雨の音とその後

 本降りの雨が思わぬ嵐を連れて来たその日、膝丸の予想に反して兄は四半刻と経たずに帰ってきた。
 自分が逃げ去ったあとどうなったのだと聞きたかったが、膝丸はとうとうそれを切り出せなかった。彼女は兄に何と言ったのか、そして兄はどう返事をしたのか、はたして二人の関係に名前はついたのか。気になることは山のようにあったが、膝丸は逃げ帰ったことへの気まずさと兄に嫉妬したことに対する罪悪感、そして決定的な絶望に襲われるかもしれない恐れに苛まれてなにも聞けなかったのだ。

 すっきりしないままに迎えた翌日は、とうとう文化祭前日だった。

 学生たちに与えられたまるごと一日の準備時間のあいだじゅう、実行委員である彼女と膝丸は目が回るような忙しさだった。ひとつ済ませばすぐ他のところから声がかかる二人に、個人的な話をする暇などあるはずもない。膝丸も、そして彼女も、忙しさに身を委ねることで余計な思考の波から逃げていた。

 そして当然ながら、その忙しさは文化祭当日になって解消されるわけもなく。半ば諦めていたことだったが、やはり膝丸と葵は文化祭を参加者として楽しむことはできそうになかった。膝丸はせめて彼女だけでも自由にしてやりたいと考えていたが終ぞついぞ叶わず。二人はほとんどクラスの運営に付きっきりで、来場者への応対や宣伝活動に奔走していた。
 昼になり、客足がすこし落ち着いたところで膝丸はようやく一息ついた。シフト制に当番が組まれた店番の生徒が交代して客に向かうのを確認して、彼は教室の隅から部屋の内部をぐるりと見渡す。彼はその真面目さゆえに、同胞が働いているときにただじっとしていることができない。義務や与えられた役割が無くとも何かすべきことを探してしまうのは、膝丸にとってもはや癖のようなものだった。
 剥がれかけている壁の装飾をさりげなく補修し、どこからかやってきた空のペットボトルを拾い上げて控え室に戻る。ペットボトル用のゴミ袋に空のボトルを投げ入れ、文化祭の案内冊子を見て他のクラスの出し物を確認した。
 何かが違っていたら何も知らないで彼女とこれらを楽しめたのかもしれないと夢想すると、やり切れない思いに押し潰されそうになる。意図せず肩を落とした膝丸の背中に、控え室の出入口から声がかかった。

「膝丸!」
「膝丸くん」

「な、なんだ、そんなに大勢で。何か問題でもあったのか?」

 膝丸を呼ぶ複数の声に慌てて振り向くと、何の繋がりも見出せないクラスメイトの男女が五、六人で控え室に入ってくるところだった。彼がきょとんとしながら問うと、クラスメイトのうちの一人は一瞬膝丸と同じ顔をして、それからすぐに笑って手をひらひらと振る。その手には数枚の紙切れが握られていた。

「いや、違う違う。お前も文化祭回ってこいよって言いに来たんだよ。ここは俺らが見とくからさ」

 はい、と渡されたのは他学年の食品バザーの引き換え券。生徒への食券販売は昨日だったから今はもう手に入らない。三クラスぶんのチケットが二枚ずつ、計六枚のそれを受け取って膝丸は顔を顰めた。

「好意は有難いが、あいにく俺は共に回る者がいないのでな。悪いがこれは返そう。君たちで使ってくれ」

 半券を彼の手に押し付けながら、膝丸は申し出を断る。自分で言葉にしておいてなんと寂しいことかと自嘲した。ここは俺に任せておけ、と言って彼らに背を向けようとした膝丸を今度は別の女子生徒が引き止めた。
 あの、と一拍置いて女子生徒はちらりと廊下に目をやる。その視線の先を追いかけたが、膝丸の立っている場所からは壁に遮られて何があるのか見えない。諦めて彼女に目を向けた。名前は知っているが、そういえば会話らしい会話をしたことがないなと気づいた。

「葵ちゃんと一緒に回ってくれないかな? あの子も忙しいから諦めてるっぽくて……いま、廊下で待ってるんだけど」
「……俺が? 彼女と?」

 兄者を差し置いて、と続けそうになった口を慌てて閉じる。行方もわからぬ他人の恋愛事情をべらべらと喋るものではない。反射的に鸚鵡返しをした膝丸にその女子生徒は首を傾げながら頷いた。当然のことを語る目だった。

「二人、仲良さそうだし。お願いできないかな」

 絶句する膝丸をよそに、彼女の後ろで話を聞いていた他のクラスメイトもその言葉に同意するように次々に頷く。いや、だが、と言葉に詰まりながらも抗議する膝丸の声は聞き流された。
 高校生を何人も収容するには狭すぎる控え室はすでに窮屈だ。はじめに声をかけてきたクラスメイトが再び膝丸に食券を握らせて、行ってこいよと彼を控え室から追い出した。

「楽しんで来い!クラスのことは任せろ!」

 大繁盛させといてやるよ、と笑ったクラスメイトに、膝丸はとうとう折れた。彼らに、では頼むぞと返し控え室をあとにする。諦めつつ、覚悟を決めるために大きく息を吐いた。まぶたを伏せて、決意を固める。
 彼らに見送られながら廊下に出ると、女子生徒の言っていた通り「彼女」が待っていた。彼女は窓に貼ったポスターを背伸びをして貼り直している。彼女も膝丸と同じく、なにかしていないと落ち着かない性質だった。

「あれ、膝丸くん?」

 膝丸が彼女の横顔を見て惚けていると、視線に気づいたらしい彼女が振り返った。彼ははっと我に返って取り繕うように咳払いをする。震えそうになる唇を一度ぎゅっと引き結んで、食券を持っていない方の手を強く握りしめておのれを奮い立たせた。彼女の瞳を真正面から見据える。

「これから、俺と一緒に回らないか?」

 その一言をやっとのことで口に出した。彼女は目を丸くしたまま膝丸を見つめ返している。いちど目を合わせると逸らす方が難しくなって、二人はしばらく見つめあっていた。じわじわと膝丸の耳が熱くなる。
 あまりのいたたまれなさに膝丸が沈黙を破ろうとしたとき、彼女がふ、と頬をゆるめた。

「いいよ。どこから行く?」

「あ、ああ。まずは食品バザーに行こう。チケットを譲って貰ったのだ」

 これだ、と言ってクラスメイトが与えた食券を見せると、彼女はぱっと瞳を輝かせた。売り切れてたから諦めてたんだ、と嬉しそうに言う彼女に膝丸の顔にも自然と笑みが広がる。
 二人並んで廊下を歩く。嬉しそうな反応とは裏腹に、その足取りがなにか重い気持ちを引き摺っているようで、膝丸はなんとなく察しがついた。この推理が正しいならば、自分が抱く罪の意識は大いにお門違いなのかもしれない。

 けれどそれを掘り返してこの笑顔を曇らせる必要がどこにあるだろう。たとえ愚か者になろうとも、膝丸は彼女との温もりのある時間を延ばしていたかった。