映さない鏡
――ただ自分を見てほしいだけだった。その瞳には一体誰が映っている?
先週、双子の弟を名乗る男が尋ねてきた。自分に弟が、家族が、居るなんて信じられなかった。自分より青みがかったラベンダー色の髪、ぎらついたクンツァイトの瞳。一粒一粒が尖った喉元へ噛み付いてきそうな歯。自分より高い身長。パーツで見ると似ていないはずなのに目の前にいる男は自分の片割れなんだと直感でわかった。
日記を見遣ると"Давид・Эрикович・Волков"の文字。見慣れないこの文字は弟の名前で"ダヴィード・エリコヴィチ・ヴォルコフ" と読むらしい。弟が帰ったあと何度も読んだがどうしても響きに慣れなかった。
ずっと1人だと思っていた。自分には家族は存在しない。でも家族のように大切な恩人はいるし、その恩人の大切なひともいて今のささやかな暮らしに満足している。
弟――ダヴィードに出会って最初に感じたのは得体の知れない恐怖。あれから1週間経ってもまだ家族が存在している、という実感が湧かない。家族という2文字がまったく知らない言葉のように感じられた。
突如盗聴器から聴こえるゆきのちゃんの声が遠くなり目の前がちかちかし始める。目に直接ライトを当てられたようにとても眩しくて気持ち悪い。冷や汗がだらだらと流れ身体が冷たく感じる。ゆきのちゃんの声が聞こえない、ゆきのちゃんが居ない。ゆきのちゃんは……
ぷつん、……意識は闇に包まれた。
1週間前からずっと気が立っていた。母さんと父さんに捨てられた男には期待していなかった。が、仮にも俺の兄なのだ。何処か遠いところで俺のように立派にやっているだろうと思っていた。だが目の前に居たあれはなんだ?薄汚れた鼠にしか見えなかった。あれが、俺の片割れの兄?反吐が出る。あんなの俺の兄じゃない。
気づいたらあのボロ屋の前にいた。俺は一体なにをやっているんだ。らしくない。引き返そう。そう思ったが、中が静まり返っていたことがやけに気になった。ノックをしよう……、としてそのままドアを乱暴に開けた。
中には誰もいなかった。粗末な辛うじて机と呼べるものの上に先週綴りを教えてほしいと言われサインしてやったノートがある。開きっぱなしでどこへ行ったんだ、だらしない。
ごと、……中に入ろうとした瞬間重い何かを蹴った。下を見ると痩せこけた人間。手首に手を当てるとひんやりとしていたがとく、とく、と生きてる音を感じることが出来た。とりあえずベッドらしきものにそれを運ぶ。前に見た時より顔色が悪く、土気色になっていた。
医者を呼ばなくては。心配なのはこいつじゃない。発見したのに見殺しにしたと広まれば少々面倒なことになるからだ。そう自分に言い聞かせる。生憎俺にはここの土地勘がない。医者を呼ぼうにもどこに行けばいいのかわからない、
「ダヴィード様、お医者様をお呼び致しました」
はっ、と扉の方を見ると従者のアリーナと医者らしき人がいた。アリーナに告げずにここへ来たはずだが。唖然とする俺をよそに医者が素早く診療を始める。
医者曰く、貧血と栄養失調で直ぐに目を覚ますだろうとの事だった。
「アリーナ、どうしてここがわかった?」
「ダヴィード様の事ならなんでもわかりますよ 、最近ずっと彼の事を考えていたでしょう」
そんなことない、と反論しようとしたがフレデリックが身じろぎした音に遮られた。やっと目を覚ましたのか。
「おい、床で倒れていたぞ。食べるものすらないのか、まあこんなボロ屋じゃ仕方ないか。第一、」
「ダヴィード様……?」
にっこりと口を弧にするアリーナほど怖いものは無い。圧がすごい。
「フレデリック様、しばらく何も口にしていなかったのでしょう? これだけでいいから飲んでください」
と、あいつへ渡したのはお粥の上澄み。明らかに不味そうで米の方を食べさせたらいいだろうと思ったが絶食後に固形物を食べるのはあまり良くないらしい。
「ダヴィード様、街へ買出しへ行ってくるのでフレデリック様を見ていてくださいね」
なんで俺が、と言い終わる前にアリーナは出ていってしまった。
フレデリックを見ると先程よりもずっと気まずそうな顔をしていてそれが何故だか癪に障った。
「いつから」
「…えっと……、」
「ご飯」
「…………覚えてない、ですしばらく食べてないです」
喋り方、雰囲気何から何まで気に入らない。伏し目がちな瞳が揺れているのが辛うじてわかる。だめだ、こいつといると酷くいらいらする。少し外の空気を吸おう。
「あの、ベッドに運んでくださったの貴方ですよね。ありがとうございます」
「貴方じゃない、ダヴィード。あと横になってろ。また倒れられても厄介だからな」
そう言うと大人しく横になった。さっきより幾分かは良くなったがまだ顔色が良くないようだった。
アリーナが毎日通ったおかげでフレデリックの体調はだいぶ良くなったらしい。今日は行けないから代わりに行ってほしいと頼まれた。何故俺が頼み事されるんだ、俺が主人だ。
ボロ屋へつくとフレデリックは丁度シャワーから出て服を着ている最中だった。真っ白な身体のあちこちにあるグロテスクな傷に唖然とする。その中でも一際目を引く首元の傷。訳の分からない憤りが全身を駆け巡った。1度も使った事の無い、護身用に持っていたナイフを取り出すとフレデリックの喉元の傷にぐっと差し引いた。そしてそのまま今開いたばかりの傷口に親指を差し込みそのままぐちゃり、ぐちゃり、と一心不乱に掻き混ぜる。ようやく元の傷跡が見えなくなりハッと気がつくと、フレデリックは気を失いお互い鮮やかな赤い赤い血で染めあがっていた。
「フレディ!!!! ジリー、お医者さま!! フレディ、大丈夫か?今助けてあげるからな、しっかりしろよ」
目に飛び込んできたのは金色の頭。止血するそいつを眺めているとやってきたのは先程よりくすんだ金色。エメラルド色の瞳が鋭く俺を刺す。運良く医者が近くに居たようでテキパキと縫合手術が行われた。さっきまでぱっくりと開きぐちゃぐちゃにした傷が丁寧に閉じられていく。まあ、最初の傷よりは綺麗にならないだろうけど。
フレデリックが目を覚ます。様子がおかしい。目の奥は深い深い沼。フレデリックの中身ががらんどうになったように感じた。瞳は光を吸い込むばかりで何もかも映そうとしなかった。
「フレディ、おはよう」
と、先程ジリーと呼ばれた男が声をかけると目はアメジスト色を取り戻し元の柔らかい笑みを浮かべた。あまりにも違うので先程まで不思議な夢を見ていたようだった。
「そういえば貴方は……?」
「ギルさん、紹介が遅くなってすみません。こちらは双子の弟のダヴィードです。先週わざわざ尋ねてくれたんです。驚きですよね、僕にも家族が居たみたいです。
ダヴィード、こちらはギルバートさん。僕を引き取ってくれた神父さまです。そしてこっちは食霊のサンドイッチくん。ギルさんは御侍も兼業してるんですよ」
にこりと笑みを添えて手を伸ばされるから仕方なしに握手をした。なるほどフレデリックはこいつを模倣しているのか。
「ギルさん、今回のことは兄弟喧嘩で片付けてもらえないでしょうか?最近知り合ったばっかとはいえ……可愛い弟なんです。」
「……フレディがそれでいいならいいですよ、見なかったことにします」
「ありがとうございます、助かります」
「じゃあ僕たちは行きますね、あとこれは痛み止めです。置いておきますから痛い時飲むんですよ。兄弟喧嘩は程々に」
「フレディお大事にな!」
「……悪かった」
「ちょっとびっくりしましたが大丈夫ですよ。それよりダヴィード、」
この包帯の下が見たいのでしょう?、と言うや否やきっちりと巻かれた包帯をするする、するする、と取っていくフレデリック。包帯を解き終えるとぼこぼこと醜くケロイド化した傷口。ああ、
「綺麗だ」
俺が、上書きしてあげるから。
いっ、と小さな悲鳴。気づいたら傷口を包帯の上からぎゅっと圧をかけていた。白い包帯にじんわりと赤が滲んでいく。フレデリックの痛みに歪む顔を見ていると何故か下腹がずくん、と熱くなった。慌てて手を離す。
「あ、そうだダヴィード。服も身体も血で汚れてしまったでしょう、うちのシャワーで良かったら使ってください」
着ていた服は乾いた血でパリパリになり、皮膚にも返り血がこびりついていることに気がついた。あんなに赤かったのにいつの間にかどす黒くなっていた。
シャワーから出てくると粗末な着替え。ペラペラの生地で普段なら絶対に着ないが今は他に着るものがない。真っ裸よりはましか
いい匂いがする。
お腹空いたでしょう、と何やら料理をしていた。
出てきたのは豆腐のベーコン巻きと野菜スープとにんじんパン。薄味でほぼ味がしなかったがまあ、悪くなかった。
あれから1ヶ月。フレデリックは体調もよくなり、もう用もないはずなのに、俺は時々あのボロ屋に通っていた。通う度にあいつの身体は俺のせいでぼろぼろになる。どれだけ痛めつけても傷つけてもフレデリックの瞳に俺は映らなかった。
親指の爪はもう原型を留めていない。