THE STONE WORLD


泡の星空

お題▷▶龍水夢・おまかせ

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暗い海の底に何があるのかと問われれば、どう答えるのが正解なのかは私にはよく分からないけれど……ただ一つはっきりしているのは、ここは人間の生きられない美しい世界。けれど人間が生まれた場所でもある。はるか昔、三千七百年なんてちっぽけに感じるくらいずっと昔に、私たち人間の祖先が生まれた場所。多くの命が生きて、死んだ場所。

彼が愛する場所。

そこで死ねるなら本望?いえいえ、そんなことを考える余裕なんて微塵もあらず、私はただ全身を打ち付けられた強烈な痛みに打ちひしがれていた。あっという間に身を包み込んでいくとても冷たい塩水。冷感が遅れてやってくる。痛みを告げようとした口の中と、呼吸をしようとした鼻の中に、容赦なく注ぎ込まれていくとても冷たい塩水。息苦しさが遅れてやってくる。

「……が……っ」

ついさっきまで視界いっぱいに広がっていた眩いほどの星空は、いつの間にか泡沫の星空に切り替わっていた。私の口から吐き出されたたくさんの細かい泡。構成物質二酸化炭素の大小様々な星たちは、ゆらゆらと揺らめいてまっすぐ上へと進んでいく。と、同時に私の体はまっすぐ下へと落ちていく。
たくさんの命が死んだ場所。ここで今、また一人の人間がそのひとつになりつつある。

強い風が吹いたのだ。そういえば、船長が声に出して「くれぐれも物を飛ばさんようにな」と前もって注意勧告をしていたっけ。別に大嵐が来ていたわけではない。物が飛ぶくらいの風は海の上じゃ日常茶飯事だ。だから、物が飛ぶ程度の、海の上じゃ普通だけど一般的に言うなれば強い部類に入る風……その風が吹いた時、甲板に出ていた数人は、現代社会じゃお目にかかれなかった美しい星空を眺めていた。私もその内の一人。
彼、七海龍水も隣にいた。

「なんだ、そこにいたのか」

船長はただの一瞬、操舵室から顔を覗かせただけだった。たまたま扉の近くにいた私のことを見つけた彼は、いつも通りのきらきらした笑顔で名前を呼んでくれた。相変わらず太陽のように眩しい笑顔だ。朝昼晩いつでも輝いているその笑顔で私の頭を撫でようとしたその瞬間、まるでそれを邪魔するかのようにとても強い風が吹いた。

「あ」

彼のトレードマークとも言える船乗りの帽子が飛んだ。風に乗って自由に空へと舞い上がる。自分で注意勧告を出していたのに、自分でやらかすなんて彼らしくないことだ。龍水が帽子を飛ばしているところなんて初めて見たかもしれない。彼が自分の大切な持ち物を手放すことなんてそうそうない。珍しいからこそ、私は驚くと同時に冷静さを失ったのだろう。
今、手を伸ばしたら間に合いそうだ。それだけを考えた私はすぐに帽子に向かって走り出した。もっと他に考えるべきことがあったろうに。既にもう船の外に飛び出していた帽子に向かって、何故か私は一生懸命に走り、甲板を蹴り、ハードル走のように膝を曲げ、手すりの上に乗り――帽子を掴んだ時には私も同じように海の上へ投げ出されていた。

これは彼の大切な帽子。だから海の藻屑になったらとても悲しい。しかしよく考えたら帽子を掴んだところで私の体ごと海に沈んだら意味がないな。そんなことを直感した私は、それを甲板の方にぶん投げた。その行動があったから、私の体はあろうことか海面に背を向けて、……落ちた。
ビル何階か分の高さから真っ逆さまに墜落していく。受け身を取ることもできず、この夜空のどこかを流れる流星のように光り輝くこともできず、ただ落ちた。大きな音を立てながら海面を突き破る。帽子、誰かきちんと受け取ってくれただろうか。それどころではない私は頭の片隅でそれだけを思う。
そういえば、視界が泡の星空に切り替わる直前、私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。船乗りの声が。

「ナマエ……!」



全身が痛い。これはまるで、中学の時の体育で体操の授業をしていた時、倒立のバランスを崩してマットに背中を打ち付けた時と同じ。あの内臓がやられたとハッキリ分かる身が凍えるような感覚は、もう二度とゴメンだと思っていたけど、こんな時にまた経験することになるなんて。
マットか海面かの違い。マットに手を付いていた距離から落ちたのと、海面からビル何階分かの高さから落ちたのかの違い。しかも今回は着地場所が水のため当たり前のように呼吸が出来ず、ろくに身動きも取れない。ああ、ここはなんて冷たい地獄だろう!痛いと苦しいのダブルパンチ。ちなみに私は泳げない。
もう駄目だ。死ぬだけだ。でも私が船長の帽子を助けた武勇伝は、ここから幾年かは語り継がれることだろう。誇らしいな。そんな走馬灯のような、あるかも分からない未来の妄想を脳裏に浮かべていたその時、鼓膜を海水に塞がれていたはずなのにとても大きな音がした。

そう、海水の中にいたからこその大きな音。塩水が目に染みるからとっくに目を閉じてしまっていたが、目に見えなくても何かが海の中に落ちた音だということはなんとなく分かった。
それは私の手を引いて、凄まじい力で海面まで引っ張りあげてくれた。ほとんど意識を無くしかけていた私の体を包み込んで、次の瞬間聞こえた怒号にその正体を悟る。

「こんの馬鹿者!突然何を考えている!船から飛び降りるなんぞただの自殺行為だということが分からん貴様ではないだろう!」

龍水だ。
龍水、怒ってる。龍水が助けてくれたんだ。もしも私を助けに来てくれる人物がいるとしたら、それは龍水だと思ってた。予想通りだった。嬉しい。でもごめん、今はそんな場合じゃない。呼吸をしなきゃ。肺の中に溜まってしまった海水を全部吐き出してしまわなきゃ。

「おおい!テメーら無事かよ!」

船長様も救助が優先だということは当然のように分かっているので、とりあえずの叱咤はそこまでにして、上から聞こえてきたクロムくんの焦ったような大声に冷静に返事をした。

大きく咳き込む私をしっかりと支える彼の体はとってもたくましくて、もう沈む心配は無さそうだ。心の底から安心感に包まれる。太平洋を横断していたペルセウスは落し物をしたところですぐに立ち止まるわけもなく、私たちの真横をどんどん通り過ぎていく。救助はいつになるだろうか。……早く船に船長を返してあげないと。
そっちの方が楽だからと、真正面から抱き寄せられた私の体。龍水の手が水を吸い込んだ服越しに優しく背中を撫でてくれる。優しい彼は厳しくもあるから、

「ご、ごめんなさい。つい体が動いて……龍水の大切な帽子、と、取りに行かなきゃって思って……」

と、言い訳をすることになるのだろうな、上に引き上げられたら。彼は私がどんな言い訳をしても船長の立場からとことん私を叱りつけると思うが、それは船員である私を心配してのことだ。たしかに今回馬鹿をやったのは、突然吹いた強い風と、文字通り体を投げ打って船から飛び出した愚かな私。

「この俺が船長である限り、この船で人死には断固として許さん。だが貴様は……」

申し訳ないことをした。思慮が浅かった。お陰で彼にも冷たい思いをさせてしまった。

「己の命をなんだと思っている?ただの被り物ひとつが貴様のその尊い命を奪っていい理由になるわけが無いだろう。ち――」
「ちがわない……」

いつもの口癖で尋ねられるより前に返事をしたら、彼はもっともっと強く抱き締めてくれた。額同士をコツンと合わせ、本当に分かっているか?とでも言うようにじっと私を見つめてくるから、ますますいたたまれない気持ちになってくる。ごめんなさい、ちゃんと謝るから。
でも龍水の帽子を助けられたことだけはまったく後悔していないから、心の中で喜ぶことだけは許してほしいかな。え?もちろん反省してるしてる、安心して。

「とにもかくにも、貴様が無事で良かった」
「うん……」
「説教は船に戻って落ち着いてからだ。今夜は寝させん、覚悟を決めろ」
「ふふ、龍水のえっち……」
「キサマ」

しまった、失言した。頭が働かなくて。

「はっはー!貴様はまるで反省する気配が見られんな!良いだろう、この俺がたっぷりこらしめてやる」

突然笑い出したかと思えば、すぐに空気が切り替わって真剣と安堵の混ざる瞳に見つめられた。

「だから……もう二度とあのような危険を冒すな。次は無いぞ」

船乗りである彼のことは、よく分かっているつもりだ。彼がこうして真剣になるのは、海は魚のみならず人間もよく死ぬ場所だから。
そんな海で死にかけた私は海で生きる人間に生かされた。少なからず私の寿命をいくらか縮めたこの冷たい海のことが今の一瞬で嫌いになりかけたけど、……そんなことがどうでも良くなるくらい彼の腕の中は温かかった。
そりゃそうだ、龍水は太陽のような人だから。温かくて当然だ。泡みたいに一瞬で消えて無くならない、私の大好きな星だから。



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