと扉が開いた。見知った顔がどやどやとなだれ込んでくる。ウィーズリー夫人、ビル、ロン、ハーマイオニーだ。彼らは僕の姿を見てショックを受けたような顔をしていたけれど、すぐに口を開いた。

「ハリーはここにはいないの?ケニーは?」

ロンの問いにゆるりと首を振る。

「ハリーは来ていない。ケニーは聖マンゴだ」
「そんなに酷いの?」
「分からない」

ウィーズリー夫人が声を詰まらせた。
言えるわけがない。試合の先で何が起こっていたのか、何がケニーを──ハリー・ポッターを待ち構えていたのか。ハリーが泣いていた理由。あいつが大怪我をした理由。分からない、という誤魔化しは最も的確な表現だっただろう。だって実際、僕にも詳細は分からないのだ。

「セドリックは、第三の課題の中でピーターに殺されるはずだったからさ」

“本来”三大魔法学校対抗試合でホグワーツの代表選手に選ばれていたのは、ハッフルパフのセドリック・ディゴリーだったという。何も知らず、警戒する準備すら出来ていない彼はあの試合で待ち構えていた闇の帝王に殺される。正しくは帝王の命を受けた、あの忌々しいピーター・ペティグリューに、だったか。
闇の帝王の手から生きて逃れるなど、不可能に等しい。とすれば、殺されず生きて戻ってきたあいつはかなり健闘した方なのだろう。
手が血で滑る。
ダンブルドアは、ケニーが闇の帝王の毒蛇──ナギニ──に噛まれたのだろうと言っていた。かつて闇の帝王は、裏切り者やマグルをよくあの毒蛇に生きながら喰わせたりいたずらに噛みかせて嬲ったりと、拷問目的で利用していたように思う。あの蛇の毒が何なのかまでは、知らない。闇の帝王の蛇だ。簡単に血清が見つかるような毒ではないだろう。
最悪の結末に繋がる可能性をいくつも思い描いて、無理矢理可能性を潰していく。きっと大丈夫だ。そう信じるしかない。

「ハリー!」

考えに没頭していたら、ウィーズリー夫人が突然叫んだのでびくっとした。ダンブルドアが、ハリーとシリウス、ルーピンを連れてきたところだったらしい。感極まった様子で駆け寄ろうとした夫人との間にダンブルドアが立ちはだかった。

「モリー、ちょっと聞いておくれ。ハリーは今夜、恐ろしい試練をくぐり抜けてきた。それをわしのために、もう一度再現してくれたばかりじゃ。今ハリーに必要なのは、安らかに、静かに眠ることじゃ。もしハリーがみなにここにいて欲しければ──」

ダンブルドアはぐるりと僕らを見回した。

「そうして欲しい。しかし、ハリーが答えられる状態になるまでは、質問をしてはならぬ。今夜は絶対に質問をしてはならぬ」

ウィーズリー夫人は青ざめながらも頷き、まるでロン達が今までとてもうるさくしていたかのように、しーっと言ってみんなを叱った。

「分かったの?ハリーは安静が必要なのよ!」

ハリーは真ん中のベッドにもぞもぞと体を突っ込んだ。その向こうに、マッド=アイの足が見えた。いつのまに運ばれてきたのだろう。自分の体をいま一度見下ろして、さっと周囲の人々の顔を確認した。ケニーの血にまみれた僕はハリーにとって刺激が強すぎるけれど、誰かから事の真相を聞いて、頭の中の情報を整理したかった。
僕はルーピンの腕を掴んで、ほとんど駆けるようにして医務室を出た。彼がハリーと一緒に来たのなら、ダンブルドアが言うところの「恐ろしい試練を再現してくれた」事のすべてを聞いていたはずだ。

「それで」

空き教室の中にルーピンの背中を押し込んで、バタンと扉を閉める。彼を選んだのは、単純な消去法だ。ダンブルドアはこれから事後処理に忙しいだろうし、シリウスはてこでもハリーの傍から離れはしないだろう。だとすれば、本人には申し訳ないが、彼に話を聞くしかないのだ。

「まさか僕にまで質問をしてはいけないだなんて、言うつもりはありませんよね?」

僕には知る権利があるのだと暗に含ませてみせると、ルーピンはやや疲れた表情をしながらもしっかりと頷いてくれた。

「ああ、もちろんだ…君には、真実を知る権利があるだろう」
「そうですか。では」

いったん言葉を切って、「何も知らないはずのレグルス・アディントン」がまず発するべき言葉は何かを考えて、口を開いた。

「僕の友人をあんな風にしてくれたのは、どこのどいつですか?」






事の次第を聞いて、怒りの衝動をやっとこらえながら医務室へ戻る。どうやら新しい顔ぶれが揃っていたらしく、知らない声が怒鳴り散らす声が聞こえた。怒鳴り散らしたいのはこっちだ。

「しかし、しかしだ!だからといって、ダンブルドア!彼らの証言が世間を信用させ足り得るのか?蛇と話をしたりするような子が?」
「愚か者!バーティ・クラウチ・シニア、ケニー・アディントン──彼らが何に襲われたのだとお思いなのですか!?」

マクゴナガルが激しく叫ぶのは初めて見た。僕は驚いて、きっちりと結わえられた髪を振り乱さんばかりで怒鳴るマクゴナガルをまじまじと見つめた。脳裏に描いていたファッジに対する文句も吹っ飛んだ。

「クラウチ氏が狂気の無差別殺人の手に掛かったとでも言うのですか!アディントンとポッターがこの!ホグワーツから!なんとなくいなくなって、そして大怪我をして帰ってきたとでも言うのですか!!」
「知るものか!少なくとも、間違っても、『例のあの人』は微塵も関わっていない!関わっているはずがない!!」

マクゴナガルに負けず劣らず顔を真っ赤にさせたファッジが、唾を飛ばす勢いで叫んだ。

「どうやら諸君は、この13年間、我々が営々として築き上げてきたものを全て覆すような大混乱を引き起こそうという所存なのだな!?」

あまりに愚かすぎる発言で、体からサッと体温が引いたのは僕だけではないだろう。少なくとも、ここにいる何人かは、分別がついたはずだ。この男は、自らが腰掛けた大臣の椅子を手放したくが無いために、紛れも無い事実から目を背けようとしている。

「ヴォルデモートは帰ってきた」

ダンブルドアは繰り返した。

「あなたがその事実を認め、必要な措置を講じるのならば、コーネリウス。我々はこの状況を改善することができるかもしれぬ。まずはアズカバンを吸魂鬼の支配から解き放つのじゃ──」
「とんでもない!」
「そして、巨人に使者を送るのじゃ。どちらも、すぐさま行わねばならん」
「きょ、巨人に使者?」

ファッジは、ぱくぱくと口を何度か動かしていたが、言う言葉がまとまったらしく顔を真っ赤にして叫んだ。

「正気か?そんな事をしたら、私の政治生命は終わりだ──それどころか、」
「今は自分の役職に恋々としている場合ではないのじゃ、コーネリウス!」

ダンブルドアはブルーの瞳の奥にエネルギーの塊をめらめらとたぎらせながら、ファッジに詰め寄った。闇の帝王が恐れた人物たるその様を見せ付けられているようで、ごくりと唾を飲み込む。

「ヴォルデモートが猛威を振るっておった時代を、まだ覚えておるはずじゃ!恐ろしい数の死喰い人、あらゆる闇の生き物──その全てが、我々の隣人の命を脅かしていたことを!もう一度言う、わしの言った措置を取るのじゃ。そうすれば、君の名は結果として最も勇敢で偉大な魔王使いとして魔法史に刻まれるじゃろう。もし、行動しなければ、歴史はあなたを、ヴォルデモートが世界を破壊しようとする様をただ傍観していただけの男として記憶するのじゃ!」

じり、とファッジがダンブルドアから退いた。その唇は「狂っている」という言葉を形作ったように見えた。そんなファッジを見据え、ダンブルドアは静かに呟いた。

「………そこまで目をつぶろうという意思が固いなら、コーネリウス。わしと君は、袂を分かつほかなさそうじゃ」






それが先日、医務室で起こった出来事だった。
僕は後から、クラウチ氏を殺したのが彼の息子──バーティ・クラウチ・ジュニアだと聞いた。心の中でぐるぐるとした思いを打ち明けてしまえる唯一の友は、今は聖マンゴにいる。

「…バーティ」

ずっと昔、確かに友だった魔法使いの名を呟きながら、主人の帰りを待っている不死鳥の背を撫でた。歌うような鳴き声が僕の傷を癒してくれたような気がして、そっと微笑み返す。
死喰い人の裁判記録を調べているうちに知った、彼の死。どこぞの鼠のようにしぶとく生きているのだと思えば、死よりもむごい罰を与えられて。

「(もう、話すらできなくなってしまった)」

彼が吸魂鬼にキスを執行されたと知ったのに、僕は旧友の不幸を悲しむことが出来なかった。彼と闇の帝王が企てた計画に、ケニーが巻き込まれてしまったからかもしれない。

「(僕とバーティが友人だって事も、彼は知っていたんだろうか)」

仮に教えてもらっていたら、僕はケニーとバーティ、どっちを見捨てる事になっていたんだろう。ふと湧いた疑問から視線を反らすようにかぶりを振る。
どちらにしろ、僕は昔から気付くのが遅すぎるんだ。気付いたときには、僕の大切なものは全て、もう取り替えしのつかない事態に陥っているんだから。

「──、」

傍らで身を休めていた赤い鳥が、大きく翼を広げて羽ばたいた。穏やかな太陽の光に向かって飛び上がり、力強く声を響かせている。主に届けと言わんばかりに。

「レグルス!」

大きな声が後ろから聞こえて、振り返る。なにやら大きな包みを抱えたハリーが、階段を駆け上がって来ていた。

「ハリー?退院したのか」
「っ、あの。これ」

ハリーは僕の手にジャラリと重い音を響かせる袋を押しつけた。重い袋の中身に合点がいった僕は、その袋をハリーの手元に押し返した。きっとこれは、対抗試合の賞金だ。

「僕は受け取れない」
「受け取って。ケニーが一番先に着いたんだ。これは、ケニーがもらうべきものだったんだ」
「いいや。これは君のものだ」

戸惑うハリーに曖昧に笑いかけて、上に手を伸ばす。赤い羽根を広げて舞い降りたスカーレットは、ハリーに向かって黒い目をぱちぱちと瞬かせていた。

「あいつもその方が喜ぶだろうしね」

ゆるりと首を振って、寂しさを紛らわせるように甘えてくるスカーレットの嘴を撫でながら自嘲する。あいつを恋しがっているのは、自分もだと気付いたから。
赤い不死鳥が、気持ちよさそうにとろりと目を伏せた。



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