ロマンスの暴君

「さあ、聞かせてもらおうかな。どうして君は泣いてるんだい?」

 肘をテーブルにつき、両手を組んでそこに顎を置いて、髭切は緩く微笑みながら少し首を傾けた。細められた目の奥で黄金色の瞳がきらりと光っているのが見える。やわらかな眼差しのなかに刺し貫かれるような鋭さを感じて、胸の底がぞくりと冷えた。有無を言わさぬ圧力をもったその問いかけに、私は中途半端な笑みを返す。

「いや、私泣いてないけど……?」

 涙など流していない。視界が滲んでいるわけでもない。それなのに、──うまく隠したと思っていたのに、どうして彼はぐすぐす泣いている私の心を見透かすことができたのだろう。
 きらりと鋭く煌めいた琥珀の瞳を前にして、私はただ誤魔化すように笑うことしかできなかった。

・・

 同じゼミの髭切が私をランチに誘うのはよくあることだった。そうは言っても、いつも必ず他の学部生や友人を交えた集団の一部としてであり、二人きりというのは一度もない。だから今回も、誰々が来るよと言われたわけでもないのに第三者とテーブルを囲むのだと思い込んでしまった。私が彼の計略にあっさりとはまってしまったのだと気づいたのは、向かいあわせの二人がけのテーブルに案内されてからだった。時、すでに遅しである。

 目の前でアイスコーヒーのストローを弄ぶ象牙色の美丈夫こと髭切は、知り合って一年と少しが経過した同じゼミの同輩であった。一年間休学して海外の提携校に留学していたため、学年は同じだが歳は彼のほうがひとつ上である。ときおり彼が私を子どもに接するように扱うのはそのせいだった。
 彼はくるくると氷を揺らしながら、レポートの進捗を確認するような口調で私に尋ねる。どうして泣いているの、と。
 なんて確信めいた聞き方だろうか。本当は全部わかってて聞いてるんじゃないの、と疑念を抱く。さながら事情聴取、そうでなければ誘導尋問だ。私が一から十まできっちり吐くまで解放してくれないであろうことは容易に想像できた。
 はあぁ、と降参してため息を漏らす。眼前に置かれたアイスティーの透き通った柿色を見つめることで彼の視線から逃れつつ、私は事の経緯をぽつりぽつりと話し始めた。


 そもそも、事の発端は彼の浮気だった。彼とは私がつい昨日別れを叩きつけてやった男のことである。
 私がレポートやフィールドワークに追われて忙しくしていたせいで、二つ上の彼と共に過ごす時間がなかなか取れなくなった期間があった。どうやらそれが大元の原因らしい。その繁忙期を抜けた後は、またデートをしてたまにホテルに行ってみたいなことをしていたから、以前から何も変わらないと思っていたのだけれど。
 彼の浮気がいとも簡単に発覚したのは、それが現行犯だったからである。疑いがじわじわ確信に変わるよりもよほど最悪だ。なにせ私は、密会の現場を目撃するまさにその瞬間まで、彼を疑いもしていなかったのだから。
 見知らぬ女を連れたその男は、私に気がついて一瞬目を丸くしバツの悪そうな表情を浮かべた。弁解の余地などないが、せめて私に許しを乞うぐらいしてもいいはずだ。しかし、あろうことか、彼は私を綺麗にスルーするとその女の肩を抱いて背を向けた。逃げたのである。自分はこんな男に敬慕していたのかと思うと情けなくて吐き気すら感じた。
 こみ上げる怒りと殺意に突き動かされるまま、その日のうちに電話で振ってやった。涙は出なかった。悲しいとすら思わなかった。最後までへらへらと誠意のない態度が腹立たしくて、それからしばらく心の内を怒りばかりが支配していたのである。

 遅れてやってきた悲愴感に打ちのめされたのは翌日の朝、つまり今朝のことだった。あんな男のために流す涙も傷つく心も持っていないと思っていたのに。恨めしいことに心とは素直で繊細なものらしく、プライドやら決意やらを軽く飛び越えて、陰気で惨めな思いをとめどなく溢れさせては器のふちから決壊させようとしていた。
 ツンと滲みそうになる液体を午前中いっぱい歯を食いしばることで耐え、さっさと家に籠ろうと早足で講義室から出ようとした私を、髭切が呼び止めたのである。


 ひととおり語り終える頃にはかなりまずいところまで来ていた。もちろん涙のことだ。髭切は言いふらすタイプでも口が軽いほうでもないが、他の誰かに見られて私が泣いていると元彼に伝わったりしたらそれこそ最悪だった。
 潤み始めた視界をリセットするために唇を噛む。別れられて清々した、という態度だけを貫いていたかった。捨ててやったのはこちらだ。優越感など欠片も与えてなるものか。私に残されていたのは、そういう女のプライドだけだった。
 髭切は私の話にふうんとひとつ相槌を打つ。その視線は私をはずれて空白を見ているようだった。興味ないなら聞くな、殴るぞ、と少々情緒が不安定な私が睨みつける前に、彼は私の目を見つめなおして口を開いた。

「じゃあ君、今フリーってこと?」
「……は?」

 呆気に取られて口がぽかんと開く。
 いったい何をどう踏まえたらその言葉に行き着くのだろうか。私がフリー、つまり彼氏持ちではなくなったことについては間違ってはないけど。はいともいいえとも言えずに、何を言っているんだと怪訝な目を向ける。
 溢れる寸前まで込み上げていた涙もいつのまにか引っ込んでしまった。今は悲しみとか悔しさとかよりも純然たる疑問が勝る。素っ頓狂な声をあげてそれきり返事をしない私を見て、彼はもう少し言葉を噛み砕いた。

「別れたんだよね。なら、僕にもチャンスがあるんじゃない?」

 その意味を察せないほど、私は鈍感ではない。だけど今まで、そんな素振り見せたことなかったのに。半信半疑のまま黙り込む。
 私のこと好きなの?とずばり核心を突くのは何となく気恥ずかしくて、それより若干カジュアルな言い方に変えて直球に尋ねた。

「え……っと。髭切、私と付き合いたいの?」
「? それはどっちでもいいかな」
「どっちでもいい??」

 どっちでもいい、と来た。いよいよ頭を抱える。
 彼の言葉をそのまま受け取れば、私に対してなんらかの恋愛感情かそれに比類する想いを抱いてくれているのだろうと解釈できた。でも付き合わなくてもいいと言う。何をお望みなのだろうか。ひょっとしてセ……と、とんでもなく失礼な方向に憶測を深める一方で、投げやりな私の一部が「勘違いなんじゃない?」とか言い出した。その線も捨ててはいけない。
 私が彼の一言一句に大いに頭を悩ませている前で、その張本人がふらりと席を立った。ふっと意識が現実に戻る。顔を上げると、鞄を手に持った彼はにこりと笑った。

「また明日ね」
「えっ、あ、うん」

 颯爽と通路を横切って店を出て行った後ろ姿を見送る。とんでもない爆弾だけを落として逃げられてしまった。
 彼が私のぶんもまとめて払ってくれていたことを知って、借りができてしまったと考える私はきっとかわいくないのだろう。そう自分を卑下しても不思議と悲しくならなかった。なんだか心が軽い。髭切と話し終えたあと、気がつくと悲傷はどこかに飛んでいって見えなくなっていた。もしかしたら、あれは彼なりの慰め、優しさなのかもしれない。

 彼に「私のこと好きなの?」と聞けなかったことだけが、ほんの少し気がかりだった。

・・

 結論から言う。あれは私の勘違いなどではない。
 髭切は、たぶん絶対に、私のことが好きだ。

 自惚れで片付けるには彼の言動はあからさますぎる。朝一番の講義ではなんのためらいもなく私の隣を陣取り、昼になったと思えば私の手を引いて昨日とは違う喫茶店で二人きりで昼食を摂り、午後の講義が始まる時間まで暇だと言えば私を構内の散歩に連れ出した。その全てに、こちらがむずがゆくなるような柔らかい笑顔と甘い声がセットで付いてきた。
 同じ専攻というのもあり、私と髭切はかなり講義がかぶっている。おっとりしているように見えて意外と隙のない彼から逃れるタイミングは、はっきり言ってなかった。

「また明日ね」

 別れ際の挨拶はいつもと変わりない。平常運転に見える態度の彼に、私はぎこちなく手を振る。軽い足取りの後ろ姿をそっと手を下ろしながら見送った。

 人に好かれるというのは結構満たされるものなんだなと気がついた。つい先日まで彼氏がいた身で何をと思うが、もしかしたら元彼の男は私のことがそれほど好きではなかったのかもしれない。告白は彼からだったけど、ただ彼女が欲しかっただけの可能性もあるなと今になって冷静に考えた。

 でも。
 夕暮れてゆく藍色と橙の空にぼんやりと思いを馳せる。

 私は好きだった。告白されたときはそうでもなかったけど、付き合い始めてから好きになった。だからこそ、心だけでなく唇も身体も明け渡したのだ。それなのに。
 急展開に弾んでいた心がようやく落ち着いて、塞がれたと思っていた傷口の縫合が緩み始める。遠くに旅をしていた悲しみが、一日置いて戻ってきた。
 雲が流れ、鮮烈な紅が藍の空に滲む。まばゆいその色に目を細めると、両の目頭に熱い雫が溢れて溜まった。何度もまばたきをしてその熱を振り払う。

 深く息を吸った。涙は零れない。彼を振ってから三日目のことだった。


 サークルでの飲み会とは大学生の代名詞だ。飲酒が解禁されて一年足らずの若者ばかりが集まれば、みんな自分の面倒を見るのに精一杯で周りを気遣う余裕などほとんど残らない。私の周囲の友人たちは少々ドライで、二次会、三次会と続くそれの間でこっそり帰っても誰も気にしなければ引き留められることもなかった。

 だからと言って、二人きりで抜け出すとはいかがなものか。
 普段よりすこし熱い手が私の手を握っている。二人ともそれなりに酔っ払って、お互いの匂いがわからないほどに酒くさい。私はいつの間にか飲み会を抜け出して、髭切とふたりで夜道を歩いていた。ふわふわとした意識のなかでは記憶もなんだか曖昧で、それでも別にいいかと思う自分もいる。
 涼しい夜の風が頬に吹きつけるのが心地良かった。街灯のおかげで明るい夜の繁華街は大勢の大人で賑わっている。どこの居酒屋もオレンジ色の光を洩らし、酒が入って大きくなったサラリーマンの笑い声が道に響いていた。
 蛍光灯の明かりで幾重にもぶれる影が私の足の下に伸びる。いくらか長い髭切の影が、三歩歩くごとに一回私のそれとぶつかっていた。

「ねえ」

 割増で甘く熱っぽい声だった。酒のせいだ。握られた手がくい、と引かれる。視線を上げると、酩酊してどろりと溶けた金色の瞳が私を見つめていた。夜風に酒気が抜けかけていた私を、再び深く酔いに沈めるような視線だった。
 繋いでいないほうの手が一件の飲食店の看板を指す。一緒に入ろう、ということだろう。

「……彼氏でもない人とふたりでお酒は飲まないの」

 つ、と顔を背けてつれない態度で断った。私はこのまま駅に直行する。何もしないで帰るのだ。
 繋いだ手をこちらから握って、目的地である駅の方向に髭切を引っ張る。彼は私が断れば強引に事を進めることはないという根拠のない確信があった。私はそれを利用する。
 そして私の思惑通り、彼はちょっと名残惜しそうにしながらも手を振り払うことなくゆっくりと着いてきた。もう一度、優しいながらもどこか強い力で手を包み込まれる。その温度がじわりと暖かく沁みた。

 髭切が優しい男で助かった、なんて思っていたとき。浅はかな私の思考を裏切るようにして、髭切が足を止めた。

「髭切?」
「もうちょっと一緒にいたいんだけど……だめかい?」

 見上げているのはこちらなのに、上目遣いをされているような錯覚に陥った。図体に似合わないはずのそれにどくりと胸が高鳴る。お酒のせいでほのかに色づいた頬と潤んだ瞳が私を釘付けにした。彼は捨てられそうになっている仔猫にも似た、いっそ幼気(いたいけ)とも言える表情で静かにねだる。私の手を握る片手に、もう一方の手を添えて。

「だ、めじゃ、ない……けど」

 気づいたらそう口走っていた。言ってしまったあとで口をぎゅっと結ぶ。だめ? と可愛らしく甘える彼に「だめに決まってるでしょ」と無慈悲な言葉を投げつけることなどできなかった。
 髭切は私の言葉に嬉しそうに笑う。こぼれるような笑い声がその場に落ちて消えたかと思えば、彼に手を引かれて斜めに足を踏み出した。

「おいで、そこの自販機でなにか買ってあげる」

 あ。子どもあつかいだ。
 前を行く髭切の後頭部を眺めながらそのセンサーだけが反応する。抗議する気力もないので大人しくその背中について行き、好きなの選んでいいよと言われて少しお高い林檎ジュースのボタンを押した。
 川べりの金属柵にもたれかかって冷たいそれを喉に流し込む。冴えわたるような甘さが頭を冷やして、若干酔いが醒めた。街灯のない川は黒く墨を流したように空の色を映している。それとなく隣を気にすると、髭切は自分で買ったコーヒーを片手に暗い川を見ていた。
 彼は私をどうしたいのだろう。彼の一連の言動について、それが酒のせいなのかそうでないのかすら判断がつかなかった。凪いだ海のような静かな瞳の横顔を眺めてみても、そこからは何も読み取れない。諦めて川に視線を戻す。遠くの家から赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 喧騒からひとつ幕を隔てたような静けさを破って、彼が私の名前を呼んだ。
 どくっと心臓が跳ねる。なに、と振り向くよりもはやく、彼は柵に置かれた私の手に自分のそれを重ねた。ひんやりと無機質な金属に自分の体温を逃がしながら、熱い手のひらが包み込む手の甲から彼の体温を分け与えられて、なんだか変な心地がする。重ねられた白くて大きな手の長い指を見つめた。彼の視線が私を射抜いているのをはっきりと感じる。隣を見るのが怖くて、瞳の色を確認しないまま手を抜こうと動かした。敏感にそれを察知した彼に、ぎゅ、と握られて叶わなかったけれど。

「好きだよ」

 その一言は、一瞬にして彼以外の存在を私の世界からかき消してしまった。
 静かな声なのに、苦しいほど心を掻き乱された。握りこまれた手から伝わる鼓動がその言葉を裏付けるように脈打っている。沈黙が温度を持っているかのように私の体温を引き上げた。髭切の鼓動に感化され、私の心臓が主人の意志も気持ちも無視してどくりどくりと速くなる。

「……私は好きじゃない」

 冷たく返すことでしか平気なふりを保っていられなかった。情けなく震えた声が次から次へと口を突く。

「失恋の痛みに漬け込むなんてずるい。そんなの、良い男がやることじゃない。……私はもう、良い男しか好きにならない」

 泣けない夜にそう決めたのだ。

 明け透けな心情を口に出してしまえば、自分の傷心を直接的に思い知る羽目になっていよいよ心が折れそうだった。むかむかと身に余る感情が胸を埋めつくして苦しい。鉄の柵を持つ手に強く力を込めて蟠りを発散しようと試みる。
 彼は俯いたまま素っ気なく振る舞う私に手を伸ばすと、顔の横に垂れていた髪をすくって耳にかけた。くすぐったさに首を動かすと、意図せずその金色の瞳と視線がかち合ってしまった。水に落ちた糸をよりわけるように器用に絡め取られて逸らせなくなる。

「君が望むなら良い男になるよ。でも今は、それじゃあ君の痛みを癒せないからね」
「そんなの、言い訳でしょ、っ……」

 髭切の手をぱしんと払いのける。私ごときの非力な攻撃でも簡単に振り払うことができたのは、たぶん、彼の優しさだ。
 そうだねぇ、と彼は穏やかな声のまま相槌を打つ。八つ当たりで苦し紛れの私の決めつけも否定しなかった。いっそここで失望でもなんでもして見切りをつけてくれたら、これ以上私は傷つかなくて済むのに。誰かを想うことにすっかり恐れをなして逃げようとする私に真綿で縄をかけるように、彼は私の頬に手を添えた。さり、と親指の側面が頬を包み込み、指の腹が目の下をそっと滑る。

「君の涙を拭ってあげられるなら、恋人になれなくてもいいよ。……今はね」

 お得意の、含みのある言い方。どこまでも思いやりに満ちた声色に心が揺れる。氷が解けるように視界が滲み、眼(まなこ)からひと粒の滴が零れた。頬を伝ったそれを彼の手が拭う。あたたかく、少し乾燥したその指先に張り詰めていた細い糸を断ち切られてしまった。堰を切ったように涙が溢れてとまらない。嗚咽をもらし、肩を震わせて幼い泣き方をする私の頭を彼の手が撫でた。
 彼は何も言わない。失意に漬け込みたいなら抱き締めるくらいすればいいのに、それもしない。ただ、いつも通りの子どもあつかいで頭を撫でては、涙でぐしゃぐしゃになった頬を拭う。
 元彼の浮気を目撃したあの悪夢のような瞬間から、私は初めて涙を流した。まるで止まっていた時間が動き出したような感覚だった。
 髭切の考えていることはよくわからない。けれど、髭切がいなければ、私は健全に泣く方法などわからないで精神を病み空虚な涙を流していたかもしれなかった。その優しさが私だけに向けられるものであれば、と浅ましくほの甘い欲求が首をもたげる。冷たく振ったくせに、そんなことを思う勝手で図々しい精神に我ながら呆れ果てた。

 彼はその後、駅までどころか私を家まで送り届けた。彼が近所の道を歩いているのは変な感覚だ。夜も遅いのに送ってもらうなど申し訳ないと思ったが、遠慮するために口を挟もうとすればどこか威圧的な笑顔で黙らせられた。あなたがそれでいいなら、と言いながら、ひそかに喜んでいる自分がいるのを気付かないふりはできない。
 また明日ね、といつも通りの挨拶をしたあとで、彼はそうそう、と思い出したかのように付け加えた。

「君にとっての『良い男』がどんなものか知らないけど、僕はそんな場所に甘んじているつもりはないからね」

 にっこりと深くなったその笑みがどこかあやしげで、その台詞ばかりが脳裏に繰り返し蘇る。勝手にじわじわ熱が集まる頬を抑えて、氷枕をタオルで包んで目の下に乗せながら口をぎゅっと引き結んだ。

「痕になったらいけないから、ちゃんと冷やすんだよ」

 別れ際に言い含められた言葉を忠実に守ってしまう自分がなんだか可笑しかった。目元を冷やしている間にもひとりでに口角が上がる。
 際限なく頭に浮かんでくる彼の顔と言葉を振り払うように、私は勢いよくベッドに身体を投げ出した。


・・

 好きな子が彼氏と別れた。原因は男の浮気だと言う。
 彼女は人前では平気な顔をしていたが、少し踏み込めばその本心では泣きじゃくるほど傷ついていた。いわば、それはむき出しになった傷口だ。さっさと洗い流さないとばい菌がついてしまう、無防備で外から来るものに弱くなった、心の傷。
 その隙を利用しない手はない。我ながら酷いことを考えている自覚はあるし、彼女にも「ずるい男のすること」との厳しい評価を食らってしまった。最もだと思う。それでも、溢れる血は何かで止めなければならないし、凍えた身体は誰かが抱きしめてあげなければならないのだ。そして、その役目を他の男にくれてやるほど髭切という男は甘くない。

 彼女の優しくて人当たりの良い性格を利用してしれっと隣を独占した。彼女も空いた穴を埋めるみたいに髭切を傍に置いている。好きだという言葉そのものはぴしゃりと叩き落とされてしまったが、嫌いとは言われなかったし、そばにいることまで拒まれはしなかった。
 その日も、講義終わりの彼女を捕まえてどこかへと連れ出そうと思っていた。

『おかけになった電話は──』

 幾度目かの機械の声にむむ、と唸る。講義が終わった途端に教授に捕まって、解放されたときには彼女はもう構内にいなかった。図書館にも、よく行っていた喫茶店にもいない。まあそういうこともあるかと一時は納得したが、夜になってメールで様子を聞いてもなんの返信もなくさすがに心配になる。だからこうして電話をかけているのだが、先程から一向に通話が繋がらない。寝ているならいいけど、と思いながら、諦めきれずにもう一度発信する。

『……もしもし?』
「わ、繋がった」

 思わず驚いた声をあげてしまった。気だるげな声が電話越しに聞こえる。少し耳をすませば遠くから愉快そうに大笑いする男の声が聞こえてきて、彼女がどこかの居酒屋にいるのだと想像がついた。でも、もう十時なのに。一人で飲んでいるのか、友だちと一緒なのか知らないが、簡単に帰れる距離なのだろうか。
 いろいろ思案しているうちに黙っていたらしい。彼女は怒ったように声を低くして「用がないなら切るけど」と告げる。今日はなんだか気が短い。もしかしたらもう結構飲んでいるのかも。待って、と引き留めて、ひときわ強く携帯電話を耳に押し付けながら尋ねた。

「君、酔ってる? 今どこで飲んでるの?」
『どこでもいいでしょ、関係ない』
「おお……荒れてるねぇ」

 思わずもれた感想に彼女が不機嫌そうな声を上げたかと思うと、それきり反応がなくなった。切られてしまったかと画面を見るが、まだスクリーンは通話中の表示を保っている。もう一度声をかけてみようかと再び電話を耳に当てると、髭切が口を開くより先に、電話口の彼女が髭切を呼んだ。

『ねぇ、髭切。どこで飲んでるか教えてあげるから、迎えにきて』

 ずいぶんと上から目線の、口をつかんで引っ張りたくなるくらいにかわいいおねだりだ。酔うと気が大きくなるタイプの下戸。思えば、彼女が髭切に容赦のない物言いをするのは大抵酒を飲んだときだった。夜景に沈む、彼女の赤く染まった頬と水分の多い瞳が思い浮かぶ。
 髭切は電波に乗らないように小さく笑って、それからとろけるような甘い声で「いいよ」と返した。


 財布と携帯を引っ掴み、玄関で靴紐を結んでいると、物音に気づいたらしい弟が部屋から顔を出した。彼は今にも出かけようとしている髭切を見て、自室の時計を振り返ると怪訝そうな表情で兄に声をかける。

「兄者? こんな時間にどこへ……」
「うーん……」

 髭切は答えに少し困った。弟も兄の叶うかもわからない恋愛事情なんて知りたくないだろうし、自分もあまり知られたくなかった。失恋の弱みに漬けこもうという魂胆がうっかり弟にばれれば、この生真面目な男からの小言は免れない。そもそも、仲の良い兄弟とはいえ互いの学校生活に関してはほどほどに不干渉である。
 髭切は視線を宙に投げてから、誤魔化すように弟の顔を見てにこりと笑った。

「お姫様を迎えに、ね」

 あんまり遅くならないように帰ってくるよ。
 そう言ってドアノブを捻る。もう十分遅いぞと困惑して追いかけてくる声に蓋をするようにドアを閉めた。


 彼女が教えてくれた店と駅の名前を照らし合わせて絞り込んだその居酒屋の戸を開けると、時間帯のせいか客の少ない店内で彼女はすぐに見つかった。隅っこのテーブルについて、飴色の瓶と背の低い透明のグラスをその上にひとつずつ置いている。すたすたと真っ直ぐ彼女の元に向かえば、硬そうなソファに凭れて身体を投げ出していた彼女がゆっくりとした動作で髭切を見た。

「……髭切」
「うん。迎えに来たよ。さ、いっしょに帰ろう」
「かえる……うん…………」

 彼女はとろんと眠そうな目でまばたきを緩慢に繰り返し、舌足らずな言葉を途切れ途切れに呟く。こんな調子では、自分が来なければ路傍に投げ出されてぐうすか寝ていたのではないかと心配になった。おぼつかない手つきで会計をする彼女を支えて、表情の見えない店員に見送られながら店を出る。
 腕時計に目をやると時刻はもう十一時を回っていた。ほとんど意識のない彼女を引っ張って電車に乗るのは無茶だと早々に判断して、ちょうど運良くやって来たタクシーを拾う。数日前に彼女を家に送り届けた経験のおかげで彼女の家の場所は知っていた。髭切が手を離せば重力に従って地面に崩れ落ちる彼女の腕を掴んで支えながら、運転手に住所を告げる。
 揺れの少ない車内でも彼女はふらふらと頭をぐらつかせた。座席に足を組んで座り、自分の肩にその頭を置いて力なく放り出されていた手を握る。
 寝息を立て始めた肩の重みに目をやると、閉じられたまぶたの下に涙の痕ができていた。今度はいったい誰に泣かされたのだろう。せっかく髭切のアプローチという名の献身で癒えはじめていた傷を、また抉られでもしたのだろうか。可哀想に。慰めるように髪を梳かしながら頭を撫でると、彼女は寝ぼけた声を出してその手に擦り寄ってきた。思わず手に力が入りそうになるのを耐える。

 彼女のマンションの近くでタクシーから降りると、運転手は手慣れた作り笑いをその顔に浮かべてさっさと走り去ってしまった。若者の恋愛事情になど付き合っていられないとでも言いたげだ。仕方ない、帰りは電車で帰ろう。
 髭切は彼女に声をかけて起こし、さすがに部屋番号までは知らないので彼女自身に部屋の前まで案内させた。寝ぼけ眼で鍵を挿し込み、玄関に歩み入る彼女を外で見送ろうとした髭切だったが、ばたんと勢いよくフローリングの床に倒れこんだ彼女を見てやむなくその部屋に足を踏み入れる。女の子の一人暮らしの部屋に男が入るのはよくないことだと思いながら、布団まではついて行ってやろうと深呼吸をして心を決めた。
 大丈夫。何もしない。ただ無事に寝かせてやるだけだ。

 大学生の部屋らしく一部屋とキッチンのみの間取りの部屋で寝床を見つけるのは難しいことではない。窓際に置かれた足の短いベッドに彼女を横たえて、その肩を呼吸のリズムに合わせて優しく叩く。まだ弟が幼いころに、寝かしつけるために母や自分がよくやっていた行為だった。すう、と穏やかな寝息を立て始めた彼女の目じりを親指で撫でる。泣いていた理由は今度詳しく聞き出そうと決めて、髭切は立ち上がった。

「あ。……鍵」

 失念していた。このまま自分が去れば、鍵のかかってない部屋に無防備な少女を残していくことになる。このあたりは特に治安が悪いというわけではないが、施錠しないで寝るというのは、さすがに。取り返しのつかないことになってからでは遅いのだ。
 髭切はもう一度しゃがみこみ、気持ちよさそうに寝ている彼女を揺さぶった。

「起きて。僕はもう帰るから、ちゃんと鍵をかけて寝るんだよ」

 穏やかな呼吸が乱され、ぐうと唸った彼女は眉根を寄せて目を瞬かせる。何度か声をかけると意識を取り戻したらしい彼女の焦点が合い始めた。んん、と煩わしげに開かれた両目に、髭切の顔が映る。
 わかった? と辛抱強く言い聞かせる髭切の言葉の意味をわかっているのかいないのか、ぱちりと開いた眼で髭切をまじまじと見つめていた。いよいよ困って眉尻を下げた彼の手首を、彼女の手がひしと掴む。

「……いかないで」
「え、」
「いかないで、髭切……」

 驚いた。彼女の言葉にも驚いたが、それ以上に、両目からぽろぽろと零れ落ちる滴に。

「ど、どうしたの? 悲しいの?」

 気が動転して鈍い問いを投げてしまう。悲しいの? とは何だ。悲しいから泣いているのだろう。いよいよ本格的に泣き始めた彼女の背を撫でる。しっかりと握られた手を引きはがすことは、髭切にはできなかった。
 心の中で一つ溜め息を吐いて、携帯電話を取り出す。出かける際の言葉を裏切るような形になってしまったことを申し訳なく思いながら、髭切は弟にメッセージを送った。


・・


 朝だ。いつのまにか夜が明けている。
 ずきりと頭に痛みが走った。なんだか体が全体的にだるい。完全に二日酔いの症状である。昨夜は傷心を言い訳に許容量を超えたアルコールを摂取してしまったのかもしれない。傷口を消毒するように、心の傷にもアルコールが効くかもと考えてがぶがぶ飲んだ昨日の自分を殴って正気に戻してやりたい。どんな理論だ。とばっちりを食うのは翌日の私である。
 頭を押さえながらむくりと起き上がり、朝日を受けて鮮やかに色づいた遮光カーテンを開けるために体を動かそうとしたところで、腰に巻きつくような重さを感じた。布団か、と手でどけようとして、気づく。おおよそ布団とはかけ離れた、恒常的に保たれた暖かい皮膚と筋張った筋肉と骨の感触。重さの正体は、人間の腕だ。

「……ぇ!?!?」

 ぎょっとして急に目が醒めた。慌てて意味もなくタオルケットを引き寄せる。白い腕の根元をたどるとありえないくらい端正な寝顔がそこにあった。髭切が、私の部屋で寝ている。私の腰を抱いて。
 反射的に自分の体を抱く。しっかり昨日の服装のままだった。
 なんで、と疑問を抱くと同時に、昨日の夜の記憶がよみがえった。とち狂った私は心配してくれたであろう髭切の電話に「迎えに来て」と偉そうなことを口走り、ほんとうに店まで迎えに来た彼にこの部屋まで送り届けられ、そればかりか、帰ろうとする髭切を「いかないで」と引き留めたのである。全部きっちり覚えていた。このことに安堵すればいいのか、いっそ忘れてしまいたいと嘆くべきなのか、判断がつかずに膝を抱える。
 私の身動きのせいで目を覚ましたらしい髭切が、長いまつ毛を瞬かせながらまぶたをゆるりと持ち上げた。

「んん……? あぁ、起きたんだね。おはよう」
「お、はよう……ございま……」

 謝らなければ。あと、お礼もしないと。そう思うのに、気持ちばかりがせめぎあって言葉にならない。
 髭切はふわりと欠伸をすると、薄いタオルケットを抱いて硬直する私に代わってカーテンをシャっと開けた。予想以上に眩しい陽光にぎゅっと目をつぶる。おそるおそる目を開いた視界で、髭切は美しく笑った。

「さて。覚えてるのかな?」
「お、覚えてます……」
「なら話は早いよね。聞かせてごらん」

 昨日は、どうして泣いていたんだい?

 逃さないと言いたげな瞳。それに対峙する私。
 デジャビュだった。ただしあの時とは、あまりにも背景が違うけど。


 昨日の、午前と午後の講義の合間のことだ。
 ひとつ前の講義が済んで、誰もいないはずの講義室の電気が点いていた。誰か残っているのかと室内を覗いた私を待ち受けていたのは、元カレとその今カノらしきかつての浮気相手がキスをする、衝撃的な画だった。二人は長く濃厚なキスをしたあと、笑いながらみつめあっていた。完全にカップルだった。しかも、お似合いの。
 最悪の気分だった。無意識に涙が出るなんて初めてのことだ。大学で何やってるのとか、フラれて間もないくせにとか、言ってやりたいことは山のようにあったけれど、余計に惨めな気持ちになりそうでこっそり逃げ出した。そのまま、髭切が教授に捕まっているのをいいことに、最後の講義が終わった瞬間に大学を飛び出して電車に飛び乗り、営業を始めていたこの店に飛び込んだのである。

 事の経緯を伝え終わってからしばらく、部屋には沈黙が落ちていた。記憶を辿るうちに当時の感情を思い出して再び気分が下降しそうになったが、それを上回る申し訳なさといたたまれなさでそれほどダメージはない。何も言わない髭切の表情を確認する勇気が今ひとつ出なくて、私も黙り込んだまま俯いて床の木目を穴が開きそうなほど見つめることしかできなかった。

「……それはつらかったね。もうすっきりした?」
「っ、あ……」

 優しく告げられた声に顔を上げると、髭切の手が私の頬を包み込んでいたわるように視線を合わせられる。確認するように目を覗き込まれて、涙袋の下を親指がなぞっていった。なにかお詫びとお礼を、と呟く私の唇を同じ指が押さえる。

「気にしなくていいんだよ。その代わり、今度からは何も言わずにいなくならないでね」

 その言葉に素直に頷いたのは、単なる申し訳なさからではなかった。まして雰囲気に流されたわけでも、白い朝の光に包まれる髭切の美しさに惑わされたわけでもない。はっきりわかっていたけれど、核心に触れるのは怖かった。
 訪れた心境の変化に気づきながら、私は臆病に逃げ回っていた。


・・

 その日以降、髭切は以前にも増して私を甘やかした。ぴったりと隣に寄り添い、意識が逸れたり隙を見せれば甘い声と仕草で引き戻される。前の彼氏と付き合っていた頃にすら体験したことのない甘さだった。周囲の人間には完全に付き合っていると思われていそうだ。

 そのせいだろうか。ここ最近、髭切の顔が頭から離れない。
 講義のない日に家で録画したテレビ番組を眺めていても、どうも集中できない。ふとした瞬間にぷつっと意識がテレビの画面から髭切との記憶の回想に切り替わり、あの綺麗な顔と優しい声が鮮明にフラッシュバックするのである。このおかしな現象の名前を私はたぶん知っている。狂気とか苦しみとかに喩えられる、理論では説明のつかない心理の動き。いつかの時代のどこかの国の作家は、それを『ため息と涙でできたもの』と言った。的を射ていると思った。

「あーーもう! 考えるのやめよ!」

 コンビニでお菓子かアイスでも買って気分転換をしよう。それがいい。
 私はまだ半分も観ていないテレビをぶつんと消し、携帯電話と財布をエコバックに投げ入れて立ち上がった。


 どういうわけか自宅の周りにコンビニがないので、アイスを買うためには最寄り駅の周辺まで行かなければならない。ちょっとしたウォーキングのようなものだと自分を納得させて、十分程度の道のりを行く。
 暮れかかったばかりな上に明るい街灯が照らす道でも、分厚い雲に覆われて空は暗い。じめっとした空気が四肢にまとわりつくような感覚に雨の気配を感じる。天気予報に関してはずぼらなので確認してはいないが、念の為持って出た傘を揺らしながら歩いた。

 少し高めのアイスのシリーズに期間限定のフレーバーが発売されていて、パッケージの全面にでかでかと示されたその四文字に引き寄せられるように手に取った。気軽には手を出せない金額だが、今日ぐらいはいいか。そう自分を甘やかして手に取ったアイスをそのままレジに持っていく。最近導入されたというセルフレジ機能にもたつきながらなんとか購入したアイスをエコバッグに入れて、機械的に「ありがとうございました〜」と言う店員の声に見送られて店を出た。

「うわ……雨やば。傘持ってきててよかった」

 ざあざあと地面を濡らす雨に思わず肩を落とす。予感していたとはいえ、ここまで急に本降りになるとは。ゲリラ豪雨というやつか、と溜め息をつきながら傘を広げる。奮発して購入した大事なアイスが雨でダメにならないように守りながら、狭い歩道の至る所に浅い水溜まりを作り始めた雨の中に一歩踏み出した。

 家路を歩いていると、駅の近くのホームセンターから出てきた高校生らしき二人組とすれ違った。近所の公立高校の制服を着た、かわいらしい男女の……カップルだろうか。微笑ましいことに相合傘をしている。今どき見かけること自体が珍しいその光景に、思わず立ち止まって振り返ってしまった。
 二人ともそれぞれに荷物を抱えている。傘を持っているのは男の子のほうだったが、男子高校生の持ち物とは思えないサイズとデザインの傘だったから、女の子の折りたたみ傘を持ってあげているのだろう。その傘は女の子のほうに傾いていて、男の子の肩にはがっつり雨がかかっているように見えた。
 お互いに片手が空いているのだから、繋げばいいものを。そうやきもきしてしまうのは野次馬根性以外の何者でもなかった。恋愛ドラマを見ているときのような気持ちに似ている。

 相合傘は、惚れているほうが雨に濡れる。そんなフレーズを聞いたことがある。
 頑張れ少年、と、きっと五つも変わらない青年にこっそりとエールを送って、肩にかけたバッグを抱え直して踵を返した。


 雨の中、そばを通る車に水をかけられたり、道端の木に傘を引っ掛けたりしながらなんとか家に着いた。びしょびしょになった靴下を脱いで洗濯機に放り込む。靴の中敷きを出して土間の壁に立て掛け、一息つくより先にアイスを冷凍庫にしまい込んだ。濡れてしまったスカートを脱いで部屋着に着替え、手を洗ってようやく脚を休めた。
 雨に降られるなんて、ついてないな。
 窓越しに聞こえる雨の音が煩いくらいに耳にこだまする。普段であれば他の家の生活音や子供たちの声が聞こえている時間帯なだけに、そのどれもが土砂降りの雨にかき消されてしまうのがどうにも息苦しく寂しい。はぁ、と心細さを感じておもむろに携帯電話に手を伸ばした。目的もなく代わり映えしないネットニュースの記事を眺めると、孤独感に拍車がかかるような気すらしてくる。
 嘆息して電源を切ろうとしたそれが、唐突に震え出した。着信を知らせるそれに、びくりと震えた指が触れて通話状態に切り替わってしまう。

「っびっくりした……何……? もしもし?」
『急にごめんね。君の声が聞きたくなって』

 電話をかけてきたのは髭切だった。ごめんねと言うあたり前触れなしに電話をかけることへの負い目はあるのだろう。正しい感覚だ。ほんとにね、と小言のひとつくらい言っても許される立場だけれど、私はどういうわけか正反対の声で電波の先の髭切に甘えていた。

「ふふ。私も聞きたかったよ」
『おお、今日は素直だね』
「ん、いつもの私は嫌って言いたいの?」
『まさか。普段の君もかわいいよ』

 まるでカップルの通話だ。それくらい、甘ったるくてのほほんとした空気の漂う会話だった。
 電話口から聞こえる雨の音が心做しか大きい気がして、ひょっとして外にいるのかと問いかける。

『うん。でももう帰るところだよ。君は?』
「私はね、今からアイス食べるの。期間限定の高いやつ買ったんだ」
『へぇ、僕も食べたくなってきたなぁ。帰りに買っちゃおうかな』

 終着点も目的もない、たわいない会話。それに並みひととおりではない安心感と充足感を見出している自分がいた。
 今からでも遅くはないだろうか。一度は無下にしてしまった彼の言葉に今さら応えることを、髭切は許してくれるだろうか。

 彼はきっと許してくれる。自然とそう思えて、不安になる隙はなかった。ちゃんと顔を合わせて、目を見て直に伝えたい。彼はどんな顔をするかと想像すると、知らないうちに口角が上がった。


・・

 翌日。雨が上がって、地面の湿り気を陽光がきらきらと照らす清々しい午後。
 無事に髭切と最後の講義の後に約束を取りつけた私は、機嫌良く待ち合わせ場所までの道のりを歩いていた。吐き捨てられたガムを踏んでも、水たまりに足を突っ込んでも、花屋の店員に誤って水を浴びせられても笑って受け流せそうなほどに上機嫌だった。実際にそんなことが起きたらまず着替えなければと焦りに焦るだろうけど。まあ大学の中に花屋はないから、こんなのはただの想像に過ぎない。
 構内を足取りも軽やかに横切り、正門に向かう廊下を歩く。あとはこの先の階段を降りるだけだというところに差し掛かって、ふと鼓膜を震わせた話し声に意識が引っ張られた。

 聞き間違いでなければ、これは彼の声だ。
 その声が聞こえる方に向きを変えて足を進める。ひときわ声が近くなった別の学部の研究室を、そっとドアの硝子になっている部分から覗き込んで。
 ──覗き込んだことを、一瞬にして後悔した。

「……で、君は僕をどうしたいの?」
「う〜ん、どうしたいとかじゃないんですけど……髭切さんってかっこいいなって、前々から思ってたんですよね」
「……そうなんだ」

 それ以上は聞いていられなかった。早足でその場から離れ、階段を駆け下りてほとんど走るような足取りで大学を出る。
 髭切と一緒にいたのは私から元彼を奪ったあの女だった。また、私を惨めな思いにさせるのか。ことごとく私の行く手を阻む彼女も彼女だが、その誘惑にまんまと乗る彼らも彼らだ。
 待ち合わせの場所などとうに通り過ぎて、気がつけば駅にたどり着いていた。引き返す気など微塵もない。携帯電話のトークアプリを開いて、「急用が入った」と嘘のメッセージを送って電源を切る。電話になど出てやるつもりはなかった。

 もういい。男なんて信じない。

 自暴自棄な心持ちのまま、いつかの日のように勢いで電車に飛び乗った。



 以前と同じ店で同じようにビールを頼もうかと思ったが、思いとどまってノンアルコールのカクテルにした。勢いに任せて酒を飲むと厄介なことになりかねない。前回の教訓が私の中で活きていた。まだ客の少ない店内で、窓を眺めながらジュースのようなそれで喉を潤した。
 同じノンアルコールカクテルを何杯も飲みながら、適当に頼んだ枝豆と焼き鳥を口に運ぶ。虚しい心を食べ物で満たすかのように、食欲ばかりが無尽蔵に湧いてきた。前回と同じ隅の席に座って、焼き鳥を頬張りながら窓を眺める。
 焼き鳥は串から全部外してから箸で食べる派だった。元彼にはそれはないと苦言を呈されたなと思い出さなくてもいいことまで蘇ってきて、ツンと鼻の奥が痛む。久しぶりに泣きそうだ。
 この短い間に、幾度恋に敗れて傷つけばいいのだろう。期待させて私を作り替えてしまったのはいつも向こうの方だというのに、どうして私ばかりがこんなにも悲しい思いをする羽目になるのか。つくづく男運がないと己の不幸を嘆いても、この傷が癒えるわけではない。

 この席に着いたときはまだほのかにオレンジ色だった外の世界は明るい紺色に染まり、行き来を繰り返すシルエットの色も様変わりしていた。店もいくらか客が入ってなかなかに騒がしい。もう夜か、とのろのろと腕時計に目をやると、短針は八時を指している。なんだか無意味に時を過ごしてしまったなと考えると、さらに気が滅入ってごちんとおでこを机にくっつけた。ちょっと痛かった。そのままテーブルに突っ伏し、冷たい木の板で熱を帯びた頬を冷やす。
 目を閉じて瞑想しかけた私に、頭上から声が降ってきた。

「今のはいい音がしたねぇ。大丈夫かい?」

 聞こえるはずのない声に勢いよく顔を上げた。大きく見開いた目に髭切の姿が映る。電源を切るなんて君もなかなかやるね、と言いながら自分の携帯電話を鞄にしまい込んだ彼は、ためらいも何も感じさせない動作で私の隣に腰を下ろした。すすす、と壁際に後ずさる私を、追い詰めるような瞳が見つめる。

「ここにいると思ったんだ。急用なんて嘘だよね」
「……嘘じゃない。もうあなたとは会わないから。これっきりにして」

 冷たくあしらうと、悲しげな表情で私を見上げてくるその男に罪悪感が胸をつく。情けをかけるなと言い聞かせるも、部分的に会話を聞いて、ただ一緒にいたというだけで決めつけるのはよくないと私の中の冷静な部分が正論を飛ばし始めた。
 ぐらっと揺れる決意を見通したのか、タイミングが良いのか、彼は追撃するように言葉を重ねる。

「さっき話してた女の子はすぱっと振ってきたから大丈夫だよ。僕が好きなのは君だから」
「耳触りの快い(いい)ことばっかり言わないで。もう懲り懲りなの。前に付き合ってた彼氏だって『お前だけ』って言ってたけど、結局私じゃなかった」

 ふい、と顔を背けて彼の表情を視界から追い出した。窓に私の顔が映る。凹凸の模様が入った曇りガラスに映し出されたそれはいびつに歪んでいた。ぼやけた像が揺らぐ心を写しているようで、ぐっと唇を噛む。
 無情に向けた背中に、彼の真剣な声がすがりついた。棘だらけの殻に立てこもった私の心に言葉の弾丸を届けんとする声だった。

「僕は君を裏切らない。……絶対に」
「でも……でも、あの人は、」

 弱い反論をしようとして口篭った私の言葉の後に、はぁ、と小さく溜め息が聞こえた。
 咄嗟に振り返ると、彼は珍しく怒ったような不機嫌そうな表情を浮かべていた。驚いて身体が固まる。鋭い目つきで私を見据えて、甘さとは正反対の声音で続けた。

「さっきから、別の男の話ばっかり。君を蔑ろにするような男、どうでもいいよ。君ももうどうでもいいよね?」

 僕だけを見て。

 そう言って頭を撫でられた。有無を言わさぬ声風なのに、まるで懇願されているようだ。強い響きを持った言葉とは裏腹にどこまでも優しい手つきに、とうとう私は陥落した。

 いくらショッキングな出来事だったとはいえ、この数週間がなかったことになるわけではない。ようやく認めることのできた想いはまだ生きていて、私の心を再び燃え上がらせる。元彼を振ってやった時とは明らかに違う気持ちだった。どうでもいいよね、と言われると、本当にどうでもよくなってくるのが不思議だ。彼は人を巻き込む才能がある。とっくに思い知っていたはずのことだった。
 視線を逸らさない私の手を握って、彼はもう一度口を開く。

「君のことが、す……」
「ストップ」

 すんでのところでその言葉を押しとどめた。唇に指で蓋をされた髭切は、目をぱちりと開いて私を見つめている。彼に言わせてばかりでは今までと何も変わらない気がした。受け身の恋愛はもうやめる。私の意思で、私の言葉で、この想いを伝えたかった。
 すぅ、と息を吸った。緊張して高鳴る鼓動がほんの少しだけ落ち着く。

「私、髭切のことが好き」

 自分の言葉なのに、それは店内の喧騒をふっと私の意識から弾いた。静かな世界で、まるでそれしかないように、私は髭切の顔だけを見ていた。
 髭切の口を押えていた手がそっと外されて、その掌に唇が押し当てられる。壮絶なまでのその景色に言葉を失った私の視線を絡めとって、彼は溶かすように目を細めた。

「……うん。僕も、君が好きだよ」
「わ……、私と付き合ってほしいの。……いい?」
「もちろん。君が望むなら。僕も、君の特別になりたかったんだ」

 仄かに頬を染めてとろけるような笑みを浮かべた髭切に心臓が高鳴る。承諾の言葉にほっと息をつく暇などなかった。もともと意図的な愛情表現が露骨なのに、ふとこぼれ落ちる表情までこうも刺激が強いとはどういうことだ。
 じわじわと恥ずかしさが遅れてやって来る。熱が集まって真っ赤になっているであろう顔を覆うと、「耳まで真っ赤だよ。かわいいね」と横から余計な情報が付け加えられた。言わなくていいよと思いながら、がばっと手を離して彼に向き合う。
 そのまま、勢い任せに目を閉じて顔を近づけた。焼き鳥とか食べていた口なのでさすがにちょっと気が引けて、ぎゅっと引き結んだ唇だけを軽く合わせる。幼いキスでも、彼の視界を塞いで、私の気持ちを温度で伝えるには十分だと思った。唇を離して彼の様子をうかがうと、面食らったように余裕が抜け落ちた顔が見える。そのことにちょっとした優越感を覚えて、残っていたカクテルをぐいっと飲んだ。冷たく甘い液体が喉を通って顔の熱を冷ましていく。空になって氷だけが残ったグラスをテーブルに置くや否や、顎を横から伸びてきた手に掴まれて向きを変えられた。蜂蜜色の瞳がすぐそこに見える。

「はじめては僕からしようと思ってたのに。先を越されちゃったなぁ」
「控えめな良い女でいるのはやめたの。タイプじゃなかったらごめんね」
「ううん。ちょうど良かった。そのほうが僕好みだよ」

 微妙に嘘だな、と思った。彼はきっと私がどんな女でも同じ言葉を言っただろう。けれどそれでもいい。
 彼にとって私がどんな女になるかなんて些細な違いであるように、私にとっても彼が良い男かずるい男かなんて、気にするほうが野暮なくらいちっぽけな問題だった。

 いっそ乱暴なその思考を共有するように、私は降ってきた口付けにまぶたを下ろした。

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