神の目
八重堂の棚に、初めてルリの童話が並んだ日。彼女はそれを声高に誇ることもなく、ただ静かにその日を迎えた。
八重堂の近くまで足を運んだルリは、柱の陰に身をひそめ、店頭の様子を窺った。書架の一角。見慣れた原稿用紙の束ではない、丁寧に仕立てられた装丁の本が数冊、ひっそりと陳列されていた。
「本当に置いてもらえてる……」
そう呟いた後、彼女はしばらくの間その場を離れることができなかった。
それからというもの、ルリは日課のように八重堂の前を通りかかるようになった。少し離れた場所から店の様子を覗き見しては、本を手に取った者の表情を追っていた。彼女は、決して本の売れた数を気にしていたわけではない。世評や数字ではなく、誰かの心が自身の物語を通して動いたかどうか。それだけが、彼女にとって何よりの関心事だった。
「黒田さん。私の本を手に取ってくれた人はどんな顔をしてた?」
八重堂に足繁く通うようになったルリの口からは毎日のように同じ問いが零れた。けれどどれだけ黒田に尋ねようと、明確な答えが返ってくることはなかった。
ある日、ルリは書き終えたばかりの原稿を両腕に抱えて、鳴神大社に続く石畳を上っていた。境内に足を踏み入れると、まるでルリの来訪を予見していたかのように、八重神子が社の奥から姿を現した。神子はルリが抱える原稿に視線を落とすと、目元を柔らかく綻ばせた。
「汝に手紙が届いておるぞ」
そう言って差し出されたのは、一通の封筒だった。ルリは驚きに目を瞬かせながら、そっと手紙を受け取る。封筒には端正な筆致で「ルリ様へ」と記されていた。それは八重堂に届いた、読者からのお便りだった。
『読んでいるうちに心が温かくなっていって、知らないうちに忘れていた優しい気持ちを、もう一度思い出せた気がしたの。ありがとう。』
手紙に綴られていたのは、華美な賞賛ではない。ほんの数行の短い文章。それでも、読み手の心から発せられた真摯な想いがそこには確かに存在していた。
胸の奥で、温かい何かがふわりと浮かび上がる。それは、単なる安堵や喜びという言葉では言い表わせない、不思議な高揚感がルリの全身をゆっくりと満たしていく。
視線を上げたルリは、神子に向けて口を開いた。
「私……もっともっとたくさん物語を書きたいです」
かつて自分が童話に救われたように、物語にそっと背中を押されたように。今度は自分が、誰かの心を温かく照らすような、そんな物語をーーーその願いは胸の中で熱を帯び、便箋を握る手に自然と力が込められた。
その刹那、周囲の空気がふわりと揺れた。まるで桜の花びらがひらひらと宙を漂うように、淡くやさしい光が彼女のもとへ静かに舞い降りた。
キャラクター詳細
「娘に読み聞かせようとして手に取ったのが、ルリさんの童話でした。けれど読み進めるうちに、私の方が夢中になっていたんです。彼女の童話は可愛らしいだけじゃなくて、読み終えたあと世界が少しだけ優しく見えるような、そんな心地になるんです。きっとそれは、ルリさん自身がそういう優しさを大切にして生きているから。物語の中に彼女の想いが込められているから、それが読んだ人の心に届くんでしょうね。」
ーーーとある読者は、八重堂の黒田にそう語った。