初恋曰く

まちがつた角をまがつた瞬間の、ほんのすこしは絶望だつた




7歳の時に好きな人ができた。
隣の席の名前ちゃん。
優しくて、いつも笑って僕に話しかけてくれる。

少し前に音楽の授業で先生から、好きな歌を調べてどんなところが好きなのかを2人組で発表しなさいと言う課題を与えられた。
僕は隣の席の名前ちゃんと一緒に組んで課題をすることになったんだけど、流行りの歌なんてちっとも知らなくて。どうしたらいいのかわからない僕に名前ちゃんは「大丈夫だよ」って家にあるCDをたくさん持ってきてくれた。CDと併せて放課後に公園に重そうなラジカセまで持ってきてくれて、僕は名前ちゃんとベンチに座って聞いたことのない歌を2人で何曲も聴いた。その中から2人でこの曲がいいねって言い合って「大きな目標を叶えるために大切な人と別れることを選んだ」物語の曲を選ぶ。何回も曲を聴いて、歌詞をノートに書き取って、ここが好きだねって笑いあった。

「名前ちゃんはこの人の夢は叶ったと思う?」
「思うよ。叶って、もう一度好きな人に会いに行ったんだよ」

でも僕らが選んだ曲はやっぱりちょっと時代遅れだったみたいで、発表した時にみんなに笑われてしまった。先生はよく調べたねって褒めてくれたけど。
笑うクラスメイトに名前ちゃんは「私が選んだ歌を笑わないでよ」って困ったように笑いながらそう言って、そう言う名前ちゃんが優しかったからみんなまた笑っていた。
曲は2人で選んだのに、僕が悪目立ちしないようにそう言って矢面に立ってくれたあの子。
そういう優しさを好きになった。

本当は知っているんだ。
家の都合で休みがちな僕をクラスメイトたちだけじゃなくて先生たちも一線引いたところから見てるって。先生たちは言わないけれど僕の家が普通じゃないことを察しているみたいだから、関わりたくないって思ってることも知ってる。
けど、その中で名前ちゃんだけは本当に僕のことをただの友達だと思ってくれていることも、知っているんだ。

組分けで余りがちな僕に名前ちゃんだけは「一緒に組んでくれる?」って声をかけてくれる。隣の席になった時に「よろしくね」って笑ってくれる。そういう普通の、当たり前の、ただそれだけの優しさが僕にとってどれだけ尊いものだったのか、彼女はきっと知らないんだろう。

「憲紀くん、一緒に発表してくれてありがとう」

そう言って向けてくれるその笑顔が、僕はとても嬉しかったから、この初恋を絶対に殺さなくてはならないと決心した。


僕は6歳の時に加茂家の嫡男として迎え入れられて、その代わりに母様と無理やり引き離された。この家は意地悪だ。優しい母様をいつも虐めていた。けれどこの家の中により深く入って、ようやくわかってきたことがある。

母様だけじゃ無い。
この家は、女の人に優しくない。

使用人も側仕の人も加茂家の人も、女の人は大抵暗い顔をしていつも何かから隠れるみたいにひっそりと屋敷の中で生きている。時折、ひと気のない部屋で女の人がこっそりと啜り泣いているのを僕は知っている。
おかしい。この家はおかしい。
だって小学校にいる女の先生も女の子たちもあんな暗い顔して過ごしてない。登下校の時に見かける女の人たち、誰も泣いていないよ。普通の世界では女の人がこんなに苦しそうにしてない。陽の光から逃れるように暮らしてなんかいないんだよ。

ここがおかしいのは、きっとここが加茂家だからだ。
この家は暗い。この家は寒い。この家は、怖い。加茂家に関わると女の人はみんな不幸になってしまうんだ。
だから、優しい名前ちゃんもこのまま僕と一緒にいたら不幸になるに決まってる。

でも大丈夫。来週には席替えがある。次の学年に上がったらクラス替えがある。離れ離れになったらきっと名前ちゃんと関わることも少なくなる。少し寂しいけれどあの子が無事なほうが大切だから大丈夫。

僕は名前ちゃんが優しくしてくれたこととか、笑ってくれたこととかそういう幸せな思い出を心の中の大切な箱に入れて、大事に取っておくことにした。
その思い出と母様との思い出があれば、加茂家での辛い術式の訓練も恐ろしい呪霊退治もなにもかも怖くない気がしたから。頑張れる気がしたから。だからもう、名前ちゃんには関わらない。そうすることにした。


そう、決意したのに。


僕は目を見開いて、それを見た。
「憲紀くん、風邪大丈夫?」
「ありがとねぇ、名前ちゃん。憲紀、彼女プリント届けに来てくれはったんやって」
にこにこと笑う名前ちゃんと、馴れ馴れしく彼女の肩に手を置く大嫌いな女が並んで僕の部屋にやってきた。

僕の嫌いな猫撫で声。優しいふりをした意地悪。
僕が大嫌いな人で、僕を大嫌いな人。
現当主の正妻。母様を虐め続けた人。

その日、表向きは風邪で、本当は昨日の呪霊退治で怪我をして学校を休んだ僕へプリントを届けに、名前ちゃんが屋敷に来てしまっていた。普段なら非術師を屋敷になんて入れないくせに、大嫌いな正妻はわざわざ名前ちゃんを迎え入れて僕の部屋まで連れてきた。

どうしてそんなことをしたのか、なんて分かりきっている。
僕への嫌がらせだ。僕が、学校の友達をここに関わらせたくないと知っていてこんなことをしているんだ。

本当は「お前なんかが名前ちゃんに触るな」って叫んでやりたかった。でもそんなことをしたら此処が異常な場所だって、名前ちゃんにバレてしまうから、布団から半身起き上がらせたまま、グッと堪えて拳を握る。

「憲紀は体が弱くてなぁ、学校休みがちなんやけどこれからも仲良うしたげてくれる?」
「はい、もちろんです」
そう言って正妻に笑いかける名前ちゃん。違う、そんな奴に名前ちゃんが笑いかける価値なんてないのに。
ねっとりと詰るように僕へ冷たい目で笑いかけて、正妻は去っていく。去っていったのに、全然安心なんかできなくて僕は強ばった顔で名前ちゃんを見た。

ランドセルを下ろした名前ちゃんは、心配そうに僕を見ながら側に来てくれる。
「憲紀くん、まだ体調悪い?」
何も知らない優しい人。どうか、これからもずっと何も知らないままでいてほしい。怖い呪霊が君の元へ行かないように僕が戦うから、君を守るから。何も知らないでいて、傷つかないでいて、僕に関わらないで。

「大丈夫だよ、名前ちゃん。ありがとう」

こんな僕に優しくしてくれてありがとう。
僕が加茂家の嫡男にさせられなければ、普通の家に生まれて普通に生きていられたら、もっと普通に君のことを好きでいられたのかな。君がくれる優しさをこんな胸の痛みを感じずに受け止められたのかな。

学校で会ったときに「おはよう」って言ってくれるところが好き。休んだ次の日に学校に行ったときに「体は大丈夫?」って聞いてくれるところが好き。消しゴムを落としたときにすぐに拾ってくれるところが好き。手を貸したときに「ありがとう」って笑ってくれるところが好き。傘を忘れた雨の日に折り畳み傘を貸してくれたところが好き。
それが君にとってごく当たり前の、誰にでもする当然の行いだったとしても、僕にとってはこの大嫌いな世界を許せそうになるくらい嬉しいことだったから。

だから、君を帰すよ。普通の世界に君を帰す。本当は、本当は此処にいてほしい。辛いときに君が一緒にいてくれたらどんなにいいだろう。誰も僕の味方になってくれないこの屋敷せかいに、もしも君がいてくれたならどんなに幸福だろう。
でもそれは願ってはいけないことだ。
だって、この屋敷せかいで優しい人が幸せになれることはないから。

「ありがとう」
だからもう一度、心からの気持ちを伝える。

「だけど、風邪が移ったら困るから、」
名前ちゃんはもう帰ったほうがいいよって、言おうとした。言おうとしたんだ、僕は。

その時、少しだけ開いた障子の隙間から、どこから来たのか蠅頭が入り込んで僕の肩に留まった。それは道を歩いていればよくあることで、だから僕は放っておいた。

けれど、名前ちゃんはそれを視た・・
目の前にいる名前ちゃんは確かにそれを視ていたんだ。
視えない人には何も視えていないはずの僕の右肩をしっかりと視て、手を伸ばした。
そうしてそっと蠅頭を掌で払う。払われた蠅頭は重たげにごろりと畳の上に落ちたと思うとすぐに潰れて消え失せた。

それを僕は顔を名前ちゃんに向けたまま、視界の端で視ていた。驚いた顔をする僕に気が付いたんだろう、名前ちゃんは「急にごめんね、肩に糸くずがついてたから」と微笑む。けど、僕が驚いたのは肩に触れられたことじゃなくて、彼女が慣れた手つきで蠅頭を祓ったことにだった。

今のは呪力だった。
それどころか、さっきのは術式だった。
……名前ちゃんだ。名前ちゃんは普通の家の人なのに、術式を持って生まれてしまった人なんだ。術式が使える人なんだ。

それから僕はあることに気がついてゾッとする。
噴き上がる冷や汗が体から体温を奪っていく。肉体を苛む後悔と恐怖と絶望。

どうして、ここに蠅頭がいたんだろう。
だって、この屋敷に蠅頭が入り込めるわけがない・・・・・んだ。

この屋敷は一級呪霊でさえも壊せない結界で囲まれている。神域レベルに強化された結界に四級呪霊以下の蠅頭程度が入り込めるわけがない。

では、どうしてこの蠅頭はここにいたのか。

誰かが意図的にこの部屋に入れたんだ。
名前ちゃんが呪霊を見える人かを確かめるために。術式を持っているか、確認するために。

誰が?なんて、問う必要もない。
あの冷たい視線とねっとりとした猫撫で声が思い出される。

……正妻だ。あの女がそうしたんだ。

「憲紀くん、大丈夫?顔色が悪いよ」
心配そうにこちらを見る優しい名前ちゃん。きっと僕には蠅頭が見えないと思って、肩に糸くずが、なんて嘘をついてくれたんだろう。
名前ちゃんにはずっと呪霊が見えていたんだ。それが良くないものだって知っていたんだ。
だから、僕のために祓ってくれたんだ。

どうしよう。どうしよう、どうしよう。
僕だ。僕のせいだ。もっと早くに帰していればよかった。蠅頭を放って置かずにさっさと自分で祓えばよかった。どうしよう。名前ちゃんが見える人だってバレてしまった。術式があるって知られてしまった。きっと悪いことが起こる。名前ちゃんまで不幸になる。

「……ごめん。まだ、少し、体調が悪いみたい。名前ちゃんも、もう帰ったほうがいいよ」
「あっ、そうだよね。体辛いのにごめんね。プリント、机に置いておくから」
無理しないでねって、笑うあの子に罪悪感だけが募る。「玄関まで見送る」って言う僕に「だめだよ、休まなきゃ」って優しく言ってくれた。違うのに。嘘なのに。
ランドセルを背負ってバイバイって手を振るあの子に手を振りかえして、泣きそうになる。遠ざかっていく足音、帰っていくあの子。大丈夫なのかな、本当にちゃんと帰れるのかな。どうしよう。どうしたらいいんだろう。だれか助けて、あの子を助けてって言いたくて、それを誰に言ったらいいのかわからなくて泣きそうだった。だってこの屋敷では誰も僕の味方になんてなってくれないから。

この屋敷には敵しかいないから。

「可愛ぇ子やったねぇ、名前ちゃん」
大嫌いな猫撫で声。いつからそこにいたのか、開かれた障子の向こう、冷たい廊下からこちらを見つめる女がいた。思わず彼女をぐっと睨めば「あら、こわいこわい」とちっとも怖くなさそうな顔でそんなことを言って嗤う。

「驚いたわぁ、あの子、術式持ってはるんやねぇ」
「……彼女は関係ありません。一般の人です」
「せやねぇ、うちもそう思うとるけど、ほら、この界隈はいっつも人手不足やろ?独学であんなに上手に術式使える子いるって知られたら五条も禪院も欲しがってまうやろねえ」
……最低だ。最低、最低!最低!
なんて最低で合理的なんだろう。こうやって僕に嫌がらせをしながら、優秀な術師を自家に引き込もうとするなんて。

「名前ちゃん、他のおうちに持ってかれて手酷く扱われるより、仲のええ憲紀のいる加茂家で引き取ったほうが幸せなんと違う?」
ふざけるな、そんなわけがない。この家ではみんな不幸にしかなれないんだ。だからあの子はこんな怖いところに来ちゃいけない。……なのに、でももうバレてしまったから、きっとあの子は絶対に逃げられない。こんな最低な家に存在が知られてしまったから。
……ああ、けれど、きっとそれは加茂だけじゃなくて、五条でも禪院でも同じことなんだろう。呪術師の家なんてどこだって最低で碌でもないんだ。


(だったら、僕があの子をそばで守っていたほうがマシなんじゃないか?)


瞬間、そう思った己の思考を恥じる。やめろ、違う。名前ちゃんは、優しいあの子はこんなところに来ていい子じゃない。ダメだ、嫌だ。嫌だ、嫌なのに、でも、

(優しいあの子がそばにいてくれたらどんなに幸せだろう)

馬鹿なことを考えるな。ここに来たら彼女は何も頼るものが無いんだ。どこにも助けを呼べないんだ。

(そうしたら僕だけを頼ってくれる。僕だけに助けを求めてくれる)

違う!そんなこと考えてない!考えたらいけないのに!
青褪める僕に女は嗤った。

「あの子と仲良うしときぃや」
女は狐みたいに嗤って、僕が大切に殺すはずだった初恋を望まない形で滅茶苦茶にしてしまった。


優しく笑った顔が大好きだった。
何も知らないところで幸せになっていて欲しかった。

全部ほんとうの気持ち。
でも、こう思っていたのもほんとうなんだ。

離れていかないで。優しくするくらいならひとりにしないで。全部どうだっていいから僕のそばにいてよ、って。



名前ちゃんが、苗字名前が生家への経済的支援と引き換えに加茂家に引き取られたのは翌年のことだった。







ほんたうは 欲しいものには手を触れず終はりから見る余生とか嫌




「苗字、お前、好みの男のタイプはなんだ」

そう問われたので「うーん、やもめ……いや、物腰穏やかで公家顔の未亡人じみた影のある人かな。性別と年齢は問わない」と言ったら、葵くんに真顔で「ほう……面白い」と返された。
言っても笑わないでよとは言ったものの、だからといって真顔でそう返されてもちょっと困る。
同じ任務でお世話になった14歳、同い年の葵くん。お尻が大きくて身長の高い女の子がタイプの葵くん。好みのタイプを教えたところ、急に苗字ではなくバディと呼び出してめちゃくちゃ世話を焼いてくれたのは謎だった。

子犬バディ、お前は近接戦が雑魚だ。俺ならお前をワンパンで倒せる」
「葵くんなら大抵の生物はワンパンで倒せると思うよ」
「安心しろ、子犬バディもいずれそうなる。それだけのポテンシャルはあるからな。まず戦闘時にとりあえずで右側から攻めるのはやめろ。これまで子犬バディが感覚だけで戦ってきた証拠だ。今はそれで良くても今後強大な敵と戦う時に何もできなくなるぞ。相手の弱点、立ち位置、常に何故己がその行動を取るのかを考えろ。無意識下で戦うのはその後だ」
「わっ、急にすごい的確な指導……。ああ、ありがとう。今後はその場のノリで戦うのやめてみる」
「ああ、そうしてくれ。戦いの愉しさに目覚めた時、お前はさらに成長する」
「目覚めるかはわかんないけど。……いや、っていうかなんで急にバディ呼び?」
子犬バディだからな」
「おっ、急に話が通じなくなるぞ、この子」

術師というのは割と面白人間コンテストじみているところもあるのだが、葵くんはその中でもトップクラスの面白さを誇る人間なので交流すると楽しい。同じ非術師家庭出身なのに、非術師トークでは一切盛り上がったことがないあたりに可笑しさを感じたいところだが、私も彼も現在の術師としての生活が楽しいので過去は振り返らないのだ。結局会うたびに好みのタイプの話と戦闘の話しかしてない。まったく、葵くんと違って私は戦闘狂ではないというのに。


お世話になっている加茂家の屋敷に帰った私が、今日のことを憲紀に報告したら、よしよしと頭を撫でられながら「今日の任務もよく頑張ったね。東堂にはもう二度と近づかないように」と言われた。合同任務があるから二度と近づかないってのは無理かな………。





「お前が噂の憲紀の許嫁か?」

開口一番そう問われた時にピンときた。これが噂のキャットファイトか。アンタ憲紀のなんなのよ!みたいなやつ。だから思わずファイティングポーズで「はじめまして!はい!そうです!」と元気に答えたところ、「お前も大変だな……」といたく同情的な目で見られた。何故?
そんな彼女が後のマイフレンド、真希ちゃんである。

「それで?お前は憲紀のことをどう思ってんだ」
「超すごいめっちゃ好き」
「おっと、聞いてた話と違うな」
「聞いてた話とは一体」
「パンピー出身の優秀な術師を子供のうちから金積んで買って育てて無理やり婚約者にしたって噂」
「うーん、悪意ある切り取られ方」
「なんだ、それも違うのか」
場合によっちゃあ家出る力になってやっても良いって思ってたんだけどな、と真希ちゃんはそう言ってくれたがすべては杞憂である。
苗字名前、15歳。来年からは花の高専生。術師見習いとして加茂家にお世話になる前から小学校で同じクラスだった憲紀にとっくに初恋を奪われているのである。そんな彼とはいつしかお家公認の婚約関係。ドリームカムトゥルーとはこのことよね。なんかちょっと違う気がする。

「っていうかその話って誰から聞いたの?」
「憲紀」
おっと?身内に背後から刺された。
えっ、憲紀的には私は「加茂家に金で買われて無理やり自分と結婚させられる可哀想な女の子」なの?やめてくれ、同情で抱かないで欲しい。まあ、まだ抱かれていないが。それはそれとして抱いて欲しいとは思っている。私は憲紀が恋愛的に好きなので。

「なるほどな。おい、名前。お前、今すぐ憲紀に愛を伝えてこい」
話はそれからだ、と真希ちゃんさん様がそう言うので私もそれしか無いなと思って花屋に駆け込んだ。
頼む、店主!今すぐ薔薇の花束を作ってくれ!と言いかけたが、待って、薔薇ってめちゃくちゃ高いんですね。値札を見て冷静になる。ちょっ、ちょっと待ってね、こちとら庶民出身だからさ……。

花屋をウロウロしているうちに店員さんに声をかけられて結局「好きな人に告白するので花束を作ってください!あっ、予算これくらいで」とお願いすることになった。何故か私より店員さんのほうが気合いっぱいに「告白ですか!任せてください!花は全てを解決します!」と頑張ってくれた。この世界はなんて優しいのだろう。


そんなわけで花束を抱えて加茂家の屋敷に帰ったところ、玄関で憲紀と鉢合わせ。
「……名前、どうしたんだその花束は。誰からもらったのか私に教えてくれるかな?」
と笑顔なのに何故かキレ気味の憲紀の前に片膝をついて、「憲紀のためだけに買った。好きだ、ずっと」と伝えたところどうしてか泣かせてしまった。
ち、ちがう、泣かないで。こ、こんなはずではなかったのに。助けてくれ、花、全てを解決してくれ。






「苗字先輩が加茂家に金で買われたって話、本当ですか?」

このガセネタって世界中に蔓延してんの?
任務で組んだ二つ年下の恵くんにそんなことを聞かれたので「それガセだよ」と伝えると彼はちょっと安堵したような顔をした。無愛想な子だったからビビってたけど良い人じゃん……。

「死んだ父が残した借金を肩代わりしてもらう代わりに加茂家に属する術師として育ててもらっただけだよ」
「……それを金で買われたと言うんじゃないですか?」
「……えっと、加茂家から衣食住に実家への経済的支援、さらには術式の訓練や任務の斡旋をしてもらっているだけのこと」
「を、一般的には金で買われたと言います」
人の所属の変化に金銭が関わっているのならそれは買収と呼んで問題ないかと思います、とピシッと言われてしまい、私としては、なるほど、そういう考え方もあるのかも……といったところだ。

私が何も言えなくなると恵くんは安堵の目線が一変、同情的な目でこちらを見てきた。もしかしたら彼も似たような経験があるのかもしれない。そう思うとちょっぴり仲間意識が生ま、生まれ、生まれないな……別に……。

「加茂家に引き取られて術師になって、辛くありませんか」
「えっ、全然。人生超楽しい」
術師天職だなーって思うし、好きな子と同じ屋根の下で暮らせるのってすごいぞ。うまく言えないけどすごい。私は人生の大半を憲紀への恋心とともに生きているので、今のこの生活以外への適応ができそうにない。

というか、もしかして術師になるのって一般的にはあんまり楽しいことじゃないのかな。知り合いの非術師家庭出身の術師が葵くんしかいないからわかんない。彼も私と同じで術師エンジョイ勢だからなあ。

「恵くんは辛いの?」
聞き返すと彼はなんだか苦々しい顔をした。その顔を見て聞かない方が良かったのかなと思ったけれど、吐き出した言葉は戻ってこない。覆水盆に返らず、だ。
「別に辛いと思っているわけじゃありません。でも貴方みたいに割り切れてもいないんです」
「それは別に良いんじゃないの?私は楽しいとしか思えないからそう答えるしかないけど、気持ちが割り切れないって思うのも恵くんの本心でしょ」
こう思ってなきゃいけない、なんてことはない。どんな理由だって戦う理由になるし、理由がなきゃ戦えない訳でもない。そもそも、理由どうこうを考えるより先に私たちは戦うために走り出さなきゃならないのだから。

「そう、でしょうか」
「そう思うよ、私はね。君はそう思わなくても良いし、同じ考えでも良い」
「自由ですね」
「本質的に人間は自由なんだよ」
「人間とかではなく苗字先輩が自由すぎるだけかと」
「なにおう」
でも恵くんがちょっと笑ったから、まあいいやと思った。

「苗字先輩、来年から高専に入るんですよね」
「うん」
「京都校じゃなくて、東京校に来るってほんとですか」
「ほんとです」
「……俺、埼玉に住んでるんです。たまに稽古つけてくれませんか」
「いいよ」
そんなわけで後輩ができました。稽古つけるも何も恵くんも私も同じ級だしなんなら君の方が強いのでは?と思わなくもない。


そんなこんなで加茂家の屋敷に帰った私が今日のことを憲紀に報告したら何故か頭を抱えられた。
「名前」
「うん?」
「確かに加茂家は名前のご実家に金銭的援助をしているけどもそれは君の術師としての才能と献身への謝意であって…………」
「うん?憲紀、どうしたの?」
「…………名前、君は、ここに来て本当に幸せかい?」
「もちろん。憲紀と一緒に暮らして、術師として過ごして私は毎日幸せだよ」

だからそんな泣きそうな顔をしないで欲しい。






「加茂家の悪ぅい話、いっぱい教えてあげようか?」

東京校へ入学前のご挨拶に伺ったら学長さんより先に応接室に五条悟さんがやってきて、わきわきと指を握ったり手を開いたりしながら私にそんなことを言った。
目の前の彼はとても意地悪な顔をしている。私の周りにはいなかったタイプの意地悪さんだなと気がついて、どうしようかなと考える。

「名前、君が加茂家から五条悟に取り入るようにと命じられて東京校に来たことはもう知ってるよ」
彼は何でもないふうににっこりと笑った。事実、彼にとっては何でもないことなのだろう。
「そして当然君のこともよく知ってる。加茂家は金で君を買って自家に属する術師として取り込んだ。恩義を理由に君を自由にこき使うつもりみたいだけど、君はそれでいいのかな?こういっちゃあなんだけど、加茂家は碌でもないところだよ」
五条家の人間が言うのも何だけどね!とケラケラ笑う彼に私は「はあ……」と言う他なかった。めっちゃ喋るなこの人。葵くんとは別ベクトルで話がし辛い人だ。

「えっと、」
「でもすごいねー!あの加茂家が非術師家出身の術師を嫡男の許嫁にするなんて、血筋第一主義の老人たちにも変化の波が来たのか、それとも君の術式がそんなに優秀なのかな?」
「あの、」
「真希や恵からも話は聞いてたけど面白いね、君。ところで憲紀との結婚についてはどう思ってるの?恋バナしよーよ!」
めんどくせぇなこいつ。ようやく彼が口を閉じたので今度は私が口を開く。

「仲良くもない人と恋バナはしません」
「仲良くなったら恋バナしてくれるの?」
「あなたとは仲良くなれません。そんな気がします」
「君の未来の先生だよ〜?」
「どんな立場の人間だろうと、好き嫌いは自分で決めますから」
突き離すようにそう言ったのに、五条悟はまったく気を害することなくニターッと愉快そうな笑い方をした。やな笑い方。私が嫌がっていることを楽しんでる人の顔だ。……学長さん早く来ないかな。
「学長ならまだ来ないよ。嘘のスケジュールを教えたからね」
「最低です」
「君と話がしたくてね」
「いや、全然話する気ないじゃないですか」
何回も話遮ってくるし。この時点で五条悟への好感度は地に落ちていた。具体的に言うと「恋バナしよーよ!」の時点で奈落の底である。自分の心の一番柔らかくて大切なところの話なんて、それを大切に扱ってくれない人には教えたくなどない。だから私は自分の初恋の話を真依ちゃんにしかしていないのだ。

「さて、話を戻そうか」
「めちゃくちゃにしたのは貴方ですけどね」
「名前、寝返らない?五条に」
「……は?」
私のツッコミを無視して、本気なのか冗談なのかわからない声音でそう問いかけられて息を呑む。虚をつかれるとはこのことだろうか。唐突な発言に言葉を失う。

「安心してよ、君の術師としての立場も君のご実家もちゃんと守る。加茂家に手出しはさせない。約束する」
「……一応聞きますが、貴方にとってのメリットは?」
「二重スパイってやつさ。君はあちらの情報を僕に持ってくる。君は嫡男の許嫁に選ばれる程度には内側に入り込んでる人間だ。そんな人の得た情報の価値は言うまでもないよね」
これも言うまでもないと思うけど、と彼は言葉を続ける。
「君が僕の側につくことで君は最強五条悟という後ろ盾を得る。もちろん加茂家以上の支援を約束するとも」

悪い条件じゃないと思うよ、と笑う男の目元はバイザーで隠されていてよくわからない。……本気か?このニヤケ面。恐らく半分冗談半分本気ってところなのだろう。上手くいったらラッキー程度の提案。
しかし事実、単純にこれから一術師として生きていくことだけを考えれば、私としても別に加茂家でなくてはならない理由はない。むしろ加茂家にバレずに五条の二重スパイができれば金銭的にも後ろ盾的にも単純に考えて2倍になり、これ以上ない利益が生まれるのは確か。ぶっちゃけそれは『アリ』だ。全然その提案を飲んでも良い。

……術師としてなら、だけど。

「面白い提案だとは思います」
「でしょ?」
「でも、すみません。私は術師である前に苗字名前という1人の女なんです」
かつて、術師としてではなくただの女の子として憲紀に手を差し伸べられたあの瞬間から、私はずっと彼へ恋をしている。それはいつしか私という人間を構成する核になり、この世界で生きる理由に成り果てた。
踏みしめられた土が道となるように、これはもう揺らがない。あなたには悪いけれど。

「好きなんです、加茂憲紀という人間が。何者にも変え難いほどに」
彼を思い出して、無意識に笑みが零れる。ずっと好きだ。術師になる前から、ただの子供だった時から、ずっと。その気持ちは今も変わらない。

「私は加茂家がどんな悪どいことをしてようが、憲紀が人をぶっ殺していようが、憲紀に裏切られて殺されようが、憲紀が私に何の情もなかろうが、そんなことはどうでもいいんです」
そんなことでは私の核は揺らがない。
だって、私が勝手に彼を好きなだけだから。私がどうしたいか、ただそれだけ。
恋をしたのは私。覚悟を決めたのは私。己の在り方を定めたのは私。憲紀に恋をすると決めたのは私。憲紀を愛すると決めたのは私。私は私の願いのためだけに生きている。だから外野が何をしようが、何を言おうが関係ない。

「私は憲紀を絶対に裏切らない。彼はいずれ加茂家の当主になる人です。つまり彼が加茂・・・・で、加茂が彼・・・・だ。だからこそ私は加茂家を絶対に裏切らない」
私のすべては彼に捧げられる。
だから貴方にくれてやれるものは何一つとしてない。
ただはっきりとそう言い切る。そうすれば五条悟はそれまで通りの笑った顔のまま、声をあげて笑った。

「あははっ、しちゃったね、僕と恋バナ」
「…………あっ、しまった……」
「うん、そういうイカれ方してるんだね、君も」
愛は呪いだね、と彼は笑う。
「こんな可愛い子に死ぬほど好かれてて憲紀には同情するよ」
と彼は言った。可愛いと言われたのに褒められた気がしないのは何故だろう。
「ああ、安心してよ。君が僕の提案を断ったところで君が東京校に入学できなくなるわけではないし、君の指導をしなくなるわけでもない。むしろ気に入ったよ。確固たる何かを持つ人ってのはさ、強くなれる」
「はあ、そうですか」
「えー、全然興味なさそー」
「はい、貴方にどう思われようと興味ないんで……」
「先に意地悪したのは僕だけどさ、素直すぎない?」
「なにをしとるんだ悟!!!」
ダッシュで駆け込んできた学長がその勢いのまま五条悟をラリアット。吹っ飛ばされた五条悟はガッシャーンとガラス窓に突っ込んでそのまま階下に落下していった。えっ、こわ……東京校こわ……。

「苗字、大丈夫か。悟に何かされていないか?」
「私が加茂家に大変なお世話になっていると知った上で五条家のスパイになれと権力を盾に迫ってきてとても怖かったです」
「悟!!!!!!!!!!!!!」


東京校って怖いなと思いながら、新幹線でびゅーんと帰宅。
お世話になっている加茂家の屋敷に帰った私が今日のことを憲紀に報告したら無言で空を仰がれた。

「……名前」
「どうしたの?」
「……いや、言いたいことはたくさんあるんだが」
「うん」
「立場上、とても信じてもらえないかもしれないが、私は本当に君のことを心から、あ、ぁ、愛し、………………」
「憲紀?」
「……すごく、大切に思っている」
「うん、わかってる。心配しなくても加茂家を裏切ったりなんかしないよ」
「そんな心配はしていない!」
「お、おお。声張れるんだな、憲紀」
「……君は本当に……」
呆れたような、それでいてどこか寂しそうな目をする憲紀になんだか申し訳ない気持ちになった。





「なんでアナタが知らないのよ?」

来週には私が高専東京校に行ってしまうので、憲紀と一緒に禪院さんちの双子ちゃんに挨拶に行ったら真依ちゃんに会った。真希ちゃんは不在らしい。残念。
憲紀は禪院の御当主に挨拶に行くというので私は真依ちゃんのお部屋でのんびりお喋りをすることにした。いくらなんでも流石に加茂家次期当主の許嫁程度の立ち位置の私が禪院現当主にお目にかかることはできないのだ。真依ちゃんと遊びながら憲紀の帰りを待つ。

「真依ちゃん、アイシャドウ新しいやつ?可愛いね」
「……なによ、化粧しか褒めないわけ?」
「嘘〜〜!真依ちゃんはその全てがいつも世界一可愛いよ〜!」
「相変わらず気持ち悪いわね、アナタ」
まあ、褒め言葉は受け取っておくわ、と小さく笑う真依ちゃんが可愛い。とても可愛い。とっても可愛い。

「来週には東京?それじゃあ寂しがるんじゃないの?」
「真依ちゃんが?」
「アナタがいなくなって私が寂しがるわけないでしょ。脳味噌にとけるチーズでも詰まってるの?むしろその能天気な顔見なくて済むようになるから清々するわよ」
この流れるような罵倒も東京行ったらなかなか聞けなくなっちゃうんだなと思ったら私は寂しい。なので素直に「私は真依ちゃんと会えなくなると寂しい」と伝えると彼女は頬を赤くしていた。可愛い。

「っ、!だから、私じゃなくて憲紀よ!あの男、アナタにぞっこんなんだから寂しくてならないでしょうね。ざまぁみさらせよ」
「えっ」
「……なによ」
「ぞっこんって誰が誰に?」
「誰にって、アナタは憲紀にぞっこんで、憲紀はアナタにぞっこんでしょ。何言わせんのよ、気持ち悪い」
「えっ、前者はともかく後者は知らん……こわ……」
「……は?」
「憲紀って私のこと好きなの?えっ、好きって友達としての好き?好きってなに?えっ?」
「なにもクソもないでしょ。あのムッツリ糸目、アナタのこと女として好きじゃない」
「えっ、嘘、なんで真依ちゃん知ってんの」
「見てれば嫌でもわかるわよ」
ここで真依ちゃんの冒頭のセリフが炸裂する。

「なんでアナタが知らないのよ?」
そう言われても……。

「だって好きとか言われたことないし……」
その瞬間、真依ちゃんの悲鳴じみた「はァ!?」という声が部屋に響いた。
「なッ、アンタたち許嫁でしょ!鴨川で等間隔に並んでなさいよ!」
「いや、ただの婚約関係であって恋人ではないよ。婚約も私は憲紀が好きだから嬉しかったけど、憲紀にとってはお家が決めた仕方ないことだったんじゃないの?」
「な訳ないでしょ!あの彼氏面男が!大体今日だってアンタが私に会いに来たのにあの男が着いてくるのも可笑しいのよ!」
「御当主への挨拶のためじゃない?」
「新年でもないのにそんなのいちいち必要なわけないでしょ!」
「じゃあなんで憲紀はついてきたの?真依ちゃんに会いたくて?」
「気ッ色悪いこと言わないでくれる!?アンタが出かけるからよ!あの男、ただ単にアンタと一緒にいたいだけよ!気持ち悪いわね!」

と、その時、真依ちゃんの部屋へノックの音。

「真依、名前。入ってもいいかな」
挨拶を終えたのだろう、憲紀の声だ。
「……ええ、いいわよ」
真依ちゃんが許可を出しながら、何故か太腿のホルスターからリボルバーを取り出した。なんで?
そして扉が開いた瞬間、迷いなく真依ちゃんが憲紀へ発砲する、のを、憲紀は半身ズラすことで避ける。
「……どういうつもりかな、真依」
「うっさいバカ間抜け阿呆雑魚負け犬オタンコナス朴念仁昼行燈ウドの大木唐変木薄鈍童貞女の敵最低最悪」
「……名前、真依はどうしてこんなに怒ってるんだ?」
「わ、わかんない……」
わかんないけど、うん、一応忘れないうちに聞いておこう、と思った。

「憲紀」
「なにかな、名前」
「憲紀は私のことが好きなの?」
そう言った瞬間、憲紀は穏やかな笑顔のまま固まった。

「…………」
「…………」
「…………」
「…………名前、急にどうした。真依に何か言われたのか」
「ホラ!アンタのそういうところよ!このムッツリ野郎!そうやって大事なことを大事な時にちゃんと口にしないから名前に何にも伝わってないのよ!」
ほんっと最低アンタ信じらんない二度と名前の婚約者を名乗らないでくれるもう私が貰うわよ!?と真依ちゃんはめちゃくそに憲紀を罵倒すると、私と憲紀をまとめて部屋から追い出した。
「真依ちゃ、」
何か言う前に目の前でバタン!と叩きつけるように閉じられる扉。

「…………」
「…………」
追い出された2人、顔を見合わせる。
「……帰ろうか、憲紀」
「………………………ああ、そうだな」
表情筋が複雑骨折したみたいな顔で憲紀がうなづく。うんうん、可愛い子に急に怒られてびっくりしたよねえ。






「寂しくなる」

見送りのために駅まで来てくれた憲紀はそう言って柔らかく微笑んだ。
京都駅から新幹線で約2時間半。高度に発達した文明の利器はあっという間に私を東京に連れて行ってしまうから、車内で寂しがる時間は無さそうだ。

とうとうこの日がやってきて、私は京都を離れて東京で高専生となる。たまの休みに時間を見つけて合わせる他に憲紀と会う手段はない。今までのように、当たり前に「おはよう」「おやすみ」と言い合える距離ではなくなるのだ。寂しいとか悲しいよりも、そんな生活に慣れることができるのか不安で、新幹線のホーム、隣に立つ憲紀を見上げた。
「不安かい?」
「……うん。そうみたい。自分でも驚いているけど」
「慣れ親しんだ場所を離れるんだ。当然の感情だよ」
場所、ではなくて、人なのだけれど。それを伝えるか迷って、不意に真依ちゃんの言葉を思い出す。大事な時に大事なことを伝えないと、ってやつ。確かにそうだよなあ、真依ちゃんは良いことを言う。

「憲紀」
「ああ」
「私が不安なのは京都を離れるからじゃなくて、憲紀と離れるからなんだ」
多分、単純な場所の話だけならば、私は何処ででも生きていけると思う。山小屋だろうが座敷牢だろうが関係なくやっていける自信がある。
けれど、
「ずっと一緒だったから。憲紀がいない生活なんて想像がつかないな」
そう、呟く。

ガラス張りのホーム。吹き込む風は冬の風で酷く冷たい。私が乗る予定の新幹線の時間までまだ10分ほどある。憲紀は寒くないだろうか。

「名前」
名前を呼ばれる。こうしてすぐ隣で名前を呼んでもらえなくなるのだ。それはすごく寂しい。
「先週、真依に酷く怒られたろう」
「怒られたね」
思い出して、ふたり、少し笑う。
「だから私も反省したんだ」
君に伝えなくてはならないことがある、と、私の背より少し高いところから伝わる、穏やかでしかし女には出せない低い声。それが私の鼓膜を揺らして、言葉を、感情を伝えてくる。

「私は、君に術師などなってほしくなかった」
ぽつり、と唐突にそう吐き出された声は冗談にするには硬い声だった。
驚いて、彼の顔を見上げる。何かを言おうとして、けれど彼のその強張った表情に何も言えなくなる。

「君にはもっと普通の、穏やかな幸せを享受して欲しかったんだ。こんな残酷で悍ましい世界になんて、来てほしくなかった」
憲紀はそう言っていつもみたいに笑ってみせたけれど、どうしてかそれは酷く痛々しいものにしか見えなかった。

「……私のせいだ。君をこんな世界に引き込んでしまった私が君を好きになる資格なんてない」
「憲紀……」
「私は君に好きになってもらえるほど価値のある男じゃないんだ。卑怯で陰湿な、加茂家の男さ。君に好かれる権利なんて無いのに、君を逃してやることさえ出来ない」
隣に立つ憲紀に手を取られる。向き合って、私たちは互いを見た。憲紀は今にも泣きそうな顔をしていて、私はその時初めて彼がそんなふうに思いつめていたことを知る。

術師になってほしくなかった。
好かれる資格なんてない。
そんなふうに彼が思っていたなんて知らなかった。彼はずっとそう思っていたのだろうか。私が8歳で加茂家に引き取られてから7年間、ずっとそう思い続けていたのだろうか。

だとしたら、私はなんてことをしてしまったのだろうか。

思い出す。私が彼に好きだと伝えるたびに憲紀は泣きそうな顔をしていたし、いつだって苦しそうだった。
ようやく気がつく。
私が彼を追い詰めていたんだ。私をこの世界に引きずり込んだと思って罪悪感を抱える彼へ好意を伝えることが、自分勝手な恋慕を向けることが、ずっと彼を苦しめていたんだ。

青褪める私に憲紀は首を横に振る。
「ちがうよ、名前。嬉しかったんだ。君に好きだと言ってもらえる度に泣きたくなるくらい嬉しくて仕方なかった。すべてを許されたみたいに感じて、何の後ろめたさもなく君の隣に立てる気がして嬉しかったんだ」
憲紀は縋るように私の掌を取って、瞼を閉じる。

「私は君の人生を狂わせた張本人だ。許してなんて言えるはずもない」
それでも、と彼は続ける。

「名前、君を心から愛している」
泣きそうな顔で苦しそうに笑っていた。

「ずっと、君が加茂家に来るより前からずっと君が好きで、君を守りたかった。私の隣にいなくても、君が呪術なんてものとは関わりのない何処か遠くで幸せに生きていてくれたらそれでよかったんだ」
ごめんね、私のせいだ。私が君を好きになったから、君は見つかってしまった。ごめんなさい。好きになってごめん。守れなくてごめん。君を離せなくてごめん。君の幸せを願いながら、君が隣にいてくれることを悦んで、ごめんなさい。
吐き出される彼の言葉は軋みだった。矛盾する感情が擦れ合ってキイキイと音を立て、明確な言葉にする度に彼自身の心を追い詰めていく。

「それでも、君が好きなんだ」
言葉が零れる毎に、彼の瞳から涙が落ちた。
叱られた子供みたいにそう泣いて私に縋るから、私はやはり私が悪かったんだなあ、と思う。言葉が足りていなかった。好き、なんてただの言葉では足りていなかった、尽くせなかった。
だから、私は目の前の憲紀をぎゅうと抱きしめて笑った。強張り、肩を震わせるその体を強く、強く。

「憲紀」
名前を呼ぶ。何度も呼んだ名前を。きっと人生で一番呼んだ名前をもう一度呼ぶ。
「憲紀、気がつけなくてごめん。苦しませていてごめん」
「ちがう、謝るべきは君じゃ、」
「憲紀でもないよ」
抱きしめる腕に力を込める。背中に回した掌で私のものよりずっと大きな背を摩った。感情を伝えるのは言葉だけではないと知っていたから、気持ちが伝わるように優しくゆっくりと撫でる。

「謝らないで、憲紀。私たちどっちもお互いの謝罪なんか望んでないんだ。私たち、きっとほんの少しも傷つけあってなんか無いんだよ」
吹き抜ける風は肌を裂くように冷たいのに、抱きしめ合った体だけは暖かかった。もしも私たちを傷つけるものがあるとするならば、きっとこの冷たい風のように外側からやってくるものだけなのだろう。

「私は憲紀と出会ってからずっと幸せなんだ。君がそばにいてくれるだけで心地よくて、君が笑っているだけで嬉しかった」
憲紀という人が、その血が、存在が、温もりが、そのすべてが私を生かすことはあっても、殺すことはなかった。その事実だけが今この瞬間、此処で生きている私の存在によって証明される。
君が泣く必要なんてない。君が苦しむ必要なんてない。
だって私は、

「憲紀、君を心から愛している」

私は酷い女だから、今すごく嬉しいんだ。
君が私を好きでいてくれたことがこれまでの君を傷つけていたと知って尚、君に好かれていたことが嬉しくて堪らない。
なんて浅ましい女だろう。

「私の方が憲紀に好かれる資格がないかもしれないな」
「……なら、そんなこと関係なく私が勝手に君を好きでいることにするよ」
「いい考えだね。私もそうする」
戯れのような言葉を交わして、喉の奥で笑えば、憲紀はようやく私の背に手を回してくれた。そうしてぎゅうと抱きしめ返される。力強い腕はもうすっかり男の人のものになっていて、けれどこれからもっと大人の男性として成長していくんだろう。それを見ていたいと思う。そばにいたいと思う。これからもずっと。

「私は、君を好きでいていいだろうか」
「好きでいてほしい。そうだったらどれだけいいかと思って生きてきた」
「君と生きていたいと望んでいいだろうか」
「望んでほしい。私と一緒に生きて欲しい」

「名前」
好きな人に名前を呼ばれる。ただそれだけのことに感電したみたいに体は痺れて、体は焼けるような熱を抱く。
君だけだ。君の前でだけ、私はただの女の子になる。

「……私と、加茂家次代当主としてではなく、何者でもないただの私と、どうか結婚して欲しい」
穏やかな、何処か憑き物が落ちたような声が私の鼓膜を震わせた。その言葉への答えなんて私が初めて恋をした瞬間から決まっている。
だから私が答えた、その瞬間、ホームに滑り込んできた新幹線の音が辺り一帯の音を全て掻き消したけれど、憲紀が嬉しそうに笑って私を抱きしめたから、ああ、彼にはちゃんと届いたんだとわかって、それだけで安堵した。








「東京はどうだ?」
電話の向こうでそう問いかけてくる優しい憲紀の声に、私は今すぐにでもすぐに縋りつきたくなった。まだ東京に来て1ヶ月。私は何処ででも生きていけると思っていたのに、自分がこんなすぐに根を上げることになるなんて思いもしなかった。

「憲紀」
呼んだ声は意図せず濡れたものになっていて、わかりやすく助けを求めるような声音になってしまった。きっと彼にもそれが伝わってしまったのだろう、彼は電話口の向こうで驚いたように声を強張らせて私の名を呼ぶ。
「……名前、まさか何か辛いことでもあったのか」
「……憲紀、だめ、私もう東京でやってけない気がする」
私がそんなことを言うとは思わなかったのだろう、憲紀が息を呑む声が聞こえた。
「……理由を聞いてもいいかな」
鼻を啜ったら泣いているみたいな音が出て、不安がらせてしまうとわかっていても、今この瞬間は優しくされたかった。

「あのね、」
「うん」
「ウスターソースが無いの」
「…………ん?」
「近くのスーパー行ったらウスターソースが置いてないの。いくら探してもなくて、調べたらね、関東には無いんだって」
好物のコロッケにはウスターソースをかける派なのにこれからどうやって生きていけばいいんだろう。
「どうしよう……もう京都に帰りたいよ……」
「……名前、落ち着いて」
憲紀が困惑したような声で言葉を返してくる。

「スーパーにウスターソースが無いわけがない・・・・・。落ち着いてもう一度行ってみたらどうだろう。たまたま売り切れていただけかもしれないし、慣れないスーパーで場所がわからなかっただけかもしれない」
「でもソース売り場に、なんか、ブルドック?中濃ソース?みたいなのしかなかった……」
「まさか。それだけしか無いってことはないだろう?ほら、とんかつソースとか」
「無かった……」
「……えっ」
「どろソースも焼きそばソースもなかった」
「ちょっと待ってくれ、じゃあ東京の人間はとんかつ食べるときに何をかけるんだ」
「わかんないぃ……」

どうしたらいいのかわからずオロオロする私に憲紀はむしろ冷静になったらしく「……本当に無いのか。わかった。それじゃあ私がこっちからソースを送るよ」といつもの穏やかな声で私を落ち着かせてくれた。

「ありがとう……本当にありがとう……」
「いいよ、気にしないでくれ。食事は大切だからね」
「憲紀……好きだ……」
残る問題は憲紀が送ってくれたソースが届くまでどう生きていくべきかだけだ。あの中濃ソースとかいう謎の液体……買うしか……ないのか……。
そんなことを悶々と考えていると、ふと電話口の向こうで憲紀が何かを言いだけにモゴモゴしているのがわかった。

「ん、憲紀?なにかあった?」
「っ、あ、ああ、いや、その、だな……」
彼にしては珍しく歯切れが悪い。
「うん?」
「……私も、その、…………好きだ、君のことが」
瞬間、眩暈がした。
私の軽口のような「好き」という言葉にここまで真摯に向き合ってくれる誠実で物腰穏やかで公家顔の未亡人じみた影のある人が何処にいるだろうか。京都だ。は?なんで今私の隣にいないんだ?キレそう。

私は深く、深く息をついて、これまでの人生で吐いた言葉が全て虚構だったんじゃ無いかと思えるくらい本気でこう言った。

「あー、今すぐ京都に帰りてぇ……」




ーーーーーーー
挿入短歌は朽木祐「鴉と戦争」から引用。