解けていく、ぼくらの糸

(「離れ難い、あたなとの距離感」の続き)


 巽翔太郎の心には、二本の鎖が絡まっている。

「あれ、なんであんたがここにいんのよ」
 俺が巽を玉狛に呼ぶ時、迅がなにか根回しをしているらしくて支部に玉狛第一のメンバーがいることはない。俺にはその理由がよくわかっていないが、どうやら巽は玉狛第一を嫌っているらしい。それに関して巽に聞いたわけではないが、なんとなくそれは察せられた。
 しかし、今日はなぜかたまたま小南がいた。そして帰り際にばったり出くわしてしまったのだ。しまった、と思う。二人とも俺にとっては大切な仲間だから喧嘩なんてして欲しくないんだがな。
「こんにちは、小南先輩。もう帰るのでご心配なく」
 俺の予想に反して巽は至極冷静だった。ニコリとするわけでもないが特別険悪なムードもない。怒鳴り散らすまでは行かずとも口論くらいにはなると思ったのだが。そのまま巽はお邪魔しました、と玄関先で頭を下げて帰って行った。これは俺の考えすぎだったんだろうか。
「ふん、まったく弱いくせにああやって。バッカじゃないの!」
 ただ、小南には何かがわかっているようだった。置いていかれてるのは俺だけなのか。それを察したのか小南は言葉を続ける。
「あいつ、あたしたちが規則を破ってるってうるさいの! いや、別にうるさくはないんだけど……とりあえず前に噛みついてきたのよね。ま、どうせあたしに勝てない負け犬の遠吠えよ!」
 そうなのか、と言えばそうなのよ、と返される。その日は特にそれ以上追求することもなく時は過ぎていった。

「翔太郎の信条? ああ、規則を守ること。これだけです」
 数日後、本部に用があって行ったついでに俺は一ノ瀬隊の作戦室を訪ねていた。そこには都合よく一ノ瀬しかいなくて、先日の小南の話を聞かせると納得したような顔で一ノ瀬は話す。
「その規則ってのはなんなんだ?」
「そのままの意味ですよ。すべての規則、ルールというものです。それを遵守する。そのためなら翔太郎は自分の心すら殺せますから」
 あたかもそれが普通であるかのように一ノ瀬は衝撃的なことを話す。心を殺す? 十五の子供がか? そう問いかけても一ノ瀬はそうですよ、と微笑むのみ。そうだ、この男は俺たちの置かれたこの状況を誰よりも深刻に受け止めている。一ノ瀬は俺たちが近界民やトリオン兵と戦うことを戦争と捉えていると聞いたことがある。こいつにとって、そうやって戦争の兵士になることを選んだ人間は心を殺せてもおかしくないと考えているんだろう。
「平坂さんは翔太郎のことが心配ですか?」
「まあ、そりゃな。十五歳の子供が心を殺すなんてあっていい話じゃないだろ」
 一ノ瀬はなんとも言えない複雑そうな顔をした。
「俺には、残念ながらそこら辺のことがわからないので。俺の口から翔太郎のことはいくらでも語れるけれど、それでは意味がないと思いますし。よかったら平坂さんから聞いてやってください」
 あなたなら、翔太郎の心の鎖を外せるかもしれない。
 意味深な言葉だ。一ノ瀬との問答は疲れる。自分も飄々としている自覚あるが、こいつほど掴めないやつもそういないだろう。礼を言って部屋を出る。基地の外に出ると、もう日が沈み始めていた。

 次の日、本部の俺のラボに巽を呼んだ。ただ話がしたいとだけ言ったので来ないかと思ったが素直に巽はやって来た。とりあえず座るように促して咳払いをひとつ。
「お前の話が聞きたいんだ」
 きょとんとした顔で巽は首を傾げる。一ノ瀬から言われたことを話してやれば少し眉を下げて巽は口を開く。
「規則や規律は守らねばならない。それは俺の経験則です。規則は俺たちを守るために存在します。それを破っていいことなんて、ひとつもない」
 その目には決意の灯火が宿っていた。巽の心の鎖、それは一体何なのか。俺はそれを見ることができるのか。
「……何があったのか、聞かせてくれないか?」
 躊躇いがちに問えば巽は頷く。特に隠すこともないですから、と言った。そうして話されたのは、およそ中学生が背負うべきではない悲しい話だ。ボーダーには巽以上の酷い目にあった人間は大勢いる。しかし、だからといって他のつらさが緩和されるのかといえばまったくそんなことはない。巽は話の最後をこう締め括った。
「でも仕方がないことなんです。俺は止められなかった。あの人たちは規則を破って罰を受けた。そこに俺の感情が入り込む隙はないんですから」
 巽翔太郎の心には、二本の鎖が絡まっている。その鎖は心を締めつけ、殺す。重荷は巽の羽をもいで地べたに叩きつける。巽はそれを苦とも思わず、当然の責務として受け入れる。異常だ。
「話してくれてありがとうな」
「いえ、大丈夫ですよ。いつかは話さないとなと思っていましたし」
 少し微笑んだ巽の頭を思わず抱き寄せた。慌てる素振りを見せる。なんて悲しい顔をするんだ。こんな子供に、こんな顔をさせる世界に恨みをぶつけてやりたくなった。そんなことできないとわかっていても。心を乱さないのは大人だからじゃない。心を動かさないものなど人ではない!
「もう泣いていいんだ」
「!」
「もう泣いていいんだよ、巽。誰もお前のことを責めてなんかない。お前のせいじゃない。規則を破るのは悪いことだ。そうだとも。でも破ったのはお前じゃない。そうだろ? だから、他人のせいでお前の心を殺すな。なあ、巽」
 本当は寂しくて悲しかったんだろう?
「、ぅ、うう、」
 少しずつ巽が嗚咽を漏らした。まるで初めて涙を流したかのようなたどたどしく遠慮がちな泣き方は、俺のラボに静かに響く。ほんの僅かに俺の服を掴む小さな手を、俺は強く握っていた。


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