醒めない冷めない覚めない
「診察終わった?」
「はい、問題ないと判断いただきました」
「そりゃよかった」
高専の廊下で出会った五条さんは医務室から出てきた私にそう言って笑った。家入さんからの定期診察を終えた私は彼の隣に並んで歩く。
「七海が術師に復帰するって話は聞いた?」
「はい、家入さんから伺いました」
「じゃあ感想タイム。どう思った?」
「私は七海の選択を尊びます」
「いいの?死ぬかもよ?」
「術師に悔いの無い死はないと夜蛾さんは仰っていました。だからこそ、せめて悔いの無い生を選んで欲しいと思います。術師だろうとそうでなかろうと人はいつか死にますから」
「お前は変わらないねぇ」
「……良くない思考でしょうか?」
「まさか、お前の良いところが変わってないって話さ」
廊下の向こう側から高専の生徒が「苗字さーん!こんにちはー!」とこちらに手に振る。それに笑って手を振り返せば「また今度ご飯いきましょーねー!」と大きな声で返された。
「ウチの子たちとよくやってくれてるね」
「みんな素直で良い子達です」
「お前、変わったな」
「良くない傾向でしょうか?」
「まさか、良いことに決まってるだろ」
高専を卒業してからも私は相変わらず人の気持ちを理解しきれない。それでも時を経て、どう人と関わっていけば良いのか、わかりはじめている。
私は人より感覚が鈍い。感覚だけではなく、感情も。だから、少しでも嬉しいと思ったら大きく喜ぶ。少しでも悲しいと思ったら大きく悲しむ。そうやって普通の人の基準に合わせていけば、少し生きやすくなった。不理解のために人を傷つけることが減った。
今の私なら、いつかの七海をあんなふうに傷つけることもないだろうか。
「復帰つっても四年のブランクはデカイからね。今度七海と一緒に任務に行かせるよ」
「はい。彼が嫌でないのなら、構いません」
そう返せば五条さんは「人の気持ちを考えられるようになったねぇ」とグラグラと頭が揺れるほど私のことを撫でた。
「ま、嫌でも行かせるよ。アイツにはお前に冷血なんて言ったこと、謝らせないといけないしな」
「私は気にしていませんよ」
「お前は気にしてもなくて七海が気にしてるに決まってるだろ。どうせ僕が言わなくても勝手に謝ってくるだろうから、そしたらめちゃくちゃに恨み言言ってやれよ。バーカ、ハーゲ、ウンコー!って」
「悪口を言ってはいけませんよ。五条さんはもう先生なんですから」
そう返せば彼は「知らねー!」と言ってけらけら笑った。
などと言っていたわりに、数ヶ月経っても七海と任務に行くどころか、彼に会うことすらなかった。
「七海が入れる案件と、お前の出張が被りまくってんだよ。苗字、お前ホイホイ出張案件受けんな」
「そんなこと言われましても。任務を取捨選択できるほどの権力は私にはありません」
「そういう時は伊地知に言えよ。任務調整も世界平和も環境問題も伊地知が全てを解決する。なっ!」
「ヒッ……が、がんばります……」
「頑張るじゃねーんだよ、努力はいいから結果を出すんだよ、オラッ!」
「ヒィッ!」
「五条さん、伊地知くんをいじめないでください」
「苗字さん……!」
家入さん行きつけの居酒屋で、一滴も飲んでない五条さんが管を巻いて伊地知くんに絡む。そのやりとりに口を出すと伊地知くんにキラキラとした目を向けられるが、彼の受難は五条さんがそばにいる限り続くだろう。焼け石に水という言葉が頭に浮かんだ。
4人用の座敷席を囲んでご飯を食べていると、それまで沈黙していた家入さんが口を開いた。
「実際問題、冗談抜きで出張案件は控えろ。苗字、お前は自分が定期検査が必要な人間だって自覚を持て」
「それは、申し訳ありません……」
「一概にお前が悪いと言えないが、断れるものは断れ」
「はい、今後はそうします」
「うわ、硝子には殊勝じゃん」
その素直さを僕にも出してよ、と言われるが私はいつでも誰にも素直なつもりだ。
「よし、じゃあ、七海呼ぶか」
急に五条さんがそんなことを言い出した。
一体何が何処に接続して「じゃあ」なのかわからないが、唐突に思いついたらしい五条さんが携帯を弄り出す。
それを見て伊地知くんが腕時計に目を落として慌てる。
「ご、五条さん、もう9時ですよ」
「絶対来ないだろう」
「苗字いるって言ったら来るだろ」
「来ないと思いますよ」
「来なかったら今度から七海のこと、腰抜けって呼ぼ!」
「時間も時間ですから、人の都合も考えてあげてくださいね」
一応そうは言ってみるが、五条さんは気にすることもなくさっさと携帯を耳に押し当ててしまった。
「もしもーし!七海ー!暇ー?よし、暇だな。さっき住所送ったろ?今からそこに集合な。おい、先輩に対してなんだその舌打ちは。連打すんな。太鼓の達人かよ。えっ?えー?んー、任務任務。ほら、苗字もいるから。いや、任務だよ。マジマジ。緊急任務だからすぐ来いよ」
「流れるように嘘つきますね、この人」
「七海も可哀想だな。嘘だろうとわかっててもアイツのことだから多分ちゃんと武器持って来るぞ」
「真面目な人間が損する世界……」
伊地知くんが悲しそうに呟いた。
携帯をポケットに戻した五条さんが「七海来るってー!」と元気に言った。
「来るというか、来させたんですよね」
「苗字も飲んどけ!」
「いえ、下戸なので」
「じゃあ水飲んどけ」
「はい」
五条さんに渡された透明のグラスに素直に口をつける。
「あっ」
「……ぁ、え?」
一口、口に含んで嚥下してから、それが水ではない事に気がついた。
「あああ!それ、私のジントニックですよ!」
伊地知くんが言うのは少し遅かった。
アルコールを体質的に受け入れない私は一口だけでもダメなのだ。アルコールを摂取したことに気がついた瞬間、ぐわんと頭の中身が一回転するような感覚。ぼやける視界、思考。膨れ上がった吐き気を飲み込むように口に掌を当てる。
「あー!伊地知が苗字に飲ませたー!」
「わ、私っ!?確認せずに渡したのは五条さんじゃないですかぁ……!」
「苗字、大丈夫か」
「…、……?…??……らいじょうぶ?れす」
「ダメそうだな」
目線が下がる。座敷に崩れ落ちる。眠い。立てない。ただでさえ鈍い感覚がさらに鈍くなる。寒い。暑い。指先が震える。起きようとしても、体が言うことを聞かない。あれ、おかしいな。
「苗字、いいから寝ていろ」
声が上から降ってくる。声のほうへ視線を向けると、家入さんが私の背中に手を伸ばしているのが見えた。撫でてくれているのかもしれない。その感覚はないけれど。家入さんが寄せてくれた膝に頭を乗せる。それだけで息がしやすくなった。
暑い。熱い。寒い。寒い、冷たい。冷たい板間に触れる指さえ冷たい。重くなる瞼。目を閉じる。真っ黒な視界の中で、食器やグラスの音、人の声、足音、それらがすべて重なり合った層のような音の群れだけが聞こえる。
つめたい。冷たい。……冷たい?……灰原、私は……つめた、
七海が来た時にはもう解散寸前の様相だった。
「おっ、七海じゃーん。おらよ、駆け付け一杯。苗字の飲み残しだけど」
「は?」
「元はと言えば私のジントニックなんですけど……」
「は?」
五条、伊地知、家入が囲む座敷テーブル。その家入の座っているあたりから不自然に足が伸びていた。覗き込めばそこには約四年ぶりに顔を見たかつての同輩の姿がある。彼女は赤らんだ顔のまま、家入の太腿を枕にしてすっかり寝入っていた。
「五条さん、一応確認しますが、任務とかいう戯言は?」
「見ての通りだよ」
「嘘なんですね」
「鉈持ってきた?」
「……持ってきました」
「マジ?ウケんね」
「何もウケませんが」
嘘だろうことはわかってはいたが、万が一を考えて武装してきた七海は深く溜息を吐く。伊地知が同情の目でこちらを見てくるが、そう思うのなら止めて欲しかった。まあ、傍若無人を絵にしたような男を気弱な伊地知が止められるはずもない。こうなるのは必然だったのだろう。
七海はもう一度息を吐くと、靴を脱いで座敷に上がる。どうせ会計は五条だ。少しでも財布に負担をかけて帰らなければやるせない。
「苗字はどうしたんですか」
家入の膝枕ですやすや眠るかつての同級生に一瞥をくれると、七海は彼女が飲みきれなかったらしいジントニックを水でも飲むように胃の中に流し込んだ。
「下戸なんだよ、コイツ」
「なんで飲んだんですか」
「五条が水って言って渡して飲ませた」
「最低ですね。アルハラって知ってますか?」
「アルゴリズム体操ハラスメント?目の前でアルゴリズム体操を踊るのを見せて同調圧力で無理やり踊らせるやつ。よっしゃ、伊地知、ちょっとそこでアルゴリズム体操してて」
「それはただのパワハラです」
七海は通りすがった店員を止めて、八海山を注文した。
それから、横たわる苗字を眺める。
四年のぶりの彼女は高専の頃より髪が伸び、化粧を覚えたのか以前よりずっと垢抜けた様子だった。仕事終わりなのか、パンツスタイルのスーツは年相応に彼女に似合っている。
今の彼女と話をしてみたいという気持ちはあるが、それ以上に合わせる顔がないという気持ちもあった。
どんな理由であれ、七海は最悪の別れ方をしてしまったのだから。きっと、彼女はそんなことさえ気にしてはいないのだろうけれど。
どちらにせよ、久しぶりの再会にしては情緒が無い。
なにせ騒がしい居酒屋の上、片方は酔って寝ている。
苗字はまだ今の七海の顔さえ知らないのだ。それが少し、寂しくも思える。そう思ってからそんな思考を自嘲した。自分は一体何様のつもりなのか、と。
「七海と苗字をさあ、早く同じ任務に行かせたいんだけど、タイミングが悪くてねぇ」
五条はカルピスを揺らして笑った。
「お前ら、まだ顔合わせて話してないだろ?だから呼んだんだけど」
「五条が苗字を潰した」
「はいはい、僕のせい僕のせい」
四つ足をついてバタバタと座敷を移動した五条は家入のそばに近寄って、眠る苗字の顔を覗き込んだ。それから顎に両拳を当て、わざとらしく声を上げる。
「え〜!寝てる〜!かわいい〜!」
「寝かせた原因がなんか言ってるな」
「えい!えい!」
五条は寝ている苗字の頬を強めにつついたが、彼女は反応しない。されるがまま、薄く開いた唇からはすうすうと寝息だけが生まれる。
「かわい〜〜!口ん中に指突っ込んでいいかな?」
「やめておけ、吐くぞ」
「五条さんってそんなに苗字を可愛がってましたっけ」
「んー?まー、五条家と苗字家は割と縁があるからねえ。付き合いだけならガキん時からだよ」
そう、だっただろうか。高専の時はそんな素振りはあまり見せていなかった気がしたが。
「うちも苗字の方も放任だからさ、昔は放っておいたけど気が向いて可愛がったら可愛いのなんの。イグアナを飼うってこんな感じなんだろうな〜」
「例えのチョイスが謎すぎませんか?」
「何考えてんのかさーっぱりわかんないとことか良いよね」
「……相変わらず、彼女はそんな感じなんですか」
思えば、七海はずっと苗字のことがわからなかった。
言動から見える他人への共感性の低さ。
過程をすっ飛ばしたような突発的な行動。
何が起こっても変わらない表情。
いつだって、苗字の心と七海の心の間には深淵のような溝があった。そんな彼女に歩み寄れる灰原が亡くなってからは、特に。
「そうは言っても、七海が術師やめてから苗字は変わったよ」
勿論良い方向にね、と五条は七海に笑いかけた。けれどその笑みには何処か意地の悪そうな含みがあって、七海は酷く居心地の悪い気分になる。
その気分ごと飲み干すように、七海は運ばれてきた酒を煽った。
それから小一時間ほど飲んだが、結局苗字は起きなかった。帰り際に五条は七海に苗字を押し付ける。眠って意識のない苗字のぐにゃぐにゃになった体を、七海はほとんど抱きかかえるようにして支えた。
「じゃ!苗字のことよろしく!」
「いや、苗字の家を知らないんですが」
「僕も知らなーい」
「私も知らないな。高専に戻ればカルテに書いてるだろうが」
「あ、では私が、って、あああ、五条さん……」
伊地知がタブレットを取り出した瞬間に五条にそれを奪われる。
「はい、みんなわかんない。あー、これはもう七海ん家に連れ帰るしかないなー!七海ぃーよろしくー!」
「そのタブレットでわかるんですよね?」
「わかんないわかんない、じゃあね」
「可愛がっている苗字が男の部屋に連れ込まれていいんですか」
「コイツに手を出せるような面の皮の厚さがお前にあるならな」
五条は挑発的に笑うと、呼んだタクシーに伊地知を押し込んでタブレットを投げ込んだ。頼みの綱からも引き離されて、こうなってはもう彼女を自宅へ連れ帰るほかなさそうだ。
諦めたように息を吐く七海の肩を五条は叩いた。
「明日はお前も苗字もオフ。ゆっくり話でもしなよ」
続くように家入も口を開いた。
「怪我だけはさせるなよ」
「どんな心配ですか。……させませんよ」
背中には鉈がある。背負うわけにはいかない。七海はぐでんと柔らかい苗字の体を正面から、自分の右肩に彼女の頭が来るように腕で抱え直す。躊躇いなくこちらにかけられる体重に、意識がないが故とわかっていても、少しだけ許された気がした。そんなこと気のせいだとわかっているけれど。
「はいはい詰めて詰めて」と伊地知を押し込んだタクシーに相乗り五条と家入を見送って、七海もまたタクシーを拾って自宅へ向かう。後部座席に座って、七海の肩に寄りかかって眠る苗字が倒れないように。それだけを気にかけた。