青春曰くB

(わたしたちたたかつてゐるうつくしいわたしたちたたかつてゐるんだ)
2018年10月19日 13時16分



それは霧雨の降る秋の日のことだった。
内通者捕縛任務として準一級術師庵歌姫に同行した呪術高専東京校生は四人。
虎杖悠仁。釘崎野薔薇。伏黒恵。
そして、苗字名前だった。

「五条から内通者の話は聞いてるわね」
四人は神妙な顔でうなづく。

五条悟への特級呪霊の襲撃。
姉妹校交流戦への特級呪霊の乱入。

明らかに内通者がいなければ起こらない出来事が繰り返される昨今、高専上層部が内部の人間を疑わない理由がなかった。
想定された内通者は二人以上。一人はおそらく学長以上の上層部のため、高専の人間では手出しができなかった。だが、もう一人は高専内の人間だ。
その人間が京都校所属の準一級術師、究極メカ丸を操作する与幸吉であることが判明した。
そうしてこの日、この五人で、準一級術師を2名も投入する大掛かりな捕縛作戦へと踏み切る。

「正直、庵先生はともかく名前さんまで来るとは思わなかったわ」
釘崎は庵に先導されながら与幸吉のいる地下室へ向かう最中に隣を歩く三年の先輩へ声をかけた。やや過剰戦力にさえ思えたからだ。
「そう?」
「準一級術者が二人もなんて大掛かりすぎない?」
「ああ、実はね今回みたいな案件は私の術式とかなり相性がいいんだよ」
緊張的な場面ではあったが、後輩たちを落ち着かせるように彼女はいつものように穏やかに微笑んだ。
「もし戦闘になった時、私の術式なら早期に相手を無力化出来る。だから三人にはその隙に対象を速やかに捕縛してほしい」
頼むね、と、そう先輩から信頼の目を向けられた三人は小声で、しかし強くうなづいて返事をした。

そうして辿り着いた薄暗い地下室。
目的の部屋の扉を虎杖が破壊し、五人は素早く内部へ入った。しかし、

「……えーと、」
「やられたわね」
庵が伽藍堂の部屋を見つめて、悔しそうに呟く。

与幸吉がいるはずのその地下室の部屋は無人だった。

「すでに移動した。いや、させられたのか」
「連れ去られたってこと?」
「いえ、内通者になった時にはもうここを離れていたんでしょうね」
ここには誰も来ない。与幸吉の生命維持に必要な装置の管理は傀儡操術を使える与自身で行っていたからだ。故に環境が彼を孤独にした。だからこそ、彼は内通者として動けたのだ。
「それじゃあ、」
これからどうするのか、と虎杖が庵に問いかけようとしたその時。


「ゴボッ」


水道管が逆流するような音がその部屋に響いた。緊張感に満ちた現場で、反射的に全員がその音の発生源を見る。

素早く向けられた彼らの視線の先。
そこにいたのは、鮮血を口から吐き出す苗字名前の姿だった。

唐突な出来事に血を吐いた彼女自身、驚いたように目を見開いていた。反射的に口元を押さえた掌の隙間から零れる赤血が彼女の黒い制服と薄暗い部屋の床に流れ落ちて、汚していく。そうして再度、彼女は噴き出すように血を吐いた。

「苗字先輩!」
敵の術式なのかそれ以外の要因なのか、わからないまま、けれど伏黒が声を上げて駆け寄ったのと、苗字が崩れ落ちるように倒れたのはほとんど同時だった。冷たい床に頭を打ちつける直前に苗字を抱きかかえて座り込む伏黒。
すぐに駆け寄った庵は努めて冷静に、内心の焦りを外に出して生徒たちを不安にさせないようにしながら彼女へ呼びかける。
「名前、こっちを見て、意識はある?聞こえてる?名前!」
「……ぁ、ぃおい、せんせ、……グぁ、」
「喋らないで!すぐに反転術師を、」
「っ、……ぃあ、……せんせ、ーーー」
苗字は庵の服の裾を強く掴んで、引き寄せる。苦痛に顔を歪めながら何かを必死に伝えようとしている彼女の姿に庵は素早く耳を寄せた。

さん、ご、いち、……と呟かれる数値が、緯度経度であることに気がついた庵はそれを急いで懐から取り出したメモに残す。
「……、お、ぉじょ、せんせ、ぃ……っ、た……」
「わかったわ。大丈夫よ、名前。五条に伝えればいいのね」
庵が安心させるように苗字の頬を優しく撫でてそう返せば、彼女は血に濡れたまま小さく微笑んだ。そうしてそのまま、目を閉じかける。
「名前さん!」
「庵先生!俺ら、先輩を連れて上に戻ります!」
「そうして!三人とも戻って、補助監督へ名前に反転術師の治療を受けさせるように伝えて!」
はい!と素早くと答えた三人。一番胆力のある虎杖が苗字を背負い、伏黒が警戒のために玉犬に先導させ、伏黒と釘崎は殿となって走って地下室を出て行く。

自らの肩が苗字の吐き出す血に濡れるのにも構わず、虎杖は声をかけながら上階へ向かう。
「先輩!大丈夫っすか!今移動してるんで!」
「……ぁ、いた、……ぃ……」
「……っ!」
背負った軽い体。体の中、恐らくなんらかの臓器を深く損傷しているのだろう。口元から零れる鮮血。ただ投げ出されただけの手足が虎杖が走るたびに力なく揺れる。焦りと不安に叫びたくなりながら虎杖は走る。

もう誰かに目の前で死なれるのは嫌だった。

「助ける。助けるよ、先輩。絶対に間に合わせるから、」
どうか、死なないで。







(わたしたちたたかつてゐる わたしたち 何と? 何かと 屹度いのちと)
2018年10月15日 16時37分


「こんにちは、メカ丸くん」
「……苗字名前」

それは姉妹校交流戦が終わって1ヶ月ほど経った頃。それでいて苗字名前が喀血をするより数日前のこと。

二人は、たった二人だけで夕暮れが差し込む古い校舎で話をした。秋めく風が少し開いた窓から吹き込んで、メカ丸の冷たい機体と苗字の柔い頬を撫でる。

「東京校のお前が何故ここにいル?」
「ちょっとした任務でね。それに姉妹校なんだし、少し顔を出すくらい良いでしょう?」
「加茂なら任務で出ていル」
「うん、知ってる」
「…………」
「今日は憲紀じゃなくて君に要件があるんだ」
それがわからない。メカ丸は加茂や真依と違って、苗字とはほとんど交流がない。いや、正直に言えば一方的にであれば彼女のことを知っている。夏油たちの内通者であるメカ丸は傀儡を通して彼女のことも調査していたからだ。しかしそれを目の前の彼女が知っているはずもない。

そう、知っているはずもないのに。


「私ならば、君の共犯者になれる」
唐突に、彼女はそう言った。


夕暮れが差し込む古い校舎。夏の盛りはとうに過ぎ、秋風が少しだけ開いた窓の隙間から流れ込んでくる。その風と共に校庭にいる仲間たちの喧騒がかすかに聞こえてきた。それさえ、メカ丸には酷く遠く感じる。永劫に届かない久遠のように。

自身のそんな寂寞も、穏やかに流れる時間さえも置き去りにして、彼女は、己の目の前に座る苗字名前は場違いなほど優しく微笑んだ。

何の話か、と惚けることは容易かった。けれど、きっとそれは無意味なのだろう。うまく言語化できないけれど、理由さえわからないけれど、直感的に理解する。
彼女はもう知っている・・・・・のだ。

けれど、その言葉にメカ丸はうなづくことさえできない。そういう縛りだ。肉体を治す代わりに、夏油たちに協力する。自分が内通者であることを他人に伝えてはならないこともその縛りの内のひとつだった。
それさえわかっているのか、彼女は穏やかに微笑んでうなづく。
「反応しなくても大丈夫。私が勝手に話すだけだから」
そう前置きをして彼女は話し出した。

「私は現在高専内部にいると想定されている内通者調査任務を受けています。そして内密に東京校および京都校の生徒の調査をして、その果てに君に辿り着いた」
「…………」
無言を貫く。

「君を疑ったのは単純に消去法と、内通者として動ける手段と内通者となる理由が君にしかなかったから。推測するに敵側との契約の内容は情報提供の代わりに天与呪縛で欠失した肉体の修復する、といったところかな。夏頃に頻発していた肉体を改造する呪霊の力なら君の体も治せるんじゃないか?」
「…………」
無言を貫く。貫かれる黙秘を苗字は気にも留めない。

「長々とごめん。私が君にこんなことを話すのは、君に敵側を裏切ってほしいからだ」
「…………」
無言を貫く。貫かれる黙秘を苗字は気にしない。

「とはいえ君が敵側の情報をこちらに流すにはその縛りを解く必要がある。私が推測した縛りが正しいのならば、君は呪霊に体を治されるまで情報を話せない。逆に言えば、体を治されてしまえばこっちのものだ」
「…………」
無言を貫く。貫かれる黙秘に苗字は関与しない。

「前提としてまず呪霊に君の体を治させる。そのためには敵側に君がもう不要だと思わせなければならない。敵側としても君を殺すためにはまずは君の体を治さないといけないからね、他者間での縛りは強力だ」
「…………」
無言を貫く。貫かれる黙秘に苗字は微笑む。

「だから君には敵側を裏切ってほしい。そうすれば敵側は君を殺すために君の体を治さざるを得ない。縛りを無くした君は敵から逃げ切って高専側に戻り、敵の情報をこちらへ提供する」
苗字がそこまで言った時、ようやくメカ丸は口を開いた。

「……お前の発言はすべてが推測ダ。もしかしたら俺は本心であいつらについているかもしれなイ。それに俺が今ここでお前を殺す可能性を考えなかったのカ?」
「無い」
メカ丸の問いかけに苗字はきっぱりと答えた。まるでそんなもの、愚問であるかのように。

「何故そう言い切れル」
「単純な話、君に私が殺せないから。情の話じゃない、私の方が君より強いからだよ」
「……なんだト」
「あ、いや、ごめんごめん、嘘嘘嘘!強いというか、ほら、絶対に負けないだけ」
メカ丸の強い語調にひるんだのか、苗字は慌てて首を振って言い換える。
「術式の相性の話で、だよ。そういう意味で私は君に負けない」
言い換えたが結局のところあまり意味合いは変わらない気がした。メカ丸は目の前の術師への警戒を解かないまま、いつでも戦闘に移れるように呪力をその身に纏わせる。
それに気がついているのかいないのか、苗字は変わらない声音で話を続けた。

「とにかく私が君に殺されることはない。それから、えーっと、そう、君が本心であちら側についてる可能性の話だったね。それも無いよ。縛りをかけている時点でその契約ありきでしか君は信用されていないからね。例え君が敵側に「自分が内通者だと高専にバレた」と言っても、きっと敵側は君を助けないだろう。使い物にならないとわかったらそれこそ君は殺されるだけ」
そう言ってから、苗字は微笑む。
そう、この場にそぐわないほどに美しく女は唇を弓形にした。

「裏切ってしてほしい、と君に言ったな。あれは嘘だよ。私が君にこの話をした時点で君の命運はふたつだけになった」

ひとつは内通者だとバレたことを理由に敵側に殺される。
もうひとつは先んじて敵側を裏切って高専側につく。

「わかるかな?もう君の命は私が握ったも同然」
指を2本立てて、女は挑発的に口角を上げる。

「せっかく治した身体で生きたければ、私に協力しろ。与幸吉」

夕暮れが差し込む古い校舎。夏の盛りはとうに過ぎ、秋風が少しだけ開いた窓の隙間から流れ込んでくる。その風と共に校庭にいる仲間たちの喧騒がかすかに聞こえてきた。硝子一枚向こう側。それさえ、メカ丸、いや与幸吉には酷く遠く感じる。永劫に届かない久遠のように。

自身のそんな寂寞も、穏やかに流れる時間さえも置き去りにして、己の目の前に座る苗字は場違いなほど美しく微笑んでいる。

その言葉を、表情を真正面から受け止めて、息を呑むことさえ出来ないその身で、けれど確かに驚愕する。
そうしてそれから、ゆっくりと彼女の言葉にうなづいた。

それが例え地獄へ至る道だとしてもそうしていただろう。なにせ、もはや今の自分にはその手を取る以外の選択肢などなかったのだから。

「……恐ろしい女だナ」
「ふふふ、伊達に加茂家の魑魅魍魎の中で育ってきてないよ」
何処か巫山戯たように笑う苗字。
彼女が与の作戦を知っていたかまでは定かでは無い。
けれど今の与にとって、苗字のこの提案は渡に船といえよう。なにせ、与はこの時点でもう既に夏油や真人たちから離反するつもりだったのだから。先に縛りを破ったのは真人たちの方だ。「京都校の面々には手を出さない」。その縛りが破られた以上、与が彼らとの約束を守る理由もなかった。

しかし、協力しろと言う彼女にうなづきはしたけれど、その前に与は苗字に聞かなければならないことがある。

「……何故、お前はわざわざ俺を生かス?」
それがわからなかった。
彼女、いや、高専側が欲しいのは与の身柄ではなく、与が持っている敵側の情報なのだ。ならば与の縛りや命など介さず、無理やり聞き出せばいい。方法はいくらでもある。それなのにどうして、それをしないのか。それがわからなかった。
そう問い掛ければ、苗字は組んだ足の上に肘を置き、頰をついた。それからメカ丸を見つめて、微笑む。

共感シンパシーだよ」
「……ハ?」
……なんかどこかで聞いた覚えがあるな、とふと与は思った。
「他の人間はどうだか知らないが、この私にはわかってしまう。そう、私と君は同類だ」
「違うガ……」
「違くない」
「違ウ……」
何を言っているんだこいつは、とメカ丸越しに見つめれば、彼女はメカ丸からの否定も気にせず「他人の心の秘密の花園シークレットガーデンを暴く趣味は無いんだけどね」と小さく呟いた。
「ぶっちゃけていいかな?」
「ハァ……よくわからんガ、好きにすればいいんじゃないカ?」
許可を得た苗字はキリッとした顔でメカ丸へ視線を向けると唐突に言った。


「幸吉くん。君、好きな子いるだろ」


彼女がキメ顔でそう言った瞬間、与はこの機体をすぐさま放棄したくなった。

「まあ、そんな顔しないでよ」
メカ丸に表情を変える機能はない。
「メカ丸じゃなくて、メカ丸の向こう側の幸吉くんに言ってるんだよ」
「一体なんなんダ、お前ハ」
「安心して欲しい。他人に吹聴するつもりもなければ、揶揄うつもりもない」
恋心っていうのは人の心で最も柔くて脆いところだと私は思っているからね、と何を言っているのかさっぱりわからないが、苗字は安心させようとするかのように与にそう言った。そんな心配はチリほどもしていない。
なんかこう、全体的に東堂っぽいんだよな……人の話を聞かない感じが……と、与は苗字を見つめて思わずジト目になる。

「つまリ、お前は何が言いたイ」
「君と恋バナがしたい。現在進行形で恋をしてる友達とマクドとかで恋バナしてキャッキャしたい」
真顔でそう返されて、与は言葉を失った。
当然、呆れのためである。
まさか本気でそんな理由なのか?
それともこちらを馬鹿にしているのか?
黙り込む与を気にせず、苗字は言葉を続ける。

「私たちみたいな「異常になる他に生きる手段がなかった」人間にとって、堪らなく惹かれてしまうものはなんだと思う?」
「…………」
唐突な問いかけに、与は何も返せなかった。
彼が言葉を返せないことさえ想定済みだったのだろう。苗字は返答を待つこともなく答えを提示した。

「ごく普通に一個人として扱われることだよ」
悔しいことに、与はその答えに心当たりがあった。

「術式でも能力でもなく、自分をただのひとりの人間と見てくれる人がいて、もしもその人が何の他意もなく自分に優しくしてくれたのなら、」
……きっと、惹かれてしまう。
そばにいたいと願ってしまう。
与はそう思った。何より、知っていた。

「恋に落ちてしまう」
その言葉を否定出来なかった。

「そんなわけで私は同類の恋を応援したい。あわよくば私の恋も応援して欲しい」
「……加茂とはもう付き合ってるんじゃないのカ?」
「付き合ってる……けど、君は遠距離恋愛の寂しさを知らないからそんなことを言えるんだ!」
「急に大声を出すナ」
「わかるか?好きなのに一緒に同じご飯を食べれない寂しさを!好きな人の体温さえ感じられない距離を!」
「……………………わか、……わ、わかル、ガ………」
「ほら!」
無理やり手を取られて握手をさせられる。いや、確かにその気持ちはわかるが……。

「……お前はそんな理由で戦えるのカ」
「戦える。私は私の恋を守るためだけにこれまでの人生を戦ってきたんだから」
一笑するのは容易くて、けれど与にはもうそれが出来なかった。

ずっと見てきた。
揺れる長い髪。
温かな微笑み。
自分を呼ぶ軽やかな声。

与にはまだ自分が抱える感情がたった一人だけに向けられる恋心なのだと断ずることは出来ない。
けれど、苗字にとって恋とは祈りなのだろう。
祈りならば、与も知っている。
人は己の祈りのために戦えるのだと、彼はもう知っていた。

「……わかっタ。イカれてはいるが、納得はしタ。苗字、俺はお前の言葉を信じル」
そう言葉を返せば苗字はまるで仲のいい友人に向けるかのような、人懐っこい笑みを浮かべた。……調子が狂う。そう思いながら、それでも与は何処か悪い気分じゃなかった。

「話を戻すゾ。俺はお前の協力者となリ、お前は俺の共犯者になル。……それはいイ。それで、お前には何が出来るんダ?」
苗字は座り続けて固まった筋肉を解すようにグッと腕を天井に突き上げて伸びをしながら、「そうだね」と口火を切った。

「それじゃあまずは私の術式の話をしようか」
そう仕切り直して苗字は口を開く。
「私の術式は干渉術式。簡単に言えば『他者の術式を解析、干渉する』というもの。つまるところ、他人の術式をハッキングする術式ってところかな」
ハッキング。そんな横文字を認識した瞬間、与は場違いにもちょっと少年心をくすぐられた。

「そう言うとカッコいいけど正直使いづらいよ。相手の術式をキャンセルできるわけじゃなくて、あくまでも干渉して効果をズラす程度のことしかできないし」
「つまり、俺のような傀儡操術相手なら相手の操っている傀儡をお前が操れるようになると言ったところカ?」
「その通り」
と、返答された瞬間、与はいつのまにか今操っているメカ丸が両手でピースをしていることに気がついた。
それまではただ腕を組ませていただけだというのに。もちろんピースしろ、なんて指示を当然与はメカ丸に与えていない。

「……なッ!」
これが干渉術式ハッキングか!
与は自分がメカ丸の支配権を奪われていることに一切気がつけなかった。
「このくらいのことは容易いよ。でも長く干渉すれば当然相手にバレるし、自分より強い術師相手だと負担が大き過ぎて私の肉体にダメージが来る。正直、大したことない術式だよ」
とにかく使い所が難しいんだよね、と不満げに呟くが、本人はこれがとんでもない能力だとわかっていないのだろうか。術者にとって命綱とも呼べる術式の解析と干渉だなんて使い方次第でどうにでもなるというのに。

「……苗字、確か、お前の出自は根っからの術師では無かったナ?」
「えっ?うん、そうだよ」
ああ、なるほど、と与は理解した。
あの保守的な加茂家が次代当主の婚約者として大手を振って術師家系ではない苗字を受け入れた理由はこの術式に他ならないだろう。

術式の解析。
それが事実ならば、これは擬似的な『六眼』に成り得るではないか。

メカ丸にその機能があったのならば、きっととんでも無く大きな溜息をついていただろう。
加茂も流石にこのことは知っているだろう。彼は時折ボケたところはあるが、そういうところは外さない。知らぬは当人ばかりか、と与はなんとなく加茂の苦労を想像した。

そんな与の心も知らず、苗字は彼へ作戦内容を共有していく。作戦の共有とは言え、術式の効果をあげるためにその詳細内容はかなり濁されたものだった。
与もそれはわかっていたために、文句を言うこともなくうなづく。
とにかく、と苗字は言った。
「君には呪霊に対して術式による攻撃を当ててほしい。そうすれば君の術式を媒介にして呪霊の術式に私の術式が干渉する」
「それであいつを倒せるのカ?」
「それは無理かな……」
「……どういうことダ」
「私の術式は敵を直接倒せるものじゃない。だから決して勝てないけど、発動さえできれば決して負けない」
「……それ以上は言わないつもりだナ」
「ごめん。作戦を秘匿することを縛りに、術式の効果を上げるつもりなんだ」
「わかっていル。どうであれお前は俺を生かすために動くのだろウ。ならば俺をお前を信じるだけダ」
信じる、と与が言ったその瞬間、苗字はそれまでの何処か柔らかい笑みを引っ込めて、酷く真剣味のある顔でメカ丸を見た。

「……正直この作戦の成功率は低い。失敗に終わって、君を犠牲にする可能性の方が高いんだ」
「それが今更どうしタ」
「どうした、って……」
「どうであれ俺はもうお前と共に戦うことヲ選んダ。選んだのは俺ダ。だから何があろうとその結果をお前が背負う必要は無イ。全ては俺が俺自身の選択でそうしているだけのことなのだかラ」
何処か苦しげな表情でこちらを見る苗字に、与は彼女へこの任務を命じたのは一体誰なのだろうか、とそんなことをふと思った。情に流されやすくて、偽悪的で、随分と向いてない奴をこの任務に当てたものだ。

「後悔ならばとうにし切っていル。それでも俺はみんなに会いたイ。生きて、会いたイ。その可能性が少しでも上がるのならば、それだけでお前は信じるに値すル」

会いたい。生きて、みんなに会いたい。
それはずっと、誰にも言えなかった本当の心だった。


マルコによる福音書において、イスカリオテのユダはこう語られる。
「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方がその者のためによかった」と。

それは正しい、と与は思う。これまで行ってきた裏切りやこの憎い身体のことを思えば、自分など初めから生まれなかった方が、と思わずにはいられない。

それでも、俺は生まれたのだ。生まれてしまったのだ。
生きたのだ。生きてきたのだ。祈り、願い、苦しみながら、それでも生きてきた。
そして今、生きるために手を差し伸べる人が目の前にいる。

与は信じたい。自分は生きていてもいいのだと。
その生存の果てにどんな絶望や苦痛が待っていたとしても構わない。会いたいと願った彼らから失意や敵意を向けられても構わない。だって、それでもこの祈りは俺のものだ。俺だけのものだ。誰にも奪わせない。銀貨三十枚なんか投げ捨ててやる。

与はメカ丸越しに苗字へ右手を差し出した。
それを苗字は驚いたような困惑したような顔で見つめる。けれどメカ丸がもう一度彼女へ近づけるように手を差し出せば、彼女もまた右手で恐る恐るとその冷たい機械の手を取る。それは握手だった。共に戦う者への信頼。今のメカ丸のこの体では彼女の体温さえわからないけれど、

「いつか、お前にも会いに行ク」
その時はどうか、今のように手を握ってほしい。
そう、祈りながら。










2018年10月19日 13時42分


「これはもうダメかな」
五条が庵からの連絡を受けて、伝えられたその緯度経度へ辿り着いた時には当然のことながら全ては終わり切っていた。恐らく名前が喀血した時にはもうこうなっていたのだろう。

破損したダム関所にもたれかかるようにして崩れ壊れた大型ロボ。傀儡操術で与幸吉が操っていたであろうその巨大なロボの頭部は大きく破損し、近づけば中の様子を確認できた。

「初めまして、がこんな形とはね」
皮膚だけが浮かび上がったように異常に膨れ上がった肉体、伸び切ったゴムのような撓んだ皮膚。ここ数ヶ月で見慣れてしまった改造人間の成れの果てがそこに在った。

「五条」
その時、ダムのそばから声をかけられる。
万が一間に合ったら、のことを考えて五条は家入を連れてきていたが、彼女の術式の出番はないようだ。

「硝子」
「なんだ」
「間に合わなかった」
「……そうか」
この場所に辿り着けたのは苗字の術式のおかげだ。だが彼女が文字通り血を吐くような負荷に耐えながら伝えてくれた情報も、ここで無意味になってしまった。

助けようとした人を救えない。
仲間が決死の覚悟で得た情報が無駄になる。

そんなこと、術師をやっていれば何度も経験することだ。けれど、それでも何も思わないわけではない。

「一応視る」
「ん、わかった」
それでもその死を無駄にしまいと共に歩んでくれる仲間はいる。それが五条にとって、時に何にも代え難い救いになったりもするのだ。

家入を与幸吉の元まで連れて行く。そうして彼女が何かを得られないかとその改造された肉体に触れるのを、五条は離れたところから見つめていた。せめて、苗字が重傷を負いながらも命に別状がなかったことが救いだろうか、なんてことを考える。

「五条」
「なんかわかった?」
「生きてる」
「……は?」
「まだ、生きてる」
治せる、と家入がつぶやいたのと、彼女が触れた改造人間の肉体が人の形に戻ったのは同時だった。膨れ上がった肉体は、一瞬の瞬きのうちにその場に倒れ込む小柄な少年の姿に変わる。その胸が微かに上下しているのを確かに五条は見た。

「……なんで?」
「触ってわかった。改造人間を作れる呪霊が弄ったのは与幸吉の皮膚だけだった」
肉体そのものには一切干渉してない。そう言った家入に五条はポカンと口を開く。
果たしてそんなことがあり得るのか?

「それ、おかしくない?だって七海の報告だとあの特級呪霊の術式は魂に触れてその形を変えるって、干渉されるのは魂だから肉体を治す反転術式じゃ治せな、……ああ!だから、そういうことか!」
思わず叫んだ五条に今度は家入がきょとんとする場面だった。
「どういうことだ」
「だから魂じゃなくて肉体への干渉にズラした・・・・んだ!」
「誰が」
「名前が!」
「……苗字、あの子の術式か」
「そう!名前の術式なら確かにできる。そりゃ血反吐吐くわけだ!格上の特級術霊の術式をハッキングしたんだから!」
五条は与と家入を抱えると、瞬間移動でその場を離れる。とんでもないことをしてくれたな!と笑い喚きながら苗字が保護された京都校へ向かっていく。
タガが外れたようにゲラゲラと笑う五条に、家入は溜息をつきながらどうしてか無性に煙草が吸いたくなった。

「そりゃそうだ!だって名前の術式は『術式の解析と干渉』!僕の『六眼』の上位互換なんだからね!」








夢を見た。

それは私がまだ小学生に上がる前のこと。
まだ父さんが亡くなる前の朧気な記憶。
手を引かれてデルタまで行って、川縁で一緒に遊んでくれたこと。遊び疲れた私を背負って家まで帰ってくれたこと。
優しい人だった。その人に付随する記憶はいつだって穏やかだった。
父がその優しさゆえに負った借金はその死後、残された母を苦しめたけれど、それでも私は父を憎むことはできなかった。きっと母もそうだったのだろう。

もう二度と会えぬ人に会いたいと泣いた夜を覚えている。けれど、それから幾年も経ち、成長した私がそんなふうに泣く夜はもう来ない。
人は叶わない願いを諦めることができると知っている。
死んだ人とは会えない。そんな当たり前のこと。呪霊なんてものが関わらずとも人は死ぬ。人は前触れもなくいなくなる。死んだ人とは会えない、永遠に。

だからだろうか。大切な人に会いたいと願う人たちに、筆舌難い思いを抱いてしまうのは。

お母様に会いたいと願う憲紀も、仲間に会いたいと祈る幸吉くんも、まだ可能性を抱いている。
彼らはまだ、会える。その可能性が砂粒のように小さく、風に吹かれる花弁のように儚いものであったとしても。

いつか、そう、いつか、私にはもう永遠に辿り着けない幸福な領域に彼らならば往けるのだろうか。
私には叶えられなかった願いを叶えてくれるだろうか。
その果てに何があるのかを私に見せてくれるだろうか。

もしも、そんな日が訪れるのならば、ああ、それは、なんてーーー。



私は、ゆっくりと目を開いた。






叶ふなら誰も死なない世界へと手を取り合つて行きたいの ねえ
2018年10月23日 19時13分



「あ!名前さん起きた!」
「って、何立ち上がろうとしてんですか、苗字先輩!は?喉乾いた?」
「そんなもん買ってくるわよ!虎杖が!」
「俺かよ!?あ、いや、買ってくるけど。何飲みたいっすか?コーラ?」
「寝起きにそんなもん飲むわけないでしょ!玉露よ!最高級玉露を用意しなさい!」
「自販にそんなもんねぇよ」
「京都なのに!?」
「どういう偏見だよ」
「あー、とりあえずスポドリ買ってくるんで。まだ寝ててよ、先輩!」





「体調はどうだ、苗字」
「ん、そりゃよかった。ちゃんと会話もできてるし、記憶もちゃんとあるね」
「ああ、君は全治3ヶ月の重症。私と京都校の医者で可能な限り治療したが脾臓は完全に欠失。左半身、というか左腕の麻痺は恐らくリハビリをしても一生治らない。それだけの無理した自覚はあるだろう」
「……完全に治してやれなくてすまない」





吐血の後、意識を失った私は京都校に運び込まれたらしい。見慣れないこの天井は京都校の医務室のものというわけだ。
寝ていたのは精々4日とちょっと。

一緒に任務に当たった一年生たちは全員無事。まだ会っていないが、一年生たちの話によれば庵先生も問題なし。
私の体も家入先生に治してもらった。起き上がって自分の身体を確かめてみても仰々しい管や器具に繋がれていないし、包帯が巻かれている様子も、四肢が欠失している様子もない。寝起き特有のぼんやり感はあるものの、体の外側にも内側にもさしたる痛みは無い。

つまるところ、大したことはなかった。


「名前さあ、僕になんか言わなきゃならないことがあるんじゃないの?」
「チェンソーマンの新刊出てましたよ。買っといてください」
「ギガスラッシュ」
「痛っ」
目が覚めてから幾らか経ち、やってきた五条先生に私はチョップをされていた。痛い、と思わず言ったけれどそれは反射みたいなもので実際のところ全然痛くはなかった。

「はあーーほんっとウチの子たちはすーぐ無茶するんだから……」
「五条先生の子になった記憶はありませんが」
「僕の受け持ちの生徒だよ、僕の子だ」
なんかやだなぁ……とは言わなかったけれど顔に出ていたらしく、痛くないデコピンされた。

「あの、五条先生」
「うん、与幸吉は無事だよ。無事って言っても意識不明の重体。君よりだーいぶ重傷。命に別状はないけど、目を覚ますのはまだ先だろうね。彼からはまだ情報を引き出せてないけど、彼が残したデータが発見された。破損してたけど直せるところは修復して、ある程度敵の目論見はわかったよ」
「そうですか、なら良かったです」
「良いわけないだろ」
瞬間、向けられた怒気を含んだ声に心臓が一瞬怯える。怯えながら、ベッドサイドの椅子に腰をかけた彼へ目を向ける。
彼はいつも通りの飄々とした顔のまま、けれど確かに怒っていた。

「確かに君に任務を命じたのは僕だ。でもここまでの無茶をしろなんて命じていない」
「先生から受けた任務内容は内通者の調査と捕縛準備です。与幸吉が内通者であるという調査結果の報告は済んでいましたし、捕縛準備についても適切に行った認識でいます。事実、与幸吉は生きたまま捕縛ができました」
「そうだね、100点満点の回答をありがとう。じゃあなんで特級呪霊の術式に介入することを僕に言わなかったのかな?」
「作戦内容の詳細を他人に伝えないことを術式効果を上げるための縛りとしたからです」
「はい、それ。そこ。そこが問題なんだよ。わかってる?わかってないね。これから説教をします」
「もうしてるじゃん……」
「これからも説教をします」
「……はあ」
椅子に座ったままその長い脚を組んだ彼はバイザー越しに私を見た。私は相変わらずこの人と話す時はどこを見たら良いかわからないなあと思いながら、恐らく目があるだろうバイザーのあたりを眺めた。

「あの、言い訳みたいで嫌なんですが、任務そのものは成功だと言っていいと思っています。先生が何を不満に思っているのかがわかりません」
「ひとつ、僕に作戦を言わなかったこと。ふたつ、作戦内容の博打さ。みっつ、なんかムカついたから」
「ひとつめはさっき言った通りですし、ふたつめは、まあ、自覚しています。それについては申し訳ありませんでした。みっつめは意味わからないです」
「よっつ、僕がムカついたから。いつつ、腹が立ったから。むっつ、ムカついたから」
「ほぼムカついたからじゃないですか……」
「そうだよ、僕は今僕の感情だけで君に怒ってるからね」
理不尽、という言葉が頭の中でネオンのようにチカチカ光り輝く。

「僕の仮定だけど、君の作戦はこうじゃない?」
五条先生はぴっと人差し指を立てて、口を開いた。

「まず、戦闘になった与幸吉が敵呪霊に彼自身の術式による攻撃を与える。ここまでが準備。その後、呪霊が直接、与幸吉の魂を弄ろうとした瞬間に、与幸吉の術式越しに名前の術式で「魂への干渉」という効果を「肉体もしくは皮膚だけへの干渉」という効果に捻じ曲げた。……どうかな?」
「お見事です」
「ありがとう。ただし、君の作戦は与幸吉に接触する特級呪霊が改造人間を作る呪霊だけ、という仮定をもとにしている。けどもし与幸吉を殺害しようとした呪霊がそいつじゃなかったらその時点で終わってた。君は効果の無い呪霊に無駄にオートで術式を発動して内臓をぶっ壊す羽目になってた。はい、博打」
「その通りです」
「相手は格上の特級呪霊。もしかしたら君の術式なんか効かなかったかもしれない。そうなれば与幸吉はそのまま死亡。君も術式の負荷で重傷、あるいは死亡していたかもしれない。はい、博打」
「返す言葉もありません」
羅列されたリスキーさは自分自身重々理解していたから、素直に頭を下げる。が、溜息を吐かれた。

「……名前、僕はね、怒ってるんだ。君が僕を嫌っているのは知っているよ。でも、僕はそんなに頼りない?君の命を預けるに値しない人間かい?」
そう、問われる。
けれど、それは誤解だ。だから、首を横に振る。

「いいえ、先生。私は先生のことが好きでは無いだけで嫌ってはいませんし、貴方のことを頼りないとも、命を預けられないとも思っていません」
むしろ、逆だ。

「貴方には頼りがいがあるからこそ、貴方に頼らないことが縛りになり得たのです」
けれど、幸吉くんがいつ何処で呪霊と戦闘になるかわからない以上、五条先生でも彼の命を救うことは難しいと私は判断した。故に私は、私にできる最善を尽くそうとしたのだ。
そう返せば五条先生は黙り込み、それから少し間を置いてから、嫌そうな声で「君は正しい」と言った。

「君の判断は正しい。それは結果が物語ってる。でもやっぱりムカつく」
「すみません」
「名前はそうやって謝るけどさ、また同じようなことになったらどうせ君は僕を頼らないんだろ」
「まあ、そうですね」
返した瞬間、頬を両側から引っ張られる。私が悪いということもわかっているので、抵抗はしなかった。

「君はもう少し人に頼ることを学ぶべきだね」
「……それを先生に言われてもなあ」
「ギガブレイク」
「痛ぁ!」
「僕は最強だからいいの」
さっきより強めのチョップに脳天を打たれる。思わず悶えながら頭を押さえて、涙目で先生を見れば、彼は珍しく寂しそうな表情でこちらを見つめていた。

「……僕は最強だけどね、僕が助けられるのは助けられる準備のある人だけだ。そうじゃない人は「助けて」なんて言ってもくれない。それがどれだけ寂しいことか、わからないはずもないのにさ。……ほんと、どいつもこいつも」
「……いいじゃないですか、それで。先生は助けられる人を助けてよ。それで十分でしょう。先生には助けが必要に見えても「助けて」って言わないのなら当人にとってはそうじゃなかったんだ。助けなんて求めてなかったんですよ」
「僕はそんなのやだ」
「私も嫌です」
ほら平行線だ、と彼は笑った。

「わかったよ、名前。君は君の選択をすれば良い。僕も好きにするから」
「……先生、どちらに行くんですか」
立ち上がった彼を見上げて問いかける。
「今から東京戻って渋谷。ちょっとばかし所用でね」
「そうですか、どうかお気をつけて」
「うん、君も安静にね」

それから、と彼は続けた。

「君は君の「大切」にしっかりと怒られておくように」

五条先生と入れ違いに医務室へやってきたのは、憲紀だった。






時々は抱き締めあつて わたしたち何も失くしてないよ さうだね





死に際に、いや結局私は死ななかったのだから、死にかけた時に、なのだけれど。

一番に思い出したのは京都に残してきた母のことだった。
私を女手一人で育ててくれた優しくて、逞しくて、大切な母。そんな人が早くに愛した人を亡くし、さらには一人娘も失うのだ。私が受けるであろう賽の河原で石を積み続ける罰は当然のことのように思えた。

いつ死ぬともわからぬ身だ。私は可能な限り母にできることをしたと思っている。時間が合えば京都に戻り、母に会った。金銭だけが全てではないが、母が苦労せぬように稼いだ金は家に入れた。
それでも、薄れゆく意識の中で残ったのは後悔だった。
もっとなにかを、もっとしてやれることが、もっと、もっと、もっと、あの優しい人へ与えてあげられるものがあったのではないか、と。

けれど死に際、もうそれも叶わないとわかって諦めた。
人は死ぬ。死んだ人には会えない。会いたいと願ってももう叶わない。
私はそれを知っている。
そして、その叶わない願いを人はいつか諦めることができるということも知っていた。
悲しいけれど、そういうものなのだ。
だから、いつか母もそれを受け入れるだろう。受け入れて、私がいない世界で生きていく。そういうものだ。だから、諦めた。もう二度と会えないことを、仕方なく受け入れた。

けれど。



「それでも、君が好きなんだ」
そう言って、泣いていた憲紀の声をまだ鮮明に覚えている。

笑ってくれた顔を覚えている。抱きしめてくれた体温を覚えている。差し出してくれた掌を覚えている。
彼と共に生きた私の人生の中で、彼へ抱いた愛おしいという気持ちが失われたことは一度もなかった。

……どうして今、彼のことを思い出してしまうのだろう。
私はもう失う。どれだけ望んでもこの先には断絶しかない。それなのに、思い出してしまったらもう、失うことを恐れてしまう。もう決して彼に会えないことに苦しみながら死んでいく。もう何処にもいけない私の絶望が、残していく彼を追い詰めるだけなのに。

それでも、間際に本当の気持ちが溢れ出してしまった。


……嫌。嫌だ、死にたくない。
いきたい。いきたいよ。
君のそばに行きたい。君のそばで生きたい。


死ぬことが怖いんじゃない。失うのが怖いんだ。
君と描いたはずの未来の先に私がいないことが嫌だ。
君が私のいない世界を受け入れるのが嫌だ。
会いたいと願った君の祈りが、やがて諦観に成り果てるのが嫌だ。
君がいつか私を忘れてしまうことが嫌だ。
君に二度と会えないことが嫌だ。

会いたい。君に会いたい。

最後に残ったのはそれだけだった。













「会いたかった」
そう一言呟いた名前が、そのまま医務室のベッドの上で子供のように膝を抱えて泣き噦るのを見た瞬間、憲紀は彼女へ言おうとしていた言葉をすべて失ってしまった。

無理をしたこと、心配をかけたこと、誰にも頼らなかったこと。
本当は叱るつもりだったのに。

どれだけ不安だったのか、どれだけ恐ろしかったか、どれだけ心配だったか。
本当は伝えるつもりだったのに。

言葉は乾いた土に落ちた水のように消えてしまって、結局泣き噦る彼女の背を撫でては、その細い喉から引き攣ったような音が生まれるたびにひどく己の胸が痛むのを感じた。

どれだけ心配をかけたのか、どれだけ無茶を通したのか、それがわからない彼女ではない。わかった上で傷つくことも厭わずに戦った人を、どうしてそれ以上責めることができるだろうか。だからそんな言葉は失くしてしまってよかった。他に伝えるべきことはたくさんあるはずだから。

痛ましげなほど苦しそうに泣く名前に、思い返してみれば、彼女がこんなふうに声をあげて泣いたことは一度もなかった、と気がつく。昂った感情の果てに落涙してしまうのはいつだって憲紀のほうで、微かに涙ぐむことはあってもこうやって人前で涙で頬を濡らす彼女を見たことはなかった。加茂家に来る前も、来た後も、術師になってからも。

だから酷く驚いて、それからようやく自分の前で惜しげもなく泣いてくれるようになった彼女の変化を知る。
耐えきれない感情の決壊。戦い抜いた果て、最後に残ったものが「会いたい」というささやかな願いであったのならば、返す言葉はきっとこれだろう。


「おかえり、名前」
震える体を抱き寄せて、背中側に回した手でその柔らかな髪を撫でる。ぐずぐすと溢れる水音はなお絶えることなく、目元を押し付けられた憲紀の服の肩部分が少しずつ塩水を吸って色を濃くしていく。

「君が無事に帰ってきてくれてよかった」
彼女が抱えていた膝はいつしかぺたりと崩れた正座になっていて、縋り付く先を失った手がよすがを求めるように憲紀の制服の裾を掴んだ。

「大変な任務だったのによく頑張ったね」
えらいね、いい子、いい子、と柔い髪に指を差し入れて梳くように何度も撫でる。後頭部のまあるい輪郭を辿るようにそれを続ければ、少しずつ少しずつひくりひくりと悲鳴じみた泣き声が落ち着いていく。
自分の頬に触れる彼女の髪の感触。震える肩を抱いて、境目を溶かすように体を合わせる。

「憲紀」
涙声の隙間に呼ばれた己の名前に深く、心は安堵する。
ようやく顔を上げた彼女の瞼は桃色に腫れていて、ハンカチでその目元を拭ってやれば、彼女はもう一度憲紀の名を呼んだ。
「……ご飯行きたいの」
「お腹が空いたのか」
思えば彼女は4日近く昏睡していたはずだ。そう思って問えば、首を横に振られる。
「あのね、一緒にご飯を食べに行きたい」
もう一度繰り返すように言われたその言葉が、未来の話なのだと気がつく。もう一度会えた、再会のその先の祈りの話だ。
「ああ、もちろん」
「それから、また一緒に出かけて。一緒に遊んで。手を握って」
君が望むのなら何処にだって連れて行ってあげよう。
名前の我儘とも呼べない我儘に、いつしか不安のために早くなっていた憲紀の鼓動はすっかり落ち着いていた。
ぎゅうと憲紀の服の裾を掴む彼女の手を包み込むようにしてやれば、かすかに口元に笑みが浮かぶ。下がった眉のライン、瞬きをした瞬間に溢れる涙の粒。

「あと、チューして」
「ちゅー……」
頭の中でその擬音が口付けのことだと変換された瞬間に、微かに照れがよぎる。人生のうちのほとんどを共に過ごすうちに境界線の薄れた関係は恋人という関係性をほとんど家族に近いものに変化させていて、それがプラトニックな触れ合いを保たせ続けていた。

つまるところ、これだけ長く共にいたのに2人はキスのひとつもしたことが無かったのだ。

照れのために頬を赤らめた憲紀に名前はどこか悪戯が成功した子供のような顔をしたから、それが彼の留金を外した。

ハンカチで涙を拭われた名前の頬に憲紀の手が触れる。彼女の顔の半分程度容易く覆ってしまえるその筋張った掌で頬を包んで、親指で目元を摩る。そうすればそっと目を閉じる恋人。瞼のカーブに沿って並ぶ睫毛を見つめてから、そっと彼女へ顔を寄せた。

のだけれど。

「や、やっぱだめ」
触れる直前に憲紀の口元へ名前の掌がぐっと押し付けられる。
唐突な拒絶に思わずきょとんとした顔で彼女を見つめれば、どこか慌てたような名前は「よく考えたら私ずっと寝てたから……歯磨きとかしてないし……」と目を逸らして、距離を取ろうと腕を突っ張る。

「私は気にしないよ」
「私が気にする、から」
だめ、と呟かれた声に少し身を離せば憲紀の口元から手が離される。離れた手がそのままシーツの上に音もなく着地したのを確認して、憲紀は何も言わずにグッと顔を寄せて自分の唇を彼女の唇にくっつけてみた。

「みぎゃっ!」
「ああ、すまない、手が滑ってしまって」
「なっ、な、な、て、てっ、てっ、きっ、き、きっ」
顔を真っ赤にした彼女の、今さっき柔らかいと知ったばかりの唇から声にならない声が生まれる。新しいモールス信号だろうかとわざとらしく惚けて、もしもそうであるならその意味は「好き」だとか「愛している」だとかがいいなあと熱に浮かれた頭で考えた。

「名前」
「なっ、なな、なに」
「口付けも婚前交渉に入るだろうか」
「は、入ったらどうするの」
「責任を取る必要があるな、と思ってね」
なにせもう18歳なわけで。軽く蹴飛ばせる程度の障害のほかに、ふたりを憚るものはとうに無くなっていた。

生き抜くことで手にした未来という尊厳。
生存によって至った幸福な領域。


君さえ良ければ、いつかあのホームで交わした約束を本当にしたいのだけれど、どうだろう。聞かせて欲しい。










それはいつかによく似た夕暮れの頃だった。少しだけ開いた窓からは冷たい風が流れ込んで、その風に乗って聞こえてくる仲間たちの喧騒が鼓膜を揺らす。

彼は廊下ですれ違ったその人を呼び止めた。
振り返った顔には何処か戸惑いが。見知らぬ人に話しかけられたのだから当然だろう、わかっていても微かな寂寞が胸をつく。

「……あの、何処かでお会いしましたか」
「いいや、初めてだ」

返した言葉に彼女は困ったように眉を下げて小首を傾げる。
時を経れば経るほど深まる戸惑いへ、そっと答え合わせを。


「……行くんじゃなかったのか、マクドに」
友達と恋バナをしたいと言ったのは、お前だろう。


その瞬間に大きく見開かれた彼女の瞳に思わず笑ってしまった。そうしていつかの記憶と重なるように彼は右手を差し出す。

帳のように夜が降りてくる、その少し前。

黄昏時。誰そ彼。
貴方は一体どなたですか。

問いかける言葉に彼はもうちっとも痛くない肌でそっと微笑んだ。

はじめまして、我が友よ。
俺は、

「俺の名前は、ーーー」





それまでの久遠までともつかの間を 誰も命を生き延びてゆけ




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挿入短歌は朽木祐「鴉と戦争」から引用。