青春曰く@

立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ





年に一回の遠足より毎日の給食の方が好きだった。

つまるところ、その程度の理由で私は高専最後の交流会初日とブッキングした任務を快く引き受けた。

がしかし、まさか帰ってきたら母校が特級呪霊と呪詛師にめちゃくちゃにされているとは思わなかった。
信じて送り出した後輩たちが特級呪霊にボコボコにされているなんて……。
任務終わりにのんびりケンタ寄ってないで真っ直ぐ帰ってくれば良かったな……と思ったけれど特級呪霊らが来て去ったのは私が任務中の間だったらしい。無力の極み。

「でもみんなが無事で良かったよ」
「名前さんも任務お疲れ」
「いや、嬉しいんですけど虎杖といい先輩といいなんでこんな消化悪いもん持ってくるんですか」
「高校生が何好きかわかんなくてとりあえずお肉買えば正解かなって思って……。恵くん、ケンタ好きだったよね?」
「親戚のおばちゃん?」
「魔女宅のニシンパイお婆ちゃん?」
「いや、まあ、好きですけど……」
一年の中で一番大怪我の恵くんを囲ってピザを食べる3人にお邪魔をさせていただいてる三年生というアウェイ感。帰り際に買ってきたチキンバーレルを差し入れたのだけど、脂っこすぎたようだ。初めて顔を合わせた一年生の男の子は元気に食べてくれているのだけれど。

「えーっと、それでこの人も先輩?」
「ああ、そっか、虎杖は名前さんに会ったこと無かったわね」
「うん。はじめまして、三年の苗字名前です」
「うっす、虎杖悠仁っす!おねしゃす!」
初対面にも関わらず人懐っこくニコッと笑ってくれるその顔に思わず「陽キャだ……」と呟けば、同意するように恵くんも野薔薇ちゃんもうんうんとうなづいてくれた。なるほど共通認識ね。
「よろしく、悠仁くん。困ったことがあったらいつでも相談してね。先輩だし、力になるよ」
「……名前さん。今、『虎杖』に対して『力になる』って言ったわよね」
「確かに『力になる』って言ったな、苗字先輩」
「えっ、なに?ジョジョ?怖い怖い。なんか私ダメなこと言った?」
悠仁くんと握手をした瞬間、野薔薇ちゃんと恵くんに囲まれる。ダメだ、逃げられない。いや、まず何故囲まれたのかがわからないのだけれど。

恵くんたちから聞くところによると悠仁くんはあの特級呪物『両面宿儺』の器らしく、なんと今日の交流会でも保守派の多い京都校生らに殺されかけたらしい。
「あー、私が言うのもなんだけど京都はやりそう……」
「でもさっきの発言で名前さんは東京校派確定よね」
「凄まじい速さで言質を取られてしまった……」
「なんか、すんません……」
困り眉をする悠仁くんに私はヒラヒラと手を振って、「大丈夫、大丈夫」と笑ってみせる。

「……あの、勝手に言質取っておいてこんなこと言うのもなんですけど、本当に大丈夫ですか?」
その、加茂家的に……と問いかけてくる恵くんの表情に、気を遣われていることを察して思わず苦笑する。

「加茂?加茂って、京都の三年にいた人?」
「名前さん、知り合いなの?」
「あー、んー、えーっとぉー、そのぉー」
この状況で「彼とは幼馴染で婚約者で恋人です」などと答えようものなら「加茂家の手下じゃねーか!殺せ!」と3対1でボコボコにされるかもしれない。
何故ならぶっちゃけ加茂家の手下みたいな立ち位置であることは事実なので。今回の悠仁くん襲撃には一切関わってないし、全部初耳だけど、加茂家の方々に殺してこいって言われたら殺さざるを得ないところは、まあ、あるんだよね……。ごめんね、薄情な先輩で……。

「もしかしてその加茂って人、名前さんの婚約者とか?」
「ギクーッ!」
「おっ、当たったみたいだな、釘崎」
「女の勘ってすげぇな」
「そこで言い淀むってことは私たちには言い辛い関係ってことでしょ。それに名前さんが真希さんと同じ京都出身で御三家と交流あるってことは前から聞いてたしね」
一発で大正解をぶち当ててくる野薔薇ちゃんにひえぇと喉から小さい悲鳴が生まれる。

「そうなったら分家の人間か婚約者の2択。で、当たっても外れても面白そうなほうを言っただけ」
「はわわわ」
「あの、先輩、俺のことは気にしないでいいんで……」
「何言ってんのよ、虎杖。とっとと泣き落としなさい。名前さんをこっちに引き入れるのよ」
「やめてやれよ……」
座っていた椅子から降りて地べたに土下座しようとするのを悠仁くんに慌てて止められる。べそべそする私の背中をさする優しい後輩……。
「隠すつもりも騙すつもりもなくてぇ……ほんとに……」
「大丈夫っす。先輩、俺はマジで大丈夫なんで」
「悠仁くんのことは本当に後輩としては現状めちゃくちゃ好感度がマックスなんだけど、家の事情でその、今後不快な思いをさせてしまう可能性がないとは言い切れなくてぇ……」
「それを言っちゃう時点でもう善良なんだよなぁ……」
「苗字先輩は変人だけど善人だぞ」
「見りゃわかるわ」
許された。

買ってきたチキンバーレルはあと3セットあって、ウチの二年生と、京都校と、それから先生たちへの差し入れだ。
まずは二年トリオのところに行ってくるか、と立ち上がり、私は一年生たちの輪から離れていった。

二年生たちのところに差し入れて、少し雑談。喉を痛めたばかりの棘くんにチキンとコーラは不味かっただろうか、と思ったが彼は元気に「ぢゅーーーー、ずろろろろ」とコーラを一気飲みしてくれていたから大丈夫だろう。手を振って彼らからも離れて、京都校の方へ向かう。

その途中の廊下で葵くんに会った。
子犬バディ!」
「久しぶり〜、葵くん」
出会い頭にぎゅっと友情のハグをされる。葵くんと私では身長差があるため、葵くんに真っ直ぐ立ったままハグされると自動的に足が浮いてしまうのだった。うーん、浮遊感。
本当は彼にハグをし返したかったが、右手にチキンバーレル、左手にチキンバーレルを持ったままなので出来なかった。
「まさか今日の団体戦に子犬バディがいないとは想定外だったが、聞いてくれ、子犬バディ!俺はついに超親友ブラザーを見つけた!」
そう言いながら、優しく地面に降ろされる。とてつもなく嬉しそうな葵くんのその言葉に私は驚いてしまった。

「えっ、葵くんと好きなタイプが一致して、葵くんに指図しなくて、ミュニケーション無しでも葵くんの術式と連携が取れるガッツリ近接戦闘型の術師なんているの!?」
「ああ、俺は運命と出会った……。いや、すでに出会っていたと言っても過言では無い」
「そっか……!正直何言ってるか全然よくわかんないけどおめでとう、葵くん!」
「ああ、感謝する、子犬バディ。だが、それによって俺とお前の絆が途切れるわけでは無いことは、……言うまでも無いな」
葵くんの言うブラザーとやらは近接戦闘型の術師らしい。恐らく呪具を扱う真希ちゃんは違うだろうし、可能性としてあり得るのはパンダくんか、期待の新人悠仁くんのどちらかだろう。
……なんとなく、悠仁くんな気がした。あの子、年上から好かれそうだし。

そこまで言って葵くんはふと私の頭に手を置いた。そうして、「ところで」と切り出す。
「今更言うまでもないが、子犬バディ、お前には見どころがある」
「えっ、ああ、ありがとう」
「趣味も悪くない。俺もタッパと尻のデカイ未亡人がいたら見惚れてしまうだろう」
「それもう未亡人関係なくない?ア?舐めんなよ、未亡人を」
「だが、お前の心に曇りがあってはその輝きも半減してしまうだろう」
「……葵くん」
「俺からお前に言いたいことは一つだけだ」
いつものように真っ直ぐに向けられる視線に、どうしてか今ばかりは少し怯む。彼はいつも何処か戯言じみた口調をするけれど、私は知っていた。
この人は人の本質をつく人なのだ、と。

「怯えるな。向き合え」
「……うん、ふたつだね」
それだけ言うと、葵くんはすれ違いざまに私の肩に手を置き、肩で風を切って東京校メンツのいる方へ向かって行った。

……どうしてこうも、わかられてしまうのだろう。
去っていく葵くんの背中を見つめながら、私はいつもより不安げに大きく鼓動する心臓を押さえた。



のたのた歩いてやってきた京都校の面々がいる部屋をノックする。と、真依ちゃんが出てきてくれた。東京校と同様にチキンバーレルをプレゼントフォーユーする。

「ケンタッキー?私、脂っこいもの嫌いなのよね」
「……ニシンパイ?」
「は?」
「あ、いや、なんでもない。ビスケットもあるけどいる?」
「よくわからないけどとりあえず寄越しなさい」
「はい、仰せのままに、お姫様」
瞬間、スパンと叩かれる。照れてるんだな〜ってことくらいはわかるのでニコニコしてしまう。真依ちゃんは可愛い。

「ところで名前、アナタ憲紀には会ったの?」
「いや、まだ」
「は?もしかして怪我のこと聞いてないの?」
「ううん、それは補助監督の方から聞いたけど」
「じゃあこんなところで油売ってないで会いに行きなさいよ」
「脂っこいケンタッキーだけに」
「やかましいわね」
茶化す私に真依ちゃんは溜息をついて、言うことを聞かない子供へそうするように「名前」と私の名前を呼んで、チキンバーレルを渡して空いた手を取る。

「いいから、さっさと会いに行ってきなさい」
「後で行くけど……」
「今すぐに、よ」
それからもう一度私の名前を呼んだ。ぎゅっと握られる掌から伝わる体温に、退路を塞がれる。
「傷つくのに慣れるのはダメよ。でも目逸らすのはもっとダメ」
真っ直ぐに見つめられて、心は怯む。現実と向き合わずにいた心の弱さに容易く気がつかれる。どうして彼女は、彼女たちは気がついてしまうのだろう。

真依ちゃんからの言葉に、流れるようについさっき葵くんに言われたばかりの言葉が思い出される。
「怯えるな。向き合え」と。
怯えて向き合えずにいる私へ、その言葉は繰り返されるように再度向けられる。

「ちゃんと憲紀と会って、向き合いなさい。私たちはいつ何があるかわからない世界で生きてるんだから」
優しいからこそ素っ気ない彼女が私に言ってくれる言葉はいつだって、正しかった。正しくて、優しかった。
それだけ言うと真依ちゃんは私が持ってきたチキンバーレルを両方とも部屋の中に持っていってしまう。

「…………あの、ごめん、真依ちゃん。それ片方は先生たちへの差し入れなんだけど」
「は?そういうことは先に言いなさいよ!全部私たちへの差し入れかと思ったじゃない!」
ああもう!わかったわよ!後で届けておくから、アンタはさっさと憲紀のところに行きなさい!と、廊下にぽんっと放り出される。

ぴしゃんと目の前で閉まる扉に既視感。
本当、私の周りには優しい人ばかりだ。

……さて、と、制服のスカートを軽く払って立ち上がる。
考えたことがないわけではない。
けれど、明確な答えを出せたこともない。

これはあくまでも、まだ起こってすらいない可能性と仮定の話なのだけれど。

もしも私より先に憲紀が×んでしまったら。

私は一体どうしたらいいのだろう。









恐る恐ると言った様子で医務室の扉を開き、静かに誰かが入ってくる音がした。その瞬間、憲紀はほとんど考えることもなく直感で「名前だな」と思った。

きゅ、きゅ、とゆっくりベッドのほうへ向かってくる靴音の方へに「名前?」と声をかけてみると、途端に音がぴたりと止まる。
少しの沈黙。
それから「なんでわかったの?」と悪戯のばれた子供のような小さな声。

ベッドを囲うように引かれたカーテンの隙間から指先が見えて、それからその指がカーテンを開く。
そっと、カーテンの中に入ってきたのは、見慣れた大切な恋人だった。
どうしてか、悪戯をして怒られる前の子供のような顔でベッドサイドの椅子にちょこんと小さく座った彼女は、ベッドシーツの端っこに握った拳を置いたまま「怪我は?」と半身を起き上がらせた私に問いかける。

「家入先生に治してもらったからね。もう問題ないよ」
「そう、か。……そう、そっか」
「……名前」
どこか、普段よりしょんぼりとした様子の彼女へ右手を伸ばした。けれど、左目が包帯で隠されているせいか距離感が掴めず、本当は彼女の手を取ろうとしたのに、伸ばした掌は逸れて、何もないシーツの上ばかり触ってしまう。そんな様子に気がついてか、慌てて私の手を取る名前。
術式と怪我のために普段より血が足りず冷えた私の手に、彼女の掌の体温がたまらなく暖かかった。

「憲紀、手、冷たいね」
「名前が来る少し前までずっと寝ていたからだよ」
元気のない名前、というのは見慣れないけれど、彼女が今そうなっているのは自分のこの大怪我が理由なのだろう。不安がる彼女に対してこんな気持ちになるなんて酷い男だとは分かっていたけれど、少し嬉しいとも思ってしまった。
「今日は随分元気が無いな」
「………別にそんなことないよ」
どう見てもそんなことある名前に少し笑ってしまう。今「可愛いな」と言ったらどんな顔をするだろうか。

「む、何笑ってるの、憲紀」
「君が、」
可愛いから、と言いかけて、けれど頬を緩ませながら「殊勝な様子なのは珍しくて、つい」と少し揶揄うように言ってみる。そうすれば彼女は口元をモニョモニョさせながら「心配したんだよ」と唇を尖らせた。

「ふふ、わかってるよ。不安がらせてすまなかったね。でも本当にもう体は問題ないんだ」
「……うん、それならいい。憲紀が無事でよかった」
そうしてようやくこちらに向けて小さく笑みを向けてくれた恋人にたまらなく安堵して、それから彼女の体温にもっと確かめたくなった。
空いた手で彼女を手招き、私自身もベッドの縁にまだ少し痛みの残る体を寄せる。そうして、近づいた体で恋人を抱きしめた。任務帰りの彼女からは微かに外の匂いがする。

抱きしめた瞬間、私の腕の中で硬直する体。落ち着かせるように背中を摩ってやれば、ゆっくり解けるように彼女の体から力が抜けていく。
背中越しにふれた彼女の左側にある鼓動はいつもより速くて、大きかった。どくどくと繰り返す鼓動を落ち着けてやろうと、背中を撫でた時に彼女の衣服越しに触ってしまった女性下着の金具の感触に一瞬右目を見開くも、小さく名前を呼んでこちらに軽く体重をかけてくる恋人の方へすぐに意識が向く。

高専に入学する前より、私も彼女も背は伸び、体つきも変わった。けれどやはり性差というものは大きいようだ。名前は容易く自分の腕の中にすっぽりと入ってしまう。
こんなに小さく柔らかいのならば、簡単にどうにでも出来てしまいそうだ、と唐突に変な考えが浮かんできた。
……いや、別にどうもしないが。するつもりもないし、しない。……だから、なにもしないって言ってるだろう。

脳内でなにかと戦いながら、下着のあたりを避けて背中を撫でる。心地いい体温が腕の中にあった。

「名前、少し話をしようか」
そう耳元で声をかければ、名前は少しだけ体を後ろに下げて見つめ合える距離を作る。少し赤らんだ頬のまま、こちらの言葉を待つ彼女の乱れた髪をそっと耳にかけてやりながら、今日はどうしてか彼女に意地悪ばかりしてしまうなとそんなことを思った。
「名前」
確かめるように、彼女の名を呼ぶ。

「もしも私が君より先に死んでしまったらどうする?」
その瞬間、彼女の瞳に薄い膜が張るのを見た。

こんな話をするのは嫌だろう、とわかっているけれど、今この時の逃してはもう話ができないと思ったのだ。
「すまない。だが私と君が婚約関係であり、術師である以上、本当はもっと早くにこの話をするべきだった」
今日、特級呪霊との戦闘の最中に命の危険を感じて、改めて思う。
自分と彼女が結婚するまで、いやそれどころか一年後、一ヶ月後、明日、互いが絶対に生きているなんて言い切れないこの世界で、失った後のことを考えずに今を生きるのは逃避に他ならない、と。
愛する以上、背負わせる。背負い、背負わせることを覚悟して愛しているとは言え、その事実に変わりはしないのだから。

「今日、あの状況下で私が生き残れたのは奇跡に近い。死んでいたとしてもおかしくはなかっただろう」
もしも死んでいたら、私は彼女をこの世界に無責任に放り出すことになる。だから、その先のことを、あり得るかもしれない未来の先のことを、私達は話し合う必要があった。

名前は先ほどまでよりずっと多くの瞬きを繰り返しながら、呟く。
「もしものことなんて考えたこともない」
「…………」
「……と、言ったら嘘になる」
「そうだろうね」
優しい彼女がそれを考えずにここまで生きて来たとは思えない。だからこそ、私たちはいつか来る消失の先の未来を考えなくてはならなかったのに。

2人しかいない医務室に見えない膜のような沈黙が落ちる。それを破ったのは名前だった。
「……昔から何度も、君に何かあった時の、その先のことを考えて、考える度にその前提が苦しくて、何度も考えるのをやめていた」
でも、と名前は続ける。

「仮定、そんな日がいつか来てしまったのならば、私は憲紀のお母様をお迎えに上がろうと思う」
その言葉に驚いて、私は彼女を見つめる。見慣れない能面のような表情の彼女は硬い声音のまま言葉を続ける。

「もしも、いつか私が君を失う日が来てしまうのならば、私は私の大切な憲紀が大切にしようとしたものを守るために生きたい」
大切にしたいと願った当人がいないのならば、そこにはもう何の意味もないかもしれないけれど。それでも、

「私は憲紀の守ろうとしたものを守るために生きるよ」

名前はどこか躊躇いがちに私の頰に触れた。その指先にある微かな震えに私は気がつかないふりをする。それから名前は「これは君のためじゃない」と小さな声で言った。
「憲紀のためじゃないからね、私が君を忘れたくなくて、君に執着して、その死と生に意味を求めるからそうするんだ。私は少しも優しくないから、これは君のための行いじゃない。私の自己満足に過ぎない。ごめん。愛とかじゃなくてごめんね」
「いい。いいんだ、名前」
震える手を取って包み込む。
私のために「私のためでは無い」と告げるような彼女の優しさをずっと前から知っていた。子供の頃からずっと。変わらないその優しさに不思議と安心する。

「ありがとう。私がいなくなった後に君が君のために生きてくれることが私は嬉しい」
そう返せば、ぎゅうと抱きつかれる。
どうであれ、私がいなくなった後の未来でも君が生きようと思えていること、そして、彼女がそう思えるだけの何かを私が彼女へ残せていたこと。その事実にかすかな安堵を抱く。
死にたくないのに遺書を書くような寂しさで、彼女の髪を指先で梳いた。

「私もそうするだろうさ。きっと君への執着は、否応無しに君が愛したものへ向かっていくんだ」
何処にもない名残を探して、それらしい何かを代用品としていく。虚しいとわかっても、せめてそんな綺麗なユメを見る。

ユメ。そうこれはただのユメだ。
だって、それは叶わない。
きっと名前と子を成す前に私が死んだら、名前には別の加茂家の男が充てがわれて、その男の種で子を産むように仕向けられる。子を孕めば監禁同然に屋敷に閉じ込められるだろう。そうなれば私の母どころか、彼女自身の母にも会えなくなる。きっとそうなる。そういうところなのだ、あの場所は。
私もきっと同じ。名前を失えば、きっと名前ではない女と子を成さねばならなくなる。
ただの種馬。ただの母胎。
畜生のように、ただそういう機能だけを必要とされる。
幼少期に足を踏み入れたその瞬間から、もうこの家から逃げる事はできなくなっていた。

彼女の背中に手を回す。
君の優しい夢想は叶わない。君が思うよりずっとこの世界は悍ましい。願ったユメを叶えたいのならば、生きなくてはならないのだ。この世界でそれだけのことがどれだけ難しいことであったとしても。
生者にさえ与えられない尊厳を、死者が持ち合わせているわけもない。だから、生きて、生き抜いて、尊厳を己の手で掴み取るほかないのだ。少なくとも加茂家という檻で生きていく私たちは。

「……すまない、名前」
それでも尚、君と共に生きていくことさえ約束できない私を、どうか許さないでほしい。

「それは、何に対する謝罪?」
「嫌な話をさせてしまったことに、だよ」
「……憲紀が悪いわけじゃないから謝らないでほしい。別に私は怒ってないし」
「……そうか」
嘘だな。本当は少し怒ってる。怒ってるのを隠して、その顔を見せないように額をぐっと私の肩に押し付ける恋人が可愛かった。

「名前」
「…………」
「名前?」
「…………」
「私が全部悪かった。どうか拗ねないでくれ。君の可愛い声が聞きたいよ」
「……『古今東西、いろんな神様がございます。外国の神様、キリスト教やイスラム教の神様なんかは人間どもの雑事を一手に引き受けて、全責任を負ってらっしゃるそうで、まことにご苦労な話でございますな』」
「聞きたいとは言ったが、そこで『寿限無』か……」
私の肩口にくっついたまま名前がもごもごと何かを言う。

「……じゃあ歌ってあげる」
「え?あ、ああ……」
「ちゃららっちゃっちゃ、ちゃららっちゃっちゃ、ちゃっちゃっ」
「イントロから始まるとは思わなかったな……」
「隠しきれない移り香が、いつしかあなたに染みついた」
「しかもこの話の流れで『天城越え』……」

耳のすぐそば、掠れた声で囁くように歌われた「誰かに盗られるくらいなら、あなたを殺していいですか」という歌詞に、ちょっと、いや、かなりグッときたのは黙っておこうと思った。


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冒頭短歌は木下龍也の『君を嫌いな奴はクズだよ』より