安室さん見てるとカステラ食べたくなるんですよねえ、なんて呟きを、彼は律儀に覚えていてくれた。
とある昼下がり、場所は喫茶ポアロ。どうぞ、の一言と共に目の前に置かれたカステラをまずは観察。梔子(なでしこ)色の生地、褐色に焼けた上部に、まぶされたザラメ糖。あまりの出来栄えに既製品かと思ったけれど、彼の表情を見るにおそらく、いや百パーセント手作り。本格的ですね、なんて呟けば「律さんに食べてもらうのに、中途半端なものを出すわけにはいきませんから。」どうやら高く買ってもらえている、らしい。
銀のフォークを構え、ザラメ糖に当たらない位置を模索する。ちょうどいい所を見つけたら、フォークの側面をぐっと生地に押しつける。手応えあり。思わず口角が上がった。適度な反発を感じながらさらに圧を加えていく。程よくしっとりした生地が押しつぶされる、その微かな音を楽しみながら最下層にたどり着くと、最後にぐんと一押し。そしてフォークを軽く左右に動かし、カステラをしっかり切り分ける。フォークに背を向けられていた方のカステラがゆっくり元の形に戻ろうとしているのを見て、これから口内に迎え入れるそれにも期待が高まった。
ああ、このスイーツひとつで、まるで子供のように心が躍る。
およそ半分の大きさになったそれを更に半分に切り分け、ようやく口の中へと招き入れる。生地に刺したフォークごと両の唇で挟み込めば、ふわり、口腔を満たすかぐわしい香りにうっとりと目を閉じた。シンプルな材料ゆえに、より一層砂糖本来の甘みが強調されたその芳香が鼻腔をくすぐる。舌の上にのせた生地を、上顎を使いながらゆっくり潰す。一気に体積が減ったそれを咀嚼するたびに、更に甘い匂いで満たされていく気がした。少々名残惜しくも飲み込み、目の前で今か今かと感想を待つ安室さんに素直な賞賛の言葉をかける。
「お見事」
完璧な弧を描き細まる瞳と恐縮です、という言の葉の裏に"安室透"ではない誰かが垣間見えた。おや?と思った瞬間、唇に柔らかい感触。しっとりしたそれはすぐに離れ、ゆっくり元の位置に戻った安室さんは何故か苦笑い。
「甘すぎませんか」
指摘されぺろりと舐めた自分の唇は、確かに甘く感じた。けれどそれは、果たして誰のせいだろう。空調が効いているはずの店内が、急に暑く感じられた。頬と耳に血が集まっていく感覚がする。見られまいと咄嗟に下を向いた先に、口をつけていないカステラがあった。鎮座する金と褐色のコントラストに目の前の彼を結びつけてしまい、そしてそのまま先程の触れ合いを思い出してしまい、余計に恥ずかしくなる。
カステラからすれば理不尽極まりないであろう恨みも込めて少し乱暴にフォークで串刺しにしてやれば、ふと脳裏にとある作戦が浮かんだ。我ながらあまりに幼稚な作戦だが、まあ一矢報いることができればいいやと開き直り、なるべく不自然にならないよう実行に移す。
「私はこの味好きですよ。安室さんもどうですか」
彼は人から貰う食べ物を滅多に口にしない。手作りなんて以ての外だし、常連さんの旅行土産で個包装のお菓子なんかを貰っても、悩むふりをして最後まで口をつけない。理由は知らないが、きっとそう躾けられてきたのだと思っている。
では自分で作ったものはどうなのだろうか。人からのものは口にできなくても、流石に自分で作ったものは食べるはずだ。その確認、というか検証のためにも、彼に向かって串刺しになったカステラを向ける。
一瞬逡巡する気配を見せたが、すぐに困ったように眉を下げて「ではいただきます」と呟いた。フォークを受け取ろうと右手が伸びてくるが、ずいとカステラを突きつけることでその行動が不正解であることを示す。ピタリと不自然に止まった右腕、困惑顔の彼。
しかしそれも束の間、察しのいい安室さんはどこか恥ずかしそうに笑い、「失礼します」と言って突き出されたそれに顔を近づける。少し屈んだせいで落ちてくる横髪を右手で抑え、伏し目がちに静かに口を開く。ぱくり。安室さんの口の中にカステラが消えたのを確認してフォークを引き抜き、間髪入れずにぐいと自分の顔を彼の端正なそれに近づける。唇に再び感じる柔らかいもの。今度は私から離れれば、安室さんはその蒼が零れ落ちそうなほど両目を見開いて口元を手の甲で抑えていた。珍しく、本気で驚いた顔だ。席に座りなおしながら、私はきっと悪戯っ子のような笑みを浮かべていたのだろう。
「安室さんこそ、甘すぎませんか」
悔しそうに寄った眉、口元を抑えた手では隠しきれていない頬の赤さが、その証拠だ。