加害者マニュアル



目が覚めると知らないベッドの上にいた。
隣には見知らぬ男性が寝ている。金色の髪のその人は横向きの体制のまま、薄く開いた唇から呼吸を繰り返していた。

昨晩の記憶は間違ってお酒を飲んでしまったところまでで途切れている。
寝起きで回らない頭のまま、半身を起き上がらせて自分と男性の体を確認した。お互い衣服は纏っている。どちらもスーツのジャケットを脱いだだけの格好でベッドで眠っていたらしい。
体に痛みはない。あちこちを手で触ってみるが、怪我もなさそうだ。単に見知らぬ人と言葉通りの意味で寝ていただけのようだった。それもなんだか、不思議な気がする。

どうしたらいいのだろう。
一度五条さんに電話して報告したほうがいいだろうか。何かあったらすぐ連絡しろと言ったのは彼だったし、家入さんだった。


おはようございます。五条さん。朝起きたら知らない人の家で知らない人と寝ていました。どうしたらいいでしょうか。


なんて、20代も半ばになってそれは流石に迷惑か。
なんにせよ、それを判断するのはこの男性と話をしてからでもいいだろう。

ベッドから起き上がり、彼を起こさないように慎重に立ち上がる。それから静かに部屋を出て、リビングへ向かった。起きた時に隣に知らない人がいては彼も驚くかもしれないと思ったのだ。

整頓されたリビングの窓際に寄って陽の光を浴びる。
壁にかけられた時計は8時を指していた。今日がオフでよかったとぼんやり思う。
眩しい朝日に包まれながら、私はルーチンのように自分の額に手を当てた。

……灰原、私は冷たいと思う?
記憶の中に問い掛ければ、色褪せることのない彼は笑って答えた。

平熱だと思うよ!






「熱があるのか?」
不意に背後から声をかけられて、振り向く。そこには先ほどまで寝室にいた男性がまだどこか眠たげな表情のままリビングの入り口に立っていた。改めて彼を見るけれど、やはり記憶にない人だ。

「……いえ。これは癖みたいなものです」
「なら、よかった」
彼はそれだけ言って口を閉じた。私も何も言わないから静かな部屋は沈黙に満たされる。

……何を聞こう。
あなたは誰ですか?
昨日の記憶はありますか?
私がすぐに出て行くべきでしょうか?

そんなことを考えていると、彼は少し眉間に皺を寄せてから「七海」と懐かしい苗字を口にした。

「七海だ。覚えていないか」
その言葉を聞いて、過去の記憶の中の人と目の前の人が結びつく。七海、七海建人。金色の髪と碧眼、穏やかな低い声。言われてみれば確かにかつての彼の特徴に合致している。

「……ああ、覚えてます。覚えてる。七海。七海建人。君は、私の友達の七海だ」
そう返せば彼はどうしてか苦々しい顔をした。
何故だろう、と考えて、彼はもしかしたら私を友達だとは認識していなかったのかもしれないと思い至る。
そうかもしれない。彼に付随する記憶は決して穏やかなものだけではない。私は彼を一方的に好いているが、彼は私のことを快く思っていない人であったことを思い出す。離れていた時間の間にそんなことも忘れてしまっていた。そのせいでまた、彼を傷つけてしまう。

「……ごめん」
「どうして、謝る」
「良くない物言いをしてしまった」
「そんな事はない。思い出してくれて嬉しかった」
彼はそう言って、リビングの三人掛けの大きなソファの端に腰掛けた。それから私にも座るように促す。それに従って、彼から一人分程度距離を空けて反対側の端に座った。

「昨日の記憶はどこまである?」
「五条さんたちとご飯に行って、間違ってお酒を飲むまでは覚えてる。私、下戸で飲めなくて」
「それは五条さんから聞いた。災難だったな」
「うん。七海はその後に来たの?」
「ああ、私も少し五条さんたちと話をして、他の3人が貴女の家がわからないというから私の家に連れて帰ってきた」
ぽつりぽつりと会話を続ける。座ったまま膝の上で手を組んでいた彼は「誓って言うが、何もしていない」と言うから、うなづいた。
「その心配はしてないよ。私の方こそ迷惑かけてごめん。介抱してくれてありがとう」
そう返せば彼は私の方を見て、少し息を飲んだようだった。何か変なことを言ってしまっただろうかと思って視線を向けると、彼はなんとも筆舌がたい表情で「いや」と目を逸らして、否定するように呟いた。彼が五条さんから「苗字はいい方向に変わった」という話を聞かされていたことなど、その時の私には知る由もない。

「でも、おかしな話だね。五条さんも家入さんも、私の家に来たことあるのに」
「……なんだと?」
七海は一度逸らした目を再びこちらに向けると、驚いたような顔をした。それから深く息を吐いて「嵌められた」と呟いた。


「少し話をしたい。時間はあるか?」
「うん。今日はオフだから大丈夫」
「朝食を取りながら話そう。買い置きのパンくらいしかないが、それでいいか?」
「うん。ありがとう。手伝うことある?」
「いや、大丈夫だ。洗面所はあっちだから、顔でも洗ってきてくれていい」
「じゃあ、お言葉に甘えるね」
彼は洗面所まで案内してくれて、男物だから使えるかわからないがと前置きした上で洗顔料や化粧水などを出してくれた。「至れり尽くせりだ」と笑みを見せれば、彼は少し戸惑ったような顔をして「いや、なにも……」とだけ呟いて、キッチンの方へ戻っていった。

思えば化粧も落とさずに寝てしまった。鞄の中には最低限のメイク道具もあるしと思い、借りた洗顔料で化粧を落とす。ベタついた油が落ちるような感覚。水気のある顔をタオルで拭いて、リビングに戻ると七海が何処かのお店で買ったらしいパンと淹れたコーヒーを用意してくれていた。

「ありがとうね、七海。今度お礼するよ」
「気にしなくていい。これから術師として世話になるのは私の方だ」
「そうかな、七海はすぐにブランク取り戻しそうだと思うけど」
用意してもらったコーヒーに口をつけながら「今の等級は?」と問うと「二級」と返ってくる。

「働き次第で昇級推薦を出すと、五条さんが」
「じゃあすぐだね」
「そう簡単にはいかないでしょう」
「五条さん、寂しがりだから早く仲間を増やしたいんだよ」
「それで身の丈に合わない等級を与えられても意味がない」
「そんなことにはならないよ」
「何故わかる」
「五条さんは将来性のない人に「推薦出すかもしれない」なんて先の話するような人じゃないから」
七海が用意してくれたシナモンロールを齧る。七海もまたタイミングを合わせるようにエトランゼを食べるから、再び二人の間に沈黙が降りる。私は不快ではない沈黙だと感じているが、七海はどうなのだろう。わからないな。

「苗字」
「うん」
「貴女は、……」
七海は少し間を置いてから「貴女の近況を聞いてもいいか」と問う。なんとなく、それは本当に聞きたかったことではないのではないかと思ったが、彼が尋ねない以上、私には判別がつかないから、問われたことだけを答える。

「近況といっても何か大きなことが変わったりはしていないよ。相変わらず、受けた任務を遂行するだけの毎日」
「術師らしいな」
「術師だからね」
「……辛いことや苦しいことは無いか。術師をやめてしまいたいと思うようなことは、」
「無いよ」
私はパンをテーブルに置いて、七海を見た。
それだけで、彼はどうしてか怯えたような、理解できないものを見たような顔で私を見る。

どうしてそんなことを聞いたんだろう。
彼は本当はわかっているのに。
私がそういうものだということを。
だから、かつて七海は私を理解できなくて、遠ざけようとした。私が傷つけばいいと思って「冷血」だと吐き捨てた。全部意味ないのに。


そんなもの、傷にもならないのに。


「わかってるんでしょう、七海。無いんだよ。私にそういう感情は無いんだ。何も感じてない。何も変わっていないよ、今の私は七海が理解できなくて、嫌いだった私のまま。共感性が低くて、善悪の区別が曖昧で、感情の機敏に疎い、君が言った通りの冷血な生き物のままなんだよ」

ねえ、七海、期待した?
私が変わったことを。

「私がありがとうって言った時、変わったって思った?笑った時にようやく感情が理解できるようになったって思った?そんなの全部まやかしなんだよ。普通の人間は人に何かしてもらったらありがとうっていうよね。普通なら友達と再会したら笑うよね。普通なら人に殴られたら泣くよね。だから、そうしてるだけ。プログラムと同じ。そういうふうに人間を真似て、システム的に行動しているだけなんだよ」

私は笑った。
七海は固まったまま、呆然と私を見つめている。

「ねぇ、七海」

意図的に他人を傷つける時、人間は笑う。
だから、私は明確な意図を持って七海を傷つけるために、口角を上げて嗤った。


「私は灰原が死んでも、何も思わなかったよ」


七海、人を傷つけるってこうするんだよ。










他人に傷つけられた時、人はどうするだろう。
怒る?怒るかもしれない。時に怒りはそのまま殺意に変化する時もある。
あるいは悲しむ?理不尽に与えられる心の痛みに苦しむのかもしれない。

七海が用意してくれたパンを食べ、コーヒーを飲み干す。
「七海、洗面台借りるね」
あとはタクシーに乗って家に帰るだけだけれど、軽く化粧くらいはしておこう。鞄からポーチを取り出して洗面所へ向かい、軽く身嗜みを整える。それから再び寝室へ行って、おそらく昨晩七海がハンガーにかけてくれたのだろうジャケットに腕を通す。

それからまたリビングに戻ると、七海はソファに座って項垂れたままそこにいた。何も言わず、何もせず、膝に腕をついて、床を眺めたまま、動かない。私が最後に言葉を吐き捨ててからずっと変わらずに。

彼は今どんな気持ちなんだろう。わからない。
怒っているのかな。悲しんでいるのかな。
そんなこと私にはどうでもいいけれど。

私はリビングのテーブルから自分が飲んでいたコーヒーのカップを手に取ると、キッチンのシンクへ置いて水につけた。静かな部屋に私が立てる物音だけが響く。

「七海、他に聞きたいことはある?」
彼はソファに座ったまま動かなかった。顔を上げることも、冷めたコーヒーに手をつけることもなく。
長い沈黙の果てに、音が聞こえた。

「……すまなかった」
掠れた、小さな音みたいな声が私の鼓膜を揺らす。
苦しみ抜いた果てのような声。

「……冷血などと言ってすまなかった。置いていって、1人にして、すまなかった。あの時、貴女に手を上げて、すまなかった」
泣き出す直前のような声。

だから、私は笑った。
笑った。
嗤った。

楽しく遊ぶ子供みたいに声を上げて笑う。
私の笑う声だけが静かな部屋でハウリングみたいに響き渡った。
あはははっ!はは、ははははっ!

「バーカ、ハーゲ、ウンコー」
あははははははっ、あはははっ!

私は鞄を手に取って、玄関に向かい、扉を開けて外へ出た。それからエレベーターに乗って、マンションを降りる。その間ずっと笑っていた。明るい日差しが降り注ぐ良い天気の日だった。


『違うよ、苗字』
頭の中で誰かが言った。灰原の声に似ていた。馬鹿らしくて、鼻で笑う。何が違うの。七海は許されたくなかったんだよ。責められたくて、傷つけられたくて、あんなふうに謝ったんだよ。

『違うよ』
誰のせいだと思っているの?勝手に死んだくせに。七海が苦しんだのは君のせいだ。七海が悲しんだのは君のせいだ。君が死ななければこんなことにはならなかった。

『苗字』
「私は冷血だ」
『違うよ』
「私は冷たい」
『平熱だと思うよ』
「うるさいな、死人のくせに」
私と君が、あの優しい人を傷つけた。

『苗字、違うよ』
「……うん、そうだね」

七海を傷つけたのは私だけだからね。