欲深い愛の果て

「わかってくれるのは君だけだ……」

 陶器の酒器を片手でぐいっと呷った膝丸は、目の下の頬を赤く染めながら呟いた。無言で差し出される盃にお銚子から日本酒をそそぐ。器の中で揺れる透明なアルコールの水面を少しの間じっと眺めていたかと思えば、彼は電気でも流したような機敏な動きでそれを飲み干した。危なっかしく揺れる頭、へにゃりと情けなく垂れた眉に予測のつかない動き。無茶な飲み方をするその刀は案の定、通常の量を超えた酒にみごとに泥酔しているようだった。
 膝丸という刀は、普段はどちらかといえば常識的な集団に分類される。先のことを考えられて、周りに目を向けることができて、他のものの手伝いを快く引き受けるため仲間からの信頼も厚い。その膝丸が、浴びるように酒を──しかもそこそこ強いのを──飲んで、思考も表情筋も統率を取れていない。彼がこうも酔い潰れるほど飲酒をするに至った経緯を知っている私は、なんとも言えない心境で自分用に入れた酒をちびちびと飲み、ただそっと彼の背中に手を置いた。

 原因の根本は、ひとことで言えば『恋』である。
 膝丸は、主たる私の預かり知らぬところで花街、つまり遊郭の女性に惚れ込んでしまったらしい。私がこのことに勘づいたのは三ヶ月前。非番の日になるとしょっちゅう本丸を空けて街に繰り出し、しかも明け方近くに帰ってくる彼にさすがに疑念を抱いて周囲の刀に探りを入れたところ、膝丸が熱心に通っていたのは万屋の裏通りにある遊郭であることが判明したのだ。
 彼は私に知られたと察するや否や、即座に自身の口から胸の内を白状した。仲間の刀剣男士からは同情だ、錯覚だと言われたが決してそのような感情ではない、この想いは本物なのだ、と聞いてもいないのに熱弁したのである。予想以上に熱心な執心に圧倒されて思わず容認したその日以来、彼の恋愛相談の相手はもっぱら私になっていた。
 今日の夕暮れ時、思いを遂げるのだと決意して街へのゲートをくぐった彼の背中は勇敢だった。勇敢で、無謀で、考え無しだった。現実的な問題に対しての考慮が足りていなかった。思いを遂げたところでどうするつもりなのだろうか。想い人とやらがどのような女性なのか私には知る由もないが、一人の人間であるからには彼女にも生活がある。まさかこの本丸で養うことはできないし、かと言ってあの刀が伴侶に遊郭勤めを許すとは到底思えなかった。
 盲目という恋の性質ゆえなのか、もともとの急ぎ足な性格が良くないかたちで現れたせいなのか。いずれにしても、私は彼が拒絶されて思いを諦めてくれることを期待してその背中を見送った。

 そうであったから、夜更け前に彼と連れの刀剣男士が帰還したときには思わずほっと胸を撫で下ろした。顔面蒼白な膝丸の顔を見れば恋のゆくえは聞かずとも明らかだ。遊郭帰りとは思えないほど微妙な表情を浮かべた彼らは、湯浴みを終えて自室へ向かう途中であった私を捕まえて膝丸を引き渡し……より正確に言えば、押し付けた。
 魂が抜けたようにふらふらとおぼつかない足取りの彼を支えながら、ひとまず自室に運び込んだ。夜中に男を女の部屋に招くとは如何なものかという懸念が一瞬過ぎるも、それ以外に選択肢もなかった。共用スペースでは遊郭組が酒盛りを始めていたし、以前から恋愛相談は大抵私の部屋で行われていたのでとりわけ特別なことでもない。そう自分を納得させて、背中にのしかかる重い肢体に半ばヤケになりながら部屋の敷居を跨いだ。
 やっとのことで膝丸を自室の床に座らせると、彼はうずくまって壁とにらめっこし始めた。現実逃避だろうか。こちらがいくら励ましの言葉をかけても一向に顔をあげようとしない膝丸を見かねて、私は冷蔵庫から自分用に取っておいた酒を出してやった。打ちひしがれた心は酒で癒すのもひとつの方法だと思ってのことだ。ひとりで晩酌するために三ヶ月前に購入したひと揃いの銚子と酒器を出して注いだ酒を眼前に差し出してやれば、彼は虚ろな目のままくいっとそれを呷った。思いのほか良い飲みっぷりだと感心する間もなく求められるまま二杯目を注ぐ。喉を鳴らして酒を飲み、器を床の板間になっている部分にごとりと置いた彼は、堰を切ったように感情をあふれさせた。

「俺は本気だったのだ……しかし彼女は、そんなものはいらぬと突っぱねた。そのような情けは、かけられるほうが迷惑だと」

 そりゃそうだろう。思ったが口には出さなかった。
 だって、彼女は仕事で遊郭に勤めているのである。刀の時代ならいざ知らず、彼女らは身売りで遊女になったのではないし仕事に求めているものは生活する場そのものではなく給金である。多くは、サービスの提供者と対価を支払う顧客という関係以上には何も望んでいないだろう。彼の周囲の刀剣男士が膝丸をとめようとしていたのは、おそらくその節を理解していたためだ。
 がっくりと項垂れる膝丸の姿を見ていると不憫に思う心もあるが、経験の一つとして割り切るほかない。その点は彼自身もわかっているだろうから、私にできることは彼の気が済むまでやけ酒に付き合って飲みすぎで倒れる前に止めてやることだけだ。
 極力彼を否定しないように気をつけながら、背中や肩を手のひらで撫でてやる。酒が入って自制心が鈍っているのだろうか、膝丸は姿勢を崩して甘えるようにもたれかかってきた。私よりもずっと大きいその身体を正面から抱きとめてやると、何も言わないまま鼻を啜る音だけが聞こえてくる。体重を支えるついでに、私も彼の肩に頭を預けて重心を前に傾けた。

 『君だけだ』という言葉が脳内で繰り返し響いている。膝丸が口を閉じたことで静かになった室内では、それは煩いくらいだった。首筋に鼻をうずめても、花街の香やおしろいの匂いに埋もれて彼の清潔でありながら男らしい匂いはわからない。虚空を眺めているうちに眼球に涙の膜が張り、暗い室内ではっきりしない視界がいっそうぼやけた。酒で涙腺が緩んでいるのだと自分を騙して、膜が滴となってこぼれ落ちないようにゆっくりとまばたきをする。頬の代わりに睫毛を濡らしたその生ぬるい液体を認めてしまえば、私は自分の蓋をしたはずの感情に気づかざるを得なかった。
 今日を膝丸の失恋の日と定めるなら、私の失恋が確定した日は三ヶ月前のことだ。何を隠そう、膝丸の遊郭通いが判明したまさにその日である。私の恋は膝丸の恋によって終着点を見失った。
 膝丸に恋をしていた。初恋ではない。きっかけはよく覚えていないけれど、いつの間にか頬が熱を帯びていた。
 淡い恋なんてラベルは相応しくない、欲にまみれた想いを抱いていた自覚がある。一方的に好きでいるだけでは足りなかったし、今の関係が続いて欲しくもなかった。たくましい腕に抱き締められたい、穏やかな眼差しで好きだと言って欲しい、手を繋ぎたい、唇を奪われたい。眺めているだけでは到底満たされない、欲深く劣情を孕んだ重い感情。それに蓋をしたのは、彼の幸せを願うなんて綺麗な理由ではなくて、傷つくのが嫌だっただけだ。
 少しでも膝丸に良く思われたくて、親身に相談に乗ってあげた。彼の口から、彼の声で、彼の言葉で別の女性の話を聞くことは苦行以外のなにものでもなかったけれど。三ヶ月ぶんの苦しみが、『君だけだ』というただ一言で報われたような気がしてしまう。なんと単純な女だろう。恋とは盲目。本当にその通りだ。

 膝丸を慰めながら彼の頭に手を伸ばす。かたちの良い頭を、さらりと髪を撫でつけるように触れてみた。彼の反応を伺うが、特に抗議もされないのでもう少し深く頭皮に手を沿わせる。ずっとこうしてみたかった。若草色の髪は想像していたより少し硬く、撫でた手のひらに伝わる感触は思い描いていたほど心地よいものではない。それでも、薄い着物と毛髪のみを隔ててじかにその体に触れているというそのことが、からの心を熱くどろりとしたもので満たしていく。ちょうど強い洋酒を勢いよく呷ったときのような感覚だった。幸福感とも充足感とも違う、本能的な安心感。それは質量の概念を欠いているかのように際限なく求め続けてしまう魔性を秘めていた。
 当初の慰めるという名目はどこかに消え、もはや自己満足で彼の背中と頭を撫で続けているうちに、気がつけば鼻を啜る音は聞こえなくなっていた。一時の衝動も落ち着いたかと推し量りながら、くっつけた肉体の温度と手のひらから伝わる皮膚の感触を手放すのが惜しくて鈍感なふりをする。
 どうせ実らない恋だ。冷静に考えてみれば、審神者と刀剣男士との恋愛などまかり通るはずがない。しばしの触れ合いを恋人ごっこに見立てている私は、叶う限り長く抱き合っていたかった。私も酒が回っているのだろうか。甘い夢から覚めたいとは到底思えない。
 そんな不純な動悸を孕んだ私の手は、ついに彼の手に掴まれて空を撫でた。そっと身体が離されて顔が見えるようになると、彼の暗い金色の瞳に視線が奪われた。乾いた長い睫毛に縁取られ、錆ひとつない真鍮のように僅かな灯りを受けて静かに煌めいている。髪の色がそうさせるのか、髭切よりかすかに緑に近いような印象を受けた。じっと見つめてくる曇りのないその眼に、妖しい光と濡れた眼差しを感じ取ったのは気のせいか。
 ふと白い頬に伝う涙の筋が目にとまり、痕になってはいけないと思わず掴まれていた手を伸ばして指の腹で目の下を撫でた。さらりと乾いた感触と確かな湿り気が指に伝わる。報われない恋に身を焦がして、可哀想に。私のことを好きになればいいのに、と本気でもない願いをちらりと思い浮かべた。
 彼の頬に手のひらを滑らせると、膝丸は感じ入るように目を伏せて、それからゆっくりまぶたを上げた。腰を抱かれて膝立ちになると、私より目の位置が低くなった彼が上目遣いで私を見つめる。琥珀の瞳は、閉じた口の代わりとでも言うかのごとく雄弁に色と欲をちらつかせていた。場に広がり始めた官能的な雰囲気から意識をそらすように頬の体温に集中していると、私の手首に触れていた手が改めて力を込めて掴み直して意識を無理やり呼び起こす。心臓の音がうるさくて、首の後ろを汗が流れた。
 膝丸は目を細めて私の視線を強引に搦めとると、決して性急ではない速さでその整った近づけてくる。唇を、奪われる。

「ま、待って待って! な、何するの」

 慌てふためいた私は、すんでのところでその顔を手で抑えて一旦は難を逃れた。髪を巻き込んで視線を遮るように押し付けた手が煩わしげに払われ、その男は相変わらずの妖しい色を宿した眼差しで私を見上げる。

「……言わねばわからないか?」

 わからない、わけがない。
 聞いたこともないようなせつない声色に、甘い響きを乗せて、極めつけに腰に添えた手を意識させるようにそわりと動かしておいて、わからないと言うほうが不自然だ。かと言って、ここで流されるわけにもいかない。何も言えずに押し黙ると、膝丸は姿勢を正し、少し温度の低い声と表情で自嘲した。

「みなの言う通り、俺は愚かな男だ」

 刀の分際で人間に恋をして、振られた挙句こうして君に甘えている。従い仕えるべき主である君に。
 まったく愚かだ、と膝丸は視線を下げながら言った。予想外にネガティブな自己評価に思わず拒絶していた手をおろす。その手の軌道を横目で追った膝丸は、今度はたいそう情け深い色を映しながら、私の頬を大きな手で包んだ。

「そして君も、愚かな女だ」
「……ど、ういう、こと」
「この俺が気づかないとでも? だとすれば随分と舐められたものだな。俺はそんなに鈍くはないぞ」

 息を呑んだ。ひゅっと音を立てた喉が衝撃と絶望で締まる。
 気づかなかった。膝丸が、想い人であるまさにそのひとが、私の恋心を察知していたなんて。一体いつから? 口ぶりから察するにそれほど最近のことでもなさそうだ。自分のことが好きであるらしい女に恋愛相談をする膝丸は、どういう気持ちだったのだろうか。
 混乱してまともに状況を整理できない私に、膝丸は追い打ちをかけて意識をぶれさせる。

「言ったはずだ。俺には、君しかいない」

 そうやって縋るように言うのは、ずるい。
 失恋したとはいえ惚れた男だ。しかも冷めてくれない恋心は未だに健在である。包み込まれた頬に伝わる熱が急に生々しく思えてきて、背筋を走るぞっとするような興奮と恐怖に身体が硬直した。彼は私の恋を、惚れた弱みを利用するつもりなのだ。何がなんでも拒絶してやる、と突き動かされるように彼の手を払いのける。

「私はもうその気持ちは諦めたの。あなたのことを信頼はしているけど、恋という意味で好きなわけじゃない」
「嘘をつくな。そのような目で俺を見ながら、よくも好きではないなどと言える」

 私が惚れたひどい男は、咄嗟についた嘘には誤魔化されてくれなかった。私が彼をどんな目で見ているのか、気がかりだが知りたくない。知ったら後悔しそうだ。膝丸に対して抱いている恋慕も劣情も、私が一番知っている。問題は、私がどこまで感情が色に出やすく隠し事が下手であるかということだった。彼の瞳の中に映っている琥珀に閉じ込められた昆虫のような大きさの私を見ても、そこまではわからない。
 弱々しく見つめ返すことしかできない私の背中に腕を回し、先程とは逆に膝丸が私を腕の中に抱く。突然の密着した体勢にどきりと心臓が跳ねた。その余波に胸を落ち着かせるいとまも与えず、膝丸は私の耳に唇を寄せて囁く。

「好きだ。他でもなく、君を想っている」

 ぐっと胸が締め付けられた。泣きそうだった。感激なのか悲しみなのか虚しさなのかわからない激しいようでうつろな感情が、重くきつく心臓を圧迫して苦しい。このまま重石に逆らわず沈んでしまえばどれだけ楽だろうか。唇を噛み、ひざの上でぎゅっと拳を作り手のひらに爪を立てて涙をこらえた。

「……あのね、膝丸は失恋したばかりで女の人を求めているだけ。勘違いだよ。騙されないで」

 断定的に言い切ったものの、これが真実がどうなのかは知らない。けれど弱っている心が傷を覆ってくれる優しい女を求めているのは事実だろう。無駄な期待を持ちたくなかった。この恋心が燃え上がるのに比例して、彼の言葉を受け入れるのが難しくなっていく。明日心変わりしないとも限らない相手なのに、どうして信用することができるだろうか。
 それまでの会話を余さず引っ括めても初めて、私は彼の気持ちを否定した。ちくりと胸が痛む。私にもまだそのような純情が残っていたのかと驚いていると、膝丸は身体を離して私を睨んだ。

「ならば君のせいだ。君が傷心につけ込んだのだ」
「わ、私は、そんなつもりじゃ……」

 責任を取れと言わんばかりの強い口調に怯んで声が震えた。先程から無茶苦茶なことばかり言われている。好きなのに拒絶する意図がわからないという膝丸の主張が透けて見えるようだった。
 彼は煮え切らない態度の私にとうとう痺れを切らしたらしい。腕の中に閉じ込めていた身体をいとも容易く抱え上げると、奥に敷いていた布団の上に私を寝かせて覆いかぶさった。はらりと髪が広がって少し傷んだ毛先が頬をくすぐる。どくどくと収まることのない心臓の音は視界を覆う彼にも聞こえてしまうのではないかと思うほどだった。抵抗する隙も与えず両手首を縫い止められる。私を見つめる真鍮の瞳が欲に濡れていた。

「愚かな男を慰めてくれ」

 それがとどめだった。
 もう耐えられなかった。好きな相手に求められ続けて、意地を張り続けることなど初めから不可能だとわかりきっているのだ。追い詰められながらも、審神者としての矜恃とか、他の刀に対する負い目とか、刀と契りを交わすことへの罪悪感や背徳感でぎりぎり踏ん張っていた足が、ついに崖から滑り落ちた。身体に力が入らない。敷かれた布団に押し倒されたときの浮遊感が、断崖絶壁から奈落の底へと背中から身を投げるような冷ややかな開放感に重なった。
 唇が合わせられる。存外に呆気なかった。柔らかい感触にどこか冷静な感想を抱く。触れるだけのそれは夢想していたよりもずっと幼く、がさつな口づけだった。
 もう、どうでもいいや。首筋に容赦なく吸いつかれて、視線を天井と壁の境に投げながら顎を逸らした。水分の膜が視界を曇らせるけど、それは決して涙の滴にはならない。薄い浴衣越しに彼の手が身体中をまさぐっている。背徳感すら興奮材料になった。理性を捨て去り、膝丸の首に腕を回して呼吸を止めるように唇を重ねる。ぴたりと閉じた障子が私たちを閉じこめていた。水音と吐息のほかには、酒盛りをする刀の声も、月の囁きも、なにも聞こえない。

 暗い部屋の中で彼の瞳だけが鈍く光を帯びているのが、なぜだかひどく恐ろしく思えてならなかった。

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