一ノ瀬秀一という人

 昔から、愛情というものに疎かった。
 初めてできた妹を、初めはとても可愛がっていたように思う。赤子というのはやはり可愛らしく見えるようにできているのか、俺の指を反射で握る姿に和んだりもしていた。しかし、それもつかの間の話だ。八つも歳が離れた妹に両親はかかりきりで俺は自分のことを自分でやらなければならなくなった。最初に思ったのは、面倒くさいなということ。それでも赤子を放置するなんてことはできるわけがないことを俺は重々承知していて、仕方がないなと思いながらも母を手伝い、家事をしたりなんかして生活していた。妹が三歳ほどになって言葉をはっきり喋るようになると、あいつは俺の後ろをよたよたとついてくるようになった。しばらくすると妹──雲雀は俺をお兄ちゃん、と呼ぶようになり、昔よりもベッタリ俺に着くようになった。
 俺は、人の愛し方というものをよくわかっていなかった。ただ自分の庇護下にいる雲雀を守って可愛がらないといけないという使命感というか、義務感のままに生きていた。困ったことがあれば相談に乗り、誰かにいじめられたと言われれば忙しい両親の代わりに解決に行く。そうやって過ごしているうちに、雲雀がだんだんとおかしくなっていっていることに俺は気づけなかったのだ。

「お兄ちゃん、雲雀ね、大きくなったらお兄ちゃんと結婚する!」
 雲雀が十歳になった誕生日、雲雀はあまりにも輝かしい瞳で俺にそう言い放った。ここで、俺は選択を間違える。この思考をおかしいと言ってやればよかった。でも、俺はそうしなかった。俺に与えられた任務は雲雀を育て愛すること。そう、思った。
「そうか、嬉しいよ。ありがとう、雲雀」
 俺は微笑んだ。雲雀も嬉しそうにした。これで解決、この話は終わり。
 この日から雲雀のおかしさは加速した。俺が少しでも家の外に出ようとすれば泣き、私を捨てるのかと喚いた。学校には無理やり行ったが雲雀は俺を待つためと言って不登校になった。俺にはその思考が理解できなかった。そのまま歪な日々は過ぎていき、ある日それは起こった。
 第一次大規模侵攻。近界民という異世界からの侵略者たちによる戦争。否、一方的な虐殺。三門市は二日で瓦礫の山となり、壊滅状態へと変わった。俺の家族は誰も死ななかったが、たくさんの死者が出た。いくつもの死体の山を俺は見た。赤の他人だ、なんとも思いはしない。ただ街に腐敗臭が広がるのは勘弁して欲しいなと思った。それだけだ。少ししたらボーダーとかいう組織が成立して、この近界民に対抗するための人員を募集していた。妹から離れたかった俺はこれに志願し見事戦闘員として雇用された。大学進学を機に隣町にアパートを借りて一人暮らしも始めた。妹との関わりは、もうほとんどなくなった。

 二〇一三年五月二日木曜日、天候は雨。その日は大学の講義が立て続けに休講になったりして、わりと暇を持て余していた。雨なので外に出る気も起きず、部屋で本を読んでいたと思う。そうしたら、携帯が途端にけたたましく鳴り出して、手に取ればそれは二宮匡貴という俺の後輩からの連絡だった。あいつは電話とかを嫌うから、何か用があってもメールで済ませてくる。だからこれは珍しいことだ。頭に疑問符を浮かべながらも電話に出た。雨の音が聞こえる。外にいるのか。
『あんた、今どこにいる!?』
 これまた珍しい。二宮が焦っている。いつも冷静沈着で感情を荒らげたりするタイプではないのに。家にいると伝えれば急に妹に会いに行けと二宮は言った。ふむ、なぜだろう。それでもこの焦りようから断ることもできなくて、俺は了承の旨を伝えた。支度をして家を出る。雨はまだ酷く降っていた。
 隣町とはいえ、市の境界のすぐ近くに住んでいたので実家まではそう遠くなかった。歩いて家に向かう。特に何事もなく辿り着いて鍵を開ければ、驚いた顔の母と会った。雲雀に会いに来たことを伝えれば、今朝出かけていったよと言われる。おや、そうなのか。どうしたものかと思い二宮に電話をかければワンコールで繋がる。
「雲雀、家にいないらしいけど」
『部屋を探してください。くまなく!』
 はあ。母に雲雀の部屋は開いてるかと聞くと入るなと言われていたらしくここ数年入っていなかったそうだ。二宮と電話を繋いだまま、よく分からないが雲雀の部屋に入る。普通の女の子の部屋、と言った感想しか出てこない。壁には壁紙が気に入らなかったのか可愛らしい模様の布がかけてある。急かしてくる二宮をあしらって引き出しなどを漁ってみると、そこから信じられないものが出てきた。
「なんだこれ、トリガー?」
『やっぱり……!』
 どういうことだろう。少し気になってきて、壁の布を退けてみる。
 そこにあったのは、大量のトリオン兵の写真。
「う、わ」
『何がありましたか』
「トリオン兵の写真だ。めちゃくちゃあるぞ、うわ、ここ全部貼ってあんのか」
 全ての布を取り払えば、壁一面にトリオン兵の写真。時たまボーダー隊員が戦っているところなんかも写っている。狂気の沙汰だ。
『……鳩原が民間人にトリガーを流して、近界に失踪しました。うち一名は恐らく雨取麟児。さらに、同日失踪した一ノ瀬雲雀もいると推測されています』
 雲雀が、近界に。部屋を漁る。今度は本棚の奥からノートが出てきた。開く。びっしりと文字が書かれている。これもまた近界民のことばかりだった。その最後のページに書いてあったのは。
『お兄ちゃんは、やっぱりあの近界民とかいう奴らのせいでおかしくなった。だから雲雀から離れていった。治してあげないといけない。大元を叩かないといけない。』
 理解できない。その思考も、行動も、全て。同じ腹から出たとは思えなかった。二宮から雨取家に来いと言われ、部屋にあったトリガーを持って向かった。雨取麟児は知っている。雲雀の家庭教師をやってくれていた人間だ。一度だけ会ったことがある。そこ繋がりでトリガーを手に入れたのか。雨取家に着くと、そこには二宮隊のメンバーが集まっていた。ぼろぼろと涙を流す雨取麟児の妹が、印象的に記憶に残っている。

「あの、一ノ瀬さんは遠征を目指してるんですか?」
 あれから九ヶ月の時が経った。雨取麟児の妹、雨取千佳はボーダーに入隊して玉狛支部の所属となり、トリオンモンスターなんてあだ名で狙撃手界に新しい風を吹かせている、らしい。俺とはそう関わることもないが、今日はたまたま本部で雨取と会った。少し立ち話をしていたのだが、そこで雨取が俺に聞いた。遠征。近界へ向かうある種合法的な手段。聞けば、雨取は兄を見つけるためにチームで遠征を目指しているらしい。
「うーん、そうだなあ。特には目指してないかな。ほら、うちのチームの富田なんてトリオン兵がダメだし。目指す動機もないよ」
「妹さんを、雲雀ちゃんを探しに行かないんですか?」
 純粋な目だった。いつかの妹を思い出す。そうか、雨取は雲雀の友人だったか。
「行かないよ。雲雀が選んだことだ。俺が止める筋合いはないさ」
 雨取は少し悲しそうな目をした。


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