その詩はまだ紡ぎ始めたばかり

極大倶利伽羅 私だけが得する話



「無性に人肌が恋しい」
 それは唐突に、──本当に唐突に、口を突いた一言だった。深い意味もなく、抱擁を求めるような相手を思い浮かべていたわけでもない。ただ延々と同じような作業を繰り返すだけの単調な仕事に飽き飽きしてしまって、脳死したあまり心の中に留めておけなかったというだけ。彼はよく喋る刀ではないから、静かな部屋に私の声はひときわ明瞭に広がった。
 四部隊とも出陣や遠征に出ているせいで、昼下がりの本丸は少ししんとしている。その一室で、審神者である私は近侍と二人がかりで締切が迫る書類を片付けているところだ。月末である今の時期にこうも忙しいのは、この本丸ではもはやおなじみの光景である。計画性のない審神者のせいで、未達成の月課任務を駆け込みでこなさなければならないのだ。いつも、来月こそは計画性を持って任務に当たろうと決意するのだけど、なぜか同じ結果に終わる。そういうわけで、一向に改善しない私の指揮と月末特有の焦りから、本丸内にピリピリした空気が流れているのは気のせいではない。
 その空気を和ませようなんて意図は、私の言葉にはこれっぽっちもなかった。先に述べた通り、私は何か反応を期待していたわけではない。ないのだけど、同じ空間にいるのだから何かしら反応があるかと期待して、ちょっと耳をすましてみる。今日の近侍は大倶利伽羅で、まあ予想通りと言えば予想通りだが、清々しいほどの無反応だった。相槌どころか、視線のひとつも寄越さない。つまり、いたって普段通りということ。
 変わりないようで何よりだけど、今回ばかりはちょっとむっとした。誰に向けたわけでもない言葉でも、反応がないとそれはそれで寂しいものなのだ。
「大倶利伽羅、聞いてる?」
「……聞く必要があるなら聞くが」
「必要って……」
「ないなら、俺に構っていないで仕事をしろ」
 一切の温度のない冷めた口ぶりは相変わらずだ。軽い気持ちで話しかけたのをぴしゃりと跳ねのけられ、私は残念な気持ちで手元の書類に視線を落とした。
 手に持っていたままのペンを握り直して書類に続きを書き込む。部屋の中では再び、薄い障子越しに遠くに聞こえる刀剣たちの声と、私たちが書類を扱う乾いた音だけが聞こえていた。時折指をほぐしつつ、至って真面目に作業に集中する。何枚目かの手続き書に審神者名を署名し終えたところで、やはり諦めきれずに私はとうとうペンを手放した。
「だめだー! やっぱり人肌恋しい」
「…………」
 ちらっと彼の様子を横目に見るも、相変わらずガン無視を決め込まれた。しかし私は六十を超える癖の強い刀剣男士と何年も接してきた審神者である。多少の塩対応では砕けない。まして、大倶利伽羅のこの態度はいつものことだ。いまさら落ち込む理由もなく、私は気にせずに彼の顔を見つめて続けた。
「ね、大倶利伽羅がハグしてくれたら頑張れるかも」
「……馬鹿なことを言っていないで手を動かせ」
 大倶利伽羅はそこで初めて視線を上げたが、ちらりと私を見ただけですぐに顔を戻した。呆れたようなため息を吐き、また手元の書類とにらめっこし始める。
「一瞬だけ! それか勝手にハグするから身体だけ貸して?」
「断る」
「なんでよ〜! 審神者の言うこと聞いてくれたっていいじゃんか」
 冷たくあしらわれても食い下がり、つんつんと大倶利伽羅の腕をつつく。内番着のジャージ越しでも鍛え上げられた筋肉の感触がわかって感動したけど、顔には出さなかった。駄々をこねる私に、それを「馴れ合うつもりはない」と斬り捨てる大倶利伽羅。平行線をたどるやりとりを何度か重ねたところで、とうとう大倶利伽羅が鉛筆を机に叩きつけるように置いて私の腕を掴んだ。
「……いい加減にしろ」
 もともと鋭い目付きをますます鋭くして、飴色の瞳でキッと睨みつけられた。激しくはないけれど、ドスの効いた地の底を這うような声が、掴まれた腕から直接伝わってくるみたいにビリビリと響く。本気で嫌がっていることをいやでも察して、私は震える声で素直に謝罪した。
「う、ごめんなさい」
 掴まれていた腕が解放されて、大倶利伽羅は再び視線と姿勢を机に向ける。手首に残る手のひらの感覚は決して弱いものではなかったが、痕になるほど強いものでもなかった。彼なりに、主の私に手加減してくれていたのだ。その気遣いに対する申し訳なさもあいまって、やりすぎたことをいっそう反省した。

*

 反省はしたけど、気にしない。私はもともと、済んだことをくよくよ考えても仕方ないと思う派で、あんまり悲観的なタイプでもない。先日の大倶利伽羅との一件は、経験のひとつとして受け止めることにした。
 修羅場を乗り越えて無事に月が改まり、いくらか余裕のある我が本丸には平和な空気が流れている。書類を片付けるために執務室に缶詰になる必要もなく、審神者の私は私室でのんびり日々の戦績や資源の記録をつけていた。その程度の仕事にまで近侍は付かない。
 ちなみに今日の近侍も大倶利伽羅だ。修行の通達が政府から発表されたので、微妙に上がりきっていなかった練度をあげてもらうために第一部隊で出陣してもらっていた。彼はこの本丸が発足して初期に顕現し、初期刀たちとともに中心となってみんなを引っ張ってくれている刀だ。ある程度まで経験を積んだあとは新人の教育にも尽力していて、だから大倶利伽羅自身が後回しになってしまっていた。そうなっても文句を言わない彼だから、私も何かと頼りにしてしまう。月末の書類だってそう。とうとう大倶利伽羅も修行か、と思うと、なんだかすごく長い間、遠い旅を過ごしてきたような気分になる。実際は三年かそこらなので、刀剣男士はおろか人間の時間感覚でも短い期間だけれど。
 そんな彼は先の出陣で軽傷を負ったため、現在は手入れ部屋にいる。
 勝利A、軽傷、一。資源の持ち帰り、砥石五十。
「よし」
 ぱち、とエンターキーを叩いて記録を終え、ごろりと私室の畳の上に横になった。長いこと端末の画面を見ていたせいか、目が疲れているし頭がぐらぐらする。目の下に指を押し当ててぐりぐりほぐしていると、頭上の障子がすっと開かれて畳に大きな影がさした。
「邪魔するぜ〜」
「その声は……和泉守!」
「おうよ」
 遠慮なしに入ってきた和泉守は、本棚の前に腰を下ろすとなにやら機嫌よく物色し始めた。私の部屋には、私自身が読書家なのと、刀剣たちに頼まれてよく本を購入するせいで、本がぎっしり詰まっている大きな本棚がある。そのため、色々な刀が本を読むためにたびたび部屋を訪ねてくるのだ。彼らは基本的に好きに部屋に入ってくるけれど、本当に入られたくないときはきちんと入れないようにしているから困ったことにはなっていない。この和泉守もその類であるらしく、目当ての本を器用に抜き取ると山積みになっていた座布団を引き寄せてそのまま読み始めた。
「なに読んでるの〜……お、司馬遼太郎かぁ。私も好きだよ」
「そーだなァ」
「あ、これ聞いてないな」
 本棚に入っているのは、圧倒的に歴史小説や時代小説が多い。私の趣味と言うよりは、刀剣男士とともに過ごすうちに興味を持って読むようになったと言ったほうが正しいかもしれない。和泉守がまさに今読んでいる本は例外で、現世にいた頃からずっと好きだった作家の小説だ。和泉守に読書家のイメージはあまりないけれど、読んでいる小説の主人公が彼の元の主であるからか、不思議と違和感は覚えなかった。
 真剣な表情で読み進める和泉守はいつもとは違う雰囲気を醸している。活字を追う眼差しも、力の込められていない眉も、どれも新鮮でついじっと見つめてしまった。相当じろじろ見てしまったけれどあまりになにも言われないので、暇を持て余した私の頭が悪戯心に動かされてあることを思いつく。そうだ、今なら。
「和泉守、ハグしていい?」
「あ? あぁ」
 お手本のような生返事である。もちろん彼の耳に私の話が届いていないことはわかっていた。それでも了承を得たのだから、怒られたとしても言質を盾にすればいい。
 むくっと起き上がって畳の上をずりずりと移動する。軽装姿の広い背中に、一思いにぎゅっと抱きついてみた。反応はない。体格差のせいで腕が回りきらないので胸元の布を握ってみる。背中にぴったりくっついて体温を確かめると、彼のそれは意外にも低かった。これだけ好き勝手に触れても和泉守が何も言ってこないのをいいことに、抱きしめる腕に無遠慮に力を込める。私の想像では、もっと胸がいっぱいになって身体の内側から満たされていくような感覚があるはずだった。けれど実際は、肉体の隙間が埋まり体温が結びついただけで、じんわりとしたぬくもりは湧いてこない。思ったほどの感動がなかったことに少し落胆して、惰性でくっついたまま膝立ちになって彼の肩に顎を乗せた。
「なんか……思ってたのと違う」
「アァ? 失礼な奴だな」
 和泉守は、片方の眉を上げて顔だけでこちらを振り返った。切れ長の目と視線がかち合い、見慣れた表情が私を不服そうに見上げる。聞こえていたらしい。やっと本から目を上げた、とひそかに喜んだ瞬間、すっと障子が開け放たれた。
「入るぞ。おい、そろそろ──」
 伏せていた目を上げた大倶利伽羅の金色の瞳と視線がぶつかる。彼は部屋の光景を見た瞬間にふっと言葉を止め、ぴしりと硬直して動きを止めた。同胞に抱き着いている審神者を見たのだから無理もない反応だ。私たちの間に流れる気まずい空気に押されるように、私はおずおずと和泉守の背中から離れた。
「……夕餉だ」
「は、はぁい。ありがと〜……」
 低い声で簡潔に用件を述べた無表情の大倶利伽羅は、それ以上何も言わずに部屋に背を向け、すぱっと障子を後ろ手に閉めた。
 去り際、彼はなにを考えていたのだろう。理由もわからず漠然とした焦りと不安が心をざわつかせ黙り込む私の横で、和泉守はぱたんと本を閉じた。
「夕餉だとよ。はやく行こうぜ」
 しおりは挟まなくていいの、と提案することも忘れていた。なんだか心に穴が空いて、冷たい風が吹きすさぶような寂しさに襲われる。大倶利伽羅のことが気になって仕方ない。くよくよ考える性格ではないのに、私は一体どうしたのだろう。
 読んでいた本を棚に片付けて立ち上がり、こちらを見下ろす和泉守の後ろについて夕餉の席に向かった。いつのまにか暮れていた暗い茜色の空に、黒い雁の姿を空目した。

*

 次の日も、引き続き戦場で経験を積ませるために大倶利伽羅が第一部隊の隊長で、近侍だった。私の机で書き物をする大倶利伽羅を、昨日和泉守が使っていた座布団の山にもたれ掛かりながら眺める。彼は本日の出陣では怪我をしなかったので、戦績の記録を任せることにしたのだ。
 表情の変化に乏しい彼が、なにを考えているのか想像するのは容易ではない。でも応対こそ冷たいけれど、その心根は真っ直ぐで悪意がないことは私にもわかる。自分の刀はみんな気がかりだが、大倶利伽羅のことがとりわけ気にかかるのは、彼のそういう性格も影響しているのかもしれない。頬杖をついた体勢を崩し、思い切って口を開いた。
「最近ほんと人肌恋しいんだよね」
「……和泉守に頼めばいい」
 昨日もそうだったろ、と言いたげな、いつもよりすこし不機嫌そうな声音に目を見開く。無視されなかった、という驚きよりも、彼の口から別の刀の名前が出てきたことへの違和感が凄まじかった。呆気にとられて思わず頷きそうになったが、私には彼のせっかくの提案に乗れない理由があるのだ。
「それね、実は昨日の夜にさぁ……」

 それは昨夜の夕餉の後のことだった。お腹も脹れて、眠たくなってきたなあと欠伸をしていた私の背に、声をかける者があった。
「主さん」
「堀川? どうかした?」
 堀川の表情はいつも通りの明るいそれだった。浴場に向かう途中であったのか、手には寝巻きとタオルらしき荷物を持っている。何かあっただろうか、と首を傾げて堀川に向き直ると、彼は私に一歩近づいてすんと鼻を鳴らした。
「え、何……」
「やっぱり。主さん、今日、兼さんと何かありましたよね」
「……へ?」
 ドキッと心臓が嫌な音を立てて跳ね上がり、急速に脈拍が速くなっていく。確信めいた言い方に逃げられないと悟った。読書をしている和泉守の背中に抱きついて、ぎゅうぎゅう好き勝手に抱き締めたことは事実だが、堀川はなぜそれを推察できたのだろう。そんな、匂いが移るほどの接触だったつもりはないのに。
「えっと……それはその……」
「まあ、兼さんが嫌がってないみたいだからいいですけど」
「ごめん……」
 いつも通りの明るい表情に明るい声色。なのに、急所に刀を突きつけられているような寒気が背中に走り、私はただ謝ることしかできなかった。

「……ってことがあって。二度としない、って思った」
 空を見つめて決意に拳を握る私をハッと鼻で笑った大倶利伽羅は、手際よく終わらせた記録を私に寄越しながら座り方を変えた。片膝を立て、机を肘掛のように使いながら身体をこちらに向ける。
「それで? 俺はあんたの言うことを聞けばいいのか」
 損ねていた機嫌が上向きに回復したのか、やや愉しげな響きのある声音で、普段の彼からは想像のつかないようなことを言った。その言葉の意味を飲み込むのに難航して、一瞬思考が止まる。
「え! 聞いてくれるの!?」
「……何を勘違いしているのか知らないが、しつこいからだ」
 つん、とそっぽを向いてしまった大倶利伽羅だったが、聞こえた言葉は幻聴や都合のいい妄想ではない。嬉々として座布団から背を離し、勢いよく腕をばっと広げる。明らかに嫌々ながらといった様子ではあったが、彼は立てていた膝を下ろしあぐらをかいて正面の胴体を空けてくれた。わかっていたことだけど、大倶利伽羅のほうから抱きしめてくれるわけではないらしい。
「……お邪魔します」
 正面から抱きついて背中に腕を回す。彼は和泉守よりも若干身体が薄く、頑張れば背中で手と手が届きそうだった。肩口に顔を埋めて、ぎゅうっと強く身体を押しつける。鍛えているし、戦場を駆け抜ける戦士だから当然ながら柔らかくはないけれど、でも和泉守の背中に抱きついたときとは違う温かさが胸の奥に広がった。どうしてこんなに安心するのだろう。欲求が満たされたら離れようと思っていたのに、こんこんと湧き出る恋しさが募るばかりで一向に離れられない。しばらくこのままでいたいと思った矢先、ものの数秒で我慢の限界を迎えた大倶利伽羅が私の襟首を掴んでべりっと引き剥がした。
「えー、まだ!」
「知らん。俺は十分付き合っただろう」
「ん、そうだね。ありがと、大倶利伽羅」
「別に」
 素っ気なく視線を逸らす大倶利伽羅は相変わらずの態度だけれど、彼の根底にある優しさに触れたことが嬉しくて私の心は暖かかった。

 大倶利伽羅の練度が上がりきるまで、しばらくは彼が近侍であることが続く。あわよくば一日三秒でいいから毎日ハグするのを許してくれないかなと淡い期待を抱いていたが、翌日の彼は全くその気はないようだった。
「昨日はしてくれたのに」
「あれきりだ。二度目はない」
「そんな殺生な! お願い! 畑当番免除にするから!」
 交換条件に内番を出すのは褒められたことではない、とはわかっている。けれど畑当番を厭う刀は多い。割り当てたときの反応が露骨だからわかりやすいのだ。大倶利伽羅も乗り気ではなかったはずだと記憶を辿り、審神者である私の特権を利用して最終手段を持ち出させてもらった。歌仙を筆頭とした畑当番が嫌いな刀にバレたら大目玉を食らいそうだが。
 でもほら、畑当番も嫌だろうけど、代わりに私のわがままを聞いてもらうわけだし。
 心の中でほかの刀剣たちに全力で謝罪と弁明をしながら大倶利伽羅の様子を窺う。畑当番免除、という言葉を聞いても目の色を変えることはなく、これでもだめかと落胆した。同時に、畑当番よりも嫌なのかと思うとずきんと心が痛む。チッと舌打ちの音が耳に入り、私はますます縮こまった。
「……すぐ終わらせろ」
「うん、ごめ……ん!? いいの!」
「あんたが言ったんだろうが」
「! ありがとう!」
 やっぱり優しい刀だ。抱き着いてから引き剥がされるまでの、時間にして三秒前後のわずかな時間を堪能しながら、しみじみとそう思った。


 光陰矢の如しとはよく言ったものだ。それから大倶利伽羅が練度を上げきるまでは、まさに一瞬のできごとに感じられるほどあっという間だった。

 勝手に出て行こうとした大倶利伽羅を慌てて引き止め、道具も持ってないのにどうするのと小言を垂れながら彼の修行の準備を手伝う。旅装束の紐を結んでやるのは、我が本丸で初めて修行に出た前田藤四郎にしてやって以来、私の中でのひそかな約束事となっていた。大倶利伽羅は装束を身に纏うこと自体嫌そうだったけれど、なんだかんだ私の言葉と政府の指示に従ってきちんとした身なりをしている。ぎゅ、と紐を結び、じっとしている大倶利伽羅の顔を見た。
 本当に帰ってくるよね。気をつけてね。……最後に、一回だけ抱きしめたい。
 気を抜けば、そんな言葉が涙と一緒にぽろぽろ零れ落ちそうだった。修行の見送りは初めてではないし、全員無事に帰還してくれたけれど、それでも不安にはなる。しかし私はただ見送る立場で、いちど修行を許した以上そんなことを言うべきではないと重々承知だったから、ぐっと唇を噛んでそれらの言葉を飲み込んだ。
「行ってらっしゃい。ちゃんと手紙書いてね」
「……あぁ」
 いつも通りの素っ気なさが、逆に私の涙腺を緩くさせる。大倶利伽羅がゲートから姿を消しても、私は固めた意思で涙をとどめた。
 修行の期間は、本丸の時間で四日。言葉にしてしまえば四日なんてあっという間だと思えるけれど、それが永遠に感じられるほど長い時間であることは、これまで修行に行った刀のおかげで身をもって知っている。大倶利伽羅がいない間もしっかりやろう。深呼吸を一度だけして、改めて気を引き締めた。

*

 永遠にも思える四日間が過ぎて、彼が帰ってくる朝になった。私は前日の夜、あまりにも寝付けないので締切がまだ先の書類に手をつけたところ、結局一睡もできずに夜明けを迎えてしまい、コンディションは最悪だった。目の下にはっきりわかるほどのクマはできていなかったけれど、本調子とは程遠い。朝食もろくに喉を通らず、隣にいた和泉守にほとんど譲ってしまった。
 ふわふわした頭のままゲートの前の濡れ縁に座り込み、時計を何度も確認する。記録をつけていたから帰ってくる予定の時刻はまだ先であることは把握していたけれど、どうにも仕事に手がつかなかったのだ。
 ……それから、いくら時間が経っただろうか。
「おーい、鶴さん! 主!」
 ふと、少し遠くから貞ちゃんこと太鼓鐘貞宗の声が聞こえて顔を上げる。するといつの間にか近くにいた鶴丸と目が合い、彼は悔しそうな表情で貞ちゃんのほうを振り向いた。
「っと、貞坊! 俺は今ちょうど主を驚かせようと……」
「だろうと思ったぜ。今日は伽羅が帰ってくる日だろー? そういうのは歓迎のあとにしようぜ」
 そう言いながら鶴丸の背中に手をやる貞ちゃんは、かなり前に修行に出て極の刀剣男士となっていた。いつにも増して生き生きとした快活な表情に、彼も大倶利伽羅の帰還が楽しみなのだろうと想像がつく。貞ちゃんの後ろには燭台切光忠がいて、大倶利伽羅と馴染みの伊達の刀が集合していた。
「貞ちゃん達も大倶利伽羅のお出迎え?」
「おう!」
 私は、楽しみだねと笑みを返してもう一度時計に目をやり、もう数分に迫っていた予定時刻に気づいて慌てて濡れ縁から立ち上がる。いきなり立ったせいで立ちくらみを起こしそうになったが、集まっている刀に悟られないように必死で足を踏ん張った。
 ゲートのほうを緊張しながら凝視し、何度も腕時計を見て残りの時間を数える。
 あと三十秒。……十秒。三、二、一……
 時計が巻きついた手首を、他方の手で無意識にぎゅっと握りしめてしまった瞬間、ゲートの作動ランプが点灯した。
 どこからともなく現れた桜の花びらが強い風とともに激しく舞い上がり、思わず目をつぶって、いくらかマシになった折を見ておそるおそる目を開くと、紛れもない大倶利伽羅がゲートの前に立っていた。桜吹雪と風が止み、世界から音が消えたように静まり返る。ゆっくり視線を上げた彼の瞳を直視した途端、つっと息が詰まった。
 ひと呼吸置いて、出迎えた伊達の刀たちが大倶利伽羅に口々に言葉をかけはじめた。その様子をただ棒立ちになって見守りながら、私はどきどきと早鐘を打つ胸を押さえる。とてつもなく緊張していた。四日空いただけなのに随分長いこと会っていないような気すらする。
 ひとしきり挨拶を終えたらしい鶴丸たちが、大倶利伽羅を私の方に向かわせた。目の前で立ち止まった彼に、わたしは万感の思いを込めて、でも重たく聞こえないように言い慣れた言葉を紡いだ。
「おかえり、大倶利伽羅」
「あぁ。戻った」
 少し身長が伸びたような気もするし、そうでないような気もする。顔つきは、あんまり変わっていない。
 噛み締めるようにその姿を見ていると、大倶利伽羅の背後から鶴丸が「積もる話もあるだろう」と適当なことを言いながら彼の背中を押した。そうだねと私も適当に返事をしてゲートに背を向ける。極の姿に慣れるまでしばらくは新鮮な感じがするだろうと思いながら、大倶利伽羅を連れて私室に戻った。

 読書をしている刀がいるかもしれないと思ったが、今日はいないようだ。本棚にいくらか抜けがあるので各々好きな場所で読んでいるのだろう。部屋に入って障子を閉め、改めて大倶利伽羅に向き合うと、積もる話より先に身体が勝手に動いてその胴体に抱き着いていた。急なことで戦装束から武装を外す暇もなかったため、あちこちに硬い装具が当たって、とても快いとは言えない抱き心地だった。それでも久しぶりの温度には涙が出そうになり、ジャケットの背中をきつく握りしめることで引っ込めた。
 息を落ち着かせ、抱きついた後ではあるが自制心を働かせて長くならないうちに離れる。無言で見下ろしてくる彼を見上げて、私はやっと口を開いた。
「大倶利伽羅がいない間、ほんとに寂しかったんだからね」
「……そうか」
 修行から帰っても、素っ気なさは相変わらずであるようだ。そこは変わらないんだ、と思いつつ、別人のようになっていなかったことに安堵した。
 まだ落ち着かないが、私の頭は少しずつ冷静さを取り戻しつつある。まともな会話ができるようになり始めたところへ、意外にも大倶利伽羅のほうから私に問いかけた。
「……俺の不在の間は、あんたは誰を枕にしていたんだ」
「枕ってハグのこと? 誰にもしてないよ」
 なんでそんなこと聞くの、と質問に質問で返したくなった。首を傾げると、彼は眉根を寄せて低い声で呟く。
「……誰もあんたの言うことを聞かなかったのか」
「聞かなかったっていうか、そもそも頼んでないもの。私がハグしたいのは大倶利伽羅だけだよ」
 なんか言い方が意味ありげになってしまったと言ったあとで思ったが、そんなに深い意味はない。堀川の一件以来、大倶利伽羅以外の刀に接触を持ちかけるのを気後れするようになってしまったというだけだ。
 らしくないことを聞くなあと不思議に思いながら、極の刀剣男士に関する報告書を確認するために棚を漁ろうと体の向きを変える。しかし私が一歩踏み出すや否や、行く手を阻むように装具を着けたままの腕が伸ばされ、片腕で抱え込まれた。驚いて振り返る間もなく、そのままぐっと引き寄せられ、両腕の中に閉じ込められる。
「……!?! お、大倶利伽羅?」
 驚きと混乱でカチコチに固まる私を後ろから抱きしめたまま、大倶利伽羅は低い声でぽつりとこぼした。
「あんたが始めたことだろう」
 何を。ハグを?
 確かに人肌恋しいから身体を貸してくれと言い出したのは私であるし、大倶利伽羅は毎度嫌々ながら付き合ってくれていた。私は人肌を感じることができて助かっていたけれど、彼は単純に優しさゆえに許してくれているだけで、本当は全く気乗りしていないのだという風に理解していたのだが。
 なにかあったっけ、と記憶を辿り、そう言えば交換条件として畑当番免除を持ちかけたのだったと思い出した。それかもしれない。
「もしかして、畑当番免除にして欲しいの? ちょっとそれは……要相談かなぁ」
 何せ、極の刀剣男士は生存値の上昇幅が大きいのだ。まだ値を確認できていないけど大倶利伽羅に関してもおそらく例外ではない。修行から帰ってきたばかりの大倶利伽羅には、今後精力的に畑当番に回ってもらうことになるだろう。自分から出した交換条件を取り下げるなど道理にかなわないことは百も承知だが、たとえ私が土下座してでも生存値は上げて欲しい。
「……そんなものはいらない」
「……え?」
「好きにすればいい」
 好きに、って。まさか本当に抱きしめることについて言っているのだろうか。あの、群れない連れない馴れ合わないがモットーの、一匹狼みたいな大倶利伽羅が。
 彼は追い討ちをかけるかのように、私の身体を抱え直して続けた。後ろから抱かれている状況にしては甘さのない、甘いと言うよりも真剣味の強い声。この四日間、ほんのわずかでも彼が私を想ってくれたことがいくら鈍くてもわかるような、絞り出すような切実な口調だった。
「俺は、あんたの刀だ」
 誰だ、ぜんぜん変わらないなんて思ったのは。確かに根っこの部分は変わっていないけれど、その表現の仕方は明らかに変わっていた。
 まったくと言っていいほど現実味を帯びてこない大倶利伽羅の態度に、勝手に顔が熱くなる。寝不足も相まってくらくらした頭で返答のひとつも思いつかない。私は震える手を動かして、彼の腕に手を重ねるので精一杯だった。

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