「話がある」
そう言ったマルフォイと二人きりで、誰もいないホグワーツの廊下を歩いた。出会い頭に皮肉を浴びせるでもなく、呪いをぶつけ合うわけでもない。ただ話をするためだけに彼と連れ立って城の中を歩くだなんて、一年生の頃の僕だったら思いもよらなかっただろう。窓の隙間から差し込んだ夏らしくじりじりとした汗ばむ陽気を避けて、瞬きする。
宿題もない、復習もしなくていい、少なくとも夏休みが来るまでは。そんな、あとちょっとの楽しみを味わうために、みんな校庭に遊びに出ているらしい。クィディッチ競技場を飛び交う誰かの姿が遠目に見えた。
校庭を横切って湖から少し離れた木陰に腰を下ろしたマルフォイは、しばらく何も言わなかった。マルフォイに倣って、湖を見下ろす。どうやらそこにも生徒がいたらしい。大イカと一緒になって泳いでいる楽しそうな笑い声が、ここまで届いていた。
シリウスは助かった。ケガはしたけど、みんな無事だ。誰も死んでない。なのに、僕にはあんな風に笑ったりする事ができそうになかった。予言の事だとかレグルスの事だとか、原因はいろいろあるけれど──その一つに、彼の事がある。
「あの」
少し躊躇ってから、ロンともハーマイオニーとも避け続けていた言葉を口にした。
「君のパパの事だけど」
「父上の逮捕の件なら、いい」
マルフォイは湖を見下ろしながら遮るように言った。
「アズカバンにはもう吸魂鬼がいない。逮捕されたところで、父上はすぐに出る事ができるだろう」
「………」
ざわざわと木が揺れる。淡々と、まるで他人事みたいに話すマルフォイになんて言ったらいいのか分からなくて、ただ膝を抱え直した。視線を湖の水面に向ける。マルフォイがこちらを見た気がしたけど、気付かないふりをした。
「言いたい事は、分かっているだろう?」
マルフォイから話を切り出された事が腹立たしい。そしてこういう話をされるんじゃないかって、予想が当たった事にも腹が立つ。予想してしまった自分自身にも。
いつかこんな日が来るって知っていた。でも、こんな終わりは望んでいなかった。曖昧にしてた事をはっきりさせなきゃいけない。結局は敵になるだなんて、そんな事は。
「分からないよ」
吐き捨てるように叫んだ。怒っていたはずなのに泣きそうな声が出た。マルフォイが笑う。誰かを嘲っていない笑い声を初めて聞いた気がした。きっと気のせいじゃない。
「僕らは僕らだって、言ったじゃないか」
「もう状況が許してくれない」
「そんな、事は」
「一年も無かったけど。君たちとの秘密の関係は楽しかった、ポッター」
マルフォイは静かに、でも有無を言わせない口調で呟いた。立ち上がったマルフォイはしっかりと背筋を伸ばして前を向いていた。
どうしてそんな、もう終わりみたいな言い方をするんだ。
「三年生の時、初めて君たちの方を向いて…四年生の時、君たちと向き合って。今年は少しだけ、君たちと同じ道を歩んだ気がする」
「…っ」
マルフォイが言うから、その時々の思い出が頭の中を駆け巡る。
バックビークの件で、ハーマイオニーがマルフォイを叩いた音。第一の課題の時、朝もやの中で食べたトーストの味。そして僕らを馬鹿だと罵った、マルフォイの声。
ぶちまけたい気持ちが喉奥までせりあがってきているのに、それは言葉にならない。今何かを言わなければならないのに。マルフォイの言葉を止めなければならないのに。
「僕は君たちとの思い出を大事にしまっておく。誰にも見られないように、心の奥深くに」
緑のネクタイごとローブを握り締めたマルフォイは、その手で僕に手を差し伸べた。
唇を噛みしめる。その手を振り払えたらいいのに。でも、マルフォイがどんな気持ちで僕に話をしているのか考えたら、振り払えるわけもない。
ここにロンがいたら、あの時みたいにマルフォイを言いくるめてくれたんだろうか。ハーマイオニーがいたら、マルフォイを説き伏せてくれただろうか。
僕一人じゃ止められない。たった一人でヴォルデモートと死喰い人の中に進んでいく彼を。
歯を食いしばりながら、ゆっくりと右手を上げた。
「ありがとう」
こんなに素直にお礼を言うマルフォイなんて見たくなかった。悔しくて前を向いていられないけど、どんな顔をしているか予想はつく。むかつくくらい綺麗に微笑んでいるんだろう。
今になって、いっそ仲が悪かった方がよかっただんて馬鹿な事を言ったマルフォイの気持ちが理解できるだなんて。あらん限りの力でドラコの手を握りしめたけど、彼は何も言わなかった。何も言えないのは、僕の方だった。
「…ウィーズリーとグレンジャーに、よろしく言っておいてくれ」
手を離したマルフォイは振り返らない。相変わらずしゃんと背を伸ばしたまま歩いていく。心の中であんなに渦巻いていた怒りが、マルフォイの背中を見ていたらあっという間に収まった。今はただ悲しい。どうして悲しいのかって、考える間でもなかった。
「(どうして思い出なんかにするんだ)」
彼の中で、僕らとの一年間が過去になっているらしい事が、こんなにも悲しくて腹立たしい。でも、彼曰く「状況が許してくれない」から、何も言えない。僕は、たくさんの大人から守られる立場で、マルフォイは大人によって矢面に立たされる立場だからだ。
一年前も今も立場はなんら変わっていないのに、何かが決定的に違う。マルフォイと僕との間に、埋められない溝を感じる。そう感じるのは、彼の何かが変わってしまったからなのだろう。僕だって、変わっていないと言えば嘘になる。
「マルフォイ」
名前を呼ぶ。彼は振り返らなかった。
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