赤いレスポールの女
新宿の地下ライブハウスは夜になればいつだって満員だ。
アンプからド派手に響く爆音。
舞台の上で目が潰れそうなほど瞬くライト。
興奮に喚くオーディエンス。
どいつこいつも一瞬の閃光のような快感を求めてベイスメントに降りる。アングラのイカれててイカしてる音楽。正気の奴なんていやしない。最高の空間だ。
灰谷竜胆は先程バーカウンターで受け取ったグラスを片手に人のいない壁際に背を預けた。これが六本木のクラブだったなら、男も女も彼が壁の花となることなど許しはしなかっただろうが、ここはライブハウス。
メインは客ではなく舞台上で歌うバンドの方だ。竜胆だって今日は目的のバンドを見に一人でここに来たのだから、もしも軽薄なナンパだのウリなどに声をかけられようものなら苛立ちのままそいつの腕の一本や二本へし折っていただろう。
前のバンドが演奏を終えて退場し、しばしの幕間。その間だけライブハウスは客たちの声の群れのみで構成される。騒がしい声、声、声。
その果てに次の対バン相手が舞台に上がってきた。途端にハコの中の騒がしさの種類が変わる。暇を埋めるようなつまらない喧騒から、期待と興奮の混じった歓声へ。
舞台の上に3人の男女が上がる。
『ベクトラーズ』
竜胆の目的のバンドの登場だ。
ライブハウスを中心に活動している『ベクトラーズ』はボーカル・ギター・ドラムの3人構成のインディーズバンドだ。
彼らがどんなバンドかというと、言ってしまえば陳腐なバンドとしかいう他ない。スカした顔つきの男性ボーカルが歌う陳腐なメロディ、陳腐な歌詞、そんな陳腐なバンド。
けれど、それだけだったら六本木のカリスマと称される竜胆が目をつけるはずもない。
竜胆は眼鏡の位置を片手で直すと、ボーカルの半歩後ろでふらふらと気怠げに体を揺らす小柄な女ギタリストへ視線を向けた。
初めてこのギタリストの奏でる音を聞いた瞬間、竜胆は嵐の中に放り込まれたみたいに己の魂が持っていかれたことを覚えている。
いっそ冷淡にさえ思えるようなクールな顔つきで激しいリフを弾き、鳩尾をぶん殴るようなヘヴィな音で観客を己の世界観の中に引き摺り込む。乱暴なまでにラウドなプレイは聴く者全てに麻薬のような快感を教えてくれた。エクスタシーによく似た快楽。現実を忘れるほどの夢想。彼女の真っ赤なレスポールさえあれば、どんな陳腐なメロディも歌詞もトベるほどの最高の名曲に成り上がる。
その音にぶん殴られた日から、竜胆はずっと『ベクトラーズ』を、いやギタリスト『ナマエ』を追っていた。
音楽はあらゆる人間に与えられた魂の武装だ。そのメロディさえあれば、どんな逆境でも自分を奮い立たせることができる。どんな強大な相手にさえ立ち向かっていける。いつだって最高にイカした自分でい続けられる。ナマエはそれをGコードで竜胆に伝えた。
『ベクトラーズ』の人気曲『月の裂溝(リル)』のCメロ後のあの流れるようなリフ。ド派手な喧嘩の時も、イイ服を着てる時も、竜胆が最高の気分の時はいつだってその音が世界に流れる。
竜胆にとってナマエは、兄とは別ベクトルの意味合いでの「このクソみたいな世界で生きていくための同盟者」だった。竜胆にとって兄が魂の片割れならば、ナマエのサウンドはその魂を守る城壁だ。灰谷兄弟は二人でひとつ。どちらかが折れなければ決して負けることはない。そしてナマエのあのギターサウンドがあれば、竜胆の魂はいつだって立ち上がれる。いつまででも最高にイカしたオレでいられる。
……なーんて思うくらい竜胆は一ファンとして熱を上げていたのだった。
だからこそ今日のライブだけは何があっても、そう例え、100人の不良に絡まれようが、両脚折れようが、兄にわがままブッこかれようが、何があろうとも絶対に来たかった。
なにせ今日は『ベクトラーズ』の解散ライブだから。
「みんな、今日は来てくれてありがとう」
ハスキーボイスのボーカルがマイク越しにそう言った。瞬間、ボーカルのファンらしき女の悲鳴じみた歓声が響く。悪くない顔立ちのボーカルは、作る歌や歌声は陳腐であれど愛想とファンサの良さもあって一定のファンを作っていた。無骨なドラマーや愛想の無いギタリストはそういったものにまるで興味はなさそうだったが。
それはさておき、舞台に立つボーカルの男の左頬には化粧じゃ隠しきれないほどデカい青痣があった。それを見て竜胆は(あの噂はマジだったのかもなー)とぼんやり思う。
噂というのはファンの間でまことしやかに囁かれている『ベクトラーズ』が解散した理由のことだ。
『音楽性の違いのために解散した』
端的に言えばそうなる。
『ボーカルが作詞したラブソングがダサすぎてゲロ吐いたギタリストがボーカルと殴り合いの喧嘩をして最終的にギタリストが自分のレスポールでボーカルの顔面をぶん殴ったため解散した』
端的に言わないとこうなる。
実際そうだったのかは知らないが、舎弟からその噂を聞いた竜胆は腹を抱えて笑った。あのイカしてイカれたギタリストならやりかねない。
とはいえ、舞台上の3人はさして不仲を感じさせるような様子もなくいつも通り演奏を始めた。
彼らの演奏は処女曲『革命』から始まり、ボルテージを上げるように『コールドウェイヴ』『080』と続いていく。
そうしてオーディエンスの盛り上がりが最高潮になったところで『月の裂溝(リル)』のイントロが流れ出した瞬間、竜胆は思わずグラスを持っていることも忘れて両手を上げて叫んだ。最高の流れだった。
時は流れ、この感動も喜びも音楽も一瞬のうちに過去になり、もうこの先彼らの曲を聴くことはできないけれど、その事実さえ惜しみなく受け入れられそうなほど今日のライブが今までで一番最高だった。
『月の裂溝(リル)』は一切カットされることなく、全て演奏された。だから竜胆が愛した、Cメロから続くギターソロとそこから繋がるラスサビも何一つ欠けることなくこの地下に響き渡る。
ナマエのその絶妙なギターサウンドに魂が揺さぶられた。マシンガンみたいに抱えたエレキギターをオーディエンスへ向けて激しく掻き鳴らしながら、冷淡な顔つきの女は観客たちを睨むように見た。気怠げな表層の奥に張り裂けそうなほどの熱を抱えて、ギタリストは世界を挑発する。その野生動物じみた視線が動いて、ふと壁際の竜胆の方を見た、ような気がした。
「……っ、あ」
その視線に射抜かれた瞬間、竜胆は腰が砕けるような感覚を覚えた。彼女がこちらを見た。それだけで思考は奪われ、体は熱を持ち、心臓は激しく脈を打つ。
たった一瞬のことだった。竜胆が奪われた思考を取り戻した頃にはもうギタリストはオーディエンスなど見ていない。
破裂するようなサウンドの果てに『月の裂溝(リル)』が終わり、最後の曲は新曲だった。
これが噂にあった、ボーカルとギタリストが殴り合うきっかけとなったラブソングなのだろう。と、わかったのも、その曲を歌うとなった瞬間、ギタリストがギターを置いて舞台脇から持ってきた椅子に座り出したからだ。明らかに演奏する気がない。
ギタリストは気怠げにポケットから出した煙草に火をつけると、つまらなそうに脚を組んだ。その様子に竜胆はもう笑うしか無かった。
解散ライブのラスト曲だぜ?
ドラムとボーカルだけのラブソングが始まる。流れ出した曲は、そりゃギタリストもゲロ吐くだろって思えるような陳腐でダセェ歌だった。その上ギターも無いから、そのダサさを隠す術もなくて、ボーカルはギタリストに殴られるほど曲がダサいからか、今日解散するのが悲しいからなのか、どういう感情故なのかわからないが半泣きになって歌っていた。……でもまあ、その姿は隠すものが何もなくて一周回って魂が籠っていた。もしかしたら今までのライブで一番良かったかもしれない。
ダッセェラブソングを泣きながら歌い終わったボーカルにオーディエンスから万雷の拍手が向けられた。短くなった煙草を咥えたギタリストもボーカルをチラッと見て珍しくニヒルに口角を上げる。
バンドは解散しても、お前、歌い続けろよな。
竜胆はこれまで大して思い入れもなかったボーカルに対してそんなことを思った。
そんなこんなで『ベクトラーズ』はその夜をもって解散した。とはいえ、メンバーは全員若いし、多分この先きっと別の奴らと組んでバンドは続けるだろう。
だからきっと、竜胆が愛するあのギタリストもまた舞台に上がる。いつかまたアイツのギターサウンドが鼓膜を揺らす日を待とう。
竜胆はそう思っていたけれど、彼はその日を境にギタリストがどうなったのかを知らない。
何故ならその二週間後、竜胆は兄である蘭と共に殺人を犯して少年院に入ることになったからだ。
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塀の中での日々を過ごし、やがて少年院を出た灰谷兄弟だったが、だからといってすぐ元の生活に戻れるかといえばそういうわけでも無い。社会的にも、精神的にも。
なにせ少年院は言ってしまえば竜宮城。出てきた時にはタイムスリップしたようなもんだ。あの塀の中に娑婆の情報なんて入って来やしない。
だから自由を取り戻した兄弟は、二人が不在の間に雑魚が我が物顔で歩くようになった六本木を仕切り直し、逃がしたトレンドを追い直す。今年の流行はピーコックグリーン?へぇ、イカしてるじゃん、兄貴に似合いそ。
そんなこんなで日々は忙しかった。少年院で出会ったイザナの言葉通り、これまでよりもっと鮮烈により悪辣に生きていた。それが忙しくて、たまらなく楽しくて仕方なかった。
だからいつかのギターサウンドのことなんて、竜胆はすっかり忘れていたのだ。
偶然通りかかった駅前で、ギターを抱えた男が歌っていたのを見るまでは。
ヘッタクソなGコード。
アイツのサウンドはもっとイカしてた。
素人のギターを聞いて、まるで昨日のことのようにナマエの演奏を思い出せた自分に竜胆は酷く驚いて、それから酷く惜しくなった。
なんでアイツのことを忘れていたんだろう。
あのぶん殴られるような快感を、鼓膜に突き刺すあの音を。
思い出したらもう、止まれなかった。もう一度聴きたくなった。ナマエの音を、あの高揚をもう一度味わいたいと思ってしまった。
竜胆がナマエのことを思い出し、再び夜のライブハウスを渡り歩き始めたのは少年院を出てから二年近く経ってからのことだった。
思い出してからはナマエについても調べていたけれど『ベクトラーズ』解散後、彼女は忽然と姿を消したらしい。
もう何年もライブハウスじゃ見かけない、とライブハウスのバイトをしている舎弟からもそう聞いた。
それどころか、今じゃ『ベクトラーズ』のことさえ知らない人間ばかりだ。年月は過ぎ去り、すっかり数多の人間の頭からナマエのことが消えていく。
けれど、それでも竜胆は無意識の中で彼女を覚えていた。つまらないことなら忘れてしまうはずなのに。一度思い出してしまえば、記憶は連鎖のように繋がった。
あの日のサウンド。流れるようなリフ。野生動物のような瞳。むしろどうして忘れていたのだろう。
だからもう一度、あの音を聞きたい。
思い出して以降、竜胆は夜が空くたびに地下に降りた。兄に「女か?」と揶揄われるほど。きっと都会の亡霊に取り憑かれていたのだ。
腹に響くような低音。暗闇の中で瞬くライト。手を振り上げて跳ぶオーディエンス。
ある夜、爆音鳴り響くそのライブハウスに竜胆が降りたのはまったくの偶然だった。言語化できるような理由は無い。なんとなく、直感。
階段を降りた先で適当に注文したワンドリンクを受け取って、騒がしい人の波を縫って歩く。竜胆はライブハウス後方の空いたハイテーブルを一時の領地とした。
そこからぼんやりとステージのほうを眺める。無意識に目で追ってしまうのはやはりギタリストだ。今演奏しているバンドのギタリストは男だから、ナマエのハズもないのに。そのバンドの歌もメロディも決して悪くないのに、魂が震えるようなあの感覚が遠い。
人の欲ってのは尽きねーモンだな、と竜胆は自嘲する。一度最高の感覚を知ってしまうと、それ以外ではもう満足できないなんて。
でもまァそりゃそうか、喧嘩だって、急に兄貴以外とコンビ組んで戦うなんてことになったらつまんなくてクソに決まってんだから。
吼えるような歓声と弾けるような数多の拍手の音に包まれて、ステージに上がっていたバンドが満足げに袖へ帰っていく。それを竜胆は退屈そうに眺めていた。
演奏と演奏の合間はさらに退屈で、竜胆はいっそもうこのハコから出て行ってしまおうかとさえ思った。ナマエを思い出してから数多のライブハウスを渡ってきたけれど、ついぞ彼女の姿を見ることはなかった。きっとナマエはもういない。竜胆に流星のような夢だけ見せて、幻影のように消えてしまったのだ。
暇を持て余して竜胆はハイテーブルの上に張り付いていた今日のライブのフライヤーを眺める。次に演奏するバンドは……と、その時、竜胆はライブハウスの客たちがやけにざわついていることに気がついた。どこか困惑の混じった喧騒に、何かあったのかと思って顔を上げればいつしかステージの上に二人組が立っていた。
一人は大柄な男だった。
深くつばを下げたニューエラのキャップの上に黒いパーカーのフードを被っている。あえてそうやって顔を隠しているのだろう、ステージ上のライトの逆光もあってその男の顔は影になってよく見えない。しかし190ほどはありそうな高い背丈と格闘家のような体格が目を引く。男はマイクスタンドを引き上げるとオーディエンスの困惑を意に介さず黙々と自分の口元の高さに合わせていた。
そのやや後ろにもう一人、ギターを抱えた小柄な人影があった。
ギタリストはオーバーサイズな柄シャツを纏っていて、遠目で見た体格からでは性別は判断できない。そいつは顔にお面をつけていた。夏祭りの屋台で売っているようなプラスチックのお面は有名な猫のキャラクターをかたどっている。それをラインストーンやらシールやらでやたらめったらにデコっていた。そんなものを顔につけているせいで視界が悪いのか、どこかふらふらした足取りでアンプに近付いて準備をしている。
竜胆はそれを見た瞬間に、白けた。
……はあ?動画配信サイトじゃあるまいし、顔を隠してステージに上がるなんて舐めてんのか?
オーディエンスの中には竜胆と同様に、演奏外のところでネタに走っているような様子に苛立ちを覚えるものもいたようだ。所々からブーイングの声が沸き上がる。
そんなピリつき始めたハコの様子を無視して、小柄なギタリストは軽くチューニングをすると、ボーカルのほうへ軽く手を振った。準備ができた、ということなのだろう。
様々な感情が入り混じり、常よりマイナスな意味合いで騒がしいライブハウスの中、表情の見えないギタリストは真っ赤なレスポールを構えるとピックを弦に近づけた。細い手首が動く。弦が流れるように弾かれた。
瞬間、世界がひっくり返った。
たった数秒のギターサウンドの滑り出しだけで心臓を鷲掴みにされる。顔面をぶん殴られたみたいな、体のど真ん中を撃たれたみたいな、摩天楼から落下してアスファルトに叩きつけられたみたいな、そんな馬鹿みたいな衝撃。
ライブハウスの中の誰も彼もがそうだった。目を見開いて口をぽかんと開けて、黙ったままステージを、あの変なお面をつけた小柄なギタリストを間抜け面で眺めるしかない。誰も彼もがそう成り果てて、その時このハコの中ではギターの音しか聞こえなかった。
それがどれだけイカれたことだか、わかるだろうか?
ライブハウスにいる目的は人によって違う。すでに演奏を終えた本命のバンドを見に来ていた奴もいれば、遊び半分に顔を出しただけの奴もいる。バーに飲みにきた奴もいれば、ナンパ目的の奴だっているし、客じゃないこのライブハウスのスタッフの人間だっている。
もう一度言う。
その時、ギターの音しか聞こえなかった。
誰かの話し声なんて、どこからも聞こえなかったんだ。
多種多様な目的の人間がいる中で、そのギタリストはギター一本でこのハコの中の人間を全員黙らせた。全員自分の虜にしやがった。
たった十数秒のイントロだけで、だ!
パワーコードに惚けていたオーディエンスは、ボーカルの男が女を抱き寄せるようにスタンドマイクを自分の口元に引き寄せたことに、直前までちっとも気が付かなかった。男の微かな吐息がマイクにふれる。
気がついた時にはもう、遅かった。
ドンピシャのタイミングでボーカルは歌い出した。
低く重く深く強く、重厚で荘厳で厳威で雄大な、それでいて隠しきれない色気のある歌声。それが鼓膜を揺らした瞬間、竜胆は自分の腰がガクガクと砕けるような感覚に陥った。咄嗟にハイテーブルに寄りかかって体を支える。そうしなければ、きっとへなへなと力無く地べたに座り込んでいたに違いない。
その場は一瞬で全てステージに立つ無貌の二人に完全に支配された。この時、あの二人の虜にならなかった奴なんて、ここにはいなかった。
このタイミングでライブハウスへやってきていた客が慌てた様子で階段を降りてくる。
壁際に立っていた女の一人客が手で口を押さえてその場にしゃがみ込む。
バーカウンターの中のバーテンの手からグラスが滑り落ちる。
ステージ近くのオーディエンスは立ち竦んだまま二人組を見上げるばかり。
ギターに横っ面ぶん殴られた観客へボーカルでトドメを刺してなお二人組はさして観客になど興味なさそうにただ奏でる、ただ歌う。
鮮烈に、強烈に、太陽を直視した瞼の裏に光が焼き付くみたいに、忘れられるわけもないほど、激しく、狂おしく、イカれていて、イカしていた。
愛、寂寞、ルサンチマン。男はブレない声の中に激情を抱いて救いようもない絶望を歌い上げる。男が憧れるような男の色気に溢れた歌声にクラクラと眩暈がする。
激しく掻き鳴らされるファズチューンに、深く響き渡る歌声。
竜胆は立ち竦んだまま、ラスサビへ向かうギターソロの流れるようなリフにいつかのギタリストを見た。
その瞬間に気がつく。言語化できるような理由は無い。なんとなく、直感。それでも確信した。
ナマエだ!あのギタリストはナマエだ!
そりゃあそうだ。ライブハウスにいる全員を黙らせるなんてイカれたことができるのはナマエしかいないのだから。そうして竜胆はかつてしていた自問自答を今ここで再度繰り返す。
もしも、どんな陳腐な歌もメロディも歌声も最高の曲に仕立てられるナマエが、最高のボーカルと出会ったのならば?
そりゃあこうなる。その場にいる全員を歌と演奏でぶん殴って、腰を砕けさせて、心の中を占領してめちゃくちゃに荒らしまわっちまうに決まっている。
わかっていたけれど、ラスサビが終わる頃にはもうオーディエンスはみんなこのバンドにめちゃくちゃに犯されていた。
こんな激しい快楽なんて今まで知りもしなかった。エクスタシーみたいな快感。現実を忘れるほどの夢想。たった一夜の夢幻。
激しく叩きつけられたロックに、曲が終わった頃にはもう息も絶え絶えな観客たち。
そんなオレらになんて大して目を向けず、二人組はたった一曲演奏したっきり、オーディエンスを振り返ることもなくさっさと舞台袖へ帰っていく。
…………は?
たったこれだけ?たった一曲だけ?
そう思ったのは竜胆だけじゃない。
「は……?」
「えっ、もうおわり?」
「一曲だけ……?」
舞台から去っていった2人を見て困惑に騒つく観客たちの声の群れ。
まるでこっちから必死こいて口説きに口説いてどうにかこうにかOKをもらった最高の女にあっさりヤリ捨てられた気分だった。
「なんだったんだアイツら……」
「なに今の、新人?」
「今の誰だ?」
「なんかめっちゃエロかったんだけど」
「アイツらなんてバンド?」
「すげえもん聴いたな」
「やべ、酒こぼしてた」
「今の奴ら、次いつ出演すんだ?」
ライブ中より騒がしくなったハコの中の喧騒をBGMに、竜胆は今度こそテーブルの上のフライヤーを引き寄せて出演者を上から順に確認していく。
今の時間帯で、ボーカルとギターのツーピースバンド。……、……、……あった。
見つけたバンド名は『Pile Bunker Pandemic』。いや、なげぇよ、『ヤリ捨てバンド』に改名しろよ。
興奮に震える指先でフライヤーをなぞり、ひとり口角を上げながら竜胆はバンド名を呟く。
「パイル、ブ、いや、バンカー……パン、デミック。パイルバンカー・パンデミック、か?」
インディーズバンド特有のクソ長いバンド名に笑いながら竜胆はフライヤーを手に取った。このバンド名をもっとわかりやすく略すなら、えーっと、そうだな、『パイルバンカー・パンデミック』なんだから、単語の頭文字を取って、
「パイ、……パン……」
いや卑猥すぎるだろ、それは。
脳内で自分に素早くツッコむ。
だが、その時にはもうハコの中に『パイルバンカー・パンデミック』の名はすっかり広がっていて、興奮を隠しきれない客がアンコールを求めるみたいに、略したバンド名を無人のステージへ向かって何度もコールしていた。
「パイパン!」
「パイパン!」
「パイパン!」
「パイパン!」
そのあまりにも卑猥なコールに竜胆はついに声を上げて涙が出るほど笑った。