「俺にもバジリスクの声が聞こえたっつったら、どうする?」
背を向けていた疑問が冷水となって、体に浴びせられたような心地がした。暖炉の炎に照らされた彼はどこまでも冷静に言葉を紡いでいく。
「俺にはハリーみたいな傷痕はないし、去年も体に不調はなかった。でも、先祖がえりでもねえのにパーセルマウスって事は、そういう事だろ?なんせ俺は、“ヴォルデモートが破滅した場にいた生きた魂”なんだし」
「違う」
ハリーがそうであるように、ケニーもそうであるという事は。
疑問に答えを出したくなくて、咄嗟に言葉を舌に載せた。心臓がどくどくとうるさい。
「君に限ってそんなはずはない」
言葉尻が震えているのが情けなかった。自分でも、何をこんなに恐れているのか分からない。
ケニーはゆるりと首を横に振った。
「違わない。俺はあいつが作った8個目の分霊箱だ。だから」
「やめろ、言うな」
「俺は死ななきゃならな──」
「やめろ!!」
咄嗟に張り上げた声はしんとした必要の部屋いっぱいにこだました。勢いで立ち上がってしまったまま、ケニーを見下ろす。彼の表情からは何も読み取れない。自分が死ななければならないという事に対する恐怖が、彼にはない。
僕は初めて、彼に得体の知れない恐怖を感じた。
「ハリーの大切なものはみんなヴォルデモートが壊す。だからハリーの大事なもんは全部俺が握り締めて離さないでいてやるって、そう決意した時もあったよ。イレギュラーな俺だから、できることもあるだろうって。でもなぁ、俺じゃ駄目なんだ」
「………」
「俺が生きてる限り、ヴォルデモートは滅びない。だったら俺は、喜んでこの命を捨てる。それこそ、イレギュラーだから大筋は乱れないし」
分霊箱は壊さなければならない。そうしなければ、ヴォルデモートを滅ぼすことはできない。それを僕は、13年前から知っている。もっと前から理解していた。だから、目の前にいる彼もまた、死ななければならない。ヴォルデモートのために、死ななければならない。
分かっている。分かっている。分かっているけれど──僕は、ケニーにそれを語って欲しくなかった。
「…なんでそんなに冷静なんだ」
「なんで、って」
「君は命が惜しくないのか?弟のためだからって、そう簡単に命を捨てられるのか?」
すっとぼけた顔をしたこいつは、自分が今何を言っているのか理解していない。頭痛がした気がして、顏を手のひらで覆った。
生きている限り命は惜しんで当然だ。捨てるものじゃない。命は、何かの犠牲にしていいものなんかじゃない。簡単に手放していいもののはずがない。もっとずっと、尊いもののはずなんだ。どうしてそれが理解できないんだ。
「捨てられるよ」
そしてこいつは、穏やかに微笑んだ。
ふっきれたような、何かを覚悟したような──全てを諦めたような笑顔で。
「それで、いつかの未来にヴォルデモートが滅びるなら。それで、家族が守れるなら」
ずれていた歯車がかちりと嵌った音を僕は聞いた。先程から感じていた恐怖がなんなのか、理解すれば簡単だった。
「(彼は、“僕”と同じだ)」
ああ、だから僕は。
「ふざけるな」
ぐちゃぐちゃになった頭が、どうにか絞り出したのは怒りだった。
「君が守ろうとしているのは家族じゃない。紙の上の物語だ」
「は?」
「人の命は何かの代わりになるわけじゃない。それを“いつかの未来”だなんて、不確定要素の維持のために投げうつなんて、どうかしてる。未来がどうなるかなんて誰にも分からないのに!」
何もかもを棚にあげて、勢い任せで思っている事をそのまま口にする。ちょっと考えれば、本当に伝えたい事は別にあると分かっていながら。
「…ほお?お言葉をお言葉を返すようで悪いが、そういう物語なんだよ。ヴォルデモートの分霊箱をすべて破壊しないと、ヴォルデモートは滅びないんだから」
「…っ、そんな」
物語を変えたいと言う口で物語に固執する彼に、どうしようもなく苛々する。あまりにも頑なに、「自分は死ななければならないのだ」と繰り返す彼に、どうしようもなく焦燥感を覚える。
失う怖さを、こいつも知っているはずなのに。
「そんな全てを諦めたような顔で、馬鹿げた自己犠牲をふりかざすな!!」
「死因が自己犠牲のお前に言われたくねーよ!!」
カッと頭に血がのぼった。限界だった。
衝動のままにケニーを殴り飛ばす。暖炉の角で頭をぶつけたようだけど、それに心を割く余裕は残っていない。
「だからこそ!僕は、君に…ッ」
何が何でも生きていて欲しいのに。
彼がした覚悟は、かつて“僕”がしたものと全く一緒だった。家族を守るために。弟を守るために。
それがさも崇高な自己犠牲だと言わんばかりの、残された人々がどんな気持ちになるか分かっていて、それでも。
あんな虚しい決意を彼にしてほしくなかった。“僕”と同じ事なんて、してほしくなかった。
──何故?
「(…ああ、)」
本当は気付いていた。
煩わしかった騒がしさに、いつからか心地よさを感じていた事に。
情を抱くなと言い聞かせる一方で、心はずっと前から彼の存在を許していた事に。
たった一人で立っているつもりだった。
でも、彼が隣にいた。それが、日常になっていた。
彼と出会った。グリフィンドールに組分けされた。
フレッドやジョージ、リーと出会った。くだらない事で笑っているうちに、毎日は鮮やかに色づいて、矢のように過ぎていく。
僕がかつて手に出来なかった日常が、手の届く場所にあった。
だからなのかもしれない。
ヴォルデモートが、再び死ぬべき存在となるためなら、僕はどんな犠牲でも払う覚悟を決めていた。そうして一度は、自分自身を犠牲にした。
でも。
だから僕は。
「(君が、死ぬのは)」
昏く冷たい水の底へ沈む事よりも、ずっと恐ろしかったんだ。
ビリッという不吉な音がして、僕は顔をあげた。ここが図書館だという事を考えれば、突然のことだ。蔵書が破れたとあっては、ここの司書が黙っていない。
「あら、レグルスじゃない!」
「…ハーマイオニー」
だというのに、その音がした方から出てきたのは意外にもハーマイオニーだった。肩を弾ませている彼女は何か、とても急いでいるように見える。ついでに言うと、固く握りしめた手から白い紙の切れっぱしが覗いている。
…見なかった事にした方がいいのだろうか。
「もうすぐクィディッチの試合が始まっちゃうわよ?図書館にこもって何してるの?」
「それは、君にも言える事だと思うが」
さり気なく背中へ隠された手を視線だけで追いかけながら適当に言葉を紡ぐ。
ここにいたのは、特に意味はない。ただ静かに考えられる場所が欲しかっただけだ。どこにいても、やれアディントンズが仲違いしただの、やれ夫婦喧嘩だのと揶揄されるだけだからだ。誰が夫婦だ誰が。
「何か調べものかい?」
「そうだけど、もう終わったわ。よかったらハリーの試合見に行ってあげてね!」
にこりと微笑んだハーマイオニーはそのまま駆け足で出て行った。マダム・ピンスの怒鳴り声がちらっと聞こえる。図書館だというのに走るだなんて、彼女らしくないとちょっとだけ怪訝に思った。
ここのところずっとそうしているように、形だけの読書をしていた本を棚へと返す。可愛い後輩からのせっかくのお誘いを受けたのだし、試合を見に行ってみようか。フレッドとジョージも、そしてリーも実況としてだが出ているわけだし。
…もしかしたら、ケニーがいるかもしれないけれど。
彼と顔を合わせたのは殴り飛ばしたあれきりだし、顏を合わせる事になれば気まずい。
「(その時は、その時だ)」
そんな事を考えながらいつも通り、近道である三階の廊下を通ろうとした時だった。
「こっちを見て!」
鋭い叫びが鼓膜を叩いた。次いで、何から大理石の床に落ちる高い音が誰もいない廊下に響く。思わず足を止めた僕の耳に、別の音が届いた。
ずるり、ずるり。得体のしれない何かが近付く音に自然と唾を飲み込む。そこで、僕は、かつて彼が言っていた“大筋”の事を思い出した。
学校の地下に潜むスリザリンの怪物。目に宿る魔力だけで生き物を殺せる蛇の王。そしてその魔力は、直接見さえしなければ命を奪ったりはしない。
「…っアグアメンティ、」
勢いで唱えた呪文が廊下を水しぶきで濡らす。水に映った黄色い目玉と、そして傍に立つ赤毛の少女。
僕が最後に見たのは、そのたった二つだった。
彼が『 』をしていたのはきっと、ずいぶんと前の話で。だから、自分の命になんの執着も無い。自分を犠牲にする事になんの躊躇いも無い。
僕はそれが恐ろしかった。彼の、生に対する執着の無さが、いつか彼をどこか遠くへと飛ばしてしまいそうで。
僕はそれが恐ろしかった。彼の、彼自身に対する躊躇いの無さが、優しく意外に脆い彼を変えてしまいそうで。
僕は、怖くてたまらなかったんだ。
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