+++
教員と廊下ですれ違う時は元気に挨拶をしなければならない。それがこの学園における礼儀を学ぶための習慣である。
「ごきげんよう」
言うまでもないことだが、彼との関係は他の人に知られる訳にはいかない。いち教師と生徒がそういう関係にあるという事実が発覚しただけで、即退学案件だ。それだけは必ず阻止しなければ。私は決してお母さまやお父さまの期待を裏切るようなことにはしたくないし、そればかりか大好きな先生にただならぬ迷惑をかけることになる。
だから、私はいつも味気ない挨拶を心がける。いくら駆け寄りたい気持ちに襲われても、清楚におしとやかに笑うだけ。
「ああ、ごきげんよう」
今日も廊下ですれ違ったゼノ先生にいつも通りの挨拶をすると、その直後に背後から名前を呼ばれた。
「そうだ、待ってくれ。君に伝えたいことが」
何かを思い出したような声で呼び止められた私は、くるりと体を回転させて「いかがなさいましたか?」と返事をする。彼は私が所属する吹奏楽部の顧問であり、この学園の音楽の先生でもあり、……そしてもう一人の音楽の先生と親しい友人関係にある。
今日の部活の用事だろうか。それとも来週の実技テストの件で何か?対教師の笑顔を崩さないまま答えを待っていると、ゼノ先生も同じように微笑みながらこちらに歩み寄ってきた。
「そろそろ音楽室の花が萎れてしまいそうだから、今夜水をやりにおいで」
そして、見慣れた懐中時計を渡された。
「ついでにこれを。あの花にはこのアクセサリーがよく似合う」
「アクセサリーにしては……この時計はかなり大きいと思いますが」
それに彼はこれをただの実用時計としか思っていないようだし。
「それはともかく、世話好きの君が現れたらきっと花も喜ぶだろう。部活終わりになるべく早く向かってやれ」
「そうですね。合奏が早く終われば」
「おお!その点については問題ない。僕の愛弟子は僕にだけは厳しいところがあるから、どうせ時間通りに終わらせるさ」
自分の扱いをよく分かっている。
「では僕はこれで」
「わざわざありがとうございました、ゼノ先生。放課後また合奏室で」
今一度挨拶を交わし、私たちはそれぞれの方向に足を動かした。
ゼノ先生は彼と同じ大学出身という関係にとどまらず、幼少期から仲の良い幼馴染というくくりに分類されるらしい。当然私はこの学園からの知り合いなので、実際に彼らがどこまで親しいのかはよく分かっていないけど……ゼノ先生は知っている。
何故か、私たちの関係を知っている。
知っていながら学園側に通告しない。そればかりかこうして愛瀬のお手伝いまでする始末。ゼノ先生のことはよく分からない。でも彼は「ゼノはそういう奴だかんな」とあまり気にしていない様子だ。稀有な人。世界にはもっと不思議な人がたくさんいるのかもしれない。私が無知なだけだろうか。