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何億年ぶりに彼の寝顔を見た。
長時間の厳しい稽古でいくらへとへとに疲れ切っていても、氷月は他人が見ているところではほんの少しでも気を緩めることはない。それが元来の性格でもあるし、幼少期から続けている武道で鍛えられた精神力の賜物だ。
だから、本当の彼を知るのは彼しかいない。私だって一人でいる時は信じられないくらいぐうたらな生活を送っているけど、母でさえこの実態は知らないはずだ。たぶん。真の私は私だけが知っている。氷月のもそれと同じ。こんなこと言ったら、あなたと一緒にしないでくださいって言われそうだけど。
そんな彼の寝顔を数億年ぶりに見た。大学での講義を終えてやっとこさ帰宅したら、私がいつもゲームをやりながら寝落ちている備え付けのソファーで、彼がぐっすりと眠りこけている。肘掛に頭を乗せ、細い胴体の上で腕を組み、ながーい足を端からはみ出させながらぐうすか寝息を立てている。
「……」
ぐうすかではない。とても静かに寝息を立てている。そこだけは彼らしい。
参考書とノートが詰め込まれたバッグを抱き抱えながら、しばらく呆然とした。
まず、ここは私の家である。大学に通うために家を出て一人暮らしを始めた私の1K。私の城。ぐうたらだから、一人暮らしは順調かと言われたらそうでもないけど、それでも今日までなんとかして一人暮らしを続けてきた。つまり、私は彼と同棲しているわけではない。何度か招いたことはあるけど、忙しい彼はその日のうちに帰ることがほとんどだ。
もちろん合鍵を渡しているわけでもない。実家から引っ越す時、初めての一人暮らしを心配した母が「合鍵氷ちゃんに渡しておいたら?あんたのセコムなんだし」と言っていたのをそのまま彼に伝えたら、普通に「要りません」と言われたのを私はきちんと憶えている。地味にショックを受けた。
そして最後。散らかっているのがデフォルトなはずのこの部屋が、高級ホテルみたいに綺麗にされているという事実。今朝食べた机の上のカップラーメンも、脱ぎっぱなしにしていた服も、ゴミ箱から外れて床に落ちていたティッシュなんかも、全部ぜーんぶ片付けられている。ホコリひとつ見当たらない。引っ越し当日の景色みたい。
とりあえず……彼に見られて恥ずかしいものは置いてなかったはず。たぶん。まあ実はこれまでに数回ほどこういう経験があるから、あんまり驚いてはいないんだけど。
彼がどうやって家に入ったのか分からないけど、親切にも片付けをしてくれて、その後なんやかんやあって眠ってしまったのだろう。なんやかんやって何よ。そのなんやかんやがすごく気になってしまうな。これはとても珍しい。せっかくだから彼の寝顔を近くで見てみたいと思った。
……なのに、私がソファーに近づいた頃には彼の目蓋はしっかりと開かれていた。
「なーんだ起きてるんじゃん」
がっかりしながらソファーの前に座り込む。物音一つ立てずにいつの間にか目を覚ましていた彼は、野生動物みたいに寝起きが良いのは相変わらずで、むくりと起き上がった。私とは大違い。
「氷ちゃん、おはよ」
「……おはようございます」
普段は隠れている口元が小さく動いた。そんな礼儀正しい挨拶を返されてすぐ、時計を探すような動作をするから私の口から今の時刻を伝えてあげる。
「今はね、夕方の5時だよ」
「……そうですか」
寝起きだからかほんの少し返事が遅い。瞬きも遅い。声が微妙に掠れているし、服に皺が寄っている。
いつもと少し違う氷月を目に焼き付けるように観察しながら、彼が伸びをしたり首を左右に倒したりしている横に腰掛けた。
「ねえ、どうやって家に入ったの?」
気になることはたくさんあるけど、やっぱりこれが一番重要な疑問だ。母お墨付きのセコム自身が不法侵入をしているようでは、なんというかおかしな話だ。
「それより、名前をなんとかしてください」
「名前?」
「呼び名のことです」
ああ、そういえば。氷ちゃんって呼ばれるのいつも居心地悪そうにしていたっけ。久しぶりにこんな呼び方したから忘れてた。
「って、それよりじゃないよ。私合鍵渡してないよね?まさかいつの間にお母さんから受け取ってた?」
「ああ、いえ」
じゃなかったから、私の知らないうちに鍵を盗みとって合鍵を作ったということ……?氷月やば。なんて思っていたら、ただ私の防犯意識がやばいだけだった。
「開いていました」
「なるほどぉ」
「なるほどじゃありません。全く、どこまでもだらしない人ですね……鍵が開いているだけで死罪に匹敵するというのに、扉を開けた先に地獄のような景色が広がっていた時の私の気持ちを君は想像できますか?」
なんかいきなり饒舌になった。
「ちゃんとしてください」
「あはは」
「……なんですかその気色の悪い笑顔は」
「私、氷ちゃんにそうやって注意されるの好きなの。だからこんなにぐうたらしちゃうのかもね」
軽蔑するような目を向けられた。色々と言いたそうに口を動かしているが、言いたいことが多すぎて何も言えないみたいだ。
「いいですか。その寒気のする渾名を正す気が無いのなら今すぐに息の根を止めますよ」
彼はまず、呼び方を指摘することにしたらしい。その大きくて角張った手がするりと首に伸び、喉仏を押さえつけた。さらさらの前髪の隙間から降りてくる鋭い目線。これはずっと前から思ってることなんだけど、彼は本当にさつじんきみたいな目をするのが得意だなあ。
「ごめんね、氷月」
「分かればいいのです。加えて日頃の生活を悔い改め、反省してくれれば――」
「ねえねえ」
「なんですか。人の話を遮らないでください」
「私、今日氷月と一緒に寝たいな。寝顔見たら小さい時のこと色々思い出しちゃってさ。だから今日は泊まっていきなよ!」
今度はすごく睨まれた。
「なあに?その顔」
「……君と会話をしていると目眩がします」
「それは寝起きだからじゃない?」
「……」
氷月はそれ以降は口を開かなくなった。何を言っても無駄だと判断したらしい。賢い判断だ。
優しくて親切な彼は、私のインスタントまみれの食生活をどうにかしたいらしく、なんと驚いたことにキッチンに立った。当然のように買い出しは私の仕事で、言いつけられた食材を近くのスーパーで調達してくると、彼は「よくできましたね」と褒めてくれた。はじめてのおつかいじゃないんだから。
「ねえ、さっきの話なあなあになっちゃったけど、今日一緒に寝ないの?昔みたいに雑魚寝でさあ、……あ、でもこの部屋シングルベッドしかないや」
職人のような手つきで野菜を切る氷月と、フライパンを乱雑にかき混ぜる私。口が暇だからさっきの話を蒸し返したら、氷月はやっぱり呆れたような口調で返事をする。
「正気ですか」
「正気だよ!」
「そんなに眠りたいのなら、棺の中で眠りますか」
「え?氷月と一緒に?」
「違 い ま す」
彼は何故かいつも私をころしたがる。そんな発言が多いのだ。死罪とか、息の根を止めるとか、棺とか……氷月は死神か何かかな?お似合いだね。
「はあ、確かに殺意はあるのに、それを実行する気になれないのは何故でしょうね」
「ええ、わかんないなぁ」
「ここぞとばかりに頭の悪い反応をするのはやめていただけませんか?とても不快なので」
分かる分かる。分かるよ。だから包丁をそんなに上に掲げないでください。
「法律があるから、でしょ?塀の中に入るのが嫌なんでしょ」
この世界には人間を葬ってはいけないという法律があるから、さつじんは『ちゃんとしていない』行動と定義されている。
前科を持つ人間はちゃんとしていない。それが世間一般の認識。そして常識。警察にバレるバレないは置いておき……彼もきっとそんなことを考えている。違う?
「それもありますが」
突然、氷月が振り返った。そればかりかどんどんこちらに顔を近づけてくる。思わずかき混ぜる手を止めて、ドクンと波を打つ心臓を押さえた。だからあのね、氷月さん、一旦包丁を置こうね。
「もっと他に大きな理由がありますよ。その出来の悪い脳味噌で一生懸命考えてみてくださいね」
淡白な抑揚でそんなことを言う彼の口元は、心做しか薄らと微笑んでいるように見えた。それが気のせいだと思えるくらい、すぐに彼は表情を戻して作業に戻ってしまった。
私もフライパンを混ぜる手を再開させる。ぱちぱちと音を立てる油の音を聞きながら、氷月が私を殺す気になれない理由を安直に考えた。
「えーっと、私が死ぬのが嫌だから?」
「……」
「だって氷月、実は私のことすっごい大好きだもんね。ね?」
好きじゃないと、こんなに親切にしてくれるはずがないもん。何度も殺害予告をしておきながら、本当は私のことが好きだからころしたくないんでしょ。照れちゃうなあ。
でも彼は肯定も否定もしなかった。代わりにさつじんきみたいなことを言い出した。
「君にはどんな死に様が似合うかを考えるのが楽しいのです」
「氷月こわい」
「それなのに、一向に答えが見つからない。これがどういう意味か分かりますか?」
また新しい質問きた。多くの選択肢から選ぶのが楽しいから?お菓子を選ぶ時の子供みたいに。そう答えたら、彼は「いいえ」と言いながらまた笑った。