お題▷▶ゼノの科学に対する苦悩を受け入れる話。
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「君は気楽でいいな」
何気なく投げかけられたその言葉が妙に重たくて、ズシンと心にのしかかった。
ゼノはいつも笑っている。世界のことならなんでも知っていると言わんばかりに、楽しそうに色々なことを教えてくれる。時に鬱陶しくも感じる彼の熱弁は、聞いていてとても心地がいい。ゼノが見ている世界を私にも共有してくれていることが何よりも嬉しい。
でも、いい事ばかりではない。彼はなんでも知っているからこそ、見たくない部分まで見えているようだ。それは地球の美しい青を台無しにしてしまう強烈な汚濁。欲にまみれた人間たちが、この世を動かしている事実。彼の生業とする科学の発展が、そこでせき止められている。
「ゼノは頑張っていると思うよ」
今日も今日とてパソコンの前で愚痴を垂れているゼノを、なんとか励ましたくてそんな言葉を投げかけた。私は口下手だから、変に飾ったりせずに本心で思っていることをそのまま。ゼノは科学に逞しく取り組んでいる。明るい未来を目指して日々務めている。その辺の会社で適当に仕事を片付けている私とは大違い。
過去、たまたま知り合っただけの一般人だけど、偉大なことを成し遂げているゼノと親しくなれてとても嬉しいし誇らしい。……それをまず伝えればいいのに、頑張っているだなんて物凄く在り来りな言葉だったなと、言った後に少し後悔してしまった。
直後、彼の苦しそうな笑顔を見て心の底から今の発言を後悔した。
「……ご、ごめんなさい」
「気楽そうでいいな」という彼の返答があまりにも重く鋭く、鉛玉のように胸中を貫いていった。
気楽そうに見えただろうか。……私の何かが気に障ってしまっただろうか。そんなつもりは微塵もなかったけど、気を悪くしたのならごめんね、と言いかけた私の口は彼の胸板に押し付けられた。急に立ち上がったゼノが私を抱き締めたのだ。
「すまない、すまなかった、今のは無しだ。
……ああ、僕としたことが」
とっさの抱擁になんとか踏みとどまりながら瞬きを繰り返す。背中に回された腕は普段より随分と力が入っていて、そのままずるずると上半身が下がっていったかと思えば、ゼノは私の肩にぐりぐりと額を押し付けてきた。
ええっと、これは……。彼の行動に驚いている間にも、「すまない」と小さく絞り出すような謝罪の声が聞こえてくる。今のはどうやら彼にとって本意ではない発言だったようだ。脳味噌を介さずに口から勝手に出てきた言葉。
だからこそ、本心なのだろうと思う。
「謝らないで、私が悪かったから」
「いいや、それは違う。今のは完全に僕に非がある。君の厚意を蔑ろにした……許されざる行為だ」
顔を上げたゼノは恐ろしく疲弊した顔をしていて、目は虚ろ、その下のクマは普段よりも色濃い気がする。これはいけない、相当参っているようだ。慌てて彼の身ぐるみを剥がしてベッドに連行した。いつもなら抵抗するゼノが今日はとんでもなく大人しい。私が一人だけで眠りに落ちることも多いベッドで、今日のゼノはぐったりと横たわって静かに目を閉じていた。
彼がこんなにも思い詰めている間、私は何をしていたんだろう。何もしていなかった。挙句彼の悲鳴を、心の叫びを、ろくに聞いてあげもせずに、また言ってると聞き流すことの方が多かった。愚かな私の存在が彼を苦しめる原因にもなっていたのかもしれないと思うと、やり切れない気持ちに包まれて悲壮感でいっぱいになる。
ゼノの隣に寝そべって、無責任にも涙を流した。彼の言葉に気付かされたのだ。私は何も出来ない無力な人間。もうとっくに寝ているものだと思っていたのに、その直後に目の前の目蓋が開いたものだから、急いでシーツに顔を押し付けた。するとこちらに伸びてくる手が私の体を引き寄せて、大切に大切に抱きしめてくれた。背中を撫でる彼の手つきが信じられないほど優しくて、より一層心の中が嫌な色に塗りつぶされる。違うだろ、どうして私が慰められているんだ。
「……本当にすまない」
「もういいから謝らないで、お願い」
体に巻き付く彼の腕を取り払い、今度は私が大切に大切に抱きしめた。こんなことで何かが変わるわけでもない。けどこうせずにはいられない。彼が少しでも安心できるように、私にできることならなんでもするから。
「ナマエ、頼みがあるんだ」
「……なに?」
「僕を甘やかしてくれないか。……今は何も考えたくない」
ゼノの苦しみをせめて半分私が預かることができたなら。そうすれば、それだけで少しは楽になると思うから。
そんな何の解決にもならない解決案は到底口に出すこともできず、私はただ彼を強く抱きしめながら心の中で無責任にも『より良い世界』を祈るだけだった。