気安さと気休めと

刀×主/友情出演:膝丸


 太陽に近づきすぎてはいけない。
 蝋でできた翼は、融けてしまうから。
 そして、太陽と背中合わせの月にもまた、近づきすぎてはいけないのだ。
 …………いけない、のだけれど。

「……三日月さま、畑当番は?」

 隣からたえず突き刺さる、ちくちくとして穏やかな視線。それに無視を突き通すのはせいぜい三十分が限界だった。

 帳簿を付ける手を止めて顔を上げる。おそるおそる横に目をやると、こちらをじいっと見つめる美しい顔がそこにあった。視線がかち合ったかと思えば、息をつく隙も与えぬ間にゆるりと目を細められ、視線を絡め取られる。
 この世のものとは思えない、美しい三日月が浮かぶ夜の瞳。冗談抜きに吸い込まれそうな気迫に脅かされて喉がひゅっと空気を呑んだ。
 ぎゅっと瞼に力をこめて、持って行かれかけた正気を取り戻すために頭を振る。
 花が咲くように顔をほころばせたその太刀の瞳から必死に逃げ出して、意味もなく帳簿をぺらぺらと捲った。

 場を整える、というより、自分の気持ちを保つという意味の咳払いをひとつして、私は視線を外したまま念押しした。

「今日、三日月さまに振ってあったでしょ」

 彼は昨日もこうして、本丸の共用部屋で作業をする私に張りついていた。我慢大会でもしているのかと問いたくなるけれど、その割には楽しそうな笑い方をする。
 結果的に我慢を強いられているのは、うつくしい男のなりをした刀からの熱視線を耐えている私のほうだ。

 穴が空くほど見つめられていては、まともに算盤をはじけるはずもない。
 だから、普段は近侍まかせである内番の分担におこがましくも口出ししたと言うのに。

「ん?あぁ、案ずるな。なに、休憩中だ」

 黄色いバンダナをまいた内番服に身を包んでこそいるものの、彼は相も変わらず私の隣で時間を浪費している。馬当番につけたほうがよかっただろうか。おそらく、そんな単純で直観的な理由ではないが。
 はやく当番の相方が回収に来てくれないものかと他力本願に気を揉みながら、またぺらりと帳簿を捲る。

「そう言って、もう朝からずっとそこにいるじゃないですか」
「はっはっは。まぁ、細かいことは気にするな」

「もう、鶯丸みたいなこと言って……」

 ああもう、やりにくい!
 いっそのこと長時間遠征にでも出してやろうか。小判も資源も、底を突くまでではないけれどとくに潤沢というわけでもないのだから。
 職権濫用という四文字が頭の中を過ぎ去って行った。どちらかというとパワハラかも。私情で編成いじるなんて、そんなことするわけないけど。

 今度はシャープペンに芯を詰める。
 ふっと無言になった空間にかちかちと音が響いた。

「主よ。わかっているだろう」

 はぐらかすような、躱すようなそれとは違う、静かな声色にどきりとした。幼子を諭す年長者の言葉にも似た、有無を言わさぬ響き。
 何も言えずに押し黙る私を放っておいて、三日月宗近はそのまま続ける。

「いつまでもそう他人行儀では、俺は寂しいぞ」
「…………う、」

 『三日月さま』曰く、呼び方が不満である、と。
 審神者という立場で刀との共同生活をはじめて早五年。特に深く考えていなかった私は、初期刀の清光をはじめ、私の刀たちを友達のように気安く呼んでいる。
 へし切長谷部は長谷部。燭台切光忠は光忠。乱藤四郎は乱ちゃん。
 鶯丸や石切丸のような刀はそのままに呼び捨てているし、彼らもそれを許してくれる。
 一期一振などは、彼の弟刀たちの話を聴いているうちにその呼び方がうつって、顕現したての頃からきょうだいでもないのにいち兄と呼んでいた。物腰柔らかなその太刀は驚いたようだったけれど、妹ができたようですなと笑って許容されたから、いまでも同じ呼び方をしている。

 三日月宗近を「三日月さま」と呼ぶことだって、長いことなんにも言われていなかったのだ。
 この本丸に三日月宗近が顕現したのは、そう最近の話ではない。少なくとも二年の歳月は経っているはずだし、彼のあとに来た刀もたくさんいる。
 それだのに、最近になって彼は呼び方を気にするようになった。
 少し前からほのめかされ始め、つい先日しびれを切らしたかのように直接物申されて。以降、彼はこうして私と我慢くらべに興じている。

 別に嫌いだからとかではない。
 ただ何となく、三日月宗近という刀を気安く呼ぶのがすこしおそろしいだけだ。

「無理強いはしないさ。なに、待つのは得意だからな」

 その言がすでに催促なのだが。
 しばらく口の中で躊躇いを咀嚼していたが、不殺ころさずの刀から感じる圧力に押し負けて声をひねり出した。

「み、三日月…………さん」
「うむ、なんだ?」

 ギリギリの譲歩。かなり無理してそう呼んでみたけど、彼はそれでは足りないと言いたげに笑顔の圧を強くした。
 なんだ、じゃないでしょう。試したけど無理だったんだから、今日のところは勘弁してくれてもいいのに。
 すくなくともこの気まずい、誂られたような、それでいてちっともお誂え向きじゃない、おかしな空気の中ではできるものもできない。気安く呼べるようになるには、短期決戦じゃなく長期的な関係の再構築が必要だ。

 心のうちでその刀に責任を押し付けていると、すたすたとどこか忙しない足音が近づいてきた。その足音の影はうろうろと少しさまよった後で、私たちがいる部屋の前で止まる。
 すぱん、と子気味良い音を立てて障子が引かれた。
 薄い障子に遮られていた眩しいほどの陽光が、部屋の畳に白い影を落とす。

「見つけたぞ、三日月宗近殿!」

 若葉の色をした髪を揺らす太刀が、よく通る声で勝鬨をあげた。
 源氏の重宝、弟の膝丸。彼も長生きな刀だけれど、兄やこの三日月とは違ってキビキビ、はきはきした性格の刀だ。

「今日は俺と畑当番だ。そろそろ重い腰を上げてくれ」
「おっと、見つかってしまったか」

 私が膝丸を三日月宗近のお目付け役という名の相方に選んだのは、そういう彼の性格ゆえだった。のほほんとして忘れっぽい兄の世話を焼いているから、ふわふわした刀の扱いには熟達している、と思いたい。うまく手綱を引いてくれると良いが。私が絡んでおらずとも日頃からマイペースでおおらかな三日月宗近という爺刀の世話を押し付けるかたちになってしまったことに、罪悪感を感じていないと言えば嘘である。
 ごめんね膝丸。こんど万屋でなんでも買ってあげるからね。
 逆光のなかにくっきり浮かぶシルエットを見上げながら、心のうちでそう念じた。

「行ってらっしゃい。よろしくね、膝丸」
「無論だ。俺に任せておけ」

 なんとも頼もしい返事である。
 三日月宗近を追い立てながらも、礼儀正しく一礼する膝丸にひらひらと手を振る。彼は、では失礼する、行くぞ三日月宗近殿、と言って襖の向こうに消えた。三日月はその芯の通った声にあいわかったといつもの調子で返しながら、振り返って私をまたじっと見つめた。

「主」

 私を呼ぶその声音に驚いた。どこか弱々しくも感じられるそれは、彼という刀にはどうも不釣り合いに思えて。彼が相当な役者であることは深く思い知っていたはずなのに、勝手に湧いて出る罪悪感がちくちくと胸を刺す。
 射抜く視線があまりに真っ直ぐで、私は畳に手指の爪を立てて縋るものを探した。えっと、と蚊の鳴くような声で呟くことしかできない口を、近づいた三日月の指が撫でる。戦装束の手袋に包まれていない素肌は、刀を振るう手とは信じられないほど滑らかで、でも無骨な力強いつくりをしていた。その指が頬から顎をつたうように輪郭をなぞり、いっそ艶めかしさすら漂う壮絶な美しさの笑みが私の視界を埋めている。
 中途半端に顎を上げた状態で、呻きと悲鳴を押し殺しながらやっとの思いで口を開いた。

「三日月……さん……も、行ってらっしゃい」

 視界いっぱいに映る瞳の月は、悲しみも悔しさも纏ってはいなかった。ただ淡々と、そこに在ることを望まれた欠けている月。
 私には、まだこの刀を気安く呼べそうにない。
 失望させてしまっただろうか、この気まずさがなくなるのは大歓迎だけれど彼と溝を作りたいわけではないのだが、と慮るようでそうでないことを考える。しかしその心配とは裏腹に、三日月は泣きも怒りもしなかった。

「ふむ……まだ足りぬと言うことか?
そうだな。また来よう」

 彼はそう言って、優しい笑みをたたえたまま部屋をあとにした。頬が、耳が熱い。冷やそうと指をあてた耳をすまさないでも、彼の名を呼ぶ源氏の弟刀の声が聞こえていた。
 ぽつりと広めの共用スペースに帳簿とそろばんの三人ぼっちで取り残された私は、赤面しながら、意味もなく座布団の位置を少し動かした。

 『また来よう』
 その言葉の意味を紐解いて考えるには、今の私は心臓が早鐘をうちすぎている。
 精神統一、煩悩滅却。山伏の国広や石切丸から聞いた単語を脳味噌に刻み込むようにしておのれに言い聞かせながら帳簿に向かい合った。



*

「もう少し遅く来ても良かったんだが」
「無茶を言わんでくれ……主は俺を信頼して任せられたのだ。それに応えないというのは源氏の名折れだろう」
「はっはっは。お前は真面目だな」
「貴方が大雑把なだけだ……!」

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