ヘルタースケルターナイタークライマー




苗字には味覚がないのだと、そんな話を聞いた時猪野はふとあることを思った。
思って、それをそのまま彼女本人に伝えた。


「苗字サン」
「うん、どうしたのかな、猪野くん」
「苗字サンって、辛いものって食えます?」
「うん、食べれるよ」
「得意……っスか?」
「得意というか、今まで生きてきた中で何かを辛いと思ったことはないかな」
「かっけー!」
目を輝かせて猪野は喜んだが、苗字には彼が唐突に喜んだ理由が分からず首を傾げる。その様子に気がついた猪野はえらく真剣な顔つきで声をひそめると「実はですね、」と苗字の方へ顔を寄せた。

「俺んちの近所にめっちゃ旨い中華があるんスけど、メニューの中に「激辛坦々麺」つーのがありまして、」
「うん」
「今まで何人もチャレンジしてるんですけど、辛すぎて誰も食べきれたことがなくて、ついには賞金まで出ちゃったんスよ」
「うん」
「激辛担々麺、40分以内に食べ切れたらなんと賞金3万円!ヤバくないっすか!」
「……猪野くん」
「あっ、ハイ、すいません、調子に乗りま、」
「つまり、猪野くんは私に『勝て』と言ってるんだね?」
「い、苗字サァン……!」

人の心の機敏に疎い苗字にも猪野から向けられた期待の眼差しくらいはわかる。
味覚の鈍さを武器に彼の言う激辛担々麺とやらを食べ切り、3万円をゲットすればいいのだ。
猪野は苗字にとっていい後輩だ。一つ彼の期待に応えてもバチは当たるまい。

決行はその日のうちに行われた。




猪野の近所の中華料理店はその夜、異様な盛り上がりを見せた。
常連客にとってはもはや悪魔とも言うべきあの激辛担々麺にとある女性が挑戦しようというのだ。ついにあの悪魔を倒すものが現れたのかという期待半分、どうせまた一人敗北者が増えるだけだろうという予測半分が店の中に入り混じる。

「ヘイ、お待ち」
テーブル席に座った苗字の前に置かれたのは、地獄の血の池でもここまで赤くはないだろうと思えるような真っ赤な担々麺。スープはマグマのように煮えたぎり、その中に鎮座する唐辛子を混ぜ込んだ麺は麺なのに赤かった。そんなただでさえ赤い器の中に、さらに赤い彩を与えるブート・ジョロキア。麺の上に鎮座するそぼろ肉には当然のように特別ブレンドの香辛料が混ぜ込まれている。
それを目にした猪野は立ち登る辛い湯気に思わず身を引いた。湯気が目に入るだけで涙が溢れそうだった。

「い、苗字サン、これヤバくないっスか?マジでいけます?」
「うん」
「あの、リタイヤとか全然してくれていいですからね?」
「うん」
猪野の心配を他所に、苗字は平然と箸を手にした。目の前の激辛料理に恐れることのないその異様な貫禄に常連客たちも思わず期待を抱いてそれぞれの席から新しい挑戦者を見守る。

ストップウォッチを手に持った店主が店内に響き渡る声で開始を告げた。

「スタート!」
その声が聞こえた瞬間、苗字は躊躇いなく器に箸を入れ、真っ赤に染まった中華麺を掴み取る。そうして躊躇いなくそれを啜った。

その瞬間、店主はニヤリと笑った。
第一関門はここだ。
まず一口目。余裕吹いて普通のラーメンのように麺を啜った人間はまずここで麺とそこに絡むスープのあまりの辛さに咽せるのだ。普通に生きていれば体感することのない身悶えるような激辛に今まで何人の挑戦者が散っていったことか。
今こそ余裕そうな顔をしているこの若い女性も、舌に襲いかかる筆舌難き辛さにその端正な顔を歪めることだろう。店主は微かな愉悦を抱きながら、警戒することなくズルズルと麺を啜る苗字を見つめた。
しかし、店主の予想とは異なり、苗字はあっさりと麺を啜り切ると、すぐに二口目を口にする。

その様子に店内はどよめいた。
常連客たちは知っているのだ。食べたことはなくとも、これまであの悪魔に果敢に挑戦してきた者たちがまず一口目で身悶え、激しく咽せ、発汗し、堪らずテーブルに突っ伏す姿を。
それをあの女性はまるで平然と二口目、三口目と進めていくではないか。
もしや、店主、挑戦者がこの店には珍しい若い女性だからと手心を加えたのではあるまいな、と店内の客たちは思わず店主の顔を見た。しかしそこに映る店主の顔こそが誰よりも驚愕の色に染まっていることに気がついて、その考えを改める。
つまり、あの女性は店主の本気の激辛をあっさりと食べているのだ。
そのことに気がついて、再び常連客たちはどよめく。

それは苗字の目の前の席に座る猪野も同様だった。
ぽかんと口を開いたまま苗字を見つめる猪野は「だ、大丈夫なんスか?苗字サン……」と呟くように尋ねた。

「ん、大丈夫」
乗っかっていた苗字はブート・ジョロキアごと麺を咀嚼した苗字は、それらをごくんと飲み込んでからなんでもないようにそう言う。その姿があまりにも頼り甲斐がありすぎて、猪野はむしろ感動した。一緒に任務に参加した際に危機一髪のところを助けてもらった時くらい感動した。猪野は割と感動のラインが低めだった。

なんてことない顔どころか、発汗さえせず食べ進める苗字に慌てたのは店主だ。頭の中で、もしやあの香辛料を入れ忘れたか?あるいは間違って普通の坦々麺のレシピで作ってはいないか?と過去の自分を振り返るが、己の調理でミスをした記憶はない。
となれば、この女性は本当に辛いものに強いのだ。
店主は慌てて「ス、スープもだ」と苗字に言った。

「麺や具材を食べるだけじゃダメだ。スープまですべて飲み切って初めて完食と判定する」
「はい」
苗字は静かに頷くと、器を両手で持ち上げてその地獄の釜の湯のようなスープをごくごくと飲んだ。店内に歓声が上がる。

どれだけ辛いものを食べても苗字は表情を変えない。
その時点でもう、店主の敗北は決まっていたのだ。




15分56秒。
苗字がスープを飲み切って、坦々麺の器をテーブルに置いた瞬間、店内のオーディエンスたちは狂ったように沸き立った。
40分というリミットから大きく余裕を持って、苗字は激辛担々麺の器を空にした苗字。店主に言われた通り、スープまで飲み切った完全勝利だった。

思わず苗字たちのテーブルまで詰めかけてきた常連客たちは「オイオイすげえな!」「よくやった嬢ちゃん!」「涼しい顔しやがって!」「マジかよ!」と口々に言いながら、何故か完食した苗字ではなく、ツレである猪野をバシバシと叩いていった。流石に女性である苗字に軽々しく触ることはできなかったのだろうが、力強く背中や肩をバシバシと色んな人から叩かれた猪野は「痛ァ!なんで俺!?」と喚いて、それにさえ彼らは大口を開けて笑った。

「いってえ……って、苗字サンすげぇ!えっ、つか、体大丈夫っスか!?辛くありませんでした!?」
「ちょっと辛かった」
「アレを「ちょっと」!?すげー!かっけー!」
全力を注いだ激辛担々麺を「ちょっと辛かった」で済まされた店主は悲しい顔をした。したが、負けは負けだ。
店主はレジから一万円札を3枚取り出すと、二人が座るテーブルに置いた。

「完全敗北だ、嬢ちゃん」
そう言いながら店主はどこか晴れやかな表情だった。
「嬢ちゃんのおかげでまだまだ改良の余地があるってことがわかったぜ」
そう言った瞬間、常連客が「これ以上辛くしてどうすんだ!」「嬢ちゃん以外食えねーだろうが!」と声をあげたが彼は意にも介さなかった。その表情に苗字も笑みを形作る。

「いいえ、とても美味しかった。お礼を言うのはこちらです」
苗字は味覚が鈍い。味覚だけではなくあらゆる感覚が鈍く、そんな彼女にとって料理とはすべて同じようなものに過ぎない。
けれど今日、この激辛担々麺と出会ったことで初めて「辛い」という感覚を知ることができた。それは些細なことのようで、苗字にとってはとても大きなことだった。

「猪野くんも、ありがとう」
そういうものが存在するのだと教えてくれた猪野にも感謝の気持ちを伝える。そうすれば彼もまた嬉しそうに笑った。

そんな彼らに「畜生!二人ともお幸せにな!」「また二人で来いよ!」と少し二人の関係性を勘違いしている野次が飛ぶ。
それに猪野は少し照れた。誤解とはいえ憧れの先輩である苗字との関係をそう言われるのもなんだか満更でもなく、苗字が否定しないのをいいことに彼もまたわざわざ誤解を解いてこの雰囲気に水を差すようなことはしなかった。


余談だが、今日の敗北を経た店主が激辛メニューを改良し、その激辛メニューがテレビに取り上げられたのをきっかけに、この店が一躍人気中華料理店になるのはまた別の話である。






温かい声を背に店を出た二人。
苗字は店主から渡された三万円を猪野に差し出した。苗字の思ってもいなかった行動に猪野はキョトンとしながら「なんですか、これ?」と首を傾げる。

「猪野くんにあげる」
「へっ!?いやいやいや!これは苗字サンが受け取んないと!」
「でも、猪野くんがこのお店のこと教えてくれなかったらこれは貰えなかったし」
「それを言ったら苗字サンが完食してくれなかったら貰えてなかったものでしょ?」
そう言って両手を後ろに隠すけれど、苗字もまた譲る気はないらしい。困った顔をした猪野は、じゃあ、と折衷案を出した。

「じゃあ、今度このお金で美味しいもの食べに行きましょ!」
そう笑ってみせたけれど、そうすれば今度は苗字が少し困った顔をする。その表情を見て、猪野は自分の失言に気がついた。
そうだ、苗字は味覚が鈍い。そんな彼女には「美味しいもの」という概念がそもそもわからないのだ。
しまった、と内心焦る猪野は慌てて「えーっと、苗字サンの好きなものってなんですか?」と問いかけた。
食事じゃなくてもいい。彼女が好むことや好むものの為にそのお金を使おうと思ったのだ。

「好きなもの……」
呟いた苗字は少し考え込むような顔をしてから、口を開いた。

「歯応えがあるもの……?」
「歯応え、っスか……」
「うん、味とかはあんまりわかんないけど、食感とかはわかるから、そういうのがわかる歯応えがあるものが好き、かな……」
その返答に猪野は慌てて脳内を検索した。歯応えがあるもの、歯応えがあるもの……。

「苗字サン」
「うん」
「グミパーティとかします?」
猪野はあんまりにも慌てていたものだから、歯応えがあるものと言われてパッと思い浮かぶのがグミしかなかった。言ってから内心、自分は何を口走っているのだろう、と変なことを言ってしまった自分に溜息をつく。

「グミ?」
「えーっと、ハイ。グミってほら、いろんな食感?とかあって歯応え、つーか、噛み応えがある、と思うんで、だから色々食べ比べとかしたら面白いかな〜って…………いやすんません!なんでもないです!俺ほんとバカで大したこと思いつかなくてほんと、」
「してみたい」
「ごめんなさ、…………えっ?」
「グミパーティ、してみたい」
そう言って苗字が微笑むものだから、猪野は一瞬ちょっとだけびっくりしたが、すぐに切り替えて「やりましょう!」と言った。

「コンビニとか駄菓子屋とかで片っ端から全種類買って、あ、あと海外のやつとかも買ってみましょ!北欧の方にヤバいグミがあるらしいですよ!」
「そうなの?楽しみだね」
「っスね!」
苗字が柔らかく笑ってくれたこと。
また二人で遊ぶ約束をつけられたこと。
それだけのことが猪野は心の中でガッツポーズをするほど嬉しかった。



苗字は痛覚が鈍いこと。
痛覚だけではなくあらゆる感覚が鈍いこと。
そしてそれが代々術師の家系である苗字家の人間によって人工的にされたらしいこと。

猪野はそれらを噂半分に知っていたけれど、彼にとってその情報はそう大したことではなかった。
猪野もまた術師の家系の人間だ。生まれた時から術師になる道しか選べない人間が大なり小なり少しおかしいのも、家の都合でおかしくなるしかないのも、よくあることで、仕方のないことだと知っている。

悲しいことだけれど、人は生まれに左右される。
どうしようもないことはある。あるけれど、それはそういうものでしかない。
そんなどうにもできないことよりも、猪野は自分が苗字と一緒に過ごしていて楽しいと感じていることの方が大切だと思えた。

まずはグミパーティ。
それが終わったらまた別の遊びに誘ってみよう。

感覚の鈍い苗字にとっての「楽しい」の基準はもしかしたら人よりもずっとずっと高いところにあるかもしれない。
それでも何も思わないわけではないはずなのだ。
今日、彼女がとてつもなく辛いものを食べて、微かであっても確かに辛いと感じたように。たくさん楽しいことをしたら、少しくらいは楽しいと思ってくれるかもしれない。

つまるところ、壊れるほど愛したら三分の一くらいは伝わるっしょ!と猪野はごく楽観的に思ったのだ。

にぱぁと笑う猪野に苗字は笑みを向けた。

「猪野くん、嬉しそうだね」
「はい!苗字サンといると楽しいんで!」
そう返せれば彼女は少し驚いたような顔をして、それから「それなら、よかった」と安堵したような顔をした。
それがあまりにも優しく見えたものだから。


やべー、ガチめに好きになりそ。

猪野はちょっと思った。