ファルファッレファンファーレ

日も落ちた夜8時。任務を終えて帰路に着く。
辿り着いた自宅マンションの玄関扉の前で家の鍵を取り出そうとして、不意にあることを思い出して、その手が止まった。

自分が家にいる時は貴女に呼鈴を鳴らして欲しい、と彼がそう言っていたことを思い出す。

結局、鍵の入っている鞄のポケットに伸ばされていた手はそこには向かわず、扉のすぐ横の壁に設置されているインターフォンへ向かった。人差し指でボタンを押す。軽い感触の後、ピンポーンと軽い音が指先から聞こえて、それからすぐに「はーい!」という声がインターフォンのマイクと、玄関扉越しに重なって聞こえた。それからぱたぱたと速い足音。

かちゃんと軽い音を立てて鍵は内側から開き、外開きの玄関扉もまた当然のように開く。
扉が開いた瞬間、暗い夜の闇をオレンジ色の暖かな光が四角く切り取った。外廊下で待っていた私はその灯りに照らされて、一瞬眩しくて目を細める。それから、光の中、自分を迎え入れてくれた彼の笑顔を目に映した。

「おかえりなさい、苗字サン!」
「……うん、ただいま、猪野くん」


苗字名前、27歳。職業、呪術師。
現在、同職の後輩である猪野琢真と同棲をしている。




明るい玄関に入り、後ろ手に鍵を閉める。
私の前には青いエプロンをかけた猪野くんがニコー!と笑っていた。今日はオフだった猪野くんはいつものニット帽も被っていないから、彼の額がよく見える。
猪野くんがいそいそと私のスーツのジャケットを脱がそうとするのをされるがまま受け入れた。

「苗字サン、お腹空きました?ご飯できてますよ」
「なんか、いい匂いがする気がする」
「あっ!わかります!?」
「……麻婆豆腐?」
「惜しい!マカロニグラタンっス!」
「惜しい?」
「具がいっぱいなとこはおんなじっしょ?」
そうだろうか?まあ、料理を作った彼がそういうのならそうなのだろう。

「お風呂も沸いてますけど、どっち先にします?」
頭の中で麻婆豆腐とマカロニグラタンの比較差異を考えていると猪野くんがそうと問いかけてくれた。

どうしよう、と考えているうちに「あ、そうだ」と猪野くんが柔らかい笑みのまま、私に両手を伸ばした。警戒する必要のない掌を私は静かに受け入れる。

猪野くんはジャケットを腕にかけたまま、私の頬を両手で包み込むようにふれた。それから距離を詰めるように寄せられた私より少し背の高い体。
少し硬い掌の感触、柔い温度。感覚の鈍い私にも感じられるようにと、優しく揉み込むように頬を撫でられる。「外の匂いがする」と彼は小さく喉を鳴らして笑った。

「ん、冷えちゃってんね」
「そうかな」
「つーことで先にお風呂っスね。あったまってからご飯にしましょ」
「うん」
「後で着替え持ってくんで。そのままお風呂行っちゃって大丈夫っスよ」
「ありがとう」
ジャケットだけでなく手に持っていた鞄までするりと猪野くんに取られて、そのまま脱衣所まで背中を押される。
「ちゃーんとあったまってきてくださいね!」
ニカッとこちらに笑ってから、リビングの方へ向かう猪野くんに思わず目を細めた。



色々あって猪野くんと同棲することになって、早数ヶ月。
大変なことになっている。
大変なことになっているのだ、主に私が。

ことの発端は何を思ったのか猪野くんが私へプロポーズをしたところから始まる。
猪野くんに誘われたのは、夜景が綺麗なちょっとところのディナー。
今思えばシチュレーション的に役満なのだが、その時の私はいつも二人でご飯に行くくらいの軽い気持ちでいた。そこで突然の告白。青天の霹靂とはこのことだと思った。

私は驚いたが、すぐに自分を落ち着かせると猪野くんへ、私という人間が如何に人間として欠陥であるか、君に相応しくない人間であるかを滔々と語った。
猪野くんはとても優しく気のいい素晴らしい後輩だ。そんな彼の未来を私ごときが奪うことなど許されるはずもない。

そう思って猪野くんのために彼と真剣に対話をしていたのだが、よく考えてみたら私はあまり口が達者なタイプではない。むしろ下手な方だ。

ふと気がつくと私はすっかり猪野くんのペースに乗せられ、「とりあえず半年だけお試しで付き合って同棲してみましょう!ね、苗字サン!」「うん、そうだね。………うん?あれ?」となり、気がついたら数日後には同棲をしていた。何が起こっているのか全然わからなかった。そういう術式か?とさえ思った。


白い湯気が天井は立ち登る湯船に浸かったまま、ぶくぶくとお湯の中で私はそんなほんの数ヶ月前のことを思い返していた。

とかく、お付き合い。とかく、同棲である。
術師の家系に生まれてまともに家を出たのは高専に入ってから。高専を卒業後は任務ばかりの日々。
生まれてこのかた、一度たりとも人と交際などしたことのない。
そんな私からしてみれば、彼と暮らし始めた日からまるで世界が変わったかのようだった。

家に他者の痕跡がある。
帰宅した時に他者がいる。
他者の作った温かい食事を食べる。
帰宅してから眠るまでの時間に他者と会話をする。
他者に触れること、触れられることが日常化する。

笑った顔、優しい手つき、話し声、埃の積もらない本棚、私が履かない靴のある玄関、料理をする音、シンクを流れる水、ベランダから吹き込む風、揺れる洗濯物、陽の光。

揺らめく。心がゆらめく。
感覚鈍化に汚染されたこの体でさえわかる、柔らかくて温かい何かがあった。

湯船の中で体を小さくして、私は両手で自分の体を抱きしめる。

すべてはバランスだ。
傷つけたのなら傷つけられなければならない。
苦しめたのなら苦しめられなければならない。
同じように、
愛したのなら愛されなければならない。
優しくしたのなら優しくされなければならない。

一つを与えたのなら、一つを与えられなければならない。
そうでなければ、条理じゃない。

その条理が守れないとわかっているのならば、私は一刻も早くこの生活を破壊しなければならない。
与え続けてくれる彼が何も返されない日々に、ピリオドをつけなくては。

湯船から上がり、曇りがかった姿見に写る自分を見た。
私は、私が嫌いだ。




「猪野くん、お風呂ありがとう」
「いえいえ」
彼が用意してくれた寝巻きを身に纏ってリビングに向かうと、猪野くんはソファで暇そうにテレビを眺めていた。時刻は9時前。随分と待たせてしまったことに気がつく。

「ごめん、猪野くん。お腹空いたよね。先に食べててもらえばよかった」
「ああ、大丈夫っスよ。実は昼過ぎに間食しちゃって。今やっとお腹空いてきた頃なんで丁度よかったっス!」
人を、彼を疑いたくはないけれど、多分それは私のためについた嘘なのだろうな、と思った。ソファから立ち上がった猪野くんは私のそばへくると、玄関先でそうしたように再び頬にふれて「うん、あったまってる」と笑った。

「ご飯にしましょ」
「うん」
ダイニングテーブルを囲んで、猪野くんが作ってくれたグラタンを前にする。いただきますと言って、焼けたチーズの膜を破った瞬間、そこから立ち登る湯気に、彼が私がお風呂から上がるタイミングを見て温め直してくれたことを知る。細やかな優しさ。私の舌は味も温かいも冷たいもわからないのに、彼はきっとまた同じようなことがあったらそうするのだろう。それだけで心が痛む。

「そういえば今日の深夜に映画をやるんですよ。一緒に見ません?」
もしかしたら苗字サンはもう見たことあるかも知らないけど。彼はそう言って笑った。
「うん、見たい」
タイトルを尋ねると返事が返ってくる。

『ミツバチのささやき』
もうずっと昔の古い映画だ。

味の感じられないグラタンを食べる。私は視覚だけで自分のスプーンに乗ったものが何かを判断した。じゃがいも、ホワイトソース、鶏肉、筒状のマカロニ、玉ねぎ、チーズ。

「猪野くん」
「ん……。どうしました?」
「これ、かわいいね」
スプーンで掬い上げたのは、ひとつのマカロニだった。筒状のものとは違う、羽根を広げた蝶のような形のマカロニがグラタンの中に混ざっていた。そのことを指摘すると、テーブルの向こう側の彼は嬉しそうに笑った。
「あっ、気がつきました?」
「うん」
「マカロニって竹輪みたいなやつだけじゃないんですよ。お店で見かけて買っちゃいました。これはファルファッレっていう名前のマカロニで、ホワイトソースによく合うんスよ」
「そうなんだ、猪野くんは物知りだね」
そう返せば彼は少し照れたように笑って、それから内緒話をするみたいに声を少しだけ小さくした。

「へへ、七海サンの受け売りですけどね」


料理を作ってもらったのだから、せめてお皿を洗おうとしたのだけれど、猪野くんに「まだ髪が濡れているから乾かしてきて」と言われて、ドライヤーに吹かれているうちに、シンクの中はすっかり空っぽになっていた。

猪野くんがお風呂から上がってからは、深夜の映画が始まるまで二人ソファに座ってバラエティを眺めた。
そうしながら話をする。内容はなんでもないことばかり。
スーパーの野菜が前より少し高くなっていたこと、そろそろ洗濯用洗剤が無くなりそうなこと、明日のお互いの仕事のスケジュールのこと、今度一緒に行こうと話をした場所のこと。肩を寄せ合って、そんな話をぽつぽつとした。


『ミツバチのささやき』は随分前に見たことがあった。確か、五条さんの持っているDVDの中にあったのだ。
あの時彼は私に言った。

「苗字はアナみたいになればいいんだよ」
アナはこの映画の主人公だ。虚構を信じ、脱走兵を助け、大人たちから逃げた、幼い童女。
彼が言ったその言葉の意味を、かつての私も今の私もいまだに理解してはいない。

深夜、映画の中でアナが脱走兵と出会う頃には猪野くんは私の肩にもたれかかって寝息を立てていた。
この映画はドラマチックで鮮やかな話ではない。大きな事件が起こるわけでもない。ヒーローもヒロインも現れない。ただ淡々と童女の姿を映すだけ。どんなストーリーなのかを認識するよりも先に眠気に襲われるのは無理もないことだと思った。私は彼を起こさないように体を動かさないまま、画面を見つめる。

映画の中で大人は言った。

「アナはまだ子供なんだ」
「少しずつ忘れていくよ」

けれど、ラストシーンでアナは選んだ。
忘れないことを。
信じ続けることを、幼い彼女は選んだ。

暗転。エンドロール。
古い映画。もう死んでしまった人たちの名前が流れる。
私はそばにあったリモコンでテレビを消して、少しだけ猪野くんの方へ体を寄せた。鼓膜を揺らす他者の寝息。

暗くなった画面を見つめながら、今日一日で猪野くんが私に与えてくれた沢山のものを思い返す。それから、私が彼に何も、何一つも与えられていないことを自覚した。

与えられるばかりだ、私は。
バランスは崩れたきり、条理はままならない。

猪野くんといると、許されたように気持ちになる。生きていることを。ここにいることを。

幸せ。しあわせ。幸せ?

こわい、と思った。
これが幸せなのだとした、それはなんて恐ろしいことなのだろう。壊れていく。壊されていく。既存の私が破壊されていく。空っぽの心が、感覚のない体が、知ってしまう。幸せを知ってしまう。

いけない。思い出せ。忘れるな。認識しろ。
繊細なもの、柔らかいもの、優しいもの、尊いもの。
そういうものはみんな壊れやすい。
壊れたらもう戻らないのに。

私はそれを壊す側なのだと、自覚しろ。
傷つけるばかりの人間が、優しくされていいわけがない。苦しめるばかりの人間が、幸せになっていいわけがない。

いつか、きっといつか私はこの人を苦しめる。
傷つける。不幸にする。優しい心を壊してしまう。
だから、その前に、


「んぐ。……ん、ぁ、おれ、ねてた……?」
一度だけ猪野くんは私の肩に頬を擦り付けた。それからすぐに肩にかかっていた体重が唐突に離れて、目を覚ました猪野くんが夢と現の間で目を擦る。その微睡も、声音も、私には、私にとっては。

「んん、苗字サン、すんません、俺映画ほとんど、…………苗字サン?」
何かに気がついたように猪野くんが私の名前を呼んだ。だから応えるように彼の方を見る。彼は少し目を丸くして私を見ていた。

「苗字サン、どうしたの?」
「……どう、とは?」
「なんか、怖い顔してる」
映画、ハッピーエンドじゃなかった?
そう尋ねる彼に私は首を横に振る。

「違う。違うんだよ、猪野くん」
「うん」
「私、わ、わたし、私は、猪野くんに、猪野くんが、」
「うん、大丈夫。ゆっくりでいいよ」
声が震える。言葉がうまく吐き出せない。どうして。言わなくてはならない。理解してもらわなくてはならない。

「私、わ、私は、猪野くんと居られない」
そう言った時、猪野くんは表情を変えなかった。
私のことをどこか心配そうに、それでいて見守るような表情のまま、「うん」と小さくうなづいただけ。

「どうしてそう思うんですか?」
「……私は君を幸せにできない。猪野くんはたくさん、たくさんのことをしてくれるのに、私はなにもかえせない。きっといつか君の優しさに仇を返す。きっといつか君を傷つける。苦しめる。それは正しくない。優しくて誠実な君は誰よりも幸せになるべきだ。優しい人には優しさが返るべきで、でもそれは私にはできなくて、私は、私には君にしてやれることが何も無い」
私には猪野くんといる資格が無い。

何も無い。私には何も無い。くれた優しさに返せるものがない。
この優しい人に、空っぽの私がいったい何をしてやれるというのだろう。

「猪野くん」
「うん」
「……なんで笑ってるの」
なのに、猪野くんは笑っていた。
なんでもないみたいに、少し困ったような、けれど何かが内側から溢れたような嬉しそうな顔で笑っていた。

「……ごめん。でもだってさぁ!」

苗字サン、俺のことめっちゃ好きじゃん!

猪野くんはそう笑って手を伸ばし、ぎゅうと私のことを抱きしめた。唐突に距離はゼロになり、私は彼の胸元に顔を押し付けることになる。微かに鼻腔を擽る彼の匂い、温もり。困惑する私を宥めるように撫でられた背中の感触。

「猪野くん、私は今真面目な話を、」
「俺も真面目だよ、苗字サン」
真面目にスゲー嬉しい、と彼は喉を鳴らした。

「俺のことを考えてくれたんスよね、嬉しい。でもさ、気にしなくていいよ。苗字サンが不安に思う必要もないくらい、俺はもうたくさんのものをもらってるから」
「私は、なにも、」
「苗字サン、俺はね、さっき目が覚めた時に隣に苗字サンがいてくれて嬉しかったよ。今日、苗字サンが無事に帰ってきてくれて嬉しかった。マカロニのこと、気がついてくれた時スゲー幸せだった」
「そんなことで、」
「そんなことでいいんだよ」
彼は笑ったけれど、私は笑えなかった。

「……私、何もできないのに」
「そんなことないって」
「味がわからないから料理だってできないし」
「俺料理すんの結構好きだよ。でも苗字サンが気になるなら今度一緒に作りましょ」
「洗濯機回すときに入れる洗剤の量、未だによくわかってないし」
「あんなん適当でいいんスよぉ」
「シャンプーの詰め替えのタイミングいつも逃して猪野くんにさせちゃうし」
「そんなん気にしてたんスか」
「猪野くんより先にやろうと思ったらまだ中に全然入ってて容器から溢れさせちゃったし」
「えー!そんなことしてたんスか!カワイイ!」
「かわいくない……」
「可愛いよ、苗字サン」
お互いの髪が触れ合うほどに顔を寄せ合って、耳元で囁かれた声に強張っていた肩が落ちる。

「苗字サンはいつか俺を傷つけるって言ったけど、来ないよ。いつか、なんてきっと来ない。だって俺は今まで一度だって苗字サンに傷つけられた事がないんだから」
「……でも猪野くん、未来のことなんてわからないよ」
「うん、先のことなんて誰にもわからないんだから、起こってもないことに怯えなくていいんだよ。来てもいない未来のことなんか考えるより、俺は今、貴女にいてほしい」
そう言ってくれた時、嬉しい、と思った。そばにいることを許された瞬間に、私は何もかもを投げ捨ててでも彼の隣にいたいと思った。

けれど、いいのだろうか。
私は、幸せになってもいいのだろうか。

「いいんだよ、苗字サン。大丈夫」

優しい手つきで髪を撫でられる。
この感触を、この優しい手を、まだ私は認識する事ができる。私を包む彼の体温をまだ知ることができる。それに酷く安堵した。


例えいつか、感覚鈍化が進行し、本当に何もかもが感じられなくなる時がやってきたとしても、君のことを覚えていたい。
そう、心から思った。


「苗字サン、俺は貴女が好きだよ。苗字サンが俺のことを嫌いになって、もう顔も見たくないって言うのなら、俺は貴女から離れる。でももしもそう思ってないなら、貴女のそばにいさせてよ」
穏やかで優しい声音に、私は首を振る。

そんなはずが無い。
そんな日が来るはずもない。
私は君がくれる日々にこんなにも救われているのに。

「……猪野くん」
「はい」
「ありがとう。君を嫌いになれるわけがない」

抱きしめてくれた猪野くんの体に、応えるように腕を回す。
忘れないことを、信じることを選んでみよう。
その最果てに何も残らないとしても。
いつか全てを無くしてしまうとしても。

君が触れてくれた掌を忘れずにいよう。
君が言ってくれた言葉を信じていよう。
それだけしかできないけれど、それだけはできるから。

縋るように、彼の胸元に顔を擦り寄せた。それだけで、よかった。それだけで、たまらなく幸せだと思った。


「苗字サン」
「うん」
「もう少し、このままでいてもいい?」
「うん、私もそうしたいと思ってた」
……よかった。そう彼が嬉しそうに笑う声が聞こえて、私は何かが溢れそうだった。だから、だと思う。

涙が零れた。
心が決壊して、涙が零れたのは、私が覚えている限り初めてのことだった。