優しい傷跡




『人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。 
原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。
人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。』










特級呪霊とやり合った七海が腹部に大きな損傷を負ったと聞いた時、私はへえ、と思った。一級である今の七海が大怪我をするほどの案件なんて、珍しい。

治療を終え医務室の椅子に腰をかけた七海の隣に座って、家入さんからの定期診察のためにここを訪れていた私は声をかける。

「怪我、まだ痛い?」
「家入さんの治療を受けたので問題はない」
「痛みはあるんだね」
「……まだ、少し」
そう言った七海はいつもより少し険しい顔をしている。
それは痛みのためではなく、何らかの憂慮を抱えている時の顔だった。

「七海」
「なんだ」
「何を考えているの?」
「……件の特級のことを。あれは危険過ぎる。成長する前に一刻でも早く祓っておきたい」
彼は元より慎重派な人だが、今回の件に関してはより一層警戒をしているらしい。眉間の皺は深く、口数は減り、思案の色が濃くなる。
特級呪霊となれば本来は一級術師ではなく特級術師の出番になるのだが、現在日本にいる特級術師は皆海外に出払っている。これは今いる人間でどうにかしなければならない問題だ。

「私の助けは、いる?」
そう問いかけると、彼は顔を上げて私は見た。それから少し逡巡して、口を開く。
「明日以降のサポートを猪野君に頼むつもりだ」
「そっか」
となると、私の助けは要らないということだろうか。
そう思って立ち上がろうとした私を止めるように七海は言葉を続けた。

「苗字には猪野君のフォローを頼みたい」
「彼は私のフォローが必要な子じゃないと思うよ」
「分かっている。建前だ。貴女には別機動としていつでも動けるようにしていて欲しい」
「構わないけれど、七海、君は何を不安に思っているの?」
そう問うと、七海は深く息を吐いてからゆっくりと口を開く。サングラスの奥の瞳が少しだけ揺らいでいるように見えた。

「……同じ任務に高専の生徒が同行している。万が一私に何かあった時、彼を守れる人がいて欲しい」
「例の、両面宿儺の器?」
「虎杖悠仁君だ。高専の一年生で、まだ術師になって日が浅いが人の為に怒ることの出来る善良な人間だと、私は判断している」
私が両面宿儺の器と言った時、七海はそれを否定するようにそう返した。そこから見える情に、私はまた七海が誰かを抱えた事を知る。

七海は優しい。優しいから、善良で真っ直ぐな人を愛し、懐に入れて、抱え込んでしまう。優しいものは壊れやすいのに。

繊細なもの、柔らかいもの、優しいもの、尊いもの。
そういうものが私はずっと怖かった。
そういうものはみんな壊れやすいから。
壊れたらもう戻らないから。

私はもう知っている。
それらがどれだけ壊れやすいものなのかを、私は強く知っている。

……だから、もしもまだこの手が届くのなら、せめて可能な限りそれらを守ろう。
いつからか、そう思うようになった。

命の価値がわからないのならば、せめて可能な限りその全てを尊重する。正しいか間違いかは私が決めることではない。私はただ、あらゆる可能性を生かすだけ。生きている人間を殺すことはできても、死んだ人間を生かすことはできないのだから。

「頼めるか、苗字」
「うん」
私は私の最善と最大限を持って、七海の助けとなろうと思った。










「人型で、つぎはぎの、特級呪霊」
「そっす!なんか手で触られたら不味いらしくて」
「曰く「人間を掌で触ることで魂の形へ干渉し、肉体を改造することが可能」。……魂?」
「謎くないですか?魂って言われてもって感じ」
「心や精神とはまた別なのかな」
「意味わかんないっスよねえ」
「わかんないねえ」
「……ところで、苗字サン」
「うん」
「この大量の改造人間倒すの、手伝ってくれたりとかしません?」

特級呪霊の残穢を追って、私は七海と猪野くんと共に下水道へやってきた。だが、どうやらこちらはブラフだったらしく、近隣の高校で未登録の帳が張られたことで七海はここを私たちに任せて、そちらへ向かった。
下水道には例の特級呪霊が残したと思われる大量の改造人間。それを猪野くんが倒してくれている間に、私は壁際で七海が記載した報告書の内容を自分の端末から確認する。

「ちょぉ〜っと手伝ってくれるだけでもいいんスよ?」
「でも七海にここを任されたのは猪野くんだし、七海にあんまり猪野くんを甘やかすなって言われてるし……」
「任務ん時にお二人に甘やかされたこととかないんですけど!」
口では泣き言じみた事を言いながらも的確に敵を倒す猪野くんに、私の出番はないだろうと判断する。人が思うよりずっと彼はしっかりしていて、たくさんのことを考えていて、立派な術師なのだ。

「七海から推薦もらうんでしょ?私からも良く言っておくよ」
「エッ!マジっスか!」
「うん。猪野くんは迫り来る敵をちぎっては投げちぎっては投げ、まさに天下無双といったありさまで、近づく敵を片っ端から真っ二つにして、最終的に全身に龍を巻き付けて敵陣で吹き飛んだ、と」
「俺、殉職してるゥ!」
「そんな彼をギリギリのところで私が助けた、とも」
「最終的に苗字サンの株だけが上がってるゥ!」
「冗談はさておき」
「あ、はい」
端末から目を離し、戦う猪野くんの背中を見る。彼は私のフォローが必要な人ではないと七海もそう判断しているから、これはただのお節介でしかないけれど。

「本当にダメそうなら言ってね。助けるから」

そう言うと、猪野くんはちらりとこちらを見て、ぎゅうと眉を寄せながら口元をムズムズとさせた。見慣れない表情。そこから彼の感情を推察することは、うまくできなかった。
けれど、多分、

「そんな言い方されたら、イイトコ見せたくなっちゃうじゃないっスかぁ……」

悪いものじゃなさそうで、安心した。











特級呪霊が里桜高校の排水口から逃走。
向かう先はここから東南エリアと推定される。

猪野くんが改造人間を倒し切ってそう時間を置かずに、彼の元へ七海からそう連絡が来た。

「苗字サン!」
「うん」
音声をスピーカーにしてくれたおかげで私にも七海からの伝達は届いている。声の様子からあちらでは例の、虎杖少年が負傷したようだ。彼を放って七海がこちらの増援に来ることはないだろう。

「二手に別れよう。猪野くんは南方面を重点的に、私は東を」
「了解!」
「緊急時は、」
「すぐ連絡!」
そう言ってすぐに駆け出した猪野くんを見送って、私もその場を離れる。闇雲に探して見つかるほど容易い相手ではないだろう。移動しながら、まずは思考する。

私が件の特級呪霊だったらどうするか。

まず「七海たちから逃げた」「二級の猪野くんでも祓える」ということはそうとう深手を負っているはずだ。
私なら、まずは逃げることと、体力の回復を狙う。
優先は逃走だ。追われることを想定して、まずは出来るだけ距離を取る。とはいえ負傷しているからそこまで遠くにはいけないはず。仮に五キロを探索範囲とする。

どこに逃げる?
特級呪霊はまともに会話が取れるほど知能が高い。思考は人に寄っている。人目のあるところにはまず行かない。当然だ。ばったり呪術師に会おうものなら即死する。普通なら安全な場所へ向かうだろう。

特級呪霊にとって安全な場所は?
近場に住処があるならそこだが、そこまではわからない。住処が遠ければ他の安全地帯で回復を狙うはず。元々特級呪霊は下水道を縄張りとしていた。その上、特級呪霊は下水道という環境で一級術師の七海を追い詰めたという勝ちの経験がある。

下水道を調査するのが見つける可能性として高いか。

体をどこまで変化させられる?ネズミサイズに小さくなっている可能性は?
排水口から逃げたということは自分の体を縮小できるということ。排水口、パイプの中、あらゆる場所が捜索範囲になる。
いや、七海の報告では特級呪霊は通常、一般的な成人男性の姿をしているとあった。自分の形を変えるのも術式の範囲なのだから、回復のためには術式を使う必要のない元の姿に戻っているはずだ。

下水道。南方方面。五キロ範囲。

「迷子になったら猪野くんに助けを呼ぼう」
私は薄暗い下水道の中を走り出した。











楽しかった。
まずはそれだけ。強い人間と戦うのは楽しい。長い時間をかけて用意していたおもちゃで遊べたし、宿儺の魂の格の違いも確認できた。ついでに運良く領域展開もできるようになったのだ。呪力が回復したら色々試してみよう。きっともっと楽しくなる。

里桜高校から離れた真人は疲労のまま下水道に座り込んで、思考する。

次こそは虎杖悠仁を殺したい。
あの魂を何度も殺害して惨殺して陵辱して蹂躙して凌辱して何度も殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺し尽くしてやりたい!肉体は一度しか殺せないけれど、魂ならば何度でも殺せる。玩具を壊したときに見せたあの顔をもう一度、いや、何度でも見たい!より的確により確実により残虐に人の魂を壊せる手段はないだろうか。ああ、なんて楽しい!考えることがたくさんある。

戦闘の過労と不足した呪力のために、荒い息を繰り返す真人はそれでも笑った。
魂から湧き出る興奮のために震える自身の指を見つめて、



バチン



「……えっ?」
手が消えた。



バチン



続けて体が倒れる。倒れる?違う。倒れたんじゃない。体が消えた。自分の体が、体を構成する呪力ごと奪われて消えたんだ。首から上だけが転げるように下水道の床に落ちる。急に視界が下がったから、それを倒れたと勘違いしたのだ。
失われた呪力と自分の体。纏わりつく他人の呪力、残穢、術式。誰かから攻撃を受けて、首から下を奪われた。一体どこから?

唐突に頭部だけになった真人はその耳にコツンコツンとゆったりとした足音を聞いた。

暗い下水道に反響する音。
わざとらしく鳴らされたブーツの踵。
暗がりの奥から現れた人の形。
微笑みを称えた女の姿。

女は首だけになった真人の数メートル手前で立ち止まると、小首を傾げて口を開いた。


「貴方がつぎはぎの特級呪霊ですか?」
人に道を聞くような、そんな軽い声音で問われて、真人は自分が祓われる一歩手前で追い詰められている状況だとわかった上で思わず笑ってしまった。

「人違い、って言ったらどうする?」
「謝ります」
「謝ってどうすんの?」
「謝ってから、祓います」
「アハハ!」
呪術師だ。幾千幾万の屍の果てに、なお終わりの無い闘争を続ける頭のイカれた人間共。愛しき怨敵。憎悪すべき隣人。
ここまで来て、ついに鬼に捕まってしまった。

「アンタ、七三術師の仲間?」
「七三……?ああ、七海のことですか?ならばそうですよ」
「ふーん、じゃあアンタは仲間の尻拭いってわけだ」
「そうですね、これより私は貴方を祓います。私個人として貴方に恨みなどありませんが、友達を傷つけられたら誰だって怒るでしょう?」
そう言って微笑む女に、真人は無い腹を抱えそうになる。もしもまだ体や腕があったのなら、女を指差し地に這いずってでも全身で笑い転げていただろう。

「アンタも七三術師もほんと嘘が下手!」
ゲラゲラと真人は笑った。笑って、笑って、笑って、嗤って、嗤って、嗤ってから、挑発的に口角を上げた。

「魂に揺らぎがないよ。アンタ、本当はそんなこと思ってないんだろ」

怒ってる、なんて言いながら、女の魂には少しの揺らぎもなかった。その発言の前から、真人へ向けた笑みにさえ何の魂の動きもない。

怒ってなどいないのだ、この人間は。
それどころか、何も思っていない。
仲間がどうとか敵がどうとか自分がどうとか、そういった魂の揺らぎが何もないのだ。

ほらやっぱり、と真人は他人の欠点をあげつらうような心持ちになった。人間はみんなそうだ。表に出る感情や言葉は全て嘘。今の人間の世界は偽物ばかりで成り立つ虚構の世界。
飾り付けたそれらしい嘘に一体何の価値があるというのだろう。

真人が嘲るように女を嗤うと、そんな感情を向けられた女は何を言われているのかわかっていないような、どこか気の抜けた顔で呪霊を見つめ続けた。

「それの何が悪いのですか?」
その表情のまま、そう女は問うた。

「人は何を思ったかではなく、何をしたかでしか関わり合えない。痛覚を与え合うことでしか触れ合えないのに……魂?感情?見えもしないものを信じるなんて、笑ってしまう」
そう言って女は嗤った。無知な童女のような柔らかな表情は失せ、紅で彩られた唇がきゅうと弓形に弧を描き、釣り上がった口の端から頬が歪む。それから、女は地に転がる真人をゴミを見るような侮蔑の瞳で眺めた。

何の感情も抱いていないのに、ただ目の前にいる真人を傷つけるためだけに嗤い、嘲り、存在を踏み躙る女。


それだけで、百年千年万年、永劫の時間が流れても理解し合えないと思った。


闘争の根源は不理解と拒絶だ。

俺はお前と違う。
お前は俺と違う。

だから、許容できない。
だから、否定する他ない。
だから、互いを呪い合うことしかできない。

人間なんてみんな、真人にとってはただの玩具だ。好き勝手に遊んで、壊して、殺して、歪めて、造り変えて。
魂を壊した時のあの瞬間が好き。炎のように揺らぐ感情が好き。人間はみんなか弱くて脆くて可愛くて可哀想で好き。大好きだ。愛しているとさえ言っても良い。

……ああ、でも、


「俺、アンタのことは嫌い」


魂さえまともに機能しないなんて。
この人間は、なんてつまらないのだろう。
なんて無意味なんだろう。
なんで俺たちじゃなくて、こんなものが『人間』なんだろう。

「そうですか」
女は空っぽの感情のまま、慣れた手つきで印を組む。


「私は貴方などどうでもいい」
お互いに、交わし合った最後の言葉だけは本当の言葉だった。



バチン



それがとある特級呪霊が最期に聞いた音。









呪霊が塵さえ残さず消えていくのを見ていた。

そうやって呪霊を祓い終えた私は下水道の壁に背中をつけてずるずるとしゃがみこむ。疲れている、わけではない。たかが一体弱った呪霊を祓っただけだ。ならばどうしてこんなにも体は重く、何もかもが億劫なのだろう。

(「アンタ、本当はそんなこと思ってないんだろ」)

先程の呪霊との問答による精神的疲労?
呪霊の言葉を借りるのなら、魂の疲労?
そんな事を考えてから、あまりにも馬鹿らしくて思考を取り消す。

体の中に巣食う淀みを外に出すように、深く息を吐いた。それからいつものように額に手を当てる。触れているという感触はあっても、掌から伝わる温度はごく微かだ。

感覚鈍化は年々悪化している。ただでさえ鈍い味覚や触覚はさらに鈍り、最近では視力も落ちてきた。反面、それがある種の縛りとなったのか、術式の効力は上がっている。良いことなのか悪いことなのか、自分では判別がつかない。判別がつかないことが、良いことなのか悪いことなのかさえわからない。

額に手を当てたまま息を吐き、目を閉じる。

「私は冷たい?」
問いかければ、記憶の中の灰原が笑った。

(「平熱だと思うよ!」)

それから、もう一つの記憶。

(「……ええ、少し。でも、大丈夫」)

一緒に冷たい雨に打たれながら、笑ってくれた七海。

私という異常をそれでも受容してくれた人たち。
きっと彼らにとってはごく些細な言葉に、私はずっと救われてきた。

認めなくてはならない。
私は冷血だ。人より、少し。
魂は知らない。でも心はある。人より薄くても感情はある。
私はかつて、灰原を、友達を失って、悲しいと思った。今だって、いつだって、少し悲しい。その悲しみは確かに私の傷となっていた。

人は人と関わらずには生きていけない。
人と関わるとは、傷つけるということ、傷つけられるということ。生きていくということはそういうことだ。
痛みも傷も、私が彼らと繋がった証。私たちが共に生きていた証だ。

ならば、抱えた傷跡も大切にしていこう。
これからやってくるだろう傷も受け入れよう。

だから、帰ろう。
私を受け入れてくれた人たちのところへ帰ろう。

そう思って立ち上がってから、


「……どっちから来たっけ」
下水道の中で、完全に迷子になったことに気がつく。


とりあえず携帯を開いた。
そこに表示された文字は「圏外」のそっけない二文字。
困ったら仲間に連絡をすればいいと思っていたけれど、ここが地下である事をすっかり忘れていた。


……どうしよう。助けて、猪野くん。













「やっぱり持つべきものは頼りになる後輩だね」
「大袈裟っスよ。でもまあ、無事に合流できてよかったです」

あの後、なんとか電波の通じるところまで歩き回った私は猪野くんにSOSをし、猪野くんがあっちへこっちへと電話越しに指示してくれるのに従ってなんとか地上へ出ることができた。
私が地下から這い上がった頃にはもうすっかり夜になってしまっていた。

「猪野くんがいなかったら、私は死ぬまで下水道を徘徊し続けて、都市伝説になって新しい仮想怨霊になっちゃってたんだろうね」
「んなニューヨークのアリゲーターじゃないんですから」
挙げ句の果てに携帯は電池切れ。猪野くんが電話で補助監督にピックアップしてもらうことでなんとか帰路につくことができた。
二人、補助監督が丁寧に運転してくれる車の後部座席に並んで、右カーブの時には右に揺れ、左カーブの時には左に揺れたりした。


「苗字サン、特級祓ってくれてありがとうございました。俺の方じゃ見つけられなくて」
「ううん、運良く見つけられて良かったよ」
「怪我とかしてません?」
「多分」
「家入サンに見てもらいましょーね」
「うん」
そんな会話をしてから、少し車内は沈黙。
窓を流れていく都会の夜の明かりの群れ。

ぼんやりと進行方向を眺めて、ふと気がつくと、右側に座る猪野くんが私の横顔をじぃっと見ていた。その視線に応えるように彼の方へ目を向ける。それからどうしたのかと問うように首を傾げて見せると、彼は「ちょっとすみません」と一度断ってから私の方へ手を伸ばしてきた。

敵意も悪意もない掌が私の元まで辿り着いて、そっと額に触れる。硬い掌の感触が、私の額にあった。

「……猪野くん?」
「苗字サン」
「うん」
「あったかいっス。つーか、熱いくらい」
「うん?」
「多分、苗字サン熱ありますよ」
「ねつ……」
「顔赤いし、熱っぽいし、高専着いたら即家入サンとこにゴー!っスね、これ」
「そうなのか……」
そう答えるしかない私に、柔らかい表情ながらどこか真剣な顔つきの猪野くんは「しんどくなかったっスか?」と問う。しんどい、という感覚が少しわからなくて、やはり首を傾げる。そうすると猪野くんは少し言い方を変えてくれた。

「ダルイとか、吐きそうとか、体重いとかそういうの大丈夫でした?」
「ちょっと、体重いって感じてたかも。疲れてるのかなって」
呪霊を祓った後に感じた体の重さは単純に体調不良によるものだったらしい。
その時のことをぼんやりと思い返して、ふと私はもうあの呪霊の顔さえまともに覚えていない自分に気がついた。
アレはどんな顔でどんな姿でどんな声で、私は何と言われたんだっけ。思い出せない。
……けど、まあいいか。祓ったから、二度と会うこともないし。


「体重かった、か。んー、じゃあ多分、つーか、絶対体調悪くなってますね」
私の額から手を離した猪野くんはそう言ってから、そっと声を潜めた。

「……あのさ、苗字サン、だめっスよ。ちょっとでも体変だなって思ったらすぐに言ってください。もっとさ、俺とかまわりのことを頼ってよ。一緒にいた時に気付けなかった俺も悪いけど、今回は七海サンが怪我するレベルの案件でしょ?特級が弱ってたからいいものの、こんなコンディションで戦って、下手すりゃ死んじゃってたかもしれないんですよ?」
いつもならまっさらな眉間に、珍しく深い皺を刻んだ猪野くんの顔が、窓の外、街頭の明かりに照らされて見えた。その表情が少し、怒っている時の七海に似ていて、思わず言葉が口をつく。


「猪野くん、怒ってる?」
「…………うえっ?あ、あー!いやいや嘘嘘全然怒ってないっス!心配だっただけで!ちょっとキツい言い方しちゃいましたね!びっくりさせちゃった!?全然これっぽっちも怒ってないスからね!あー、ちょっと高専着くまで寝ときます!?寝ましょ!休みましょう!ね!」
「あ、うん……」

慌てた様子で車に常備してあるタオルケットを私にかけてくれた猪野くんの眉間に皺はもう無くて、けれど私はなんだか酷く申し訳ないような、ままならないような気持ちになった。

「猪野くん」
「はい」
「あの、ごめんね」
「……ううん。いーんスよ、何も無かったんだから」
「それと、ありがとうね」
「……うん」
ありがとうと言ったら、猪野くんはなんだか笑っているような泣いているような、不思議な表情をした。どんな気持ちなのかわからなかったけれど、私は聞かないことにする。これは彼自身に聞くべきことじゃないと、なんとなくそう感じたのだ。

猪野くんが渡してくれたタオルケットを肩までかけて、目を瞑る。
車内の振動が心地よかった。












「38.8℃」
「うん、はい、ごめんなさい」
高専に戻った私は猪野くんに手を引かれて、医務室へ行き、まず家入さんにものすごく怒られた。ベッドに即寝かされ、渡されたゼリー飲料と薬を飲む。許可なくベッドから離れたら生きたまま解剖するからなと釘を刺され、小さくなりながらベッドで毛布に包まれた。

それから猪野くんが代わりに報告に行ってくれたその少し後に、七海が入れ違うようにやってきた。
彼は今、私が寝ているベッドの横に置かれた椅子に座って非常に怒った顔をしている。

「七海、説教?」
「しようと思ってたが、……いい。猪野君に怒られたんでしょう?ならもう私から言うことはない」
「猪野くんは怒ってないって。心配したんだって言ってたよ」
「まず後輩を心配させるな。彼は私たちより6つも下だぞ。大体、苗字、貴女は人一倍体調管理に気をつけないといけない人間だという自覚をいい加減まともに持て」
「……七海、説教してる」
「誰がさせてると思ってる」
そう言ってから、七海は目を瞑って息を吐いた、深く深く。身体中の空気を全部出そうとしてるみたいな溜息だった。

それからゆっくりと目を開くと、その時にはもう怒った顔はしていなかった。

「苗字」
「うん」
「ありがとう」
「……なにが?」
「例の呪霊を祓ったのは貴女だと猪野君から聞いた」
「ああ、うん。七海たちが弱らせてくれたみたいだから全然別に問題なく、うん、大丈夫だったよ」
「助かった。……本当に、祓ってくれてよかった」

七海は疲れの見える顔で、けれど酷く安堵したような表示をしている。
報告書上でも念を押すように、彼はあの呪霊は成長する前に一刻も早く祓うべきだと繰り返し記述していた。それくらい、七海はあの呪霊を脅威に感じていたのだ。
アレを取り逃し、また新たに犠牲者が出るのが七海には酷く恐ろしいことだったのだろう。
その不安が無くなったのなら、彼が今夜少しでも穏やかに眠れるのなら、よかった。彼の助けになれて、よかった。

「七海」
「ああ」
「そっちで何があったかは大体、帰りに聞いてて、大丈夫だった?」
「怪我の話か?」
「あ、うん、あの、虎杖くんっていう子も」
「彼も私も家入さんの治療を受けた。完治まではまだ時間がかかるだろうが、命に別状はない」
「あ、うん、そっか」
「……他に何かあるのか」
深い翠の瞳に見つめられて、私は口を閉じる。


七海や虎杖少年が向かった里桜高校でのことは帰りの車の中で補助監督から簡単に聞いている。

特級呪霊が里桜高校を帳で覆い、七海と虎杖少年がその帳内で戦闘を行ったこと。呪術師側は負傷者こそあれど死亡者はなし。里桜高校でも多くの学生や教師が一時的に昏睡状態に陥ったが、その多くは数日で回復する見込みとのこと。

ただ、1人。1人だけ。
高校二年生17歳の少年が特級呪霊の手にかかり亡くなったそうだ。

夏、17歳、少年、呪霊、死。

顔も名前も知らない少年の死。
何も思わない、とはいかなかった。
散らばるキーワードに、想起される記憶。付随する感傷。言いようのない寂しさが嵐のように体の内側を襲った。

望まずとも頭に浮かぶのは、いつかのあの優しい少年の笑顔。快活で大きな声。初夏の日のような笑顔。穏やかな言葉。大きな掌。私の腕を取った体温。大人になれなかった人。

君と過ごしたのはたった二度の夏だけだった。
あれから私はもう十度も君のいない夏を繰り返して生きてきた。君と過ごした日々より、君のいない日々のほうがずっと長いのに、どうしてだろう。
何度も夏を繰り返してようやく、私は君がいない世界の寂しさに辿り着く。自分が本当はこんなにも大きな傷を抱えていたのだと、ようやく認識する。

七海も私と同じだろうか。
こんな大きな傷を抱えて、何度も夏を繰り返したのだろうか。


唐突に黙り込んだ私の顔を七海が覗き込んだ。深緑の様な穏やかな瞳に見つめられ、私は唇を開いて彼の名前を呼んだ。

「七海」
「ああ」
「……何でもない。呼んだだけ」
「そうか」
会話は途切れて、2人は黙り込む。七海は疲れているだろうに、どうしてかここから離れなかった。彼のその姿に私は、彼は私が伝えたいけれどうまく言葉にできずにいる言葉を待ってくれているのだと気が付いて、目を細める。

「七海」
「ああ」
「……あの、私はこれから話をするけど、七海を傷つけるつもりは少しもなくて、でももし七海を傷つけてしまったらごめんね」
「前置きが長いな」
七海は少し笑って、視線だけで私の話を促した。だから、口を開く。

「今年は一緒に灰原のお墓参りに行こう」

夏、もうすぐそこまで彼の命日が迫っていた。
彼の家族のことを考えて、命日その日に行ったことはないけれど、毎年数日ずらして彼のいない彼の眠る場所に花を届け続けていた。きっと、七海も、同じように。

七海と私の二人で一緒にそこに行ったことは無かった。
一人でなら耐えられる悲しみも、二人で共有するにはあまりにも苦しすぎたから。
それでも、

「……ああ、一緒に行こう」
それでも、七海はそう答えてくれた。どこか寂しそうな顔で、穏やかな声音で。
細めた目の奥ではきっと私と同じようにかつての日々を想っているのだろう。

今ならばきっと、今の私ならば七海と共に悲しさと寂しさを抱えられる。抱えた傷を愛おしく思える。

いつか最期の時が来るまで、私たちは変わり映えのない明日を繰り返す。今日より良い明日が来るなんて私にはもう言えない。新しい美しいものを得ても、過去私のそばにあった尊いものが帰ってくるわけではない。

寂しさはずっと私と共に在るだろう。
それでもいい。それでいい。
寂しささえわからない日々には戻れない。
この寂しさは私が十年歩き続けて得た一つの答えだから。


灰原、と、私は頭の中で彼に話しかける。

灰原、君が死んでも私は生きていける。
生きていけるけど、寂しいよ。
君を失った痛みはここにある。それは確かな傷になっていた。私は君を忘れないから、これからも苦しみ続ける。
変わり映えもなく明日も世界は続くし、私は死ぬまで生きていくだろう。
でももう一人じゃないから。いいや、私は初めから一人じゃなかった。
だから、大丈夫。安心して欲しい。
どうかそれを星々のどこかで眠る君にも信じて欲しい。


発熱する体温に布団が温まり、意識は少し微睡の中へ。
その時そっと、私の額に七海の手が当てられる。私の体温が高いせいか、彼の掌はとても冷たく感じられた。それが心地いい。

「苗字」
「うん」
「早く治してくれ」
「努力する」
「頼む」
「……あのさ、七海」
「ああ」
「ありがとう。あの、いろんな、今までとか今とか、全部」
「礼を言われる筋合いはない。何か他にもっと無いのか。貴女は私にいくらでも恨言があるだろう」
「……バーカ、ハーゲ、ウンコー」
「おい、それはやめろ」
「七海が言ったくせに……」
「どうせ五条さんに言えって言われたんだろう」
「うん」
「私は貴女の言葉を聞きたい」
「うん。うーん、じゃあ、」
「…………」
「七海は、私より先に死なないでね」
「……無茶を言う」
「うん、ごめんね、ちょっと甘えてみただけだよ」
「わかってる。約束はできないが、努力はする」
「うん」
「だから、貴女も私より先に死なないでくれ」
「無茶なことを言うね」
「ああ、甘えてみただけだ」
「うん。わかってる。わかってるよ」


小指を結ばないで、そんな約束をする。
どこか懐かしいのに初めての、たった一度きりの今年の夏のことだった。













『人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。 
原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。
人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。

とはいへ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。
我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。

この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。


そして我々はもはや永久に孤独ではない。』



萩原朔太郎「月に吠える」序より