暮れの告解
重傷 死ネタ 大いに人を選ぶ内容
「君に殺される夢を見たよ」
睦言かと紛うばかりの甘い口つきだった。それほどまでに切なく、艶やかで、熱を帯びた声音だった。蕩けるようなやさしい笑みと恍惚の滲む眼差しを注ぎながら、そのどちらにも似つかわしくない不穏な台詞を淡々と夜に溶かした。余韻を残さず空気中に散って、それは露と消える。
月光もなりをひそめる夜半である。鈴虫の羽音が聞こえてきそうな秋の夜長だった。闇が降り積もり、暗然とした靄が墨のように鈍く光っている。
宵の寂静を斬り裂いた甘美な声が真綿となって女の首を絞めた。じわじわと責め立てるように血管を締めつけ、滞る血液に伴って喉の奥から酸味のあるなにかがせり上がってきた。こみ上げる不快感を押し戻そうと喉を締めた反動で息が漏れる。唾で流しきれなかった液体が首の根のあたりに残っていたが、口腔はからからに乾いてそれ以上の唾液を分泌することはなかった。
この圧迫感の正体が殺気であることに気づかないほど女は鈍感ではない。同年代の女たちのようなあどけなさは、長いこと刀剣男士と共に戦場に身を投じているうちに擦れて失われてしまった。並の人間よりも鋭い本能が、むき出しの殺気を感じ取って警鐘を鳴らす。
刀剣男士を束ねる惣領として多少の殺気には慣れているつもりだった。ただの驕りだったのだろうか。理由もわからず、けれど明確に向けられたそれに、女は腹の底から冷えてゆくような恐怖を覚えた。
微かな星明かりに引き伸ばされた影がゆらりと揺れる。引き攣る喉の擦り切れる痛みに目を瞬かせると、乾燥した瞳に涙の膜が張って視界が歪んだ。
蜂蜜を煮詰めたような濃い金色の瞳は執念深く女を見ている。返答を待つ目だった。白く霞む思考の湖を、襦袢がまとわりつく重い両腕で懸命に掻き分ける。はやく何か言わなければ。詰まらせていた息を吸い、女は青ざめた唇を音もなく震わせた。
「そ、そう……悪い夢を見たのね」
女の声は乾ききった竹笛のようにかすれていた。じっとりとした闇に吸い込まれた言葉尻が薄れて、白くもならない息だけが部屋に落ちる。
瞬きすら躊躇うほどの威圧感に満ちた室内、それが徐々に再びの静寂によって浸食されるのを感じて、女は視線ばかりを彷徨わせていた。
女の項に滲む冷や汗を認めても、髭切は顔色ひとつ変えない。
「うーん……そうでもないかな。君に殺されるなら悪くないよ」
女が白む脳裏で出した答えはずいぶんと的外れだったらしい。相変わらず平坦な声風で打たれた相槌で会話が途切れる。
興醒めだと言わんばかりに殺気がするりとおさめられ、ようやく指先を蠢かせるだけの余裕がうまれた。
ほっと安堵がこぼれて、続けて息を吸う。首を絞める圧迫感は霧消していた。
真綿だと思っていたそれは湿った夜の空気にほかならず、平然とした顔で褥(しとね)に横たわった髭切は女を迎え入れるように薄い布団を持ち上げた。その腕の中におずおずと潜り込んで胸元に頬を寄せると布団をかぶせる腕が背中に回って女を抱く。ひたすらに優しい手つきだった。
肉体の暖かさは確かに感じられるのに、一度冷えてしまった体の芯までは届かないのか氷柱は融ける気配すらない。髭切とのわずかな隙間に外の冷気が漂っているかのようだった。
目玉だけを動かして上を見ると、髭切は腕の中に女を抱きながら遠くを見ていた。その瞳は間接照明の灯りと同じ色に凪いでいる。覗き見が勘づかれてしまう前に視線を戻した。
猫が引っ掻いたような細い傷が入った行燈は、鰯の油を燃やした赤い焔ではなく、人口の白い光を拡大してぼかしている。癒しを与えているとでも言いたげな顔をしているが、結局は木枠の底からはみ出た薄汚れのコードによって暖かな光源に擬態しているだけの無機物に過ぎない。
髭切の腕が伸びて行燈に手のひらを翳すとぱちりとあっけなく光が消え、名残りが和紙の風よけをぼんやりと照らし出した。瞬きを繰り返すうちにその余韻も闇に溶けて見えなくなる。明かりが消えるといちだんと夜が深まったような気がした。
暗くなった視界には彼の浴衣の胸元だけが映っていた。
見ていても仕方ないと目を瞑ると、一人で物思いに耽っているときのような孤独と平穏が心を埋める。暖かく漂う髭切のにおいにはとうに慣れ親しんで、いまさら緊張するものでもない。それをいいことに、女は彼の腕の中だというのに考え事にのめりこんでいった。
審神者と髭切は夫婦である。髭切とは、果たして愛するつがいにあのような殺気を送る刀だったか。そうではないはずだ。女の知る限りでは、彼は猫の皮を被るのが随分と達者な男だった。獣の名を持ちながら、審神者の前では牙を抜かれた虎のように温和な態度を見せるだけの優しさと愛情を持っていた。そういえば、虎は自らの愛し子を溺愛すると言う。虎の子という言葉を思い返してみれば、この印象も妥当であるように思われた。
ならば、彼は。
女は帰結の糸口さえ掴めそうにない疑いをぐるぐると煩悶する。信じるとはこんなにも難しいことだったか。記憶にいくら問いを立ててみても、腑を取り囲む鼠色の雲のような疑惧は膨れ上がるばかりである。
胸を掻きむしりたくなるほどの息苦しさに耐えかねて、手のひらの肉に爪を立てた。気を紛らわせるだけの鋭い痛みを期待したのだが、女の出せる力などたかが知れている。中途半端な長さの爪では望んだような痛みは訪れなかった。
そんなことをしていたから、眠っていないのが伝わってしまったのだろうか。
ふと髭切の手が背中を撫でるように動いた。その動きに合わせて深く呼吸をすると、次第に意識が曖昧に溶け始める。彼の匂いはどこか懐かしく、女にとって効果覿面の睡眠導入剤であった。遠き日の記憶に揺れる実家の布団や枕の、何度も繰り返し洗濯をして柔らかくなったシーツやカバーのような、柔軟剤の香りの奥に染みついた汗や涙の匂いによく似た安らぎを纏っている。鋼でできた刀と照らし合わせるにはあまりに不釣り合いな被写体だったが、不思議と髭切という刀はそういう側面を持っていた。連日敵を断ったり斬ったりしているのを知っているくせに、その腕の中でおとなしくしているといつの間にか寝入ってしまうのである。
常のそれは言うまでもなく、この夜も同様であった。
・・
寒さに身を震わせてまぶたを押し上げると、明るい光に目が眩んだ。横を見ると髭切はもういなかった。ぽっかり空いた隣が少し物寂しい。夏の余韻を引きずっているやや薄手な肌掛け布団を足元に追いやって、ぼんやりと天井を見つめる。丸い蛍光灯がぶら下がっていた。
透明度の高い朝陽が障子の隙間から畳を薄く照らしていた。傷口を縫い合わせるような沈黙の朝である。昨夜の不快感がまだ喉にへばりついていた。身体の不調などどこにもないのに気分が良くない要因は、精神的な不健康さだろうか。軽く押すと鈍く痛む喉を抑えながら、虚ろな目で女は起き上がった。
朝の身支度の際に湯呑みに注いだ水を飲み干しても、朝餉を残さず食べても、喉のわだかまりは流れない。話すにも黙るにも息をするにも不都合はないが、ごろごろと石のような何かを飼っている感覚はどうにも集中を削いだ。ぼんやりと気の抜けた意識で焦る。書類の締切は待ってくれないのに。
鎖骨のまんなかあたりを撫でさすりながら、完食した朝餉の盆を持って廊下を歩く。空に面した廊下から庭を散歩する内番着姿の石切丸と小狐丸が見えた。食後の腹ごなしだろうか。結構なことだが、石切丸は今日は馬当番ではなかったか。
膳を厨に下げがてら当番表を覗き見る。案の定だった。けれど相方が膝丸だったので心配はいらないかと思い直す。かの重宝も馬当番に乗り気でない刀の一振りだが、だからこそ仕事をひとりで背負わずにたとえ兄と組まされようとも分担を説くような刀だ。きっとうまくやるだろう。
遠征や出陣の編成を飛ばしつつ見て、最後に一番上にある札に目を留めた。
近侍。太刀、髭切。
今日だけではなく、ましてここ最近に限った話でもない。この本丸の近侍はいつからかずっと髭切だった。自然とそうなったのか、刀たちの間で決めたのか、審神者が命じたのだったか。もう忘れてしまったが、女が気づいて思い返そうとしたときにはもうすっかり定着していた。日常にも、彼女の記憶にも。
どちらにせよ、決まっていることを覆すのはあらぬ勘繰りを受けてしまいそうで気が進まない。重苦しい心持ちで執務室へ向かう道すがら、厨へ行くのだと思しき源氏兄弟とすれ違った。どちらの手にも朝餉を乗せていた盆がある。二振りとも朝の鍛錬の後に風呂場で汗を流していたため、早起きの三条刀や女よりも少々遅い朝餉だったらしい。彼らの琥珀の瞳と視線が合い、女は平然とした笑みとともに「おはよう」と声をかけた。
「おはよう、主」
「おはよう。よく眠れたか?」
「ええ。ありがとう」
女が歩みを止めたのを見て、源氏の重宝たちも揃ってその場で足を止める。いつもと変わらない女の笑みにそれは何よりだと頷く膝丸の顔を眺めながら、その背景に見える石切丸の後ろ姿に女はふと思い出した。
「膝丸、今日は馬当番にあたっているからね」
「む、そうか」
その弟刀が一瞬眉に皺を寄せたことに気づかない女ではない。相変わらず馬当番は気が進まないのだなと再認識しつつ、よろしくねと苦笑いを滲ませて様子をうかがった。申し訳ないと眉尻を下げた女に、膝丸はごほんと咳払いをひとつする。
「何を。当番なのだから仕方なかろう。任された」
「おお。頼もしいね」
当然だ、と言いながらも、兄に褒められて嬉しそうに表情がゆるんでいる。凛々しい弟刀の可愛らしい一面にほのぼのとした空気が流れた。にこにこと笑う髭切につられて女もおのずと笑みがこぼれる。微笑ましい視線を察知して不服そうに唸った膝丸はきりりと表情を戻し、膳を抱え直して女に向き合った。
「では我らは失礼する」
浅く一礼した膝丸が厨のほうを向く。確かにそろそろ食器を返さねば、厨当番の刀たちに小言を言われそうだ。女が彼らに背を向けて執務室への道を進み出そうとしたとき、髭切が穏やかな声で女を呼び止めた。
「主」
女が振り返ると彼はひときわ笑みを深くした。賑やかな短刀たちの声もどこか遠く、隔絶された世界に髭切と閉じこめられている錯覚に陥る。薄く開かれたまぶたの隙間から女を見る瞳はまるで逃がさないと言っているかのようで、女はすっと背筋が冷えるのを感じた。
「着替えたら僕もすぐに行くからね」
それだけ言い残して、女の返事も待たずに髭切は弟の背を追いかける。立ち尽くす女は、冷や汗の滲む手を握って乾いた笑いを零した。
……正直、今はあまり彼とふたりきりになりたくはない。夫に向かってなんてことを言うのだという指摘は当然だが、これは不審でも警戒でもなく、単なる気まずさに拠るものだ。だから不実でも罪でもない。そう正当化して、女は意識的に第三者や多くの者と行動範囲をともにしようと試みた。女を主と慕い髭切に信頼を置く刀たちと共に居れば、彼も優しく振る舞うだろうと考えてのことだった。
しかし、ここで思わぬ問題に直面する。
ほかの刀たちはみな髭切に遠慮して、もしくは彼に牽制されて、あまり夫婦と同じ画角に入り込もうとしないのだ。臆せず割り込んでくれる彼の弟は馬当番である。唯一審神者の味方をしてくれそうな初期刀も今は頼れない。二日前から継続して札集めの長時間遠征に出している。次の帰還は少なくとも明日の夕方まで待たなければならなかった。
途方に暮れる。采配がいけなかった。けれどなにも考えずに組んだ過去の自分も責められない。こんな状態になるなど誰が予想できただろう? なすすべないとはこのことで、女は顔には出さずに落胆した。
とにかく。
女は執務室に戻って端末を開き近侍を待った。
近侍とは第一部隊の隊長と同義である。今日は日課任務だけの予定だったが、彼らにはもう少し先の戦場で新たな刀を探してもらうことにしよう。公私混同もいいところである。巻き込まれるかたちとなった第一部隊の面々には悪いと思ったが、女が優先すべきは身の安全だった。
「主さんッ!! 髭切が重傷だ! 速く帰還して、手入れしないと……!」
「主! 帰還指示を!」
これは罰だろうか。
ならばやはり、髭切への態度は不誠実で罪深いものだったのかもしれない。
重傷、戦線崩壊。紛れもなく髭切の状態を示す警告だった。通信機の向こうで必死にこちらに状況と撤退を訴える愛染国俊と獅子王の声がどこか遠い。唇が震え、息が荒くなるばかりで声が出せない。
モニターに酷い状態の髭切が映った。傷を隠すように揺れる白い上着は泥と血糊でどろどろに汚れ、洋袴は両足ともに同じ位置から下がどす黒く染め上がっている。ちらりと覗いた腹部の傷から赤黒いものが見え隠れしていた。片腕をもがれ、腹に大穴を空け、背中には刺さったままの矢と複数の刀傷が見える。閉じている片目のまぶたの端から血が涙のように垂れていた。意識を保っていることすらやっとの状態らしく、へし切長谷部になかば背負われるように支えられてぐにゃんと脱力した身体が伸びている。
満身創痍と言うべき惨状を女は初めて目の当たりにして色を失った。ほとんど死にかけの状態にも関わらず、髭切はモニター越しに女に向かって密やかに口角を上げて見せた。半分も開けない片目は試すような視線を送っている。女はその目つきに凍りついて、ひ、と喉が悲鳴ともつかない音を鳴らした。
膝丸が女を揺さぶった。怒声が浴びせられているが内側からガンガンと響く耳鳴りに掻き消されて何と言っているのかわからない。女は激しく動揺し、混乱して、は、は、と短く息を吐くにとどまる。
はやく、言わなければ。一言、ただ一言。それを口にすればいいだけの話だ。簡単なことだろう。
「ぅう、あ、」
悲鳴のような呻きが喉から飛び出る。頭を押さえた手の首を誰かの手が痛いほどに強く掴んで引き剥がした。大きく骨張って硬い皮膚をした、日焼けを知らぬ白い手だ。髭切のそれとよく似た手を力いっぱい振り払った。
このまま進軍すれば髭切は確実に折れる。女が選ぶべき選択などひとつしかなかった。
折りたくない。でも。私は。
女が身を焼くような葛藤に苛まれるなか、断続的に警告を点滅させていた端末から嫌に鮮烈な電子音が鳴り響いた。続けてモニターにメッセージが表示される。
部隊長の戦線崩壊を検知。強制帰還を発動。
その文章が機械の声で読み上げられるや否や通信がぷつりと切れた。一瞬の間ののち、今度は本丸のゲートが帰還を知らせるいつもの音を発した。途端に庭が騒がしくなる。膝丸は呆然とするばかりで役に立たない女に体裁をかなぐり捨てて舌を打つと、必死の形相で審神者の部屋から走り去って行った。
髭切は部隊長である。惣領が動けない部隊など瓦解したも同然。強制帰還制度はしかるべき機能だ。女の本丸ではこれまで部隊長が戦線崩壊したためしなどなかったため、そのことを失念していた。
女は未だばくばくと脈打つ心臓と瀬戸際の極限状態から、自我と平静を完全に取り戻せないでいた。ほっと胸を撫で下ろすべきなのか、自分を責めるべきなのか、大怪我を負って帰還した髭切に駆け寄るべきなのか。どれでもあり、どれでもない。
誰もいなくなった部屋に乾いた笑いを零してふらふらと立ち上がった。いまだ耳鳴りは止まないどころか酷くなっていた。けれど手入れには審神者の霊力が必須である。私情がどうあれ、主としての役割を全うしないわけにはいかないのだ。
女が手入れ部屋に着くと髭切の周囲を六振りの刀が囲っていた。第一部隊の隊員に彼の弟を加えた六名である。真ん中で布団に寝かされている刀はもう意識を失っていた。白い敷布をじわじわと真っ赤に染める血液が生々しく、独特の匂いが鼻をついて思わず生理的な嫌悪感を抱くが女は足を踏ん張って耐える。ここで顔を顰めでもしたらいよいよ膝丸に殴られるような気がしていた。髭切を取り囲む六振りを全員部屋から出して、必要な資源を揃えて手入れを始める。震える手を奮い立たせるために親指の付け根をぎちりと噛んだ。ぶつりと空いた穴から血が滲み、その痛みにようやく意識がはっきりしてくる。
怪我の度合いから並大抵ではない時間がかかるだろうと悟ったが、手伝い札を使う気にはなれなかった。
結局、髭切の手入れには丸一日を要した。
膝丸はすぐにでも兄の様子を見たがったが、せめて日付が変わるまで待てと断った。次いで訪れた今剣と岩融にも同じことを返した。髭切はたいそう慕われているようで、その後も髭切の無事をうかがいに来る刀が後を絶たなかった。乱藤四郎、鶯丸、小夜左文字、にっかり青江……数えあげればキリがない。
女が手入れ部屋に籠っていると、へし切長谷部が報告に訪ねてきた。隣の空き部屋で話を聞くと言うと、彼は一瞬黙ったものの異を唱えずに従順に頷く。長谷部は戦果を規定どおりに報告したのち、少し言い淀みながら髭切についての話を打ち明けた。
驚いたことに、髭切は刀装を持っていなかったらしい。確かに持たせたはずの金の軽騎兵は庭の叢からきっかり三つ発見された。敵の遠戦の盾となる兵もなく、馬と刀装で底上げすべき機動も低いまま、開戦時点で既に中傷の一歩手前だった彼を狙った大太刀に脚の筋を断たれたのだと言う。
そのあまりの痛ましさに女は耳を塞ぎたくなったが、唇を噛んで耐えた。刀とはいえ人の形(なり)をした己の夫が直視できないほど酷い傷を負う過程など、誰が好んで聞きたいと思うだろう。けれど逃げることは許されなかった。この本丸の刀が、審神者がそれを許さない。
長谷部は女と目を合わせないまま、彼が見た光景を描写し続ける。
髭切は、脚を潰され膝をついたところを、背中を袈裟斬りにされ、肩を抉られ、続けざまに腹部を貫かれた。足元の地面をその鮮血で真っ赤に濡らしながら、抜いた刀を杖のように突き立ててなんとか体を支える。異変を察知し、敵の短刀と交戦していた長谷部が駆け寄って大太刀にとどめを刺したが、その巨体越しに短刀が髭切の頸部を狙っていることに気づいた。
すぐに刀を引き抜いて構え直すが、この距離ではとても間に合わない。
咄嗟に「髭切!!」と叫んだ長谷部に顔を上げた髭切が間一髪のところで上体を捻ったため急所は避けたものの、切っ先が眼球を掠めて彼は痛みに呻いた。食いしばっていた歯を緩めたことで、ぼとぼとと口の端から血液と唾液と消化液が混ざったものが地面にこぼれる。長谷部はそこではじめて髭切がそれまで声を上げていなかったことに気づきはっとした。見上げた根性だ、と場違いな感心を覚える。
高く跳躍した愛染国俊が短刀を仕留めて、そこでやっと敵部隊を殲滅した。本丸の審神者につながる通信機を操作する獅子王を横目に見ながら長谷部は肩で息をする髭切の様子をうかがう。
「おい、聞こえるか」
「あぁ……は、悪いけど……足が、動かなくてね」
途切れ途切れに言葉を返した髭切にまだ喋れるのかと驚いた。声を出すたびに身体中の傷という傷が開いて新たな血が流れ出す。刃こぼれだらけの刀をかろうじて握る片腕を肩に回させて、長谷部は主人の夫を背負った。
「貴様は俺が連れて帰る。もう喋るな」
そして髭切は転送と同時に気絶した。
長谷部はそこまで話して一度口を閉じる。それがいくさの全貌だった。
長谷部は、折れなかったのは運が良かったとの見解を示した。女はそれに曖昧に頷く。
運が良かった?
あんなに傷を負って、良かったことなどひとつもあるまい。
正直な気持ちは心の中に押しとどめる。命のやり取りをする刀剣男士に投げかけるには、あまりにボケた言葉だという自覚があった。死ななきゃ安い、そう一笑に付すのは目の前の藤色をした刀だ。
「……主」
「…………なぁに?」
「……いえ、なんでもありません。それでは俺はこれで失礼します」
長谷部の言いたいことは概ねわかる。女を心配している目だった。この本丸の刀は審神者の性質に影響されたのか言いたいことが瞳に宿るものが多い。口にしないのをいいことに女がやんわりと一線を引くと、聡いその刀は何も言わずに立ち去った。
これでいい。
女は長谷部の足音が完全に消えるのを待って、その部屋を後にした。
髭切の手入れが完了したのは、翌日の深夜だった。
夕暮れ時に遠征から帰還した初期刀に事の次第を伝えると、彼はぎょっとしたような安堵したような奇妙な顔を見せた。あんたは大丈夫なのかと聞かれたので、なに言ってるのと返す。
大丈夫も何も、私は傷など負っていない。髭切も折れずに帰ってきたし、手入れも順調だと告げると彼はその碧眼で女を心配そうに見上げた。
寡黙な口に反して、思いの丈を雄弁に語る瞳だ。審神者の影響が特に顕著な初期刀に笑いが零れた。気が付かないふりをして布を被った上から頭を撫でる。髪を掻き回された山姥切国広はやめろと女の手を叩き落とした。慣れた反応だった。
「大丈夫よ。心配はいらないわ」
「……そうか。だが、何かあったらすぐに頼れ。しばらくは俺も暇を持て余しているだろうからな」
ええ、と笑いかけると、彼も表情をやわらげて自室へ下がる。月課任務分の遠征を終えたという意味の言葉であった。長いこと遠征部隊を任せっきりにしていたから、彼の言う通り休暇をやってもいいだろう。ため込んだ書類をなんの感慨もなく処理しながら、ぼんやりと今後の構想を練る。女はなんとか片付けた書類を封筒にしまって端末の電源を落とした。その封筒を机の脇に置いて、代わりに七曜表を引き寄せる。ペンを持って暦をぺらぺらとめくり、今日の日付にバツ印をつけた。女の日課であった。
ふと時計に目をやると、そろそろ髭切の手入れも終わろうかという時刻だった。どうりで外が暗いわけだ。様子を見に行こうと女は腰を上げた。
部屋を出て手入れ部屋への廊下を歩くと、途中で膝丸と出くわした。手には血だらけの包帯が押し込まれた盥と水の入った桶を持っている。桶の口に手ぬぐいがかかっていた。先程まで兄の様子を見ていたのだろう。
かける言葉が見つからず、開きかけた口を閉じる。それは彼も同じだったようで、ふたりは視線を交わしながらも無言のうちにすれ違った。
彼と腹を割って話すには、もう少し時間が必要だった。
手入れ部屋の襖はいつもぴったりと閉じている。質の良い霊力で満たしておくためだ。鍵はないが、出入りをするときは可能な限り薄く開くこと。審神者が定めた決まりごとだった。
女もそれに従って薄く開いた襖の隙間から体を滑り込ませる。夏場に冷蔵庫を開いたときのような極上の冷気がふわりと漂っていた。行燈の弱い明かりにのみ照らされた暗い室内に、薄く開いた戸の隙間から月光が射し込む。そろそろと静かな足音を意識すると自然とつま先だけで畳を踏み歩いた。白い布団に横たわって、固く目を閉じた髭切の顔を見ると足が勝手に止まる。
どうしてか近寄りがたかった。
ぐっと深く沈んだはずみに、畳のささくれが柔らかな足裏に突き刺さり棘となって埋没する。その地味でありつつも鋭い痛みに自然と足が浮いた。ふ、と息を吐いて歩を進め、彼の枕元に腰を下ろす。何度巻き直されたのか、服の隙間からのぞく包帯は清潔で真新しい。誰か──十中八九彼の弟刀が、甲斐甲斐しく世話を焼いたあとが見えた。
静寂。霊力の濃度の関係で防音状態のこの部屋は、外からの音も届きにくい。女は自分が息をする音だけを聞いていた。
竜胆の透かしが入った行燈の光だけが仄かに灯る手入れ部屋で、女は死んだように眠る男のまぶたを見ていた。丸く浮き出た薄い皮膚の、その下の眼球はどこを向いているのだろうか。
する、と胸元に手をやった。ぎゅっと握り締める。気持ちと向き合うにはまたとない機会だと思った。薄暗い室内で、彫刻のような男の顔だけを見つめる。ほとんど回復した唇の色は女が嫉妬するほど綺麗だった。
女は正座の膝を崩して身を乗り出した。彼の顔を近くでよく見たいと思ったのだ。近づけば、この葛藤の行き着く先も見えてくるのではないかと思った。鼻と鼻がくっつきそうな距離で見つめると、すっかり傷が治って微かな線となった頬の傷跡が目に入った。
手を伸ばして、それをなぞる。
そして、その安穏は唐突に終わりを迎えた。
「殺さないのかい?」
閉ざされていたまぶたがぱちりと開いた。金の瞳孔が、煌々と光る。
驚きに目を見開いた女が飛び退く間も与えず、髭切は素早くその手首を強く掴んだ。
「つかまえた」
どさりと音がした。女の背中が畳を軽く打つ音だった。
男の陶器然とした白皙が薄明かりに浮かび上がる。傷ひとつない輝くばかりの肌であった。手入れは終わっていた。
女の手首は彼に掴まれ畳に押さえ付けられている。ふたつの琥珀が女の視線を絡めとって固定した。悪戯が成功したこどものような声音とは裏腹に、戦の昂りを未だ残しているような熱く激しい目つきだった。
やや理性を欠いたような男のかんばせは、閨で組み敷いた恋人に愛を囁くときのそれを彷彿とさせる。意に反し繁殖という本能にしたがって高まる熱と都合よく幻覚を編み出す脳髄に自嘲した。具にもつかぬ妄想である。女は、髭切と寝たことなどない。まして髭切は刀であって男ではないのだ。刀は子を成せない。人の身をとっても、彼は刀。人を斬る道具にすぎないのだ。
なのになぜ、こんなにも心が掻き乱されるのか。たかが道具だ。そうだろう。
揺れ動く女の内心を知ってか知らずか、彼は女を腕の檻に閉じ込めたまま口を開いた。
つかまっちゃったね。髭切は笑う。
「僕を殺すには良い機会だったのに。惜しいことをしたね」
「……何を言っているの? 面白くない冗談ね」
女は努めて平静を装った。審神者が髭切を殺そうとするわけがない。彼が勘違いだったと思い直すことを期待して女はとぼけた声を出す。部屋には秋の色に染まった心地よい冷涼感が漂っているはずなのに、わずらわしいほどの湿度で埋められているようにじわりと汗が滲んだ。冷や汗という字面に反してひどく暑苦しい感覚だった。
不思議そうな態度を繕いながら、その目は忙しなく泳いでいる。女は嘘が下手な人間だった。気づいているのかいないのか、きっと気づいていないのだろうが、説得力のかけらもないその様子を髭切は嘲笑う。そんなに正直な性格で、この数週間よくやってきたものだ。
「観念したら? もうあの子のふりを演じなくていいんだよ」
「ひッ、げ、きり…………」
悲鳴に始まった喉の音が彼の名前に変わる。髭切は疑惑も確信も通り越して断罪に入ろうとしていた。女の輪郭をたどる指は仮面の縁に触れるように顎を掴む。さりさりとかわいた親指の腹でおとがいを撫でてみても、その顔は愛しい妻のそれのままであった。意外と頑固な術だと髭切は冷静に感心する。
苦しげに髭切を見上げる女に、彼はゆるりと微笑んだ。
「なあに? 気づいていないとは思ってなかったんでしょう。だから遠ざけたんだよね」
わかりやすくて助かるよ。そういうところが、あの子と君は真逆なんだよね。
髭切は流した視線の先で愛した人間の面影を壁に見る。彼の下で唇を噛んでいた女はついに根を上げたようで、やおらまぶたを下ろして息を吐いた。次に瞳が髭切を射抜いた時には、先程までと打って変わった挑戦的な目つきで彼を見上げていた。
その視線を受けて、ふ、はは、と髭切が笑う。何とも分からないのに、なぜだかおかしくてたまらない。戦場で敵と退治したときの高揚を、もう少し暢気なものに変換したらこんな気分かもしれないと思った。
髭切の指が女の唇を撫でる。
「君の言葉で喋ってよ。君の心が聴きたいな」
口角を押し込むと、女は荒っぽい仕草で顔を逸らしてその手を振り払った。
彼女はぽつぽつと語り出した。
女は歴史修正主義者に雇われた2150年代の宿なしであるという。金と食事を保障される対価として組織の駒をしているのだ、と。本丸内部からの瓦解を狙った彼らの指示と呪術で、審神者の外見と霊力を偽装することによって潜入に成功した。この本丸の本来の主である審神者は、ひと月前の出張の際に女の仲間が始末してしまっている。誤算があったと言えば、審神者が髭切と夫婦の契りを交わした神の嫁だったという点であった。審神者の生い立ちを含む概ねの情報は与えられたが、さすがに夫婦の寝室で語られる個人的な話の中身まで把握できるわけもない。
だから髭切は気づくだろうと思っていた。勘づかれてすぱっと斬られるのも時間の問題だと。そうなれば任務は失敗である。
それゆえに、女は髭切をできるだけ速やかに殺さねばならなかった。可能な限り接触を避けても、長くて二ヶ月もたないだろうと予想していたが、初めの一週間を超えた時点で髭切の態度がほんの僅かだが変わった。
思ったより早かった、と女は笑いながら追想から帰ってきた。
「さすが神様だね。魂とかわかるんだっけ?」
「君たち人間にだって、つがいの安否くらいわかるものだよ」
神とか妖怪とか霊力とか魂とか、よくわからないしどうでもいいけど、愛しいと思うこの気持ちをそんなもので推し量られるのはいい気分ではない。髭切の冷たい笑みにも女は鼻で笑って返した。清々しいほどの変わり身だった。
暴かれた本性はその器のしとやかな性格とはかけ離れて、もっと庶民的で俗っぽくがさつだ。髭切の妻が、武家の屋敷に置かれているような藍で繊細な文様が施された唐物の陶磁器の花瓶に、世界のほんのわずかな地域でしか咲かない花を綺麗に飾って活けたものだとしたら、女は路傍の脇から勝手に生えた水仙を一本根っこごと引き抜いて、転がっていた古い砂だらけの桶にそのまま挿したようなものだ。比較にすらならなかった。
髭切はそのことにほっとしている自分の一面を認めた。別に驚くことでもない。敵方の術はなかなかに見事で、姿かたちはそのまま彼の妻と同じである。動いている所作を見ればたちまち理性は正気を取り戻すが、理性ではない部分はころりと騙されて、いとおしみ慈しみたくなる。相反する感情が髭切の中で押されたり押したりと拮抗していた。妖などよりも、人の心の不可解さのほうがよほど恐ろしい。それであるから、彼は女と妻との間の相違点を探さずにはいられなかった。女の内面が妻と違えば違うほど、髭切は自分の中の憎しみを育てることができる気がしたのだ。
腕の中に閉じ込めた、妻の面を被った女を見る。殊勝にも睨み返してくる目は何も語らない。
……ああ、やっぱり全然違う。
そのことに少し嬉しくなって、髭切は優しい声で女に尋ねた。
「どうして殺さなかったの?」
感情を移さない目がぐらりと揺らいだ。眉が下がる。彼女は瞳というよりむしろ表情に咄嗟の心の動きがよく出る娘だった。
「殺すつもりだったよ。みんなが寝たら、こっそり折るつもりだった。あなたのこと」
震える声で吃りながら答える女は髭切から目を逸らしていた。都合が悪くなったときの癖だ。ほんのひと月にも満たない生活で、そんなところまで覚えてしまった。か弱い存在を愛するのは年長者としての性か。付喪神に刻み込まれた厄介な性質だった。
気まずい空気に冷や汗をかいて焦る女に、髭切は容赦なくばっさり断言する。
「嘘」
「嘘じゃない。決めつけないで、」
「情を移してしまったんでしょう」
被せるようにして矢継ぎ早に続けられていた問答がぴたりと止んだ。決定打の一言は図星だったらしい。むきになって髭切を見た女の目が見開かれた。
彼女の弱さは甘さにあった。いかにも平和な時代を生きてきた、戦いとは無縁の消極的な人間。歴史修正主義者にとっての審神者とは、仲間を殺した敵軍の大将である。戦争に参加している以上その覚悟は髭切の妻も持っていただろうが、この女はそれを理解していないようだった。罪悪感という最もつけ込まれやすい感情のひとつが、刀剣たちへの情に変容したのだろう。当然といえば当然の帰結である。
「君は優しい子だもの。ね」
やさしいこ、という響きの裏に「愚かな人間」という嘲笑を感じ取ったのは被害妄想か。どちらにせよ優しく告げられた言葉に、髭切という刀がその印象からは想像もつかないほど愛情深い一振りであったことを、女は思い出した。正確には、この本丸の、今は亡き審神者の、髭切が。
女は人間と刀の愛情など信じてはいなかった。道具に情を抱くなんて、閉鎖空間に気が狂った人間の行動だと見下していた。
いいや、今でもそう思っている──女は自分を客観視した。私は気が狂ってしまったのだ、この本丸という檻のような空間の中で。夫婦というより恋人のような距離感を演じるうちに、捏造だったはずの恋心が本心をおしのけて体内に居座るようになった。私には髭切を折ることなんてできない。認めてしまえば楽だった。
冷静だった女を狂わせたその刀はいとも簡単にその想いを暴き、組み敷き、優しい声で語りかける。もうやめてほしかった。女は髭切が愛した人間に成りすましている敵の間者で、彼にとってはただの憎悪の対象でしかないはずなのに。
女の目からとうとう零れた涙の滴を髭切の指が拭おうとする。その手を掴んで拒絶した。
「私が憎いでしょう」
「どうかな。わからないんだ」
僕も相当参ってるみたいなんだよね、と髭切はあけすけに自分の弱体化を告白した。女がなにも言えずに彼の手を防いだままでいると、髭切はその手首をあらためて床に縫い止める。
「あの子を殺したのは君じゃない。君は利用されているだけだよね」
頭では解っていた。この女を殺したとて、彼女を利用している大元を叩かねば何の解決にもならないのだと。この本丸は彼女という実質的な主を失い、解体されるか、最悪放棄される。砂の城に針を刺すようなものだ。さらなる瓦解を招くだけで、毒にこそなれ薬になどならない。
わかっては、いるのだ。けれどそれを割りきれないのが心という盛大な矛盾だった。
髭切が女の耳に唇を寄せると、彼女の身体が固くなる。
「でも、僕は君を殺したいんだ」
君を殺して、僕も死ぬ。
髭切の手が女の首筋に触れた。耳元での囁きに気を取られている間に、彼の手が徐々に下へ下へとさがり、胸元に添えられる。心臓の鼓動を確かめるように、その手がなだらかな双丘を撫でた。ぷつりぷつりと釦が外されていくさまは不自然なほど官能的だった。
女がまずいと思った時にはもう遅く、服は素早く暴かれ懐に隠していた護身用の短刀は彼の手中におさめられていた。
慌てて髭切の手を掴んだ女を、この後に及んで抵抗する気かと見下ろした。もはや振り払うのも億劫になるほど弱々しい力だ。本当に殺すつもりだったのだろうか。
惨めに生にしがみつく女が、なんとか髭切を引き留めようと口を開く。
けれど、それは逆効果だった。
「死んでも彼女と一緒にはなれないのに? 人間と刀剣男士は、はじめからそういう運命だよ」
ぴくりと髭切が体を揺らしたかと思った次の瞬間には、その手が女の首にかかっていた。絞め殺すほどの力は持たない、衝動的な行動だというのが明らかな手が、女の首をやすやすと掴んでいる。直接的に感じた命の危機にひやりと女の背筋が凍った。
髭切は殺気を隠そうともしなかった。明確なそれは刃のように冷えて尖っている。迂闊に触れれば裂けそうだった。張り詰めた空気がびりびりと震えて、押さえつけられた手首が痺れる。
「あの子の顔で、あの子の声で、つまらない運命論をふりかざさないで」
ぎり、と歯ぎしりの音が聞こえてきそうなほど憎々しげな表情で髭切が言った。気を抜けば力いっぱい女の首を絞めて、その骨がぼきっと音を立てて折れるまで痛め付けてしまいそうだった。
ぐわっと女を押し潰すような殺気を浴びながら、彼女はその言葉を契機として髭切の手首を掴み返す。切り揃えられていない爪が髭切の腕に食いこんだ。
「だったらあなたも!」
今までのうちで間違いなく、最も激しく大きな声だった。髭切の浴衣の胸元に掴みかかって身体を起こし、平静を失った女は勢い任せに捲し立てる。もう耐えられなかった。
「あなたも、私をそんな目で見ないで。そんな手つきで触らないで、そんな声で私を『君』と呼ばないでよ!」
私はあなたの愛した女じゃない。私に優しくする、あなたが憎い。
全てが自業自得だった。支離滅裂な恨み言をぶちまけ、物事の分別もつかない幼子のように泣き叫ぶ。髭切の胸板を殴りつける女の勢いに押されて、彼は上体を起こした。女を引っ張り上げて、逃げられないように肘を掴む。背中を撫でようと回した腕ははっきりと拒絶された。
一通り喚いた女は肩で息をしていた。涙を流しながら髭切を憎々しげに睨むその表情は苦しげだった。
むき出しの感情をぶつけ、またぶつけられた実感が遅れてやってくる。ぷつりとなにかの糸が切れた、それが決め手だったかもしれない。
「ねぇ。もう、自由になろうか」
向き合う女にそう囁くと、おかしなリズムで呼吸をしていた彼女の肩が跳ねる。ごほ、と息をつまらせ咳をするのにも構わず、髭切は諍いの最中に叩き落とされてそばに投げ出されていたその短刀を拾い上げた。
女の短刀を鞘から引き抜く。刀身が淡い行燈の光を鈍く反射していた。知らない刀だ。欠片の霊力も妖しい気配も感じられない。想いが宿らなかった無銘刀か。錆と刃こぼれだらけで、とても頼もしいとは思えない。成り代わりとはいえ、本丸の主という立場を任せる女に託すには随分とお粗末な刀だという印象を抱いた。
「これが君の刀? ふうん……鈍らのくせに、君のものだなんてねぇ。妬けるなあ」
こんな刀で殺せるのかい?と暢気な調子で問いかける。女は何も言わない。髭切は焦れてその刃を直に握って刃先を自分のほうに向け、女の手に柄を握らせる。かたかたと震えて短刀を取り落としそうなその手をつねった。
殺すんでしょう、しっかりしないと。そう励ますと恐ろしいものを見る目を向けられた。髭切はお構い無しにその切っ先を自分の胸にあてがう。素手で刃を握った左手から血が滲んでいた。
「ここが心臓。わかる? ちゃんと深く貫かないと殺せないよ」
ぐ、と引き込むように誘導すると、女が短刀の柄を握る手にようやく力が込められた。銀の刃先が浴衣越しに皮膚に食い込む。刃こぼれしているからか、女の力が弱いのか、肌の表面が長いこと抵抗していた。背中を壁に預けると、女が髭切を追い詰めるように乗り上げる。もう逃げる意思はないらしい。
ぶつり、と筋が切れるような感覚のあとで熱い液体が浴衣を濡らす。ついに肌を突き破り肉に到達した刀に髭切は歯を食いしばった。荒い息を押さえつけながら、涙目の女を煽るように声をかけた。
「そう……じょうずだね」
ひ、と声にならない悲鳴をあげた女に構わず、短刀の刃を握り直して深く突き刺す。骨の間を器用にくぐった刃が内臓を押して髭切は醜い呻き声を落とした。次から次へと傷口から鮮血が溢れる。噴き出したそれが女の手を濡らして、ぬるりと指の間にまとわりついた。気持ち悪い。女は恐怖と涙で酷い顔をしながらも、血にまみれた手は短刀の柄を握ったまま離さなかった。
息が苦しくなって咳き込むと、痰の混じった血液が口から吐き出される。酸の混じったそれのつんとした匂いに、女は顔を歪ませた。
「髭切、」
口から血を吐き汗を滲ませて苦痛に呻く男の名前を呼んだ。彼はその声に呼応して伏せていたまぶたを押し上げ、泣きそうな瞳で女を見る。まぶたも唇も腕も震えていた。
「君を憎んでないよ。愛してもいないけど」
髭切は最後の力を振り絞り、髭切の太刀を鞘から引き抜いて女の身体を袈裟斬りにする。最後に見た女の顔は泣いていた。事切れて倒れ、声も出せずにひくひくと震える女だったものの上に重なり合うようにして、髭切も意識を手放した。ぐちゃ、と倒れた身体が血の海に落ちて水音を立てる。色濃い死の匂いが傷を癒すための密室に充満していた。
手入れ部屋の床に、ふたりぶんの血溜まりがゆっくりと広がっていく。畳の目に沿って、行燈の足を、布団を、替えの包帯を、じわりじわりと赤黒く染め上げた。
薄く開いた隙間の向こうで、闇に沈んだ星が嗤う。
ばきん、と鋼が砕ける音が遠くで聞こえた。