手のひらの宇宙
神父さまが朝からご機嫌だった。
エタに特注のプレゼントがようやく届いたんだ、なんて口笛を拭きながらこちらにやってくる。小枝のような足首にまかれた足枷がじゃらりと不快な音をたてた。
今回はなんだろう?飢え発情した野良犬だろうか、細く艶やかな革で出来た一本鞭だろうか、はたまた...と考えていると目の前に小さな箱。中を見遣ると鈍色のものが入っていた。
その形はエタにとって慣れ親しんだものだった。けれどもエタの知ってるそれとは形状が少し違い、その鉄の塊は首から下げることも立てることも出来なそうだ。
神父さまは今に判るよ、とニタリと笑った。
ぷすぷすと音を立てどす黒い鉄の塊から細い白煙が上がる。神父さまはそれに油をじゅうじゅういわせながら丁寧に塗りこみ、辺りは金属が焦げる臭いが充満した。
Лежа(伏せ)と声をかけられ身体に教えこまれたその姿勢、考えるより先に両の手を地面に着き次の指示をじっと待つ。
じゅっ、と首の後ろで音がして反射的に振り向こうと思った瞬間、身体を苦痛が襲う。背中に走る痛みは激情に似ていて、
−−意識はそこで途切れた。
容赦ない蹴りで再び現実に戻される。起きたら痛いはずの背中がなかった。痛みと共に背中も失ったようだ。
「見てご覧、これがプレゼントだよ」
何時になく優しい声色の神父さまが手にしてるのは顔くらいの大きさの鏡。そしてそれに映る痩せこけ脊椎やあばらが浮き出た背中。
良かった背中は無くなってなかった、と安堵した刹那、目に入ったのは丁度真ん中両肩甲骨の間に赤く爛れ腫れ上がり肉が見える傷。所々皮膚が黒く焦げているその傷は十字架の形をしているようだ。いつも目にする馴染み深い形で、ひとつ違うのは逆さまなこと。この鏡は上下逆さまに映るのだろうか?と首を傾げた。
「これは聖ペテロ十字−−通称逆十字と言って聖ペテロが処刑される時にイエスと同じ状態で処刑されるに値しないとして頭を下にして磔刑にされたのが由来なんだよ。つまり無価値、という意味があるんだ。お前は神にすら愛されないんだよ」
わかったかい、と神父さまはエタの心に刻むようにゆっくりと何度も何度も呪いの言葉を口にする。
ちくり。自分が愛される価値があるとは思っていなかったが、どこかで神様だけは自分にも愛を向けてくれると期待をしていたのかもしれない。そもそも自分はモノであり人間ではないからアガペーの対象にならないことはわかっていたのに。
焼かれたのは背中にも関わらず、何故か心の臓が痛かった。
エタはこれまでモノとして扱われた。親はというと森と言うほど深くない、木々が立ち並ぶその中にひっそりと存在する寂れた教会の前に産まれたばかりの我が子をぼろ切れに包んで置き去りにした。そこに所属する男は世間体なのか気まぐれなのか赤ん坊を拾い育てた。時に憂さ晴らしとして、時に欲の捌け口として、まだ幼いエタを虐げ嬲った。そこに人間としての尊厳は最初からなかった。口にするものはほんの僅かな蝿が集る残飯のみ、言葉すら教えて貰わず、名前もなく通称「エタ(Это)」−それ、としか呼んでもらったことがない。エタは最初からずっと人間ではなくモノだった。
雪空の下、エタは外へ放り出された。住居スペースである司祭館と裏門の間にある小さな場所、そこがエタの定位置のひとつだった。教会をぐるっと囲み高く聳える重々しい鉄格子からエタは出たことがない。
まだ低い位置にある白月が雲の間からそっと顔を出している。ひんやりとした空気が痛みを少し和らげてくれるようだった。
「ねえ、どうしてこんな所にいるの?」
清流のように透き通り澄んだ声が後ろから聞こえた。
振り返ると可憐な小花の刺繍を施されたふんわり萌黄色のワンピースに丁寧にきちっと編まれた亜麻色の三つ編みをふたつ胸元にぶら下げ、太陽が眠る瞬間の空を閉じ込めたような瞳の少女が鉄格子の外からこちらをじっと見ていた。
少女の吐く息は白く、頬はよく熟れた桃のようだ。
痛そう、と背中をみて少女は呟いた。咄嗟に背中を隠そうとした時、つい石柱に爛れた背中を押し付けてしまいぐちゃりとした痛みに喘いだ。
「ごめんね、驚かせちゃったかな?...その傷に合うような大きな絆創膏は持ってないんだけど、これあげるね」
ちょっとでも気が紛れるといいんだけど、と言い手のひらに渡されたのはみっつの星。
「これは金平糖っていうの。きらきらしててとっても素敵でしょ。これはキミの目の色、このふたつで私の目の色。良かったら食べてみて」
手のひらに出されたのは紫苑、紺青、柿の色とりどりの星たち。紫苑色の金平糖を口に運ぶと、両頬が溶け落ちる感覚に驚き、目を白黒させながらも慌てて頬を支えた。
ほっぺが落ちるほど甘いでしょ、と言われこれが甘いという感覚なのだと知った。初めての感覚に身体が震えた。エタは舌でころころと甘い塊を転がす。これが甘い、なんて心地の良いものなんだろう。
「えへへ、やっと笑ったね!お姉ちゃんはゆきのっていうの。キミはなんてお名前?...うーん難しいかな、なんて呼ばれてるの?」
ゆきの、初めて聞く響きだったが、柔らかく可憐な雰囲気の彼女にぴったりの名前だった。今まで呻き声しか口から出したことがなかったが自分も彼女に名前を伝えたい、と思った。名前なんて大それたものはないけれど。
「......エ、...タ」
ぱちくりと瞬きするゆきのを見ていると上手く発音できていたか不安になった。エタくんっていうのね!よく言えました、いい子いい子と言いながら溢れる笑顔を目にし、上手く伝わってよかったとほっと胸をなで下ろした。
「良かったらこのハンカチも貰って。固まった血とかこれで拭き取ってね」
そう渡されたのは紅色の刺繍糸で桜の形を縫った薄紅梅色のゆきのにぴったりの少女らしいハンカチ。こんな綺麗なもの貰えないと持ち主へ返そうとしたが遠くからゆきのを呼ぶ声によってそれは遮られた。
「ごめんね、もっと居たいんだけど私そろそろ行かなきゃいけないみたい。今日はおばあちゃんの用事でこの辺りに来てるだけで、普段は遠くにいるの...エタくん一緒に来ない?」
とっても心配だよ、というゆきのの申し出にエタは首を振って、またねとか細い声を絞り出した。
鉄格子の中にひとり。夢を見ていたのだろうかと、手のひらを開くとふたつの星。空を見上げるとたくさんの星がきらきらしていた。
月が高くに登ったころ、漸く建物の中に入れてもらった。先程もらったハンカチで丁寧に星たちを包み、そのハンカチが汚れないように辛うじて身に纏っていたボロ切れを千切りそっと包んだ。そしてその包みを教会の大きな十字架の下にある講壇の隅にそっと隠した。
ゆきのと出会ってもしかして自分はモノではないのかもしれないという考えが芽を出し始めた。目を閉じるとカラフルな星と少女の清純で愛らしい笑顔が脳裏に浮かぶ。硬く冷たいはずの床に横になっていたはずなのに何故か温かく柔らかさに包まれていた。こんな心地の良い眠りは生まれて初めてだった。
脇腹への圧力に眠りを破られる。
目を開け、重さを感じる場所に目をやると神父がエタの脇腹を濡れ羽色をした革靴で踏みつけていた。う、と鼠が潰れたような音が喉から鳴る。酷く惨めだった。
いつも通りの朝。いつも通りの光景。ひとつ違うのはエタに自我が芽生えたことだった。
ほんの微かな違和感を覚えた神父は怪訝な顔でエタを覗き見て
「気に入らないな」
と言ったと同時にナイフをエタの烙印に振り下ろした。
「あぁああっ...ぐっ」
悲鳴を上げもがき苦しんだのも束の間、エタは神父の喉元に向かってありったけの力を込めて大人の手のひら位の大きさの銀で作られた十字架を差し込んだ。
十字架は皮膚を突き破り肉を抉り胸郭上口と胸椎の間を通り総頸動脈を突き破った。十字架を引っこ抜くと血飛沫を上げて神父の身体はどさりと崩れ落ちる。
ひゅーひゅーと喉から息が漏れるのと一緒に血がぴゅうぴゅう飛び出す。神父の手は空を掴みそのまま呆気なく絶え果てた。
エタは人間だった塊には目もくれず、この教会で一番大きな十字架の元へ行き大切に大切に仕舞っておいた包みを取り出し、手のひらに並べ恍惚とした表情でふたつの星を眺めるのだった。