二人の仏の二度目の顔



「苗字との仲直り大作戦、大失敗だったってマジ?」
「……その話はどこから?」
「苗字が何も報告してこないからそうかなー?って思ってカマかけただけなんだけど、……えっ?マジ?七海、お前何したわけ?襲った?」
「襲ってません」

あの日から数日後、高専で五条と顔を合わせた七海は自分の心臓がキリキリと痛むのを感じた。
あの日の朝のことが未だにフラッシュバックのように鮮明に蘇る。初めて聞いた彼女の楽しそうな笑い声。悪意なんて少しもないのに、人を傷つける術を自在に使って、七海の心にナイフを刺した、あの朝。

「じゃあなんで?仲直りも許すもなにも、アイツ、お前にされたことなんか塵ほどに気にしてないだろ」
「不用意な発言で私が勝手に自爆しました」
「なんつったの?」
「……術師をしていて辛いことや苦しいことはないか、と尋ねました」
「ふーん?それの何がアウトだったわけ?」
小首を傾げる五条に、七海は懺悔するように目を閉じ、深く息を吐いてから言葉を紡いだ。

「……私は勝手に、彼女がもうあの頃の彼女とは違って、普通の人間になったのだと思い込んでいました」

『苗字は変わった。今の苗字は他人の気持ちが理解できる。他人の心に共感し、その行動に至った理由が推察でき、その場に適した表情を心からすることができる』

なんて、そうであって欲しいと願った自分の理想を彼女に押し付けた。
だから、彼女はそれを否定した。
七海にも理解できるように、明確にわかりやすく、七海の勝手な期待を跡形もなく殺したのだ。

あれはきっと、七海がもう苗字の性質によって傷つけられないように、勝手な理想に裏切られないために彼女が張ってくれた予防線なのだろう。
いや、それさえ七海の勝手な理想に過ぎないのかもしれないけれど。


「うわー、拗れてんな、お前ら」
「元はと言えば、私が悪いのですが」
「アイツが冷血なのは事実だけどな」
「それさえ、理解して受け入れるべきだった。五条さんが軽薄な人間であることを理解するように、苗字がああいった性質の人間であることを理解して、受容するべきだったんです」
「ん?今、僕のことディスる必要あった?」
「彼女は彼女なりに周囲に適応しようとしていたのでしょう?それなのに、私だけが彼女に一方的に変わることを強要するなんて、最低だ」
「スルーかよ」
珍しくわかりやすく落ち込んだ様子を見せる後輩の肩を五条は慰めるように叩いた。せめて第三者がいる場で話させるべきだったな、と反省しているのは五条も同様なのだ。

「……苗字に謝罪をしました」
「別に怒ってないだろ、アイツ」
「はい。怒ってはいませんでしたが、罵倒されました」
「は?苗字に?」
「「バーカ、ハーゲ、ウンコー」と言われて、正直ものすごくショックだった」
「あー……」
確かに謝られたらそう言えと言ったけれど。言ったのは五条だけれども、まさか本当に言うとは思わなかった。マジで何考えてんのかわかんねぇな。ミドリホソカロテスかよ。

厄介なことになったな、と五条は頭を掻く。
七海はクールに見えてその実、情に厚く、他者への共感性が強い。
苗字とは真反対の性質なのだ。
ストレスには耐えられるが強いわけではない。下手にいらないストレスを抱え込ませて、以前のように潰すわけにはいかない。


「七海」
「はい」
「お前はさ、どうしたいの?」
終着点を見つけなくてはならない。
仲直り、なんてただの言葉遊びだ。そもそも七海と苗字の間に起こったのは喧嘩では無い。一方的に七海が感情をぶつけただけのこと。
まして苗字は気にしていないし、怒っていないし、悲しんでもいない。どうとも思っていないのだ。きっと今日、七海がなんでもない顔で話しかければ、彼女は当たり前のように受け答えするだろう。


だから、問題は七海だ。
この件は結局のところ、七海がどうしたいかによる。
もう苗字と付き合いきれないと言うのなら、彼らは引き離したほうがいい。
許されたいというのなら既に許されている。
きっと、関わらない方がお互い平穏でいられる。その選択は悪いことじゃ無い。


「私は、」
七海は俯き、耐えるように眉間に皺を寄せた。
私はなにがしたい?どうなりたい?

彼女を理解したいわけじゃない。他人を理解できるなんて驕ったことを思っているわけじゃない。

──それでも、七海はいつか彼女が笑っている姿を見た。

初夏の日差しの降り注ぐ中庭で、彼女は灰原と笑っていた。それをいつか、七海は影のさす廊下から窓越しに見つめていた。

あの景色を、尊いものだと思っている。

取り戻せるものじゃないとわかっている。
それでも、あの朝のようにではなく、あの初夏の日のように彼女が笑う姿が見たい。
そう思った。
本当はずっとそう思っていた。


私は、
私はただ、彼女と、

「……苗字と友達になりたい」


吐き出した言葉は大人の言葉らしく無かった。
それでも真実だった。

友達になりたい。
苗字は七海を友達だと言った。
けれど七海はずっとそうは思えなかった。
傷つけて、殴って、一人にして、それで友達なんて七海には言えない。
それでも、彼女が言ってくれたその言葉を今度こそ本当にしたい。

助けを必要とするのなら手を差し伸べたい。
もうひとりきり置いていきたくない。
悲しいのならば悲しいと伝えて欲しい。
それが彼女にとってどれだけ意味がなくても、どれだけ価値がなくても、どれだけ難しいことであっても。
貴女のそばにいる人がここにいるのだと、信じて欲しい。
もう何度も裏切った自分にそんなことを言える資格は無いとしても、どうか、彼女に信じてもらえる人になりたい。

やり直したいわけじゃない。
七海はまだスタートも切れていないのだから。

そんな七海に五条は穏やかに声をかけた。

「苗字と感情を共有するのは難しいよ。アイツはそれを根本的に理解していない」
「でも、悲しんでいました。灰原が死んだ時、彼女は確かに悲しんでいた。あの時の私にはわからなかったけれど、そうじゃなきゃ机を片そうなんてしない。あの時の私たちはきっと悲しみを共有できたはずなんです」
私たちは話をするべきだった。あの拳は振り上げるべきでは無かった。自分だけが傷ついているだなんて、思うべきじゃ無かった。

冷静になって考えればわかるはずだ。
何も思っていないのなら、人は何もしない。行動の根源にあるのは感情だ。
あの日灰原の机を片そうとしたのは、彼女がそれに対して何かを思ったからだ。

もう誰も座らない席があることが、悲しかったんじゃないのか。
不在であることが視覚化されて、灰原がもういないことを認識することが苦しかったんじゃないのか。
あるいは、私がそう思うだろうと、彼女は想像したんじゃないか。
答えは七海の中には無いけれど。


「……七海、お前みたいな真っ当な感性のある奴が苗字とやっていくのは辛いよ」
「わかっています」
「理解できないもの、傷つけてくるもの、相性の悪いものから離れるのは何も悪いことじゃない」
「わかっているんです」
「アイツの理解者がお前である必要はない」
「ええ、わかっています」
「七海」
「私の我儘です。私がそうしたいと思っているだけなんです」
「それをアイツが望んでなくても?」
「…………それでも、」
「七海、術師の家系に生まれた人間はね、大なり小なりおかしくないとやってけないんだよ。そういうふうに育てられて、そういうふうに生きていく。悲しいことじゃない。ただそうであるだけのことだから。けどな、お前みたいなまともな奴がそばにいると、自分の異常性に気が付かされる。おかしいのは自分なんだって理解させられる。アイツは今その途中なんだよ」
「……それは、苗字にとって辛いことでしょうか」
「さあね、それはアイツに聞かなきゃわかんないよ」

五条は笑った。
笑って、指を二本立てる。

「七海、お前はもう二回失敗してる。次がダメならもう無理だ。僕は苗字の身内として、お前がアイツに近づくことを阻止する」
「……五条さん、それは、」
「ラストチャンスだ。ゆっくりやんなよ。次失敗するまでは、僕も硝子もお前の味方になってやるからさ」
「……ありがとうございます」
「ミスったら敵に回ると思っとけよ。骨も拾わねーからな」
「ええ、言われずとも」
腹を括ってうなづく七海に、五条はへラリと笑った。
五条は可愛い後輩である七海も、妹分のような苗字のことも好きだ。より良い未来があるのならば、そこに至って欲しいと強く願っている。

「今のお前は等級もわかんないのに任務に行くようなもんだよ。何をしなきゃいけないのか、わかるか?」
「ええ、わかっています」
情報も無しに戦うことはできない。データがなければ戦略も立てられない。七海はまだ今の苗字のことを知らない。
情報を得る。得た情報から戦略を立てる。戦略の中で最善の手だけを選択する。
背水の陣となった今、できるか、ではなく、しなくてはならないのだから。








「私はお勧めしないがな」
高専の医務室の椅子に深く腰をかけ、長い脚を組んだ家入はいつも通りの無表情で七海にそう言った。
五条以上にリアリストの家入にならばそう言われるだろうと想像していたが、改めて言われるとクるものがある。

「理由を伺っても?」
「お前との交流が苗字のためになるとは思わないし、苗字との交流がお前のためになるとは思えない」
「良い方向に行く可能性はない、と」
「無いとは言えないがな。現状を顧みるに、最良は「ただの同僚として適度な距離感を保つこと」だと思っている」
わざわざ泥濘に足を踏み込む必要などないと彼女は告げた。

「とはいえ、今後術師としてアイツとやっていくなら最低限のことは知っておいた方がいい」
家入は作業机に置いていた苗字のカルテを手に取ると、「苗字は定期的に検診を受けている」と言った。七海にとっては初耳のことだった。

「何処か悪いんですか」
「何処が悪いかを検診している」
言葉遊びのように返されて、七海は首を傾げる。
その疑問に答えるように家入は口を開いた。

「無痛症って知っているか」
「言葉の意味くらいは」
「十分だ。苗字は後天性の無痛症を患っている。後天性と言ってもそうなったのはおそらく幼少期。アイツも気がつかないうちに家の人間に薬か呪具か呪いか、そんなもんで人工的にそうされた」
「……高専に入る前には既に?」
家入はうなづいた。
それから「五条も学長も、誰も気がつかなかったことだ。お前が気に病むことじゃない。私でさえそれに気が付いたのは3年前だ」と少しだけ悔やむような声音でそう呟く。
苗字がそうであることが露見する際に何か大きなことがあったことは家入の声音だけで理解できた。

「とにかく、苗字は痛覚が鈍い。正確にはあらゆる感覚が鈍いんだが、特に痛覚が絞られている。殴られたり、骨を折ったりする程度じゃ痛みは感じない」
そこで七海は理解する。
「だから、彼女が気がつかないうちに怪我をしていないか、確認のために定期検診をしているということですか」
「そういうことだ。怪我だけじゃなく、盲腸になっていようが呪詛を受けていようが痛みがないから気がつかない。だから医者が体を診て異常がないか確認してるんだ」
家入はカルテから目を離さずに言葉を続ける。
「だからアイツと任務を終えたら、見た目上怪我が無くても必ずここに連れて行くように」
「わかりました」
「まあ、その辺はアイツも理解しているから問題ないだろうけどな」
家入はカルテを机へ放ると、膝の上で手に組んで七海を見た。


「本題はここからだ」
七海は黙ってうなづく。

「苗字は痛覚が鈍い。痛みだけじゃない。あらゆる感覚が薄いんだ。怪我をしても痛みはない。セックスをしても快楽はない。何を食べても味を感じない。感触と温度はまだわかるみたいだがな」

そう言われて、頭では理解できる。
苗字はあらゆる感覚が鈍いのだ、と。

ただ、実感は湧かない。

あの朝に苗字はパンとコーヒーを朝食として摂っていた。あの時、彼女はそこに味を感じなかったのだろうか。そんな素振りは見せなかった。いや、それさえ彼女にとってはいつも通りの当たり前のことだったのかもしれない。
高専の時、七海は彼女に手を上げた。あの時も痛みは無かったのだろうか。彼女は痛がっていなかっただろうか。

うまく、思い出すことができない。


「人は殴られれば痛みを感じる。痛みを感じれば危機感を感じる。危機感は恐怖や悲しみという感情に繋がる。負の感情だけじゃない。頭を撫でられれば人はそこから安堵や幸福感を得る」
そこまで言って、家入は「普通の人間はな」と付け足した。

「だが苗字は違う。痛みを感じないから、危機感も恐怖も悲しみもない。感覚が鈍いから優しく触れられても安堵を感じない。人の感情というものは外部からの刺激がないと生まれないんだ。その刺激を感じる機能が乏しい人間の人格が乏しくなるのは自明の理だろう」
七海、と家入は硬い表情をする男を見つめた。

「お前がこれまでの人生で得てきた全てが今のお前を構成しているように、苗字もまた過去の積み重ねの結果、今の苗字という形に構成されてきたんだ」
これを変えることはできない、と暗に告げる家入に、七海は深くうなづいた。

「理解できます。変化を望むという方法は解決の手段にはなり得ない」
「その通りだ」
「ならば、問題ありません。私はもう彼女に理想は押し付けない。彼女のそのままを受け入れます」
「いいのか。それじゃ振り出しに戻るだけだろう」
七海がどうしたいのか、どうするのか。
それに気が付いた家入はそんな問いかけをした。けれど、七海はようやく穏やかな表情をして、うなづくだけだった。

「人と人が対峙するというのは、そういうことでしょう」
人と人が本気で対峙する時、そこには不理解の畏怖と責任が伴う。
傷つくこと、傷つけられること。
向き合うのならば、それからは逃げられない。そんな当たり前のことをようやく理解する。


「もう逃げません、何からも」
腹を括った七海の表情に、家入は思わず神妙な顔で黙り込み、それから小さく息を吐いてから彼の名前を呼んだ。

「七海」
「はい」
「お前、もしかして苗字を愛しているのか?」
「…………はい?何故そうなるんですか」
「お前に苗字が救えるか」
「……家入さん、」
「黙れ小僧」
「……貴女、五条さんに似てきましたね」
「そういうお前は的確に人の嫌なところを突くようになったな」
「大人になるとはそういうことでは?」
「本当に捻くれてる奴だな、お前は」

家入は膝に立てた腕で頬杖をついて、笑った。