反代用品主義




出張だった。

岩手県で発生した呪霊任務。2日間に跨った出張。この七海に与えたのは当然のことながら五条だった。2日前に急遽入れられた出張任務。思い出すと若干腹が立つ。

七海は新幹線に揺られながら、朝食代わりに東京駅が購入した有名サンドウィッチ店のエビカツとタマゴのペアサンドを齧る。タマゴの風味がいい。食事をある種のストレス解消にしている七海は美食を楽しむことで気を抜くとすぐに湧き上がりそうになる苛立ちを抑えた。

通路側の席に座る七海の隣から、シャクシャクとレタスをかじる音が聞こえる。気取られないように視線をそちらに向けると、ドレッシングのかかっていないサラダをウサギのように咀嚼する苗字がいた。
窓際の席、どこを見ているのかわからない目で苗字はぼんやりと野菜を口に詰め込んでいる。


そう、先日五条に言い渡された今回の出張は苗字のとの合同任務なのだった。


きまずい、と感じているのは七海だけなのだろう。任務の打ち合わせで顔を合わせた時も、今日合流した時も、苗字は何事も無かったかのように七海と言葉を交わした。
例の、苗字を自宅へ泊めた日からまだ一週間も経っていないというのに。

何が「ゆっくりやんなよ」だ。
何が「味方になってやる」だ。
七海は五条へ頭の中で舌打ちをする。
4年も会っていなかったのだから、半年、いやせめて一ヶ月くらいは猶予を持って、七海のペースでやらせて欲しかった。プールに入る時だってまずは体に水をかけて慣らすだろう。準備のできていない人間をいきなり冷水の中に突き飛ばすような真似をしないでほしい。

指定席に座った時から二人は無言だった。
元より平日朝の新幹線の中など大抵出張に向かう会社員ばかりで静かなのだが、それにしても居心地の悪い沈黙が二つ並んだ座席には流れている。

……高専の頃は彼女とどんな話をしていただろうか。
灰原がいた頃はこちらが何も喋らずとも彼が好きに喋ってくれていたから会話に困ることもなかった。
では、彼がいなくなってからは?
あの夏以降はそもそも苗字と七海が二人きりで話をすることさえほとんどなくなっていたかもしれない。

元より七海も苗字も饒舌な質ではない。打てばそれなりにウィットに富んだ返答はできるが、まず打つ人間がいないから何も始まらない。
盛岡まで約3時間。きまずい沈黙に耐えるには長すぎる。いっそ仮眠でも取って時間を潰すかと思ったが、目を瞑ろうとした瞬間、頭の中に浮かんだ五条が挑発的に笑う。


──七海、お前って暴れる手段を百通り浮かべられるのに結局安牌しか切れないタイプだよな。

いつだったか、まだ高専にいた時に言われた言葉だ。
未だに覚えている自分に若干腹が立つ。


──七海が集めたパン祭りの皿でフリスビーしようぜ!七海が皿な!

いらん記憶まで出てきた。パン祭りの皿はマジで割れないから溜まる一方過ぎて最近はもうシールすら集めてない。いや、そんなことはどうでもいい。本当にどうでもいい。


今大切なのは隣から鳴り続けるシャキシャキ音の主だ。


隣の苗字は七海がパンを三つ食べ切った後もまだコンビニで買った一人前のサラダを食べている。よく見たらレタスを箸で一枚一枚取って食べていた。そりゃ遅いだろう。一枚一枚食べてはつまらなそうな真顔でシステム的に歯を上下させる。

つまらなそう、というか、事実つまらないのだろう。
味覚の薄い苗字にとって食事とは肉体を稼働させるための燃料補給でしかない。彼女は美味しいも不味いも知らないのだ。ただ味のしないナニカを義務的に摂取するだけの時間。楽しいはずもない。

ふと七海は思った。
果たして彼女はこれまでの人生で何かを楽しいと思ったことはあるのだろうか。

家入から説明を受けてそうであるという事実は理解はしても、七海は苗字の感覚を知ることはできない。きっと永遠に。
ならばまずは理解できないということを理解しなくてはならない。その事実を正しく現実として認識することが必要だ。そしてそれはこれからしていかなければならないことなのだ。

そもそも別に今回の出張でどうにかなって来いというつもりで五条も七海を送り出したわけではないだろう。
まずは今の苗字を知るための、情報収集の一環としてこの出張を乗り切ろう。

そう思えた瞬間、少し楽になった。
気負わなくてもいい。
ほどほどでいけるのならそれが一番だ。


そう思考が至った途端、先ほどまでよりずっと穏やかな気持ちで苗字を見れるようになった。ふと彼女を見る。
すると、視線の先にいる彼女はサラダの中のゆで卵だけを器用に残していた。

……いやなんでだ。

卵が苦手なのか?味覚ないんじゃなかったのか?アレルギー?いや、アレルギーだったらそもそも卵の入ったサラダ自体選ばないだろう。じゃあなんでだ。なんでゆで卵だけ残してるんだ。

内心困惑しながら容器に残ったゆで卵を見つめていると、その視線に気がついた苗字がこちらを気がつく。しまった、執拗に見過ぎた。
七海が自分が残したゆで卵を見つめていることに気がついた苗字は、それについて説明するように言及した。

「ゆで卵、あんまり好きじゃないんだ」
「……どんな、ところが?」
「食感。噛んでも噛んでる感じがしないから」
レタスはシャキシャキしてるから好き。
彼女はぽつぽつとそんなことを言った。

なるほど、味覚はないが感覚はあるから、食事の時は食感に楽しみを得ているのか。
新しい発見だった。

「七海、食べる?」
そんなことを考えていた時に、唐突に主語なく聞かれて、七海は思わず問い返す。
「……何を?」
「ゆで卵」
「……ゆで卵」
残すから代わりに食べるか、という話らしい。
断ればあのゆで卵は捨てられるだけになる。それはもったいないと思う。それにせっかく求められたのだから、応えておくのがコミュニケーションだろう。

「……食べる」
七海は神妙な顔でうなづいた。
苗字も似たような顔でうなづいた。それから持っていた箸で残したゆで卵を取ると、それをそのまま七海に差し出した。

いわゆる、「あーん」だった。

七海は真顔を保ったまま、内心とてつもない困惑の嵐に晒されていた。なんだこれ、急にエゲツない距離の詰め方をされている。どう見ても一週間弱前に手酷い別れ方をした人間同士の距離感ではない。

オッケーグーグル「25歳 同僚との距離感」。
よく聞こえませんでした。

ヘイ、Siri「25歳 同僚 あーん」。
すみません、よくわかりません。

「七海、口開けて」
「………………」
よく聞き取れませんでした、と逃げたかったが、そういうわけにもいかず、七海は黙って口を開いた。
そうすると嘔吐く一歩手前くらいまで奥に箸を突っ込まれる。咄嗟にゆで卵だけを口内に残して身を引いた。ギリギリのところで嘔吐を免れる。

「美味しい?」
噛む前に聞かれて、慌てて咀嚼する。そうして嚥下してから答えた。
「……茹でた卵の味がする」
「それはよかった」
ドレッシングも塩もかかっていないから本当に茹でた卵の味しかしなかった。何がよかったのかわからないが、ゆで卵を食べてベーコンの味がしても困るから、まあ、そういう意味ではよかったのだろう。

七海は困惑し過ぎて少し思考がおかしくなっていた。


今度こそ空になった容器をビニール袋にまとめる苗字に、つい七海は小言を言ってしまう。

「苗字、要らない世話だとは思うが、あまり好き嫌いはしないほうがいい」
「うん。そうだね、けど、うーん。でも、うん、あー、七海は嫌いな食べ物とか無いの?」
「いや、普通にあるが」

素直に返した瞬間、苗字はレモン汁を直で飲んだみたいな顔でこちらを見た。
システマチックにその場にあった表情を返しているだけだとは理解しているが、それにしては愉快すぎる表情だった。どこで覚えたんだ、そんな顔。





1日目、岩手山間部での任務は三級案件。そこまで重いものではなかった。
元より七海のブランク解消のために手配された任務の上、現一級術師である苗字がサポートするほどに万全を期されたものだ。
呪霊の数こそ多いものの、都市部ではないため、呪霊の質も高くはない。ましてどんな任務に対しても油断してかかるような二人ではない。
昼過ぎから開始した任務は日が暮れ始める頃には完了した。

手配されたホテルに向かう道すがら、ぽつぽつと言葉を交わす。
「今日はありがとう。助かった」
「ううん。それより、調子は掴めた?」
「以前よりは。だが、まだダメだな。攻撃の精度が悪い」
「精度」
「ああ、私の術式では弱点を作り出すことはできる。だが、結局のところそこに攻撃当てられなければ意味がない」
7:3の比率の点。クリティカルを狙っていても、己の筋肉の動き、その時の体勢、ターゲットの移動によって、狙った場所に当てられないことがまだある。

「そっか」
苗字は呟くようにそう言った。
「明日の案件。私はサポートに回るから、メインは七海に任せるよ」
ブランクを埋めるためには、数をこなして、勘を取り戻すほかない。
それを理解して、七海もうなづいた。



ホテルは当然のことながら二人は別室。
明日の朝ロビーで待ち合わせることを決めてから、隣り合う部屋の前で別れた。
「じゃあ、また明日」
「ああ、何かあったら連絡を」
「うん」
七海はホテルの部屋の扉を開いて入ると、荷物を椅子の上に置き、サングラスを外し、ジャケットを脱いでからベッドの縁に腰をかけ、深く息を吐いた。

何も無かった。
あえて特筆するようなことは何も無かった。
喜んでいいことなのか、悲しむべきことなのか、判別がつかない。
……いや、まだ1日目だ。急ぐことではない。
七海はベッドに仰向けに転がると、そういえば夕食はどうするのだろう、とふと思った。
そこまで疲労はないから七海自身は少しホテル周辺を歩いて探そうと思っている。ならば、苗字も誘うべきだろうか。だが、先ほど彼女はあっさりと「また明日」と言った。そう言うのなら、また明日にするべきだろうか。

スラックスのポケットから携帯を取り出す。
連絡はしようと思えばできる。しないと言う選択もある。どうするべきか、考えていた時に携帯が震えた。
一瞬、苗字からかと身構えたが、着信表示にあったのは家入の名だった。起き上がり、すぐに電話を取る。

「はい、七海です」
「ああ、家入だ。お疲れ。今日の任務は完了したか?」
「ええ、丁度ホテルに着いたところです」
「そうか、それはよかった」
五条と違って、家入は何の用も無く七海に連絡などしてこない。さっさと本題に入ろうと、七海は「どうかしましたか」と電話の向こう側の彼女へ問いかけた。

「苗字のことなんだが」
「はい」
「怪我はなかったか?」
「ええ、見た限りでは特に外傷はありません」
「なんともないとは思うが、一応診てやってくれないか」
「……診る、とは」
「骨折れてないかとか、内出血ができてないかとか、そういうのだ」
「どうやって」
「触診って知っているか」
「知りたくないです」
「体を触って骨が不自然な方向に曲がっていないか、不自然な傷がないか診てくれ。苗字も自分の体は確認しているだろうが、背中側は見えづらい」
「……私に見ろ、と」
「お前以外に誰がいるんだ」
「触診なんてしたこともありません。私がしたところで何もわからないでしょう」
「何もしないよりマシだ。アイツは腕が180度折れてても自分じゃわからない。第三者の目が必要なんだ」
「…………それは、わかっていますが」
そう返した時、携帯の向こう側が俄かに騒がしくなる。
「悪いな、急患だ。とにかく苗字のことはお前に任せた。何かあったら電話をくれ。何も無かったらメールで連絡をくれるだけでいい」
「……わかりました」
「頼んだぞ、じゃあな」
プツリと電話が途切れる。ツーツーと機械的な音が鼓膜を揺らして、七海はベッドに腰掛けたまま項垂れた。


……頼むからゆっくりやらせて欲しい。
何故こんなエゲツない距離の詰め方をさせられなくてはならないのか。

頭を抱えたまま「ゔゔゔゔ……」と、ひとしきりバイブレーションのように唸ってから、七海は死んだ目で苗字に電話をかけた。

「……もしもし」
「はい、苗字です」
「七海だ。今大丈夫か」
「うん、大丈夫だよ。どうかした?」
「いや、先ほど家入さんから連絡があって、貴女の体に異常がないか確認して欲しい、と」
「ああ、家入さんから私の病気のことを聞いたんだね」
「……ええ、この任務の前に。すまない、知っているということを貴女にも話しておくべきだった」
「大丈夫、気にしてないよ」
その言葉の通り、本当に気にしていないのだろうな、と思った。

「今から貴女の部屋に行っても問題ないか」
「大丈夫、待ってるよ」
「ああ、わかった」
通話を切る。それから深く息を吐く。

……岩手の名産ってなんだったか。
わんこそば?
この任務が終わったら大きめのホームセンターに行ってペットコーナーを眺めよう。無垢なものを見て癒されたい。

七海は立ち上がると、サングラスを掛け直し、カードキーを手に取って部屋を出た。すぐ隣である苗字の部屋の前で立ち止まり、深呼吸をする。

何も問題はない。優先すべきは苗字の身体。家入さんの言う通りだ。これはただの医療行為。さっさと終わらせて彼女を食事に誘って今日は早めに休もう。明日も任務なのだから。そう、任務。これも任務の一環だと思おう。がんばれ私、今日も社会人。ほんとクソ。

七海はホテルの厚い扉をノックした。
そうすればすぐに扉は開く。
「来てくれてありがとうね、七海、どうぞ中へ」
「ああ」
ベッド、テーブル、風呂場、鏡台、テレビ。中は当然のことながら七海に充てがわれた部屋と同じ間取り、同じ配置だ。置いてある苗字の旅行鞄だけが違って、それがやけに目につく。
さて、苗字はというと、七海と同様にジャケットを脱いだだけの、ワイシャツにスラックスを纏ったラフな格好だった。
彼女は中へ入ってきた七海を見上げると首を傾げる。

「なんでまだサングラス掛けてるの?」
「……外し忘れた」
嘘だった。苗字を直視しないためだ。

ベッドに腰を掛けた苗字は「よろしくお願いします」と言って微笑んだ。穏やかで優しげな笑みだった。
七海は高専の頃、彼女が笑っているところを一度しか見たことがない。未だに彼女の笑顔に慣れなかった。

「……普段家入さんはどのように?」
「腕とか脚とかを触って、変なところがないか見てくれる」
「なるほど、ではそのようにしよう。貴女に触るが、どこか違和感や不快感を感じたらすぐに言うように」
「うん」
七海は彼女の前に膝をついて、正面からその両肩に触れる。それからゆっくりと滑るように肘へ、手首へ手を移動させていく。薄いワイシャツ越しに彼女へ触れる。触れている限りでは異常は感じられない。肉の中に正しく埋まっている骨。
彼女の掌まで辿り着いて、次は?

「……次、脚、で、いいですか?」
「うん。なんで敬語?」
「……深い意味はない」
「そっか」
ベッドに座る彼女の太腿にスラックス越しに触れる。触るが、スラックスの生地と柔い肉とその下にある筋肉の感触しかわからない。骨がどこにあるのかわからない。何もわからない。触診ってなんだ?本当にこれでいいのか?何もわからない。なんなんだこれは。女性の体に触って何をしているんだ、私は。なんなんだこの時間は。
お医者さんプレ/イか?
生まれた邪念を素早く7:3の位置で叩き切る。

「七海、すごいね」
唐突に話しかけられて肩が震えた。動揺を隠すように「なにが」と素早く返せば、苗字はゆったりと口を開く。
「お医者さんみたい」
「無免許だ」
「ブラックジャックと同じだね」
「その基準でいえば大体の人間は同じだな」
膝あたりまで手を下げていってようやく骨の感触を得て、安堵する。彼女の右脚を軽く持ち上げて、自分の膝の上に置き、膝下の骨の感触を確かめる。同じように左脚も。両脚の確認を終えて、

それから、……それから?

「この後は?」
「私がうつ伏せに寝転がって、背中とか見てもらってる」
「……なるほど」
では、そのやり方で、と七海が言った瞬間、苗字は自身のワイシャツのボタンに手を掛けた。ピッタリと締められていたボタンがひとつひとつ外されていく。のを、見て、七海は慌てて天井を見上げた。
「待て」
「うん?」
「何故脱ごうとしている」
「普段、背面を見てもらうときは服を脱いで怪我が無いかを見てもらうから」
「……そう言うことは先に言ってくれ」
「あ、うん、ごめん」
「……いや、私も悪かった」
七海は立ち上がると「廊下の方にいる。準備を終えたら呼んでほしい」と言った。そうすれば彼女は「わかった」とうなづく。それを確認して、七海はベッドの見えない部屋の入り口の方へ向かった。扉に額をつけて、それから苗字に聞こえないように深く息を吐く。
医者でもない男に女性の触診などさせるな。
頭の中で家入へ恨言をつらつら吐いた。彼女がワイシャツを脱ぐ衣擦れの音がやけに耳につく。

「七海、もう大丈夫」
数分も待つことなく、そう声をかけられて七海は彼女のいるほうへ歩みを進めた。ワンルームのホテルのベッド。脱ぎ捨てられたワイシャツとスラックス。苗字は下着を纏っただけの格好で、無防備にうつ伏せになって七海に背中を晒していた。
「…………」
七海は何も思わないわけではないが、苗字は何も思っていない。だから、こんな思考に意味はない。

「苗字、体に触るが、」
「違和感や不快感があったらすぐ言う、だね」
「ああ、そうして欲しい」
白い肌、まず目についたのは右肩付近にある大きな内出血の跡だった。
「この内出血は以前から?」
「どこ?さわって」
言われるがまま、紫がかった肌を強く押さないように指先でふれる。この感覚はあるのだろうか。問いかければ彼女は「直接肌にさわられれば多少は感触があるよ」と返した。
「つつかれたり、爪を立てられると体が痛みだと判断してわからなくなるんだけど、撫でられるくらいの感触なら私でもわかるんだ」
その言葉を信じて、彼女の肩の痣を掌でそっと撫でる。
「ああ、そこは前の任務で出来たやつだよ。家入さんも知っているはずだから大丈夫」
「そうか」
「背骨とか腰の骨とかに問題はない?」
問われて、一列に浮き出た骨をそっとなぞる。ゆっくりと腰の方へ手は至り、淡い色の下着越しに骨盤を両手で掴むように触れる。すぐに離す。
「さわってわかるような異常は無い」
「じゃあ大丈夫だ」
笑ったような声が返ってくるから、七海はようやくこの理解の範疇を超えた時間が終わったのだと理解する。

「なら、よかった」
安堵のような溜息を吐いて、七海は立ち上がり、また廊下の方で彼女が服を着るのを待とうと、ベッドに背を向けた。
歩き出そうと一歩、脚を上げたその瞬間、強く腕を引かれて油断していた体のバランスが崩れる。そのまま仰向けになるように苗字のベッドに倒れ込む。背中に感じる柔らかいマットレスの感触に、ああ苗字を潰さなくてよかったと安堵、するのと、見上げていた天井、眩しい照明、それらが遮られ、自分の顔に影がかかるのはほとんど同時だった。

「七海」
ベッドに仰向けになった七海の顔の横に手をついて苗字は覆い被さる。七海からは逆さまに見える彼女は何の表情も無い顔をしていた。それはいつか、まだ学生だった頃に見慣れた、何も感じていない人の顔。
それを目に写して、七海は自分自身がこの状況とは裏腹に酷く安堵していることに気がついた。

「苗字、離れてくれ」
晒された柔らかい肉体に揺らめく内心を隠して七海が硬い声でそう言えば、未だに下着姿のままの彼女は温度のない声で七海の鼓膜を揺らした。

「ごめんね」
呟くような声が降り注ぐ。
「……そう思うなら退いてくれ」
目を逸らしてそう返せば、彼女はゆっくりと首を横に振った。

「先週、君を傷つけてごめんね」
その言葉にあの朝のことを言っているのだと気がついて、瞬間、頭が冷える。悪意のない加虐の笑みはまだ七海の鼓膜に残っている。唐突なあの日のフラッシュバック。
「七海、あの日から私も考えたんだ。そして気がついた」
能面のような顔のまま、彼女は表情に不釣り合いなほど酷く穏やかに言った。

「私はもう君を傷つけたくない」

本当だよ、と口元は緩やかに弧を描く。そうするべき時に、そうなるように。ごくシステマチックな筋肉の動き。その言葉に嘘はないとしても、その表情には嘘しかなかった。そうであると七海が知っていることを知ったうえで苗字は微笑む。

「だから私は、もう二度と君を傷つけない人間になるの。君の理想になるよ。他人の喜びに喜び、他人の悲しみに悲しむ、普通の人間として振る舞ってみせる。もう君の嫌いな冷血な私は殺して、普通の人間になるんだ」
そう言って笑った。

「教えて、七海。どんな私がいい?五条さんみたいな奔放な人?家入さんみたいに理知的な人?伊地知くんみたいに穏やかな人?どれでもなんでもどうでもいいよ」
彼女は笑った。花開くような満面の笑み。初夏に似た、それは、まるで、いつか見た、いつか見慣れていた、


「灰原みたいに笑ってあげる!」


……それがあまりにも、哀しかった。
思い出す、いつかの五条さんの言葉。


(「七海が術師やめてから苗字は変わったよ」)

わかっている。彼女がそれを選んだのは、七海がきっかけだったのだと。
彼女がこうなったのは、七海が原因だった。
七海が、そうさせてしまった。 

私が歪めた。私が壊した。私が傷つけた。

その事実はあまりにも重すぎて、赦しを乞うことさえできない。己の愚かさを何度もナイフで刺すように認識させられる。過ちはもう遠い過去で、取り戻すことなんて永遠にできないけれど。


「苗字」
七海は静かに彼女の名前を呼んだ。それだけで彼女は微笑む。それさえ、プログラムや肉体の反射のようなもので、そこに彼女の心はない。だから、


「要らない」
そこに苗字自身がいないのなら、何も要らなかった。


七海の言葉に小首を傾げた彼女は何もわかっていないようにもう一度繰り返す。
「七海、おしえて。君のほしいものはなに?」
「なにも。そこに貴女がいないのならば、何も要りはしない」
「ここにいるでしょう?私はただのタブララサ。白紙に君が好きなように絵を描くだけのことだよ」
「ならば白紙のままで構わない。私は貴女にいて欲しい」
「七海」
我儘を言う子供にそっと言い聞かせるように逆光になった彼女は言葉を落とす。

「わかっているでしょう?ただの私では君を傷つける。私が私のままである限り、そのせいで君は傷つき続けるんだよ。私はもう君を傷つけたくない」
「構わない」
七海はサングラスを外すと、遮るものなく真っ直ぐに苗字を見た。


「何度でも傷つけてほしい」


七海がそう返した瞬間、苗字の顔から表情が抜け落ちる。空っぽになった顔。空洞のような感情。それでよかった。それがよかった。もっと早くにそう言えたらよかった。
傷つけたくないという気持ちが苗字の本当であるならば、傷つけられても構わないという気持ちが七海の本当だ。相反するからぶつかりあうけれど、今だけは譲れない。


「ありがとう、苗字」
七海は両腕を伸ばして、自分に覆い被さる苗字の肩を優しく押す。それだけで彼女はあっさりと七海から離れた。七海は起き上がり、ベッドの上に座り込む彼女と向き合う。

「傷つけたくないと言ってくれて、嬉しかった」
ベッドの上に放られた苗字のワイシャツを手に取り、肌を隠すように彼女の肩に掛ける。

「それでも、そのために貴女が嘘をつき、身を切らなければならないのならば意味がない。そんなものに私は価値を抱かない」
「……嘘?」
「ええ、あの日の朝、貴女は嘘をついた」
苗字が昔から何も変わっていないのだと、理解させるためにわざと七海を傷つけたあの朝。


「灰原が死んでも何も思わなかった、なんて嘘でしょう」
穏やかに響く声が苗字を止めた。

「何も感じないなんて嘘だと、それくらいはわかる。灰原がいなくなって悲しかったように、私を傷つけないようにと思ったように、貴女には貴女の心からのものがある。それを蔑ろにして、他人なんかになる必要はない。貴女は貴女のまま、此処にいてほしい」
「……私は君を傷つけるよ」
「ええ、そうでしょうね。けれど、それは当たり前のことだ。貴女が私を傷つけることも、私が貴女を傷つけることも、そんなもの、人と人が対峙する以上起こって当然なんだ」
人と人が対峙する痛みと責任から逃げたのは七海だった。わかっている。だからもう逃げはしない。
 

「私は貴女に貴女でいて欲しい」
それこそが今の七海の本当だった。


その言葉を耳にした彼女は何の表情も無いまま口を開く。
「……どうして?人はより良い明日を望む。今より優しい世界を望む。そのために不要なものは排他されて然るべきだ。それが普通でしょう?傷は痛みだ。痛みは悲しみだ。どうして傷つくとわかって私を受容しようとするの?七海だって傷つくのは嫌でしょう?痛みの無い明日が欲しいでしょう?」
「苗字」
七海は穏やかに微笑み掛ける。

「無いんだ。より良い明日も痛みの無い明日も、そんなものはどこにも無いし、やってくる事もない。私たちは代わり映えのない明日を繰り返して生きていくほか無いんだ」

失われた尊いものがあり、それが戻らないならば、より良い世界など永遠にやってこない。明日も世界は変わらない。どこかで人は生まれ、どこかで人は死ぬ。悪意は病魔と同じように人がいる限り消えないし、死は残酷なほどに平等だ。善人にも悪人にも。そして大抵の人間は善人でも悪人でもない。一人の人間に善良な面と悪辣な面があるだけ。それはその時々で入れ替わる。七海がそうであるように、苗字がそうであるように。

それでも、明日は来る。
例えそれがどんなに悲しくとも、生きている限り明日を繰り返す他ないから。


「私は貴女が貴女のままでいられる明日を望む」
そう言って七海は微笑んだ。彼女に伝えるのはいつだって心からの言葉だった。それは確かに、時に傷つけるものになったけれど。
今発した言葉さえ、彼女にとっては何の意味のないものなのかもしれないけれど。そこに嘘は一つもないのだと、どうか知っておいてほしい。


「さあ、もう休みましょう。明日も任務がある。服を着て、風邪をひかないように」
七海は立ち上がって、彼女から離れる。例え七海にその意思がなかったとしても、恋人でもない女性の肌など長く見ていいものではない。

「七海」
ベッドに背を向けた時、背後から彼女に声をかけられる。だからそのまま黙って、彼女の言葉を待った。
その時生まれた微かな沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。

「……また、明日」
彼女はそれだけを言ったから、七海も繰り返すように「ええ、また明日」と、それだけを返して、七海は苗字の部屋を出た。扉を閉め、彼はホテルの廊下に出て、深く深く息を吐く。



夕食には誘えなかった。