それはまだ、ハリー達がホグワーツに戻って間もない頃のこと。
「セドリック。セドリック・ディゴリー!」
生家を出て、グリモールド・プレイスに転がり込んだ彼を呼ぶ声があった。声の主がなぜセドリックを呼んだのかなんとなく興味がわいて、階段を駆け上がっていく彼の背中を追いかける。
狭く長い階段を最上階の踊り場までのぼって、シリウスの自室を覗くと、そこで慌てたようなセドリックの声が聞こえてきた。
「剥がせるなら、それも持って行っていいぞ」
「いりません!」
どうやらシリウスが部屋の掃除をしていたらしい。僕が立っているすぐ先に、大きなごみ袋がふたつ重ねて置いてあった。目だけ動かして部屋を見渡す。
木彫りのヘッドボードがついた大きなベッド。長いビロードのカーテン。大きな縦長の窓は換気のために開け放たれていて、ロンドンの街が広がっているのが見える。古ぼけたシャンデリアが風を受けてきいきいと揺れていた。どうしてここまで汚くできたんだ。チッと舌打ちが漏れそうになったけど、思い直した。だから掃除をしているのか。
シリウスの部屋は、銀と緑の装飾や壁紙に対抗するように、グリフィンドールの赤と黄金の飾りで埋めつくされていた。壁一面に貼りつけられたポスターも、マグルのオートバイの写真も、純血主義を謳った『由緒正しきブラック家』のイメージからはほど遠い。派手な水着を着た女性のポスターが最後に目について、ため息をついた。
「そんなものを欲しがるのはあなただけだ」
「レグルス」
セドリックが驚いた顔をして振り向いた。またひとつ大きなごみ袋を縛り上げたシリウスはニヤニヤと笑っている。なにがおかしいんだか。
「まさか。彼女がこんな格好してたら興奮するだろう?青少年」
「アー、はは、いや…」
笑ってごまかしたセドリックは、慌てて机の上に広がっていた紙ごみに手を伸ばした。
「ほら、掃除を続けましょう。日が暮れますよ」
「じゃあ僕も」
「………」
「なんですかその顔。僕に見つかって困るものでも?」
シリウスが無言で顔を背けたので、僕が掃除の輪の中に加わったのは言うまでもない。
しかしここからが大変だった。
まず例のマグルの女性のポスターをどうにかしてやろうと思ったのに、永久粘着呪文のせいで結局そのままにせざるを得なかったり。引き出しの中を整理し始めたシリウスが、引き出しを傾けたとたんバラバラと降ってきた蜘蛛の死骸に悪態をついたり。
ひと悶着もふた悶着もありながら片づけを手伝っていると、セドリックが壁に貼ってあった写真を見上げて呟いた。
「…ハリー?」
日に焼けてあせた写真に四人のホグワーツ生が写っていた。その中の一人は、とてもハリーに似ている。
クシャクシャの黒髪に、丸い眼鏡をかけた少年。少年はとてもハンサムな友人と肩を組み、満面の笑みを浮かべていた。
「ああ…彼はジェームズだよ」
「ジェームズ」
「ジェームズ・ポッター。ハリーの父親さ」
セドリックの呟きを聞いて隣に立ったシリウスが、懐かしそうに目を細めた。
ジェームズ・ポッター。そしてリリー・ポッター。その息子たち。今や魔法界に生きて、その一家の名前を知らない者をいないだろう。あの頃、シリウスとつるんでいた生意気な青年がまさかあのような最期を遂げるとは、僕さえ思っていなかった。
改めて写真を眺めた。
「よく似ているだろう?」
「そうですね。でも」
「ああ。目だけは、リリーの目だ」
三人の中で、僕だけ、何も言わなかったのを覚えている。正確には言わなかったのではなく、言葉を飲み込んだのだ。
僕は知っていた。ハリーよりも、彼の兄の方が、ずっとよく似た容姿をしているのを。最後に本当の姿を見たのはずっと前だけれど、目を閉じればすぐに思い浮かべることができる。跳ねた黒髪も、ハシバミ色の目も、生意気そうに笑う表情も、その目尻も、本当に──。
だから、確信があったわけじゃない。
セドリックがジェームズ・ポッターを見たのはあの夏の日、ただ一度だけのはずだ。セドリックが覚えていなければそれまで。覚えていたとして、彼がジェームズとケニーに酷似していると気付かなければ僕の"計画"は頓挫する。
孤児院の院長に写真を見せてやってくれ、なんて事も助言していない。友人がそちらを訪ねると伝えただけだ。カトリックの教会で神父を務めるあの人が、友人を名乗る男女に求められるまま口を開くほど、僕らの秘密を軽んじているとも思えない。
すべてが僕の思うように転がればいいなと、ただ、うまくいけばいいと思っただけで。
「(けれど、おそらく)」
突然やって来たと思ったら仏頂面のまま一言も口をきかないセドリックの様子を観察するに、僕の計画は『うまくいった』らしい。
僕はクリーチャーが煎れてくれた紅茶へ、ひとさしミルクを追加した。クリーチャーは僕の好みをよく分かっている。
「冷めるぞ」
セドリックがようやく身じろぎしたのを視界の端で捉えて、僕は彼の唇が開かれるのを辛抱強く待つことにした。
十数秒だろうか。もしかすると数分は経っていたかもしれない。セドリックがのろのろと顔をあげた。
「彼が、彼である限り」
「………」
「僕にそう言ったのを覚えてる?」
セドリックはひどく憔悴した顔をしていた。きっとずいぶんと悩んだのだろう。誰にも言えない秘密を抱え続けるのは、かなり根気のいる事だから。
「『ケニー・アディントンがケニー・アディントンである限り』──、ああ。そういう事かと思ったよ。何もかもが理解できた。彼の行動や物言い、すべてを理解できたさ」
「そうか」
セドリックは息をひとつ吸って、僕を見据えた。
「──いくつか、質問してもいいかな」
「ああ。答えられないことには、答えないが」
セドリックはぐっと唇をひき結んで、瞬きした。
「君は、どうして周りに正体を隠していたんだい?」
「保身さ」
僕はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「レギュラス・ブラックは純血主義で、闇の帝王に心酔した死喰い人だった。グリフィンドールだろうがマグル生まれになろうが、死喰い人と騎士団の因縁が消えるわけじゃない。疑わしきは罰せずとは言うが、ダンブルドアが僕を断罪する可能性はゼロじゃなかった」
「じゃあ、ケニーは?」
それこそ、彼にとってはもう愚問なんじゃなかろうか。そう思ったけれど、敢えて言葉にしてみる。
「もう分かっているんだろう?」
「信じられないから聞いているんじゃないか」
「信じられない?」
「理解はできるけど、釈然としないのさ。あのケニーが」
ケニーが、というところを強調させたセドリックはため息をつきながら背もたれに体重をかけた。
「この15年間、ハリーの兄だっていう秘密を隠してきたなんて」
最初はムーディ。次はダンブルドア。そして、セドリック。 あいつの秘密のおおよその全貌を把握した魔法使いは、これで3人目となる。
そっと息を吸って吐いた僕は、セドリックの言葉の続きを待った。
「僕の知っているケニー・アディントンは、ムードメーカーで、ひょうきんで、飄々としてて…。なんていうかな、こんな秘密を抱え込んでいるような人じゃないと思ってた。ハリーみたいに、戦いの中心にいて、運命を背負っているような人間から、最も遠いところにいるように思っていたんだ」
「………」
「でも彼は戦ってたんだね。ハリーのために。──彼の両親が、例のあの人に殺されてから、ずっと、たった一人生き残った家族のために」
ずっと…。
噛みしめるように呟いて、顔を手のひらで隠してしまったセドリックはそれきり沈黙した。
誰かに──誰かに、知ってほしいと思っていた。
あいつが、僕の真実が公にならないのが嫌だと吐露したように。少しくらい報われたっていいと、そう言ったように。僕だってそう思っていた。願っていた。だから行動したんだ。あいつになんと言われたって構わないとさえ思った。あいつも同じだっただろうから。
それなのに心が罪悪感で軋む。
「どうして黙っていたんだ」
セドリックが喉の奥から絞り出したような声で唸った。
「ケニー・ポッターが生き残っているんだって、すぐ傍にいるんだって、伝えなきゃいけない人がどれだけいると思って!」
「あいつの意志だ」
「生きてる事を隠しておくよりも大事なものがあるっていうのか!?」
「自分を脅かす存在だと予言された赤ん坊を殺すために、闇の帝王が何をした!?」
思わず怒鳴り返してしまったが、もうあとには引けない。引くつもりもなかった。
「そうして一番最初に犠牲になったのが彼の両親だ。あいつは、彼らが死ぬのを見たんだ。どうして自分が生きてると言い出せる?ハリー・ポッターの兄なんて、最も闇の帝王が利用しそうな人間だ!」
「ダンブルドアがいるじゃないか!」
「ダンブルドアの庇護下にも関わらず、親友の妹も名付け親も、みんな『生き残った男の子』を殺すために利用されてきたのに?」
ハリーがそうであるように、あいつも、吸魂鬼が迫ってきた時には彼らの最期の声を聞くのだという。自らが盾になり逃げるよう促す、父親の怒声を。どうか子どもだけはと懇願し、死んでいった母親の悲鳴を。
だからあいつはあんなにも頑ななのだ。ハリーの大事なものにはなりたくない、ハリーの大事なものはすべて闇の帝王が壊してしまうから、と。
「理解しろとは言わない。賛同しろとも言わない。だが、自分勝手な考えであいつを図るな!」
さっきよりも少しだけ静かになったセドリックは、僕をじっと睨みつけてきた。
「嘘だ」
「なに?」
なんの前触れもなく、セドリックは大きな拳を机に振り下ろした。
ガン、と重い音がしてソーサーの上のティースプーンが傾ぐ。遅れて高い音が響いた。
「理解させるつもりで僕に言ったんだろう。賛同させるつもりだったくせに」
一呼吸置いて、セドリックの言葉を待つ。
セドリックは拳の痛みで冷静さを取り戻したようで、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「君が本当に誰にも彼の正体を知らせたくなかったのだとしたら、僕とアリシアにヒントをばらまくはずがない」
「その時に言ったと思うが?彼の幸せを願ってのことだと」
彼は首を横に振った。
「それこそ論外だ。だって君は言っただろう──『僕が彼に優しくするなんて、天地がひっくり返ってもありえない』」
「………」
「君は僕らの中の誰よりも賢いし、自分の命を投げ打つ勇敢さもある。そして誠実だ。でも、やっぱり君の根っこはスリザリンなんだ。君も認めてるように」
否定はしない。
僕は、スリザリンであった自分も、グリフィンドールに選ばれた自分のことも受け入れているからだ。
「君は感情で動くような男じゃない。『大切な人の幸せを願った』それだけじゃないだろう。僕が彼の秘密を知ることで、君にもメリットが少なからずあるはずだ」
僕は、セドリックが膝の上で再び拳を握りしめたのを見つめていた。
「君は、自分の手となり足となる人間が欲しかったんだ。神秘部の一件から半年以上経っても、閉じ込められている君は、何かひとつ行動をとろうとしても監視の目が足枷になる。だから、ケニーの真意も思惑もすべて知ったうえで、自分の協力者たる人間が欲しかった。違うかい?」
──誰だ、彼が二つの事を同時に考えられないほどに鈍いとか吹聴していたのは。双子か。
僕が黙したのを肯定と受け止めたらしい。セドリックが僕の襟首を掴んだのと、拳が風をきる速度で振りかぶられたのはほとんど同時だった。パァン、と高い音がこだます。僕の手のひらが、彼の拳を受け止めた音だった。
「そうだとしたら?」
セドリックの灰色の目に僕が映っていた。
「なら、今すぐここを飛び出してあいつを捕まえればいい。そして自分が見聞きしたことを伝えればいい」
「言えるわけないだろう!」
「なぜだ?あいつの今までが無駄になるからか?」
セドリックの喉仏が動いて、ぐっと重い音がした。図星か。
なんて優しい男なんだろうと笑いがこみあげてくる。さすがは、身内を大事にするハッフルパフの王子と称されただけの事はあるな。
「そんな事は百も承知している」
みし、と手が軋んだ。
「誰かに知ってほしくて始めたわけじゃない。誰かに理解してほしくて打ち明けたわけじゃない。僕もあいつも、分かってて決めたんだ。もう一度言うぞ──君の良識で、あいつを図るな!」
振り払ったセドリックの手は宙で留まって、ゆっくりと重力に従い垂れ下がった。
無駄だと言うのならば、やはり僕らと彼は同じ道を歩めそうにない。
あいつの、自分の事を顧みない頑なな決意は苛烈で、痛々しささえ感じるほどで。守ることで傷だらけになって、その傷ひとつひとつが、守ったものと繋がっていると感じて、幸福を覚えるのだ。その感覚が、狂おしいほどに分かる。
頭の中で、ケニーの姿と、磔にあった聖者の十字架が重なった。
ぞっとする。まるで生きていないようではないか。けれどそれが真実だ。『ケニー・ポッター』はとっくに死んでいるのだから。
「駄目だ」
唐突な否定の声が、僕の手を捕まえて、絡めとった。
セドリックと視線が交錯する。
「そんな事、止めさせなきゃいけない。君が、言わなきゃいけないのに!」
「僕は何も言えない」
「そんなことない」
「言わないんだ。言わない代わりに、あいつの傍にいてやると決めた」
黒い髪が横に振られて、ぱさぱさと揺れた。
「僕は、あいつと一緒だから」
いつかあいつの正体が知れてしまった時の事を、幾度となく考えた。
簡単に受け入れられはしまい。セドリックと同じように、怒りの声が、矢のように降り注ぐだろう。たくさんの人からぶつけられるだろう。
その時に僕はあいつの傍で、共に罵声を受け止めると決めた。だから僕は──あいつを止めることはしない。
「それでも、あいつのために何かしたいと思うなら、それは、君しかできないことだ。セドリック」
「…僕に、しか」
セドリックの瞳は揺れていた。
とっくに僕の手を離し、垂れていた腕を今度はこちらから掴む。
「何だっていい。君が思うことをしたらいい」
そして紡がれた決意を思い浮かべる。
──なら、僕は、否定する
アリシアを前に、あいつを睨む背中を見つめる。握りしめられた拳を、力のこもった眼差しを、脳裏に描く。
──君が彼の罪を共に抱えると言うなら、僕だけは糾弾しよう。みんなが彼の歪さを許したとしても、僕だけは、違うと声を張り上げて否定してみせる
あいつを糾弾した誰もがあいつを憐れみ、結局は許すだろう。僕が結局あいつに絆されてしまったように。後悔することは決してないけれど。
受け入れない正しさ。認めない正しさ。それを、いつまでも貫いてほしい。まぶしいほどの優しさに目を細める。
──僕にしかできない方法で、何度だって
ああ、セドリック。
「…君が羨ましいよ」
呪文と呪文がぶつかる音で、僕の言葉はかき消された。
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