この手を取って

 時々、本当に時々だけれど、夢を見ることがある。それはどこか暖かい家族団らんの日々。バラエティーを見ながら家族で笑ったり、ホラー映画を見て全員で絶叫したり。全てはもう叶えられない過去の話だった。
 母が死んでから父はどこかおかしくなってしまった。豪快に笑っていた過去の父はもう見る影もなく、そこにあるのはただ何かに怯え僕に暴力を振るう姿のみ。そんな父も知らないうちに化け物に殺されてしまい、僕は正真正銘の孤独になってしまった。もうこの世界に縋るべきものは何もなかった。毎日ネットカフェに引きこもってパソコンをいじる。僕の顔どころか名前すら知らないような相手と取引をし、犯罪行為を重ねる。そうやって僕はここ一年を過ごしてきた。家に帰ってもそこにあるのは地獄だけ。夕方道を歩いているとすれ違う家族の姿に少しだけ心を痛める日々。僕はただ、やることだけやって金を貰い、それで毎日を食いつなぐ。元々中学では浮いていたし、体中にある痣で人が近寄ってくることもなかった。周りにあるのは感情を表さない精密機械のみ。それだけが僕の相手だった。

 ある日、僕の元に一件の依頼がやってきた。その内容は、ボーダーという組織の内情を調べること。ボーダーとは一年前の謎の化け物たちによる虐殺の後にやってきた人間が作った組織で、一応今はその化け物たちから僕らを守っているということになっている。しかし、このボーダーという謎の組織に対する不信感を募らせる人々も多く、ネットの掲示板なんかを覗けばそこにはアンチスレばかり。中にはこのボーダーという組織自体があの謎の化物を連れてきたのではないかという説すらある。正直、僕はそんなことどうでもよかったが金になるなら話は別だ。依頼者に金額の相談をする。それ相応の金はもらえるようだった。了解のメールを送って一度パソコンを閉じる。わずか数日で町の中央にあの大きな建物を建てたぐらいだから未知の技術を持っていてもおかしくはない。それにあの化け物には兵器すら効かなかったというのに、あの組織の人間たちはほぼ生身の状態で戦って勝てていたようだ。彼らは化け物を異世界からやってきたものだと説明していたが組織の人間たちだって僕たちからしたら異世界の住民のようなものだった。仕事用のパソコンを取り出す。目標はボーダー中枢のコンピューターへのハッキング、そして情報を抜き出してくることだ。少しばかり心が踊った。やろうとしていることは犯罪だが僕にとってはそれが生きがいだ。足掛かりはまず公式サイトから。思っていたよりもすんなりとそのシステムの中に入り込むことに成功する。足跡を残さないように処理をしているが万が一ということもあるので世界中のありとあらゆるパソコンを介してその情報網に潜り込んだ。やはり表の方にはさして重要なことは載っていない。もう少し奥に入り込むか。そう思った矢先、僕のコンピューターに異常が発見された。何だ一、体何が起こっている? 少し調べて僕は気づいた。これは逆探知されている。今までも僕のパソコンを逆探知しようとしてきた人間はいたが実際にされたことはなかった。僕のプログラミングは完璧だったのだ。だというのにこのボーダーという組織の一つのコンピューターが逆に僕のパソコンにハッキングをしようとしている。初めてのことだ。僕は焦った。それでも先にこちらが情報を得てしまえばこのパソコンを閉じて仕事は終わりだ。処理なら後からでもできる。しかし段々とパソコンは使えなくなっていった。ウイルスでも仕込まれたか。そこにあるのは絶望のみだった。ああ、もう僕の人生は終わった。だって初めからわかっていた。これは犯罪行為だ。僕はしかるべき処罰を受けることだろう。しかし僕は悲しみと同時に一つの興奮を覚えていた。今まで人生で僕を超えるエンジニアやハッカーなどいなかった。いま僕のパソコンにハッキングしている人間は僕より優秀なエンジニアかハッカーということだ。ボーダーとは恐ろしい組織だとは思っていたがこんなにも優秀な人間がいるのか。化け物に興味などない、人が死ぬこともどうでもいい。だけどこれだけは僕も譲れないところだった。一度でいい、一度でいいからこのパソコンをいじっている人間に会ってみたい。その人の頭はどうなってるんだろう。普段はどんな生活をしているんだろう。どんな技術力を持っているんだろう。疑問は尽きない。ちょうどその時、僕のパソコンに通信が入った。今のハッキング相手からのようだ。僕はその通信に応じた。カメラが起動する。僕の顔を確認しようということか。それにも素直に応じた。画面の向こうに映っていたのは二人の男だった。片方はまだ二十代か三十代といったところか、髪型をオールバックに決め片手にタバコを持った男。そしてもう一人はその隣の男よりも随分と年上に見え、パソコンの前に座っているようだった。そうか、この人が。音声の通信が入っていることに気がついた向こうの人間は僕に声をかける。
「今このコンピューターにハッキングしようとしていたのは君かい?」
 オールバックの方が喋った。喋り方からなんとなくわかる。この人は多分交渉とかを受け持っているタイプの人間だ。僕と話すのに適任だと連れてこられたのだろう。僕はただ一言、はいとだけ言った。そうすると向こうは少し驚いたような顔をした。
「随分と若いハッカーだな。鬼怒田さん、こんな子供がボーダーのコンピューターのほぼ最深部にまで到達していたっていうんですか?」
「にわかには信じがたいがそのようだ。おいお前、なぜボーダーのコンピューターにハッキングした?」
 僕だって一応プロだ。秘密厳守というものがある。しかしこの状態でそんなことを言ったって意味はない。僕は素直に答えた。
「とある依頼人からボーダーの内情や技術を調べろという依頼を受けたからです。僕はそれしか知りません。相手の名前も顔もわからないんです」
 二人は顔を見合わせた。そして僕にこう聞く。親御さんはこのことを知っているのか、と。ここも僕は素直に話した。僕に隠すこともない。母は病死し父は一年前に化け物に殺された。僕は今一人暮らしだと。少しの沈黙が流れた。しばらくするとパソコンをいじっていた男が席を外した。僕は逃げようとも何とも思わなかった。そもそも罰せられるべきことをしていたのだ。逃げ隠れしたって何も変わらない。少し時間を置いて男が帰ってきた。そして僕にこう言ったのだ。
「おい小僧、ボーダーで働く気はないか?」
 今度はこちらが黙る番だった。だってあまりにも急だったのだから。僕がもしボーダーに入るのだったら今回のことは黙っていてやる。男はそう言った。上層部とも話をつけたという。そこまでして僕を庇う気持ちがわからなかった。でもこれはチャンスかもしれない。僕は聞いた。あなたが僕のパソコンに入ったのですか。すると男は得意げな顔をして、そうだと言った。僕の気持ちはこの時点で決まっていた。この男に会いたい。会って話がしたい。もっと僕の技術を高めたい。そのためにもこの男に会う必要がある。
「わかりました。僕、ボーダーに入ります」
 男たちは少し嬉しそうな顔をしていた。
「俺は唐沢、こっちが鬼怒田さん。君の名前は?」
「旭。相馬旭です」
 今からボーダーに来れるかと言われ、僕は二つ返事で了承した。今いる場所を伝えると少ししてから車が来た。そこにはオールバックの男が乗っていた。さっき映っていた男だ。確か名前は唐沢といったか。なんだか見るからに怪しい男だ。生で会ったら余計にそれが確信に変わった。僕はパソコンを持って黙って乗り込む。唐沢さんはにこりと笑って率直に僕を褒めた。犯罪者を褒めるなんてどうかしている。それでも僕はここ二年ほど誰かに褒められるなんてことはなかったから、少しむず痒い気持ちになった。車は町にあったダクトの中に入っていく。なるほど、これがボーダーの組織に繋がっていたのか。扉が開く瞬間に何らかの認証機能があったようだからきっとボーダーの人間しか入れないんだろう。気になる技術だ。俺はずっとキョロキョロしていた。それが面白かったのか唐沢さんは終始笑っていた。着いたよと言われ車の外に出る。するとそこには先程のエンジニアと思われる男がいた。生で会うとなかなか怖い顔をしている。こちらに近づいてきて男は手を振り上げた。その瞬間に父親の顔がよぎる。ああ殴られる! 咄嗟に防御姿勢をとる。しかしその点は僕の頭の上に乗った。大変だっただろう。そう言った。昔の父親を思い出した。顔はもちろん全然違うけれど雰囲気は確かに誰かの父親だった。
「今はボーダーのエンジニアの人手が足りなくてな。お前にはこれから死ぬほど働いてもらうぞ」
 そう言って鬼怒田さんは歩き出した。後ろにいる唐沢さんを見たらついていくといいと言われる。素直にそれに従った。もうここは未知の世界のようなものだ。通されたのはエンジニアルームのようなものだった。
「ここが今日からお前の部屋だ。食堂なども完備しているから好きなように使うといい。最初は何もわからないだろうからワシがつきっきりで見てやる。ありがたく思えよ」
 二人の男はぽかんとする俺を見てこう言った。
「相馬旭、ようこそボーダーへ」
 きっとこれから毎日素晴らしい日々を送ることになる。僕はそう、確信したのだった。


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