「遅くね?」

フレッドとジョージから贈られたチェスセットから顔も上げずに、リーが唐突に呟いた。読書の片手間に相手をしていた僕も顏を上げない。ルークを進めて、リーのナイトの胴体をかち割った。
あいつはどこに行くと言っていただろう。確か──外の空気を吸いに行ってくる、だったか。

「便所できばってんのかな」
「五両目は故障中だと貼り紙があったぞ」
「三両目の個室、くせえんだよな」
「だったら七両目だ」

リーのナイトが僕のキングを仕留めて試合が終わった。チェスの試合はもう三回目になる。列車の旅には娯楽が乏しいので、どうしても同じ事をして時間を潰さなくてはならない。あとは寝るかだ。
飽きたらしく、了承をとってリーがチェスセットをガタガタと片付けを始める。今持っている本はもう少しで読み終えてしまうので、僕も暇だった。栞を挟んでいる本を隣に置く。

「僕も外の空気を吸いに行ってくる」
「個室でくたばってたら、教えろよ。からかいに行くから」

リーの冗談に苦笑を返して、コンパートメントを出た。
リーと僕の情報を合わせて、ケニーはきっと七両目から後ろにいるんだろうと当たりをつけてみる。まったく、遠い所まで空気を吸いに行ったものだ。外の空気を吸うだなんて、窓を開ければ済む事なのに。

ところが。
七両目のトイレに彼はいなかった。九両目にもいない。道すがら、すれ違ったりもしていない。暇だからと機関室から一両一両見て回ったが、いない。
18歳の男子、まして精神ではずっと成熟した大人にまっすぐ帰って来いだなんて、子供に言い聞かせる事はしないけれど。いったいどこをほっつき歩いているのか──疑問半分呆れ半分そう思ってコンパートメントを出た時に、思いがけないものが目に入った。

「…。ハーマイオニー?」

最後尾の、扉のすぐ傍。なぜか床に座り込んで眠っているハーマイオニーがいた。ご丁寧に誰かのコートがかけてある。とりあえず駆け寄って起こそうとして、彼女に掛けられたコートが探し人のものだと気が付いた。

「ハーマイオニー、起きてくれ」
「…レグルス?」

寝ぼけ眼で目を擦った彼女は、辺りを見渡しながらぼうっとしている。ここがホグワーツ特急の廊下で、最後尾で眠りこけていたのだと把握した彼女は顔を赤くしながらしゃんと立ち上がった。

「ハーマイオニー、ケニーを見ていないか?」
「ケニー?いいえ、知らないわ」

私、どうしてこんな所で寝ていたのかしら。そう呟きながらジーパンの裾を叩いた彼女に小さな違和を覚える。
例えば何かが原因で、ハーマイオニーが眠ってしまったとして。こんな場所で寝ている彼女を、あいつが上着をかけたまま放置するだろうか。あいつじゃなくとも、普通なら誰かに知らせるなりなんなりして──せめてハリー達や彼女の知り合いがいるコンパートメントまで連れて行くんじゃないのか。

「…本当にケニーを見ていないのか?」
「ええ。だって、特急に乗ってから彼を見てないもの」

どうしてそんな事を聞くのか分からないといった顔をしている彼女は、僕が持っているコートが彼のものだと分からないようだ。
ケニーに会っていないのなら、どうしてこのコートがここにある?そもそもあいつはコンパートメントを出る時、手荷物を持ってなかった。
何かがおかしい。そう思って、僕はハーマイオニーを連れてコンパートメントに戻った。






ケニーがいない。
リーに声をかけて、ハーマイオニーがハリー達に声をかけて、彼の不在がDAメンバーに伝わって。ホグワーツ特急内を探せるだけ探し回ったけど、彼はどこにもいなかった。
死喰い人の襲撃に遭ったのかもしれない、そう思って特急を止めるように願い出たけれど、もうあと数十分でロンドンに着くからと断られてしまった。

「騎士団の人に相談しましょう。きっと助けてくれるわ」

ハーマイオニーの提案採用して、僕らは特急が着くや否やトランクをひっ掴んで列車を飛び下りた。ロン達を迎えにきたウィーズリー夫人とハリーを迎えにきたシリウスを除いたとしても、護衛のために何人か騎士団の人間がいるはずだ。
ところが、煉瓦の向こう側から飛び出して一歩踏み出した瞬間、僕の腕を誰かが思いきり掴んだ。

「何──?」
「荷物はこれで全部か?」

僕の腕を掴んだのは厳しい顔をしたシリウスだった。騎士団のメンバーがそれぞれ、僕のあとに飛び出したみんなを捕まえた。流行と贅沢が一周回ってけばけばしい恰好をしたフレッドとジョージも、宇宙人よろしく左右からロンを羽交い絞めにしている。
再会の挨拶もままならないうちに、ハリーを捕まえたムーディと、リーとアンジェリーナとアリシアを捕まえたキングズリーがシリウスに頷き返した。

「それでは、1時間後に」
「ああ」

キングズリーの返事を最後まで聞かないうちに、付き添い姿くらましの感覚が体を襲った。何も理解できないうちにグリモールド・プレイスの玄関に押し込まれ、後ろから押されて尻もちを尽きかける。たたらを踏んで体勢を整えているうちに、背後でバタンと扉が閉まる音がした。フレッドに付き添われたロン、ジョージ、夫人に付き添われたジニー。全員が入って、玄関が施錠される。
ハリーはムーディがおじおばの家に連れて行くんだろう。そうでないと、彼のためにダンブルドアがかけた守りの魔法が持続されないからだ。ケニーにそう聞いている。だから彼の行方は理解できる。
けれど。

「シリウス、ケニーが」
「君はこっちだ」

質問には答えずに、シリウスは僕を奥の部屋に押し込んだ。後ろでウィーズリー家の子供たちが騒いでいるが、きっと僕と同じような疑問を大人たちにぶつけているはずだ。
何も言わずに扉を閉めたシリウスに疑問を抱きながら正面を見て──息を呑む。

「昨夜ぶりじゃのう」
「…ダンブルドア、先生」

数時間前にホグワーツで生徒を送り出したばかりの彼が、どうしてここに。
ゆっくりと唾を飲み込みながら、ダンブルドアが椅子に腰掛けるのを見守った。朗らかに微笑んでいるが、その内で何を考えているかは、分からない。
促されるままに向かいの椅子へ腰かけた。座る以外の選択肢があるのなら教えてほしいが。

「君の事を知ってから、一度話す機会を設けねばと思っておった」
「…やはり、僕は信用できませんか」
「わしは全ての生徒を信じておるよ──死喰い人は別じゃがの」

それはつまり、僕を信用していないのと同義だ。背もたれに体重を掛けながらため息をつくと、目の前の老人は髭でこよりを作りながら言葉を続けた。

「"君"は17年前、ヴォルデモートに縁のある品を盗んで死んだそうじゃの。じゃが、それだけでは信用に足りんかった」
「………」
「ヴォルデモートを裏切った事が、我々の味方であるという証拠にはならんからのう。シリウスが君を信じようと、スネイプ先生が否と言おうと関係はない」
「…ええ」
「しかしそれは、もうよいのじゃ」

質問を促して見つめ返してみても、ダンブルドアは答えない。

「レグルス。わしがここに来たのは、君が敵か味方かを尋問するためではない。君にある事を約束させるためじゃ」
「約束?」
「君は今後一切、わしの許可なくグリモールド・プレイスを出てはならん」

部屋の壁にかけてある古い掛け時計がこちこちと時を刻む音だけが、しばらくの間部屋に響いた。

「何ですって?」
「君は今後一切、わしの許可なくグリモールド・プレイスを出てはならん」

一字一句違えずに同じ言葉を繰り返したダンブルドアは、半月メガネの向こう側から僕を見据えた。生徒を慈しむ校長としての柔和な眼差しではない。ヴォルデモートが恐れた唯一の人物の、眼差しだった。

「君は、先日魔法省の神秘部で死の呪文を浴びて生き残っておる。ハリーのように母親の守りがあるわけでもない。これをヴォルデモートはどう捉えるじゃろうか?」
「闇の帝王は…僕が生きていることを知らないでしょう」
「君が医務室に学期末まで入院していた事も、昨夜の宴会に君が五体満足で参加していた事も、学校中の生徒が知っておる。直接目にしておらずとも、君が生きているとあ奴の耳に入るのは時間の問題じゃ」

ダンブルドアは淡々と続けた。

「何が理由であれ、君が死を退けたのは事実じゃ。あ奴が君に興味を持たないはずがあろうか?今や君には、ハリーと同等かそれ以上の危険が迫っておる」
「………」
「レギュラスが君だと知れるのも、かつての君が裏切ったと知れるのもまだ先の話じゃろう──ヴォルデモート卿が命以上に大切にしていたものを、君らに破壊されたと知るのはギリギリまで先伸ばしにするつもりじゃが」

意味が分からなくて困惑するしかなかった。ダンブルドアは僕を信用していない。なのにここに、不死鳥の騎士団の本部に匿おうとしている。
ハリーの保護を第一とするこの老人が、僕を彼と同じ屋根の下に置くだなんて。死喰い人を快く思ってない人物、ハリーを大事に思う人たちなら──騎士団なら、了承しない。
シリウスが申し出たのだろうか?いや違う。ダンブルドアが疑うなら、団員であろうとその意思をねじ曲げる事はできない。
まさかクリーチャーが懇願したのか?いや違う。主人であるシリウスが否と言うなら屋敷しもべ妖精は逆らえない。そもそもクリーチャーは僕のことを知らないはずだ、まだ。
ならば。

「…あいつがあなたに持ちかけたんですね」
「はて?」
「とぼけないでください。あいつです、ケニー・アディントン!」

顔を覆っていた手で握り拳を作り机を殴りつけて吠えても、ダンブルドアは涼しい顔をしていた。

「あなたはさっき、僕"ら"が破壊したと言った。分霊箱を破壊した事は、あいつと僕しか知らないことだ!秘密主義者のあいつが喋ったとしたら、必要だからあなたに話したんだ。あなたの知らない情報と引き換えに僕の保護を求めたのなら、説明がつく!」
「さすが、頭の回転が早い」

白々しく感想を述べているダンブルドアに腹が立つ。わざとヒントを零したくせに。立ち上がって、ダンブルドアを睨みつけた。

「ホグワーツ特急の中で彼は消えた。それもあなたの仕業ですか?」
「それは彼の意思じゃ」
「…一体どんな条件を持ちかけて、あいつの意思を捻じ曲げたんですか」

ケニーの失踪にはダンブルドアが一枚噛んでいる。そう考えればすんなりと納得がいった。
あいつには去年、三大魔法学校対抗試合で怪我を負ってからずっと騎士団の護衛が貼り付いていた。本人が気付いていたのかどうか分からないけれど、ホグワーツから出たら──それこそホグズミードであろうと、彼の傍には護衛がいた。そんな厳戒態勢を敷いておきながら、特急から護衛対象が失踪したのに気付かないわけがない。
それなのに、騎士団はケニーではなく、僕とハリーの安全を優先した。なぜなら、ケニーの所在を心配する必要が無いからだ。つまり、騎士団が把握しているからだ。
もちろん、これは憶測でしかない。ダンブルドアのアイスブルーの瞳からは何も読み取れない。たとえ今開心術を使ったところで、彼の心は読み取れないだろう。だから、ケニーの居場所は分からない。歯軋りする。
すぐにでもとっ捕まえて拳の一発でも入れてやりたい。次は言い訳を言う隙を与えてやらない。僕を守るためだか何だか知らないが、一人で行ってしまうだなんて──そんな、性質の悪い冗談なんて。
歯噛みして、次の言葉を叫ぼうとして、思いもよらない言葉で遮られた。

「もしや、何も聞いておらんのか?」

ダンブルドアが髭をいじる手を止めた。僕の追究も押しとどめられた。息が詰まって、吐き出して、突拍子もない発言に目を丸くする。
尤も、馬鹿みたいに驚いていられたのは彼の言葉の真意を読み取るまでの間だったけれど。

「ああ、そうじゃのう。彼は言うまいて」
「…何をですか」
「彼が伝えておらぬのならば、君は知らずともいい事なのじゃろう。いや失礼」

くるりと踵を返したダンブルドアのローブを握り潰さんばかりに掴む。アイスブルーの瞳に動揺した顔の自分が移っていて、悟られないように呼吸を整えた。しかしダンブルドアは、静かな眼差しで僕を見つめ返した。生徒の身を案じるそれだった。

「彼はもう戻らぬ──君の元にも、ハリーの元にも」

手から力が抜ける。扉を開けたダンブルドアを追う気にはなれなかった。扉の前に貼り付いていたのか、ウィーズリー兄妹の声が飛び込んでくる。

「ねえケニーがいないって、」
「パパもママも理由を教えてくれな、」

ジニーとフレッドの声が途切れる。目の前に、つい数時間前に別れを告げたはずの校長がいたら誰だって言葉を失うだろう。ダンブルドアは扉の前にいた皆にちょっとだけ微笑むと、サッと廊下を横切って玄関をくぐり抜けていった。フレッドが駆けてくる。

「なあ、俺達も何も聞いてないんだ。たださっさとここに帰るようにって」
「待て、フレッド」

ジョージがフレッドの肩を押さえる。覗き込んできたジョージは玄関をちらりと見て、それから僕を見た。

「なんであの人がいるんだ?何があったんだ?」

ダンブルドアの残した言葉で、すべてを悟った。
ケニーは、ダンブルドアに自分の出生の秘密を伝えていたんだ。いつからかは分からない。知っていなければ、"ハリーの元にも戻らない"だなんて言うはずがない。
あいつはどこまで喋ったんだ。出生の秘密も、分霊箱の事も、知っている情報の全てをダンブルドアに話したんだとしたら。
頭の中でひとつの可能性を叩き出し、踵を返した。

「レグルス!?」
「僕のトランクはどこですか!」

リビングに走って、目を丸くしている大人たちの隙間をくぐり抜ける。半分立ち上がりかけていたシリウスの隣にあったトランクを、強引に床に倒した。
わりと気を遣って丁寧に詰め込まれた勉強道具じゃない。気を遣った割に端を揃えて畳まれていない衣類じゃない。トランクの底をひっくり返して、小さな麻袋を──破壊した分霊箱とバジリスクの牙を入れておいた袋を探した。
引っ掴んで、ひっくり返す。転がり出てきたのは、布でくるんだ細い牙だけだった。

「いったいどうした?」

シリウスが屈みこんで、トランクの中を覗き込む。返答している余裕はなくて、べったりと地面にへたり込んだ。

「…僕、は」

僕は彼を理解し、彼も僕を理解していると思っていた。理解しているからこそ、お互いに助け合い、守り合ってきた。もうお互いの間に秘密なんてないと思っていた。
後ろでも、前でもない。僕は、彼の隣に立っているつもりだった。
でも、どうやらそれは間違いだったらしい。

「僕は彼にとって、守るべきものの一つだったんだ」

体が熱くなるほどの怒りを覚えているのに、頭の奥はひどく冷静に現実を受け止めていた。納得していた。思えばあいつはいつだって、本心を言わずに心の奥底に押しとどめておく奴だったから。
昔からそうだったじゃないか──家族への恋しさも、ヴォルデモートへの憎しみも、ぜんぶ笑みの下に隠して。それはひどく屈辱的で、物寂しさがあって。形容しがたい喪失感で心が満ちていく。

「  、」

唇だけで名前を呼んでみた。勝手にたった一人で立つと決めて、勝手に僕らを守る気でいるあいつの名前を。でも。
だったらあいつの事は、誰が守ってやるんだ。




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